第134話 灰の中の残り火【挿絵】
「わたしはね、戦いたいの。勝ちたいのよ」
小さな手がポケットから取り出したのは、一枚の白金貨。
「顔だけ綺麗な、この獣」
表面に刻印された男の横顔が、青い薄明にキラリと反射した。
「吐いた嘘は撤回させる。犯した罪はその身で償わせる。勝手に掠め取られたものはちゃーんと全部、この手でキッチリ取り立ててみせるわ。二十年分の利子をつけたうえでね」
ピン! と人差し指に弾かれたコインは、裏と表を返して瞬きながら中空に踊り、落ちるよりも早く小さなこぶしに掴み取られた。
「不可能なんて思わないわ。……百万の願いをかけて、たった一人の赤ん坊が守られた。千年の約束を握りしめて、こうして屍のうえに立ってる。わたしは勝つために生まれたの。世界が道を開けるまで、諦めることなんてありえない」
壮大にすぎる重圧と苛烈な戦意を軽やかに言い放つ少女は、くつろいだ微笑みを見せていた。
「けどこの地上……上を見上げれば、人の皮を被った獣が犇いてる。周りを見渡せば、踏みつけられた負け犬だらけ。山脈の向こうの敗戦国も、侵略に文句ひとつ言えない周辺国家も、惨敗して二十年、大人しく食い散らかされたままのわたしたちも。……だから火は、ひとつじゃ足りないの。見渡す限りのすべてを呑み込むために、もっと、もっと、大きな火がほしいの」
気楽そうに見えた双眸には、黄金の光がずっと、瞬いていた。
ライフルと法典を持つ小さな身体から、嵐の残り雲を晴らすごとく力強い声が放たれる。
「ごきげんよう、負け犬の皆さん! あなたたちと勝利を掴むために、わたしはここまでやって来たの!」
まっすぐな眼差しに貫かれ、傲然とした物言いは涼やかな朝の風のように人々の頬を撫でた。
「わたしは戦いたい! お話にならないくらい、敵が圧倒的に強くても! 勝ちたいの! かつてコテンパンに負かされて、膝をついた全ての人たちと……! たとえ世界がわたしたちにどれほど地獄を見せてきても……世界そのものが地獄じゃないと、証明してみせるから!」
水平線は、澄んだ群青から橙に色を変えつつあった。
星を巡ってきた太陽が、この朝再び、その黄金の角の端を見せ始める。
放射状に伸びゆく日差しは空の高度を上げ海を青く染め、港町に色を付けながら、やがて瓦礫の上の少女のまだ目元に赤味の残る大きな瞳を、それ自体が輝くように照らし出した。
「誇りを忘れたなら思い出させるわ! 崩れ落ちたなら、何度だって手を引いて立ち上がらせてみせる! ……忘れ去られた幽霊都市の住民たち。見捨てられ、踏みにじられても、あなたたちが後生大事に火を守り続けてきたことを、わたしは知ってる」
海から迫る朝と同じ色をした眼差しで笑う顔を、人々は瞬きも忘れてただ見上げていた。
「あなた方が知るように、わたしたちイリオン人は負け犬よ。ここにはどちらも、負け犬しかいない。けれど、バカにされていい人間なんて、一人もいない! 踏みにじられていい人間も、誰一人として! そうであるならば、世界に知らしめてあげなくちゃ! わたしたちがどんな人間なのか、どう扱うべきなのか」
人差し指を立てると、坂の下を指さした。
消えかけの町、メリディエス。
「町の姿を、機能を、富を取り戻す。去っていった人たちを再びこの地へ立ち返らせる。そのために、わたしはここへ来たの」
「……ど、どうやって……?」
引き寄せられるように、ダヴィドの喉から問いが漏れた。
(そんな夢みたいな話、あるはずがない。ほんとに、夢のような……)
だがもしも、叶うのなら。
仕事に溢れ、海に生きるタフな者たちが忙しく立ち歩き、スパイスの効いた肉の焼ける匂いが漂っていて、東風には子どものはしゃぐ声も楽隊の音楽も満ちていた、――あれこそが、故郷と呼べるものだった。
