第127話 不滅の王と優しい剣
「みんな! 全部、見てた……!」
「見てた?」
ピンクの瞳にもキラキラと涙の膜が張り、友人たちを映しこんでいた。
「ありがとう! わたしと一緒に地獄に落ちるって、言ってくれて!」
小さな手が四対の小さな手を取って、ぎゅっと握りしめる。
「だけど、地獄への旅路なんて辿らせない。たとえどこぞの神さまが地獄行きを命じたって、泣くまで論破して撤回させるわ。この手は、イリオン千年の誇り。恐れを知らず、一歩も退かずに敵を打ち砕いてみせた、勇敢な戦士の手。わたしたちを救いもしなかった能なしの神なんかに、否定される筋合いはないわ!」
土砂降りの中で立ち続けて冷えきった幼いファイターたちに、泥と血脂に塗れた互いの手と手を通して、小さな王の身体をめぐる熱い血潮が移る。
「生あるときも死したあとも、旅の終着点はいつだってハッピーエンドだけ。大好きよ! わたしの仲間、家族、親友! どこまでも一緒に来て! この冒険の、最後までずっと!」
感涙が浮かぶ大きな瞳に真正面から見つめられ、手放しの称賛と愛をドカンと渡されて、涙の伝う四対の頬は真っ赤に火照った。
「ひ、ひ、ひ、人たらし~!」
「火力が強いんだよ~!」
「もうっもうっ! すっごく心配したってのに、いっつもアリアはそうやって!」
「いた、いたっ。あはは、アニス、ごめんなさい! お叱りはあとで受けるわ。その前に……」
不死鳥の背に乗ったまま、王は人差し指でちょいちょいと騎士を呼び寄せた。
「ひ、姫君……」
ティルダが恐る恐る近づくと、華奢な手が伸ばされて、むにっ……と頬を引っ張った。
「!?」
柘榴色の目が、これ以上ないほどに見開かれる。
「一人であんな深くまで入り込んだりして――悪い子ね、ティルダ」
友人たちを抱きしめていた時のぬくもりは完全に消し去って、騎士を見上げる主はかすかに目を細め、冷ややかな笑みを口の端に浮かべていた。
(お、お、おっ……お怒りだ!)
不死鳥の焔に煽られているというのに、冴え冴えと凍る圧を鼻梁に受けて、ティルダは「グウッ……!」とシャツの胸元を抑えた。
こめかみから冷や汗が流れ落ちる。
「おっおい! ティルダ、どうかしたのか!? 食い過ぎか!?」
慌てた父の問いかけにも、返答する余裕はない。
――彼女の苦悶の原因として、主の怒りを買ったという自責の念は正味のところ、二割以下に過ぎない。
まるで聞き分けの悪い飼い犬を見るような眼差しが、心臓にクリティカルヒットしたという、どうしようもない理由がほとんどを占める。
この騎士が自分の怒った顔に何よりも弱いということを、アリアはよく理解していた。
「お、お許しを! 我が君、どうか……! あなたに傷をつけた豚どもを八つ裂きにしないことには、我慢ならなかったのです!」
「言い訳は聞いてないの」
「く……ッ! ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
そっけなく一蹴され、身体をくの字に曲げて荒い息を吐く。
悶え苦しんでいるが、これも悲しみ一割、歓喜九割である。
ほぼご褒美と言っても過言ではない。
「ですが、姫君……! 我が剣が斬り損ねた敵が、あなたを害したのです! それも、あと少しで御身を失うところだった……! 永遠に! 無価値な豚ごときが太陽に傷をつけるなど、断じて許されない!」
「ダメ。敵よりわたしを見て」
一刀両断した声にも、ピクリとも動かぬ眉にも、決して揺らがぬ君主の傲然としたプライドが、ありありと滲み出ていた。
「あなたがわたしから離れる時は、わたしが駆けよと命じた時だけ。敵ごときに夢中にならないで。何も明かさずに心折れて、遠くに行こうとしないで。わたしがあなたを手放すことなんて、未来永劫ないんだから」
ひたと見据えて告げられた言葉に、ガーネットの瞳にはじわりと熱が滲む。
「ひ、姫君……! しかし……わ、わたしでは……っ!」
蜃気楼のように崩れた視界をごまかし、なおも言いつのろうとすると、白金の頭がぷいっと横に向けられた。
「……目が覚めた時、そばにいてくれなくてさみしかったわ」
そうつぶやく唇はちょっと尖っていて、頬は少しだけ膨れていた。
まるで、拗ねているように。
「……!」
見たことのない表情に、とうとう騎士は「はあッ!」と膝から崩れ落ちた。
(か、可憐さで星々が爆発するのではないか!?)
