閑話 祝福あれ聖餐日1
──メリディエスに越す前、地の露の冬のお話──
「……よし。みんな、寝てるみたいね……」
冬至を少し過ぎた、長い長い夜。
月が南中する頃合いの夜更け、アリアは扉からこっそり頭を出すと、明かりの消えた廊下を見渡した。
いずれの部屋からも規則正しい安らかな寝息が聞こえることを敏い耳で確かめて、右隣の部屋のドアノブをそっと回し、にゅるりと身体を滑らせて忍び込む。
ティルダ・ハーゼナイの私室。
持ち主の几帳面な性格を反映してよく整頓された室内に、一見して余計なものは見当たらない。
壁に吊るされているのはキッチリとアイロンを施されたシャツとスラックス、ベッドサイドに立てかけられているのは彼女の愛する大剣。
(うんうん、さすがティルダ。きれいなお部屋だわ~。見習わなくっちゃね)
ニコニコと机の上に目を向ければ、熱心な書き込みが残る訓練記録……と、四隅に鋲が打たれた、やけに豪華な金のノート。
表題は……『ハー・ロイヤル・ハイネス・ザ・エンジェル~至高の存在たるアリアさまとティルダの愛の軌跡~』。
「……」
なぜか堂々とページを開いて置いてあるそれから、アリアは無理やり視線を剥がした。
(見てない! なーんにも、見てないわ!)
いかなる内容が記されているのか全くわからないが、全然ちっとも、読みたくない。怖い。
だが、この部屋のトラップはひとつだけではなかった。
「……ひえっ!」
剥がした視線の先、入室時には死角であったドア横の壁に、やけに見覚えのある物品が並んでいた。
壊れたバレッタ、千切れたチョーカー、折れた羽ペン、欠けてしまった通信用ピアス……自分がこれまで、捨てたと思っていた私物類。
埃ひとつなく整頓された室内にあって、ガラスケースに収められ、日付や状況が詳細に記載されたその一画だけが、隠す気もない異彩を放ちまくっていた。
「……っ! おち、おち、おち、落ち着いて……! 見てない、なにも見てない……! あそこには……そう、こっ子猫のカレンダーがかかってるの! 毛糸にじゃれて遊んでるキュートなやつ……ちょっと暗いから、呪物と見間違えただけ」
ダラダラと冷や汗を流しながら、アリアは自分に言い聞かせた。
何せ今日は、──長い長い旅になるのだ。
たとえ初手でとんでもないパンドラの箱を開けてしまったとしても、くじけるわけにはいかないのだ。
「はあ、はあ、はあ……! よし……」
物理的に心臓を抑えて動悸を黙らせつつ、何も知らずに眠る部屋の主の顔を覗き込んだ。
凛として玲瓏。
灰色のサラサラとした髪が月光に照らされて、長いまつ毛が頬に淡い影を落とす。
(学校なんか通ったりしたら、校内の女子全員のハートを掻っ攫いそうなお顔……)
夜闇の中だというのに目が潰れそうに眩しい美貌で眠る騎士の枕元に、アリアが細心の注意を払ってそっと置いたのは、――赤と白の縞模様の手袋。
中身は女子三人で焼いたクッキーと、一年の健康と祝福を祈るカードである。
そのまま向きを変えずにそろそろと後退し、開けっ放しのドアから音を立てずに廊下へ出た。
入った時と同じように、ゆっくりとドアをもとに戻すと、心中で深く安堵の息を吐く。
(……ふ~~~。第一の難関、突破した~~~! あとは先輩と師匠さえ起きなければ、他の子たちは楽勝のはず! 仮に見られちゃったとしても、今年は変装してるしね!)
アリアはこめかみからたっぷり生やした白いひげをわさわさと撫で、詰め物をした腹を自慢げにぽんと叩いた。
今宵は幸いなる聖餐日の前夜。
一年間いいこで過ごした子どものもとには、聖ヤヌアリウスが金の角を持つヤギに乗って夜空を駆け、愛する人々からの贈り物を届けにくるとまことしやかに語られる。
このおとぎ話の原型はユスティフができるよりも遥か古くから存在し、聖餐日の朝、枕元のプレゼントを見つけた子どもたちが上げる歓声が冬の煙る窓から響き渡る光景は、国を問わない。
異教の催しはうるさく禁じる正教会も、四百年前にヤヌアリウスという聖人を制定して以来、聖なる夜の庇護者へと身を変じ、各地の教会で夜通し聖句を諳んじたり、一夜だけの炊き出しを行ったりしている。
つまりはこの夜、アリアは友人たちに対する聖ヤヌアリウスの代理人を、買って出たのだった。
(こういうイベントごとはありがたいわ~~! ここぞとばかりに! 愛と友好をアピールできるチャンスっ!)
