第139話 苦悩の塔ドローレム
ユスティフ中央部、皇都ミオゾティス。
広大な皇宮の北東に、年老いた糸杉が茂る一画がある。
中心から外れた区画に位置しているため人通りは多くないが、近くを通る用事がある際には、誰もが息を詰め、足早に走り抜けていく。
風が吹くたびに、木立の向こうから悲鳴が聞こえるからだ。
高い樹影に遮られ、真昼間でも日差しの差し込まぬ木下闇。
苔蒸した石畳の小道の先に、その建物はあった。
通称『苦悩の塔』――ドローレム。
灰煉瓦造りの高い塀が周囲を蔽い、外から見ることができるのは八角錐の尖塔の先端だけ。
この日もドローレムは、春の終わりの霧雨の中、朽ちた腕の骨に似たその身を曇天に突き立てていた。
不穏に温み始めた風が、建物の奥深くで押し隠された悲鳴が漏れるに似た風音を鳴らしながら、尖塔の透かし細工を吹き抜ける。
皇宮に働く者は、まことしやかに囁き合う。
――あそこでは何か、神にも見放されるような恐ろしい研究をしているらしいと。
男は灰にも銀にも近い霞色のローブを引きずりながら、長い長い螺旋階段を降りていた。
階段に窓はない。
内壁は黒に近い粘板岩で作られているため、等間隔で焚かれたオイルランプの乏しい光は目と鼻の距離で吸い込まれ、かろうじて目下の段差が識別できる程度で、視界のほとんどは幽暗が広がっている。
曲がるたび、壁に嵌めこまれた盃に長杖の柄をゴツと当てる。
銀の盃は稲妻のように青白く明滅し、この先へ進む許可を出す。
頻繁に足を止められる面倒な仕組みだが、嘆きの塔の螺旋階段にはいくつもの致死的な魔術が施されており、一つでも認証不具合が出ればたちまち招かれざる客人を動く屍へと変えるため、高官である男にとっても、毎回肝の冷える時間であった。
空気の動かぬ階段を降りた先には、堅牢な鉄の扉。
『homo homini lupus.』
――人間こそ、人間にとっての狼である。
この地に国が生まれるより古くからある格言が、石のレリーフに刻まれている。
「per asprera ad astra. (試練をくぐって星へ至る)」
帝国魔術特務機関諜報部室長は、鉄扉を開ける秘句を唱えると、長杖の頭をレリーフにゴツンと押し当てた。
素材はイチイの木、杖芯には半獣の骨を用い、四大元素を表す四つの結び目を杖頭とした長杖は、皇宮魔術師の高官のみが持つことを許される特別なもの。
杖頭の中央に嵌められたエメラルドが扉と反応し、拍動するように輝いた。
鉄を軋ませて、重い扉がひとりでに開かれる。
「ああああああああああ!」
耳をつんざくのは、魔術式に腰まで押し込められた男の悲鳴。
「痛い痛い痛い痛いいいいッ! もうっ、もう許してくれえ……!」
今は苦痛のため固く閉じられた瞼の下には、ガーネットのような赤い瞳がある。
二十年のうちにめっきりと数を減らした、半獣の生き残りであった。
「交差術式試験、二日目。開始」
ローブを着た若い男がレバーを下ろすと、憐れな実験動物が身を浸す魔術式が、煌々とした銀色に輝いた。
「ぎッ! ――ヴァアアアアア!!」
耳が腐り落ち、口が裂ける。
石畳を抉るように立てられた指先から皮膚を捲りあげて獣毛が生え、瞬く間に膝までを覆った。
「おい、どれだけの研究費を払って手に入れた素体だと思っている。長持ちさせよ」
「はっ!」
男の苦言に部下の一人は頷いたが、あとの一人は「しかし……」と渋面を作った。
「体表から採取できる体液だけで運用するのにも限界があります。やはり、骨や内臓を使えなくては」
確かに部下の言う通りだった。
だが、値段はともかくとして、次いつ供給されるかわからぬ貴重な献体である。
そこらへんの実験体と同じような感覚で大盤振る舞いされてはたまったものではない。
「生命維持に支障のない部位ならよい。四肢や五感、複数ある内臓……それらの使用許可を出す。だが、少なくとも一ヶ月は待たせろ」
「かしこまりました」
研究熱心な部下も満足げに頷くと、物理採取用物品が置いてあるキャビネットを開き、ツルハシとペンチを取り出した。
「……ッ!」
苦痛の最中にあっても、大抵の場合、聴覚は正常に動作し続ける。
おのれの身にこれから何が起きるのか察した半獣は、赤い瞳を恐怖に見開いて、ただ引き攣った荒い息を繰り返した。
