第124話 ミモザ散る黄金の庭(上)
見開かれた眼に、降りしきる雨が入り込む。
まばたき一つ許されぬ網膜に、上空の幻影は容赦なく、影が青く滲むほどに濃い日差しを浴びせた。
二十年前の夏至の、短い夜のことだった。
『燼滅せよイリオン!』
煌々と白銀に輝く巨大な神像を背に、長い右腕を果敢に振り下ろして武器すら持たぬ民を焼き尽くすよう命じたのは、自らが戴くユスティフの皇帝。
顔を見間違えるはずもない。
皇帝就任を記念して改鋳された白金貨に、この嘘みたいによくできた横顔が彫り込まれているのだから。
見渡す限りを溶かし尽くす灼熱の炎、爆撃矛を持った空を駆ける騎兵、雨粒のごとく落とされる手榴弾。
魔法を禁じられた千年王国の民は児戯のような抵抗しか許されず、王の命を刈り取らんがために一目散に駆けていく侵略者たちの背を、目を見開いて見送ることしかできなかった。
主を奪われ、都を焼かれ、白砂の道に点々と血の跡をつけながら、灯り一つないハルナソス山の稜線を打ち負かされた人々が歩む。
生き残りを守ろうと、櫛の歯が欠けるように怪物たちが散っていくたびに、幻影を映す視界は血とも涙ともつかない滲みで歪んだ。
満点の星々が浮かぶ、見果てぬほどに広い空は、羅針盤を失った大洋にも似ていた。
その茫洋とした漆黒の中を、フラフラと降りてくるものがあった。
手元にピエロの人形が括り付けられた、黄色い風船。
場違いにも程がある鮮やかな色彩に、戦争に行ったことのないメリディエスの市民たちの胸にも、無数の虫が這い上がってくるような不吉さが芽生える。
『わあ……っ!』
夜通し歩き続けてきた幼い少年が、倒れ込みそうなほど疲労の滲んだ顔にそれでも無邪気な笑みを浮かべて、手を伸ばした。
(ダメだ……! それに触れたらいけないッ!)
声にならない声が喉を焼き、動かぬ腕に電流が走る。
もう全て、二十年前に起きて終わったことだというのに。
――ドン!
銀の閃光が瞳孔を、爆発音が鼓膜を、容赦なく叩いた。
赤い血煙が晴れた後に現れた変わり果てた子どもの姿に、誰もが自由の効かない顔を歪めた。
夏至の短夜は無力な子犬にとってあまりに長く、その夜明けが来るよりも早く、メリディエスの住人たちはおのれの思い違いを悟っていた。
あの時、海向こうの島で何が行われたのか。
白銀の光は、何を焼き尽くしていたのか。
オキデンス市五万の命を担保として結ばれた不可侵の約定を破棄したのは、隣国の王家を滅ぼして手に負えない怪物を呼び覚ましたのは、他でもない、自分の国であったことを。
「……夢から醒めたか。愚か者ども」
抑えずとも動かなくなった住民たちを見下ろして、ニュクスはようやく左手を下した。
そうして右手に持つ栄養ドリンクの蓋を開けると、ゴッ! と一息に飲み干した。
これは、何度言っても無茶ばかりするアリアのために開発中の『魔力回復用仕様逓減版賢者の石』である。
味は調整をかけていないので、舌の上のピリピリとした刺激とともに、発酵食品とトロピカルフルーツを混ぜたような奇想天外な芳香が鼻に抜けていく。
魔力すなわち、生命力。
ピュティア家の魔法医学とは、体内のエラーをリカバリしたり、損壊した人体を細胞記憶どおりに修復したりするものである。
魔力そのものの回復は、療術の範囲外。
身体の異常が寛解して滞りなく運営されていれば、あとは運命に即した生命力が自然と回復していくものという基本理念が、千年の歴史でも魔力回復術が発展してこなかった所以のひとつであった。
(だがあの子は……あまりにもよく、死にかける!)
漸次回復など悠長なことをしているうちに、気づけば次の窮地に陥っている。
アリアが血と灰の伯爵邸に攫われた時、セレスティーネを顕現させた魔力をせめて回復させておくべきだったと、ニュクスはつくづく後悔したのだ。
ちなみに、イリオン人であれば誰でも簡単に双方の魔力を循環して補うことができるというのも、回復術が研究されてこなかったもうひとつの理由である。
方法は身体の接触。
箇所は、基礎防御が張られていない粘膜の部分に限定される。
そのため一部の自由人を除いてパートナー同士の施術となり、長い歴史のなかでいつの間にか婚姻の儀式にも組み込まれているのだが、それは措いておくとして。
(あの子を救出した時には、やむを得ず口付けで回復させたけども……むっ、無理だ! もう二度とできるものか……! 次にやることがあるとしたら、ぼくの心臓が停止する! そもそもこんな男と何度もするのは、あの子が可哀想だ! ……かと言って他の者が行うなど、何があっても 絶 対 に 看過できないが)
魔法使いは(どうかクソの役にも立たない不要な記憶が、大事な女の子の全脳細胞から完全に抹消されていますように……)と、ろくに信じてもいない神々に祈りを捧げたが、覚えているかどうかは、アリアのみが知るところであった。
「ああ、そうだ……。そうだった」
掠れた声が、呆然と地面に落ちる。
写し絵が始まってからずっと見開いたままであった赤い双眸たちは、いまだそこに地獄が繰り広げられているかのように、漆黒に戻った夜空を見上げていた。
「神像が放った、夕方のあの、二回目の灼熱波……。あれで、おふくろは死んだ。一瞬で消えて……骨すら、残らなかった」
