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第129話 小さな姫と魔法使い(2)

 いかなるときも、人の耳を惹きつける声。


「……!」


 目を見開き、振り向こうとしたニュクスの頬に、ぷにっ……と後ろから沈み込む指があった。


 しょうもないおふざけである。


 この状態の自分相手にこんなことをしてくる命知らずは、一人しかいない。


 視界の端で肩に乗るのは、まだ小さな薄い手のひら。


 目にした瞬間に、早くも紅紫の瞳がじわりと揺れる。


 顔の横に伸ばされた手を握りしめ、呼吸を忘れて振り向くとそこには、──なぜか巨大化した不死鳥を背後に騎士の肩を借りて立ち、いつものように自分を真っ直ぐに見つめる朝焼け色の瞳があった。


「……アリア……」


「はい!」


 呆然とこぼれた呟きにも、元気のいい返事が返ってくる。


「……」


 黒いローブの肩からどっと力が抜け、泥まみれになった革靴がフラリと宙に浮いた。


 倒れ込まずに済んだのは、ひとえに証拠を確かめようとする執念の為せる技。


「本物か……?」


 ニュクスが最も頼る感覚器官は触覚である。


 頬や頭や首をぺたぺたと触り、自分の願望が見せた幻でないことを入念に確認しはじめた魔法使いに、アリアは「どうぞ! いくらでも確かめてください!」と胸を張って受け入れた。


「……いや、ほっぺたひっぱる意味ありますか? あああ~~っ伸びひぇく伸びひぇく~~~」


「……この、バカ娘ーーー!!」


 いつにない剥き出しの怒鳴り声とともに、涙混じりのロードライトガーネットが、頬を引っ張られた間抜け面をギン! と睨みつけた。


「あれほどっ、あれほど気を付けるように何度も念を押したというのに! 『絶対ぜったい大丈夫♪』と言ったほんの一刻後に、いったいどこを撃たれたか言ってみろ! 自分に何かあったら目の前の男も正気でいられないと知っておきながら、その場しのぎの守る気もない約束をしたのは、この口かあああああ!」


「ごえんなひゃ〜い!」


 怒りを込めた声のわりに頬をつねる指はひどく手加減をしているので、まるで痛くはない。


 だからアリアも、怒られているわりには申し訳なさとはにかみの入り混じった笑みを浮かべて、涙目の紅紫を見上げた。


「また命を救ってくれてありがとうございます、先輩!」


 手を伸ばして、黒いローブを抱きしめる。


 潔癖の気がある少年がいつも清潔に保っている黒衣は、すっかり雨が染み込んで、裾には泥や血が跳ねていた。


「先輩が歌ってくれたから、還ってくることができました。置いて行ったりなんて、絶対しません。……ふふっ! というか、無理! だってあっちでも、ものすっごく強い力で引っ張り戻してきたもの!」


「……!」


 第二の知覚である嗅覚を満たした温かいオレンジの花の匂いが、胸を打つ。


(ああ……確かに……)


 ニュクスの唯一は生きて話しているのだと、熱と匂いが教え、ぐっと唇を噛んで熱く滲んだ視界をこらえた。


「ただいま!」


 こちらの胸のうちなどまるで知らない、いつもどおりのピカピカとした声には、さすがに百の文句が浮かんだが、──口から漏れたのは吐息のような苦笑いと、一言。


「おかえり……!」


 転移魔法の同行、診察、治療。


 何か理由がなければ触れることなど決してない小さな身体を、今だけは自分に許して抱きしめ返した。


 かつての友が聞けば、指さして爆笑されるに違いない素直さだと本人も思ったが、この姫は自分の棘を完全に抜き去ってくるのでもう仕方がないと、とうに白旗を挙げている。


(これまで一度として……感謝をしたことなど、なかった。ピュティアに生まれたことも、才を与えられたことも、……ただ一人、地上の奈落に残されたことも。けれどその全てが、この子を生かした。他の何も代わりになどなり得ない、ぼくの……たった一つの眩しい光)


