第130話 まだ息をしている
「あなたたちの拳を濡らす血はだれの血かしら? 切っ先を向ける相手は? わたしが言ったこと、倒れた瞬間に綺麗さっぱり忘れちゃったみたいだから、もう一度叩き込んであげるわね。……二度とこんなことがないように」
アリアはひたと民を見据えて動きを縫い止めたまま、右手を横に突き出して「銃を」と命じた。
「! へ、へえっ!」
傍で見ていた市民たちもすっかり飲まれ、あわあわと近くの施条銃を拾い上げると、まるで将軍に対するかのように恭しく差し出した。
「ありがとう」
胸ポケットからアリアが取り出したのは、鉛の実弾。
慣れた手つきで前装式の銃口に込めると、イリオスたちへと銃口を向けた。
「……!」
真っ青になって立ちすくむ民を見据える黄金の双眸は、揺るがない。
速やかに左手で撃鉄を上げ、一切の躊躇なく引き金を引いた。
ドッ!
「まだ、息をしている」
硝煙が鼻腔を掠める中、呆然と振り向いた赤い目が見たのは、喉元に穴をあけて膝をつく狩人の姿。
サイロの後ろに、狩り残しが隠れていたのだった。
「どれだけ上手に隠れても無駄。死んだフリをしたって意味なんかない。その肺が息を吸った瞬間、この耳は獲物の在り処を見つけ出す」
銃は、続けざまに火を吹いた。
逃げようと身を起こした瞬間に、いっそ立ち向かって殺そうとした瞬間に、過たず敵を撃ち殺していく。
「た、助けてくれ……!」
魔法使いが叩き返した火砲で膝下を折られた男が、震えながら両手を組んで願った。
「見ての通り、あ、足を潰されて動けねえんだ! 二度と! 二度と悪さなんかしねえ! どうかッ――」
ダン!
命乞いを最後まで語らせずに黙らせた少女は、眉を寄せることもせず、その眼差しは木製の的に当てるのと同じ温度をしていた。
立て続けに幾人もを屠り、銃口は火傷しそうな熱を帯びて煙を上げる。
「一人も生きて返してはならないと命じたわ。またどこかで別のイリオスが餌食になる。よそ見をしないでとも言った。そんな暇、一切ないから。わたしたちの敵は、まだ、虫のように蠢いて息をしているの。――あそこで!」
施条銃の先が指すのは、遥か北。
深い大森林も山脈も超えた果て、永遠なる皇都ミオゾティス。
「獣どもはいまだにわたしたちの血を啜りながら、日差しを浴びてのうのうと生きているというのに……!」
ギリ……! と唇を嚙み締めて見下ろす金の双眸は、天から降る稲妻に似ていた。
「わたしに教えなさい、イリオス! メリディエスの民が、幼子に手錠を嵌めて連れ去った? 熱した焼き鏝で奴隷の烙印を押した? 悲鳴に喜んで鞭を振るい続けた? 命乞いをしても聞かずに嬲り殺した? ――答えなさい!」
「……」
いかなる時も人の耳を惹きつけるこの声に、抗える者はいない。
いずれも屈強なイリオン人は、先ほどまでの猛り狂う戦意をすっかり喪失し、ただ大柄な肩を縮こまらせて、炎が収まるのを身を低くして待つばかりとなっていた。
「敵と隣人の区別もつかない者に、武器を持つ資格はないわ!」
しおれた肩を前にしても声は容赦なく、したたかに横面を平手打ちした。
「よそ見をしてる暇なんか、一瞬だってないのよ! わたしたちを食い荒らした獣どもを根こそぎ、奈落の底に落とすまで!」
小さな、それでいてただ唯一の主からの熱く輝く赫怒を浴びせられ、──まず、貴族であるニュクスが、泥に膝をついた。
「お許しを……」
従順に頭を垂れ、目線だけ上げて少女を映した紅紫はなぜか、眩しそうに細められていた。
「お許しを、我が君」
その隣にティルダが膝を折り、呆然としていたイリオスたちも、二人の側近に倣って次々と跪いていく。
「おっ……お許しを!」
「お許しを、我らが王……!」
状況を理解していないインゴルフも膝を泥に沈ませ、右こぶしを左手で包む最敬礼を取って、少女を見上げた。
「我が王……」
それぞれの色をした赤目に滲むのは、畏れと憧憬。
どうしたら解けるのかわからない激しい怒りに途方に暮れつつも、その熱を浴びることに抗えない至福を滲ませた瞳。
半神の裔の子らはみな、この黄金の獅子の炎を、千年前から慕い続けてきたのだった。
「……」
メリディエスの市民たちもまた、怒気を向けられているのは自分たちではないというのに身動きもできず、ただ立ち尽くしていた。
敵を間違えていたのは、何よりもまず自分たちであるということを、痛いほど理解していたから。
「けれど……! やつらは、姫さんの厚意を無下にした……!」
「そうだよ! ぼくらそれが許せなくて……!」
「あんなによくしてもらっておきながら、人狩りを呼び込んで、出ていけって怒鳴りつけた!」
「そうだ! お前を、大怪我させておいて!」
「知ってるわ。でもそんなこと、些事なのよ」
必死に言いつのる民に答える声はそっけなかったが、「だってわたしたち、これから何もかも手に入れるんだもの」と告げた唇は微笑んでいた。
「敵も隣人もみな同じに見えるというのなら、武器を持つ資格はないわ。……けど、たとえ武器を捨てたとしても、わたしがあなたたちを手離すことは決してない。誰一人として」
いまだ瞳は激怒の金眼をしていたが、笑みは明け方の太陽のように温かかった。
打ちひしがれていた赤い瞳たちに、じわじわと涙が滲む。
「シンシア」
「……姫さま……」
