第131話 痛みと祈り
「や……やめてくれ! やめてくれやめてくれやめてくれ!」
自らの死刑を宣告された時よりよほど狂乱して、ダヴィドは赤毛を掻きむしった。
「そんなことやめてくれ、母さん! おれはっおれはただ、元に戻りたかっただけだ! 母さんが元気で、親父がいて、ダルシアク薬問屋の看板が出てて、この世で必要な何もかもが揃ってたあの日々に……!」
見開かれた浅瀬色の目から、決壊したようにボタボタと涙が落ちる。
「こんな息子で、ごめん……ッ! 騙されて、信用を失って、人をひでえ目に遭わせて、何もかも失ったってのに結局、何にもしてやれなかった! やっ……役立たずで、無様な息子で、ごめん……っ!」
市民たちもイリオスたちも、青年が何のために人狩りに情報を売ったのか理解した。
いかなる代償を支払うことになったのかということも。
「だとしても……! お前の所業を許すことは、断じてできない!」
「……っ」
ボアネルジェスの父の怒号に、ビアンカたちは唇を震わせて友を見下ろした。
(ダヴィド……!)
身を固くして母に縋りつくこの青年がまだ赤子だった時分から、ビアンカはよく知っていた。
彼がどれほど家族を愛していて、だからこそ、町を後にした父の不在を背負い、肺を病んだ母の喘鳴を聞き、十年余りも苦しんでいたことを。
(死んでほしくない……! 命だけは助けてほしい! あああ……! けど、いったいあたしはどの口で、この子の助命を願えばいい!?)
言える言葉など、一つもなかった。
知らぬ間にいくつもの罪を重ねた自分たちが、この月のない晩、とうとう彼らの一番の宝を奪おうとして、返り討ちに遭ったのだ。
たとえ許してもらえたところで、青年が何もかも捨てて救おうとした母の命は、まもなく尽きようとしていた。
先ほどまでよりやや気勢を削がれはしたものの、依然として主を奪われかけた怒りに燃えるイリオスたちと、どうにか嘆願したいが言うべき言葉を持たぬ市民たちの間で、沈黙が下りた。
「……」
一連の流れを見ていたアリアの表情から、――すこんと、王の仮面が剥がれ落ちた。
「先輩」
「はい」
「お願いがあります」
ニュクスは、無用な愁嘆場にうんざりとしていた目つきを柔らかくして少女を振り向き、――度肝を抜かれた。
そこには、民の前で臣下に深々と頭を下げる王の姿があった。
「おろろろろろろ」
「「!?」」
ついでに突然目の前で嘔吐され、魔法使いと騎士の目がこれ以上ないほどに見開かれる。
「なっなっなななな何をしているんですか!?」
「いや急に頭を下げたから吐き気が」
「そこじゃな……いややっぱりそこだ!」
「ひ、姫君! 王はいかなる者にも、頭を下げてはなりません! たとえオルフェンであっても!」
「そうです! きみは王で! ぼくは臣下なんですよ!? はいリピートアフターミー!」
「王。臣下」
「くッ……よろしい!」
「天使……!」
出したものをフキフキと拭きながらのオウム返しだというのに、二人の側近は苦しげに心臓を押さえて称賛した。
「アリア……! いくら民が極少とはいえ、自分の体面を考えなさい! ……わからぬはずが、ないでしょう? これまでどれほど心が痛くても歯を食いしばって、ぼくらの前でずっと、王で在り続けたきみが……!」
「……」
(やっぱりちょっと無理してること、先輩は気づいてたみたいね。……けれど)
強く輝くものを、知っている。
この目はいつだって、そればかり見つめ続けてきたのだから。
「ダヴィドさんのお母さま、助けてあげてほしいんです」
だからアリアは頭を下げたまま、ただ願った。
「……! 顔を上げなさい、アリア」
「お願いします」
「……」
この君主に、体面形なしの姿勢を崩す気はまるでなかった。
ニュクスは小さく息を吐くと地面に膝をついて、下げられた頭のさらに下から、朝焼けの瞳を覗き込んだ。
「……断ります。きみの命を物扱いして奴隷に貶めようとした男の願いなど、叶えたくありません」
仕草も声も、アリアに向けるものはいつもどおり優しかったが、
「ピュティアの御業は、かくも卑劣なハエのためのものではない」
……夕刻色の瞳にも、同じくらい頑なな信念が滲んでいた。
「……!」
(おいおいおい、どっちが折れるんだこれは……!?)