「ティルダ」
アリアは不死鳥から降りて同じように膝をつくと、顔を覗き込んで微笑んだ。
「わたしが無茶できるのは、あなたがいるから。いつだってわたし以上に、わたしのことを思ってくれる、優しい剣。……覚えてるわ。あの地下牢で、誰よりも早くわたしを王にしてくれたのは、あなただった。たった一夜で終わる王と知っていて、剣を捧げてくれた。ともに奈落に落ちる覚悟で」
顔を真っ赤にし胸を押さえる柘榴の瞳から、こらえきれない涙がポロリと一粒落ちた。
(そうだ。……あそこには、わたしたちだけだった)
ニュクスもネメシスも、絶大な魔法を扱う者はみな全て六角形の障壁の外に締め出され、ただ子どもばかりが身を寄せ合い、明日待ち受ける確実な死に怯えていた。
この少女の、不滅の怒りがどれほど熱かったのか、知っているのは自分だけ。
「他の人じゃダメなの。わたしはあなたと、ずっと先まで歩きたいの」
「……っ」
声もなく、ボロボロと涙を流す騎士の手を掴んで、アリアは力強い笑みを浮かべた。
「わたしから離れようとしたって無駄よ」
太陽のような笑顔はいつだって自信満々で、容赦なく心の奥まで熱を浴びせ風を吹き込んでくる。
「何度だって連れ戻すから! 一緒に夜明けを迎えるまで、この手を離さないわ! わたしはあなたがいいの、ティルダ!」
ずっと言ってほしかった言葉をねだる間もなく怒涛の勢いで浴びせられ、ティルダは腕で涙を隠しながら嗚咽をこらえた。
「……あなたの荷を、分けてほしい。思い描く壮大な未来を、胸をくもらす不安を、打ち明けてほしい……! けれどわたしは、それを、言えなかった! あなたを守るには、お側にずっといるには、力不足で……!」
「いやまったく不足してないけどね? 化け物級よ安心して。それにそこはね、……ティルダじゃなくて、わたしの足りないところなの。あなたが騎士として成長途中なら、わたしも王としてまだまだ」
涙を拭いながら、上映中の終わりに差し掛かった満天のイリオン滅亡劇場を見上げた。
「先輩は、わたしの魔法使いではあるけれど、わたしと同じ未来を見てくれてるわけじゃない。そこがありがたいんだけど……だからこそ、障壁になることもある。わたしが寝てるうちに自己判断で地獄の上映会を開催しちゃったのも、まったく驚かないわ。――でもあなたは、わたしの望みをその目に宿してる」
雨は止み、東から風が吹き始めた。
厚い雲は少しずつ吹き飛ばされ、空の彼方から届く群青の光をかすかに滲ませつつある。
いまだ十分に未明の闇の中、眩しいものを見るように目を細めて笑う少女の髪をなびかせた。
「正真正銘、あなたはわたしの剣であり盾。わたしと共に来なさい、ティルダ・ハーゼナイ。今度は全部、話すから」
大きな柘榴石から流れる涙が、血で汚れた頬をわずかに洗った。
「はい……! はい、我が君――アリアさま……! あなたの旅路の最後まで、お傍に!」
「ふふっ! はじめて名前を呼んでくれたわね」
嬉しそうにはにかむ笑みを受けて、ティルダは「あああっ!」と頭を抱えてのけぞった。
「なんて恐れ多いことを……! 夢では毎晩、呼んでいるけれど……!」
「そろそろ警邏に話しといた方がいいと思うよあたし」
「相談実績ってやつを作っておかないとな、いざって時のために」
大人しく成り行きを見守っていた友人たちからは虚無の目線が注がれた。
「いや、この珍獣を任せるなんて警邏の人が可愛そうだわ」
「男前すぎる……」
「さてと」
立ち上がろうとしてよろめくと、すかさず血に染まった腕で抱きとめられた。
「姫君!」
「ありがと、ティルダ。――じゃあ、あそこに連れて行って」
朝焼けの瞳が見据えるのは、壊滅した畑。
呆然とした群衆、怒りに目を血走らせたイリオスたちの中央には、腰に佩いた剣を手にしたシンシアの姿があった。
「わたしの仕事を片付けなくちゃ」