固く握ったままの拳に触れると、花が散るように一瞬にして解け、剣が取り落とされた。
そのまま引き寄せて、くせ毛の頭をぎゅっと抱きしめる。
「この人は、ベネの仇じゃない」
「……!」
耳元で優しく諭す声に、張り詰めていた母の身体が大きく震えた。
「姫さま……! わたしっ……このドブネズミが、姫さまを売ったって聞いて! ど、どうあっても許すことなんて、できなくて……っ! ……あなたは!」
薄い肩を、シンシアの手が掻き抱いた。
「あの時も、無事なんかじゃなかった! 誰も大人が助けに来ない暗い地下牢で、小さな子だけで肩を寄せ合って、何も悪いことをしていないのに鞭を打たれて……! たくさんの奇跡があって、辛うじて生き延びた! ──二度と戻っては来られない、あの暗闇に、再び子どもを突き落とそうというのなら……! だれが相手だろうと、何度だって首を落としてやる!」
縋るように自分を抱いて震える身体を、アリアも目を閉じて、力強く抱きしめ返した。
「やっぱり……あなたたちは、優しい。本当に、優しい親子」
「……え?」
「ありがとう。シンシアさん。……わかってる。ちゃんと届いてた。あなたの涙も怒りも祈りも、全部、わたしが知ってる。獣があなたから何かを奪うことは、もう二度とない。この魂を燃やす炎が、やつらを奈落に送るから」
そうして人差し指で示したのは、自分とシンシア、二人の心臓。
真っ直ぐに見つめる顔には、びくともしない笑みがあった。
「わたしを信じて」
大きな黄金を至近距離で受けて、シンシアの柘榴石から、大粒の雫がこぼれ落ちた。
手首で目元を隠しながら、何度も頷く。
「……はい。……はい、姫さま……!」
メリディエスの市民たちは、ただ静かに叩きのめされていた。
びしょ濡れの寝巻に、東からの朝の風が冷たく沁みる。
だが、誰もこの場を去ろうとはしない。
小さな女の子がどのような立場の者か、何も知らない彼らには推測しかできない。
少なくとも自分たちの戴く君主が、これほどまでに自分たちを愛してくれているはずがないということは確かだった。
「さーて! 市民の皆さま、うちの暴れん坊たちがケガをさせて本当にごめんなさい」
静かにしゃくり上げるシンシアの肩を抱きながら、アリアは振り向いた。
「死体を片付けたら治療するから、そこで待っていてもらえますか?」
「……違う。……違う」
震える声は、地に伏した罪人から上がった。
ダヴィドは、いつでも首を落とせるように長く差し伸べたまま、祈るようにこぶしを握って、額に当てていた。
「どうか、謝らないでくれ……。思い違いをしてたのはおれの、……おれたちの、方だ。この町を置き去りにしたのも、おれたちを踏みにじったのも、あんたらじゃない」
「ダヴィド……」
「裏切りも、嘲笑も、全部、全部……おれたち、ユスティフ人だ! クソを集めて生きるおれを嘲笑ったのは、蹴飛ばされたおれに唾を吐き捨てたのは、ユスティフ人だ! この町の存在を、ここに生きたやつらをなかったことにしたのは……おれたちを生んだ、この国だ!」
「……!」
血を吐くような叫びに、市民たちは顔をゆがめて地面に目を落とした。
「ダヴィド・ダルシアク。わたしを売ろうとしたの?」
施条銃を手にしたままのアリアが、あっさりと尋ねた。
「そうだ。金が……ほしかった」
「金?」
パチパチと瞬きをして小首を傾げたその時、半神たちの耳は、泥を躄る物音を聞きつけた。
「どうか……どうか、その子をお許しください……。愚かな、わたしの息子を」
「母さん……!?」
それは、ビアンカにもたれかかりながら今にも倒れそうな顔色で坂を上ってきたダヴィドの母、エンマだった。
「この子の罪は、わたしの罪です……。このバカ息子は、母親の病を治そうとして、悪事に手を……。わたしは、察していたのに……! こんな大金を出せるはずないって、……なのに……! ゴホッ! ガハッ……」
尖った肩が震え、薄い身体を折って咳き込むと、鮮血が地面にパタパタと飛び散った。
ダヴィドは身を起こし、「なんでだよ……」と震え声で問いかけた。
痛めつけられた身体は立ち上がろうにもガクリと泥に沈みこんだが、力を振り絞って母のもとへ這って行く。
「なんでだよ……? 祈祷は、終わったはずだろう……!? 800シルもかかって、教会のなんとか神父まで来て……どうしてまだ、母さんが苦しんでるんだよ!? 十年前の身体に戻れるって、そう言ったはずじゃねえか!?」
答えを知る悪人は、この場にいない。
「祈祷? あのクソどもの稚拙な循環魔術式のことか?」
聞き咎めたニュクスが、倒れ込んだエンマの瞳を覗き込んだ。
「……ああ、たしかに循環式が書き込まれている。これは……稚拙なだけではないな、粗悪にして無益。逆に寿命を縮める真似をしたようだ」
「……!」
冷たい嘲笑を受け、ダヴィドは身体を折って血まじりの咳をする母に縋りついた。
ゼエゼエと喉が鳴る喘鳴の中、エンマはこの場で最も力のある人間を瞬時に見分け、丁子色の瞳でアリアを見上げた。
やせ衰えた手で施錠銃の銃口を掴むと、おのれの頭へと向けさせる。
「子の罪は、親の罪。死にかけの命で申し訳ない……。けれどどうかこの老いぼれに、息子の罪を償わせてください」
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