失われた故郷を、取り戻せるとしたら。
「あなたたちだけじゃ無理。わたしたちだけでもできない。手を取らなくては、叶えられないことなの。けれど必ず、この港は海の心臓としてよみがえり、遠く離れた国へ血を巡らせるようになる。……大丈夫!」
少女は先程えぐり取られたばかりの自分の頭を指さして、「ちゃーんと、この頭の中にプランがあるのよ!」と不敵に片目を瞑った。
瓦礫の山から半歩踏み出して腕を伸ばすと、自分より遥かに上背のある大人の男を、ぐっと引き上げた。
華奢な手に見合わぬ力強さに、ダヴィドの目が見開かれる。
「やっと、みんなに話せる。これで始められる。だから、わたしに力を貸して! 誇り高い──灰の中の残り火たち!」
太陽のような笑みが呼びかけるそれは、──大事なものを毟り取られてなお、歯を食いしばって生き抜いてきた、全ての者たちへの賛辞だった。
「……ウッ! グスッ……!」
無理やり立たされたダヴィドは、あれほど叩きのめされた痛みを不思議とすっかり忘れて、少し垂れたアクアマリンからほたほたと温かな涙を流していた。
(ずっと……ずっと、諦めてた。なんの望みも叶わねえ人生に、のたうち回って生きてきた。だが……泥をすすって生きてきた日々も、おれが燃やした火だった……! 無様で間抜けで、バカにされながら歯を食いしばるだけだった毎日を、おれは、それでも……誇ってよかったんだ!)
「……あ、あんたは……」
涙に濡れた瞳を開く。
黎明に滲んだ視界に映るのは、泥と返り血がこびりつき、頭の左半分をベッタリとおのれの血に汚しながらも、いささかも揺らがぬ笑顔の小さな女の子。
「ずっと必死で……歩いてきたんだな。そうして、到底できっこねえことを、積み重ねてきた。後ろのおっかねえやつらを従わせることも、多勢に無勢で悪党どもに勝つことも、このどうしようもなく気難しい、田舎モンどもの信頼を得ることも……! これまで生半可な道じゃ、なかったろうに……!」
初めて揺らがずに見つめ返してきた青年に、アリアもまた笑みを返した。
「あんたを奴隷に貶めようとしたおれは、最低のクズだった。必ず、ケジメをつける。だがその前に、礼を言わせてくれ。母さんを救ってくれて、ありがとう……! 父さんを見つけてくれて、ありがとう!」
「父? あっ、ああ~キノコ先生……! あの実は、そっちについてはわたし、関係ないの。その~ちょっと言いにくいんだけどね、荷物に……」
「みんな……! おれの命乞いをしてくれて感謝する! 泥に手をついてまで……っ、おれと共に死ぬと、言ってまで!」
涙の筋を消さぬまま、青年は市民たちへ振り向いた。
「おれは……戦う! カモられたのは八百だったけど、知ったことか……! 必ずあの詐欺師どもから二千シルをぶん盗って、しっかり自分の罪のケジメをつけてから……この町を立ち直らせるために、足掻いてみる! アリアさんの手を、――イリオンの手を、取って! おれの命は、この人のものだ!」
「ダヴィド……!」
エンマは締めていた夫の首から手を離し、滲んだ涙を拭った。
「んん……! むむむ……!」
アリアは、ものすごく何か言いたそうな顔をしていたものの、ややあって「……さ、さあ! みんな立って~! イリオスもよ!」と話を切り替えた。
誰もが迷わず、膝に力を込めて立ち上がった。
息子を奪われた母も、明け方まで瀕死の病人であった女も、隣人を殺すつもりで武器を拵えていた女も、隣人の禽獣を盗んだ若者も、石を投げた男もみな、晴れ晴れとした顔で真っ直ぐ少女を見つめ返した。
この声に従わない者は、いまや一人もいなかった。