いずれの半神も人間として規格外の頑固者であることを知るティルダは、状況の膠着を予想して青ざめた。
「仮にこの男がイリオンの民だったとしても、お断りです。いや、……だとしたら余計、許しがたい。ぼくの全ては、きみを守り、敵を打ち滅ぼすためのもの。それを取り上げられたら到底、生きていくことなどできない。……ぼくだけではありません。きみは、全てのイリオスにとっての光」
怒りと信念を揺らめかせ、凶悪な威圧となった魔法使いの双眸が、跪いたままの赤い目の民を見渡した。
目だけで誰もが頷きを返す。
「今ここにあるぼくらは、夜の嵐の海を往く一葉の小舟に過ぎません。灯台が示す光があるから、迷わずに進んでいくことができる。きみを失えば、ここにいる全員、波に砕かれて消えるだけだ。……それを、この男は……!」
紅紫に走るのは、金の焔。
「何もかも、粉々になるところだった……! きみは差し伸べた手を裏切られて、土砂降りの中で命を落とし、標を失ったぼくたちは再び絶望に突き落とされて、夜はもう、永遠に明けない! ……いかなる理由があろうとも、卑劣な道を自ら選び取ったこの者に、ぼくが魔法を使うことなど、断じて、ありえません!」
「わたしのお母さん、四年前に病気で死んだわ。……冬に流行りの、熱病だった」
「!」
顔を上げぬままポツリとこぼされた言葉に、ニュクスの眦から怒気が抜け落ちた。
イリオスたちも一拍遅れて、それが亡き女王のことを指しているのだと気づいた。
千年王国の全てをかけた魔法使いの壮大な怒りに比べれば、それはあまりに個人的な、ささいな出来事。
だがこのプライドが高い少女が、自分の辛い思い出を明かすことは、初めてのことだった。
色のない声が、止んだばかりの雨粒のようにぽつぽつと落ちる。
「聖餐日の直前……冬至の日だった。わたしの好物の、豆のごった煮のスープを作ってくれてたお母さんが、急にしゃがみ込んで……、どうしたの? って聞いたら、疲れたからちょっと寝るわ~ってフラフラと、ベッドに六歩、歩いていった。……何てことないことだと、思ったの。けど、お母さんが立って歩けたのは、それが最後だった」
俯いた表情は、髪で隠れて見えない。
細い指の腱が薄く浮いたこぶしが、服の裾をぎゅっと握りなおした。
「聞いたことのない苦しい息も、溶けちゃうんじゃないかってくらい熱い肌も、熱に壊されていく真夜中の叫び声も、全部、覚えてる。……忘れることなんてできない。わたしはまだ、七歳の子どもだったから……なあんにも、できなかった。氷を作ってあげることも、お薬をもらってくることも、なんにも。他にもたくさんの熱病患者が溢れてて、診てくれるお医者の先生なんて一人もいなかったから。ただ、苦しそうなお母さんの手を握って、泣いていただけの……役立たずで、無様な娘だった」
こぶしに熱い水滴が落ち、大きく肩が震える。
「……あの時もし、お母さんを助ける方法があったなら、なんだってしたわ。たとえそれがものすごく悪いことで、誰かがお母さんの代わりに死んでしまうことだと、知っていても。……だって、きっと……わたしの、お母さんだって……!」
震える声とともに、血が乾いた白金の頭が上げられて、大きな朝焼け色の瞳にたまった涙が頬を滑り落ちた。
「たとえわたしが憎まれても! 石をぶつけられても! お母さんだけは絶対に、わたしの味方でいてくれた……! うちの娘がごめんなさいって、一緒に謝ってくれたはずだわ! こうして、地面に膝をついてでも!」
泥まみれの母子の見開かれた眼に、自分たちを示す小さな手が映る。
「それなら、たとえ、世界が敵だとしても……」
噛みしめた唇の横を、熱い筋が幾筋も伝う。
思い出を見通す瞳は涙で歪んでなお、薄明の中で強く輝いた。
「怖いものなんて、何もない!」
エンマは瞬きひとつせず、呆然とアリアを見つめていた。
母に縋りついたままのダヴィドも息を止めて、ただ目を見開いていた。
細い肩を震わせてたった一人で立つこの少女は、いったいだれを、背に庇っているのか。
「……っ」
アリアはぐっと唇に歯を立てて嗚咽をこらえると、こぶしで乱暴に涙を拭った。
大きく息を吐き、強張った肩をわずかに和らげる。
「ごめんね、みんな。……がっかりしたでしょ、こんな人間で」
恥じ入るように顔を背けて、──ひどく珍しいことに、苦い自嘲を横顔に浮かべた。
「ずるくて、浅ましくて、どこにでもいる……ちっぽけな人間が、わたしの本性。ほんとはね、わたし……ただ、お母さんの真似をしてるだけなのよ。お母さんならどうするかしらって、いつも考えてるの。……褒めて、ほしくて」
涙で束になったまつ毛が、明け始めて青く澄む水平線に向けて開かれる。
「もう二度と会えないって、この地上のどこにもいないんだって、わかってるのに。バカみたいでしょ? けど、……なんだってできるの。いつか再び会う時に、抱きしめてもらえるかもしれないって、そう思うだけで」
間近で耳を澄ませていたシンシアの瞳に、涙の膜が張った。
「姫さま……!」
こらえきれず、手を伸ばして白金色の頭を包み込む。
膝をついたマキスは、自分の涙を拭わぬままに、小さなこぶしをそっと撫でた。
ニコスの母も、ボアネルジェスの母も、いずれの赤い目も声なく涙を流しながら、ゆっくりと小さな君主の傍へ寄って行った。
誰もが、かつて自分が役立たずで無様な母であり、父であり、姉であり、弟であり、娘であり息子であったことを、思い出していた。
代わりのきかぬものを、毟り取られた怒りがある。
痛みは今も身の裡を燃やし、命ある限り終わることがない。
だが、怒りのその下には愛があったことも、痛みを抱えながら歩いてきた一歩ずつこそが誇りだったことも、彼らの知る真実だった。
世界を敵に回すことも恐れない、無謀で大げさで、ありふれた愛。
一度思い出してしまえば最後、悪事に手を染めてでも母を救おうとした青年の選んだ過ちも、自分の物語に姿を変えた。
赤い目を持って生きた者たちは誰もが、痛みも祈りも知っていた。
いや、もはや瞳の色は関係なかった。
ここにいるのは、置き去りにされた者たちばかりであったから。
「どうして……」
ダヴィドの古い友の一人から、あてどない問いが落ち、視界をじわりと歪ませた。
どうしてこの少女は、傷を負わせた自分たちの声まで、掴んでくれるのだろうか。
お読みいただきありがとうございます!
ユスティティアを知る人はみんな承知の上ですが、母娘の性格はS極N極レベルで違います。
母の本性をだいぶ理想的に解釈しているアリアが、寄せてるつもりになっているだけです。
次回!そろそろシリアス抜けます!