「ふう〜。よかった〜、怒ってなくて! ……あれ? どうしてまたほっぺたを伸ばしてるんですか? 大目に見てくれたんじゃ?」


「はああ~~~~~柔らかい……。これは洗い立ての羊毛、夏の収穫期の綿花に匹敵する……。ネメシスが言っていたとおり。凄まじい疲労回復力……」


「あの、ティルダの右手が剣の柄にかかってるの見えてますよね? チャッキチャッキ音させながら鞘から出したり入れたりしてるのも聞こえてますよね? ノータイムで腕が取れますよ」


「惜しい。今狙っているのは首です、姫君」


「ほらあ!? 無理ですよあなたたちの殺し合いを止めるのは! そのへんにして!?」


「はあ……」


 名残惜しく頬から手を離すと、ニュクスは頭部に負った深手の痕に目を留めた。


「身体はいかがですか。視野や手足の感覚に異常はありませんか」


「頭痛いし動くと吐くけど、生きてます!」


「やはり後遺症が重いか……。ですが、ぼくはきみの夜の帷(オルフェン)。医神の使いの名にかけて、速やかに治癒してみせます。疲れたでしょう、湯を沸かすよういまゴーレムに命じました。ああ、温かいカモミールティーに蜂蜜とミルクも入れましょうか。あの子たちの分もこしらえて、と……まったく、誰も彼もぼくの言うことなど聞かず、雨の中で無茶をするんですから。風邪をひいたら誰の世話になるつもりでいるのか……。さ、とにかく帰りますよ」


 一瞬にしてパァッと顔色をよくし、ブツクサぼやきながらもいそいそと張り切り出した魔法使いの頭からは、目の前の処刑直前の男のことなど、見事に綺麗さっぱり抜け落ちていた。


 当たり前のように背負おうとしゃがみかけたところで、小さな手が「待って」と肩を押し止めた。


「まだ帰れないの。わたしの仕事を終わらせなくちゃ」


「……仕事?」


 眉を寄せて尋ね返した時には、少女は早くも横顔を向けて、ニュクスを通り過ぎていた。


 白金の頭が向かうのは、地に伏した男と剣を持つ女のもと。


「シンシアさん。剣を下してね」


「姫さま……!? い、嫌です!」


 あっさりと覆された命に、泥と血に汚れたシンシアの顔が歪んだ。


「なぜそんなことを! 自分の手であの子の仇を討つようにという仰せを今、果たそうとしているというのに!」


「聞こえなかったかしら? ……下せと命じているのよ、シンシア」


 ──ガラリと変わった声色に、誰もが弾かれたように顔を上げた。


 軽やかに爪弾かれる旋律を思わせる、いつものキラキラとした声ではない。


 硬く弦を張った弓に似た峻厳な響きは、年上の女を傲然と呼び捨てにし、シンシアはその瞳を目にしてただ息を呑んだ。


「……!」


 ニュクスもティルダも含めて、全てのイリオン人は一瞬にして凍りついた。


「イリオスたち」


 騎士から手を離して、一人で歩を進める。


 その様は悠然としているというのに近寄りがたく、誰も返事すら叶わずに、ただ焦燥から忙しなく瞬きを繰り返すことしかできない。


 跪いた罪人の傍らに立ったアリアは、恐る恐るといった様子で自分を伺う赤い目をぐるりと睥睨した。


「わたしの言いつけを破るなんて、悪い子ね」


 可憐な朝焼けの瞳を染めるのは、激怒の黄金。


 小さな君主は、その苛烈な炎を初めて自らの民に向けていた。


 雨に打たれて冷え切った肌をジリリと焦がす熱が届き、威圧感に誰かの喉が上下した。

お読みいただきありがとうございます!


改稿により大幅に増えたので分割しました!(2023/5/27)

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