当然のことながら、アリアは本物の聖ヤヌアリウスではないため、音も出すし痕跡も残す。
夜中に忍び込んでいるところを目撃されてしまったら、普通に通報されて然るべき不審者である。
夜空を駆けるプレゼント配達おじいさん伝説を目撃者が信じていた場合、アリアの余計な行動のせいでいたいけな夢を壊してしまいかねない。
実際、去年はそれでかなり危ない橋を渡ることになってしまった。
(だから今年は! 気合を入れて聖ヤヌアリウスに扮してみました! ふふっ、王たる者、リスクヘッジを怠ることなかれ! おじいさんにしてはちょ~っと小柄かもしれないけれど、まあ変な妖精みたいなものだしきっと誤魔化されてくれるわ! 大丈夫大丈夫!)
自室の左隣の部屋を、そっと開ける。
足を踏み入れる前に、月明かりに青く照らされた室内に素早く目を走らせた。
山と積まれた書物、無数のフラスコ、ガラス瓶。
閉ざされた錬金炉は机の上で淡い光を発したままで、蒸留器の中には蛍のように瞬く植物が呼吸している。
古書と薬草の香りに満ちた部屋。
ニュクスの私室は、いつもより多少、整頓されている様子だった。
(導線上に危ないものは……なさそうね。なんにも触らずに、枕元まで行けそう)
慎重に確認が必要な理由は、手を触れたら最後、死ぬまで笑い続ける髑髏だとか、全身から毛を生やしてくる草だとかのろくでもない物品が、平然と床に置いてあるからである。
身を滑らせて、音を立てずに少年の枕元に近づいた。
煌々と光る月が、分厚い羽毛布団に埋もれて眠る魔法使いを照らしていた。
鋭すぎる双眸が瞼に隠れると、理知的な顔立ちに年相応の少年らしさが露わとなる。
「……綺麗な寝顔……」
――バチイイィィンッ!
思わず零れた呟きに、自分の顔めがけて高速ビンタが炸裂した。
(ちょっと、何ほざいてるの!? 寝てる人の顔を勝手に見て惚れ惚れとするなんて、この変態! ひげ面の知らないおじいさんがいつの間にか部屋に入ってきて覗き見してるなんて、悪夢もいいとこよ……! 狭いうえに変態が三人もいるとか、この地の露、最っ悪の住環境だわ!)
ヒリヒリと痛む頬をこらえつつ黒髪の横に手袋を置く。
(早く新しい土地を見つけないと……)と決意を新たに部屋を後にするアリアは、――寝ているはずの少年が、真っ赤な顔をしてプルプルと小刻みに震えていたことも、自分が出ていったあとで「くっ! ふ、不正脈が……っ!」と羽毛布団の上でのたうち回ったことも、知らない。
ネメシスの枕元にも、四人の友人たちの頭の横にも、首尾よく手袋を置いたアリアは、自分のベッドで丸くなっているぽにすけの上に、リボンを結わえたジャーキーをぽんと乗せた。
「さて。じゃあここからは正真正銘、夜を駆けるといきますか!」
懐から転移術符を取り出す。
行き先の座標は予め全て記入済み、戻ってこられる分だけの魔力も二週間かけて充填してある。
「まずは――導け リスナール!」
足元に金色の魔法陣が浮かび、生暖かい風が立ち、赤い服のずんぐりむっくりしたひげもじゃの妖精の姿は、瞬きの間にかき消された。
――アリアは、思いもしなかった。
昨年、不審者が枕元にプレゼントを置いて回った結果。
翌朝目を覚ました友人たちがわなわなと怒りに打ち震え、(((来てたなら起こせ!!!)))と、総員一致で羽毛布団にこぶしを叩きつけていたことを……。