男たちの研究目標は、大陸全土に渡る探知魔術の構築である。
ユスティフで最も尊い身から機関へ下された、直々の命。
何を横に措いても成し遂げねばならぬ責務ということで、魔術研究機関の粋を費やして理論を構築し、全ての魔法生物の中で最も質がよく万能な用途に耐えうる研究素材を、大枚はたいて手に入れたのだ。
この大がかりで途方もないプロジェクトの目的は、ただ一つ。
「それで、成果は?」
「そ、それが……」
「……」
途端に曇った部下たちの表情に、磨き抜かれたウイングチップの革靴が、鉄製のキャビネットをガン! と蹴り付けた。
「なぜ、まだ見つけられぬ! たかが半獣の小娘一匹だろうが!」
――朝焼け色の瞳をしているという、小さな女の子を探すためであった。
「なぜも何も……! そもそもが無謀なんですよ! 大陸全土に渡る探知魔術だなんて……!」
責め立てられた部下は、持ちかけていたニッパーを床に投げ捨てて反論した。
「どう考えてもやはり、国境伯を陥れてプランケット一門を収監するのが早い! あとのことは、薄汚い拷問吏どもが何とでもするでしょう! あの食わせもののタヌキ男も、服従の魔術でもかけて逆さ吊りにでもすれば、養女の居場所くらいスラスラ話すに決まってるじゃあないですか!」
魔術師どもは、自分たちが探している人物の素性を知っていた。
国境伯家プランケットに引き取られた、みなしごの半獣の少女。
一昨年の秋、エリサルデ湖畔で行われた避暑の宴で、警備の隙をついて強襲した人狩りに攫われて以来、長らく行方知れずとなっている。
当然のことながら、とっくに嬲り殺されて骨まで売り払われているに違いないと機関の誰もが考えているが、プランケットでは葬式を上げていないし、何より、頭上に戴く至上の尊き存在が、絶対に生きていると断じて譲らないのだ。
探す価値があるとは欠片も思えない。
生存の可能性などないに等しい。
許された尊厳は奴隷以下──毛並みの珍しいペット、貴重な資材、不老長寿の食材でしかない、人間に似た肉。
だが、先端まで非の打ちどころなく美しいその人差し指が下を示し、一言命じたのだった。
──吉報を期待していると。
この国では、彼の遠き方がそう決めれば、漆黒だろうが真紅だろうが黄金だろうが、何もかもが白になる。
だからこうして彼らは朝から晩まで地下に籠り切り、刻一刻と目減りしていく資材と近づいてくるタイムリミットを数えては、焦る毎日を送っているのだ。
「できるのならとっくにやっている! 腐っても西方国境守護団を率いるプランケットの武力を舐めるな!」
男は銀鼠のローブを振り乱し、歯茎を剥き出しにして怒鳴りつけた。
「クソッあのド田舎のタヌキめが! いつの間にかオーレルとその一門まで抱え込みおって! 無害そうな顔をしておいて、腹黒い策略家め……!」
追い詰められているのは、室長という高い地位にある男も同様だった。
いや、長く皇宮魔術師として勤めてきたからこそ、年若い部下よりもいっそう焦り、恐れていた。
古の精霊のように麗しきあの微笑みが、これまでどれほど残虐な所業を為してきたか。
年若い青年の時代から、ずっと、垣間見てきた。
何を知っても口を噤んで決して顔を上げず、身を低くして過ごすことこそが、壮麗なる白百合のもとで生き抜く第一の術であった。
「このままでは、わたしが陛下に……!」
「いいや。お前たちはよくやっているとも」
顔に爪を立てた男の背後から、澄んだせせらぎにも似た声が不意に上がった。
お読みいただきありがとうございます!
新年早々とんでもねえ回でまっこと申し訳ございません。
しばらく空いたのは元旦イラストを描いていたためです。
本作がここまでやってこれたのは、読んで下さる皆様のおかげです!!
今年も色んなゴリラたちの冒険を、どうかよろしくお願いします!!
※ティルダは「性別:ティルダ」なので、振り袖でも学ランでも自分に似合うものは何でも着ます。周囲の人間も「こいつの性別ティルダだしな」と思ってるため、女子の扱いが苦手なニュクスもフラットに対応できますし、女子たちには一緒に女湯に入ってもらえません。
※10キロの金の延べ棒は約8000万円だそうです(2022/12貴金属買取相場)