「膝をつくのは今日が最後! 次はあなたたちが跪かせる番よ。さっそくプランを話すから、まずは朝ごはんを食べてきてね! いけすかない悪党たちに海の輩の底力、思い知らせてやりましょ!」
シュッシュッとパンチを打つ真似をする少女の姿に、朗らかな笑い声がどこからともなく上がり、――やがて大笑となって、朝日照らす岬に満ちた。
「ああ、そうそう。崖下の牧場だけど、もっと開拓して羊を山ほど飼おうと思うの。それで、シンシアさんとマキスさんに羊たちのお世話、任せてもいいかしら?」
「え?」
突然の提案に、マキスの柘榴色の瞳がしぱしぱと瞬いた。
「それは……もちろん! 姫さまのお心ですから、精一杯役目を果たします! けれど……どうして、自分たちに?」
「だって、羊は羊飼いが育てるのが一番だもの!」
屈託のない笑みを受けて、「……うちの家業、お伝えしたことありましたっけ?」と、年若い夫婦の首が傾げられた。
アリアは答えずに、ただ目を細めた。
鼻腔いっぱいに満ちた、ミモザの匂いを覚えている。
あの場所で咲くのは、残された者たちが墓標に捧げた花。
「ふふっ、内緒なの」
現世を生きる者たちは、知ってはならない。
過ぎ去りし者たちがいつも耳を澄ませていることも、残された者たちの祈りが狭間の箱庭に届いていることも、かつて交し合った歌が今も途切れていないことも。
残酷で自由なこの大地の上こそが、自分たちの生きる世界なのだから。
「さーて、牧場といえばもう一つ。……チャボ泥棒たち! 王国刑法典第八条! 盗みを働いた者は、手首から先を切り落とすこと!」
「「「ヒッ!」」」
血まみれの法を宣告された青年たちは青ざめて、騎士はチャキ……と剣の柄に手をかけながら、主と獲物以外には見せぬ穏やかな笑みを見せて歩み寄った。
「ま……待ってくれ! 盗みはしたが、それだけだ! 家にっ、家にいるんだ! チャボが!」
「家にいる?」
「解体して売ろうとしたんだけど、あいつ、強すぎて……! 七人がかりで戦ったけど、完敗して……! 今はおれの部屋を占領して、もうベッドまであいつのもんになってる! どうして!? イリオンのチャボだから!? だからこんなに規格外なの!?」
青年は涙目で懇願した。
「とにかく返す――いやっ、返させてくれ! お願いします!」
ミモザの花はすっかり散り、強い東風が黄金の小さな花を空に巻き上げる。
役目を終えた花の代わりに、枝からは放射線状の新緑が伸び、地面にはヒナギクやアネモネの蕾が開き、色とりどりの鮮やかな薄い花弁をしなやかに風に晒した。
赤い目の子どもたちは、一夜ですっかり血に汚れた武器を地面におろすと、苦笑いをした。
視線の先には、人に囲まれて笑っている大切な友。
「結局、あの手この手の絡め手離れ業で、丸く収めたねえ……」
「けど、あの人たちはアリアの本性をまだ知らないから」
「ああ。もうしばらくしたら、誰かが泡を噴いて気絶するに一シル」
「それじゃ賭けにならないよ。何人倒れるかじゃないと」
「あたしさんにーん」
「いっそ全滅かもね。だってさあ……」
あの小さな白金の頭の中には、常人には到底実現不可能に困難で過重労働不可避な計画が詰まっているということも、聞いた時点で強制的に実行者として頭数に組み込まれる恐ろしい罠が張られていることも、知っている。
何せ四人とも被害者である。
そもそも、この倒壊した村を元通りに直すまで、アリアが働き手を逃がすはずがない。
青年たちはきっと、家にも帰してもらえないだろう。
土人形のごとくこき使われながら、計画段階で過労出血しそうなプランを自信満々に聞かされるだろう町の人々を見て、ボアネルジェスはため息まじりの笑みを漏らした。
「ま、しょうがないか。誰であろうと……おれらの王に目をつけられた時点で、負けは決まってるんだからな」