傍若無人に展開されたのは、何も忘れることができない少年の記憶だったから、幻といえど煙の臭いも焔の熱さも克明で、長い歳月の中、生き抜くために深くしまい込んでいた傷の痛みが、昨日えぐり取られたばかりのように脈打ち始めた。
「弟は……騎兵の槍を避けるくらい、すばしっこかった。けど……後ろから落とされた、手榴弾爆撃にやられて……。今もまだ覚えてる、あの榴弾兵の顔。弟を狙って、爆弾を投げつけたんだ。……あたしは、身体がちぎれて半分になった弟を、まだ息があるのに、見捨てて逃げた……!」
上空に映し出された幻影は、たしかに港町の市民を挫いたが、──それよりも遥かに強く、亡国の民を叩きのめしていた。
誰もが、愛する人を二十年前の海の彼方に残していた。
「あああああ……! セイリオスさまあああ!」
インゴルフはずいぶん前から大きな手に顔を埋めて、滂沱の涙を流していた。
「双頭犬オルトロスの血脈、誇り高いエリュテイアの主よ! 最期までご立派で、あらせられた! あなたの冥府への道に、わたしもお供したかった! けれどあなたは、あの剛腕でおれを締め落として、練兵場の隅に簀巻きにしてッ……気づいた時には、夜が明けていた! お、おれがッ、前日結婚したばっかりのっ、しッ、新婚だったからって……! ふぐうッ!」
「その話初めて聞くな~……」
ティルダは、太い肩を震わせて漢泣きをする父の姿を、極力視界に入れないようにしていた。
「なあ……教えてくれよ」
肩に背負った施条銃を、腕にゆっくりと持ち替えながら、ひたりと動かぬ赤い目が一歩ずつ、市民へ近づいてくる。
「どうしておれのおふくろは、あんな酷い死に方をしなきゃいけなかった?」
「なんで……あたしの弟を、後ろから爆弾の的にできたんだ?」
市民たちは、凍りついたように瞬きひとつすることができない。
赤い瞳を歪ませて、涙まじりの叫びが迸った。
「あの子はまだ、……まだ、こんなに小さかったのに!!」
種々雑多の金属が擦れる音が立つ。
手に手に武器を構えたイリオスたちは、身体中から怒気と慟哭を漲らせて、二十年前から自分たちを貪り続けた敵国の人間たちに対峙した。
「無辜の民を焼き滅ぼしておきながら、我らが王に汚名を着せて……! 反吐が出る、恥知らずのケダモノどもが!」
「千年王国の怒り、思い知れ!」
「……ッ!」
言葉を返せるユスティフ人はいなかった。
目で焼き尽くそうとせんばかりの気迫に呑まれて一歩、崖のほうへとただ後ずさった。
「……知らな、かったんだ」
力なく膝をついた青年が呟いた。
晴れた浅瀬と同じ色をした瞳が見つめるのは、泥まみれになった自分の手。
「おれは何にも、知らなかった」
最初からずっと、国家がかりで嘘を教え込まれていたことも。
人狩りどもが、自分との約束をまるで守る気がなかったということも。
高台を見渡せば、死屍累々と積み重なる狩人たち。
襲撃を防いでみせたとはいえ、多勢に無勢の戦いは無傷では済まずに、子どもすらその手を血に染め、赤い目の者たちは全員傷を負っていた。
「こっ……こんなことになるなんて、思わなかった。ほ、本当だ。おえらいさんのペットになるんだって……いい服を着て、いい暮らしができるってそう、聞いてたんだ」
――この大嘘吐きが。
冷たく詰るおのれの声が、ついに届いた。
お前は知っていたはずだ。
人に所有されることが、どれほどみじめなのか。
ずっと、教えられてきたはずだ。
泥の詰まった爪先に、殴られて欠けた歯に、アバラが折れるほど強く蹴り飛ばされた脇腹のアザに。
社会の底で使い潰され、買い叩かれ、理不尽を飲み込んで生きてきた自分と同じ生き方を、他の誰かに強いるのだということを。
自白に等しい呟きに、赤い目が一斉に引き寄せられる。
「は、話が違う……! 約束が違う!」
雨に濡れそぼった赤毛は、現実を拒絶するようになおも横に振られた。
「ピンクの目をした、あの娘だけを連れて行くって……! 他の子どもには手を出さねえって、あんたら、そう言ったはずじゃねえか……!」
震える声が地に落ちて、誰が人狩りを呼び込んだのかということを、市民もイリオスも悟った。
そして、何を餌食にしようとしていたのかも。
「薄汚いハエが……!」
ニュクスの双眸に再び炎が走るより早く、──引き裂くような金切り声が地上で上がった。
「よくもそんな真似を!!!」
それはシンシアのものだった。
イリオンの夫人には珍しく、しとやかで気立ての良い彼女は、常ならば優しいその眼差しを血走った激怒に染めて、ダヴィドに飛びかかった。
「……ッ!」
地面に転がっている箒を泥ごと掴み取ると、恐怖で身を竦めた男に容赦なく振りかぶる。
「よくもッ! よくも人狩りなどを呼び寄せたな! このドブネズミ!」
「ヒッ! ヒイィ……! いたっ、痛い! や、やめてくれ!」
「やめるものか!!」
二度、三度、四度、五度。
細い腕が軋んでも構うことなく、何度も何度も柄を振り下ろす。
「わたしの息子はッ! やつらに連れ去られ、なぶり殺しにされた! まだっ――まだ、ほんの十歳だった……!」
喉を焼くような叫びがひび割れた。
「声変わりもしていなかった……ッ! 動物が好きで、人が好きで、優しい子だった……! お前も同じ死に方をすればいい! 命乞いも聞いてもらえずに蹴り続けられればいい! 内臓がッ破裂するまで……! そうすれば、人の痛みが少しはわかるッ! あんなに小さかったのに苦しみ抜いて死んでいったあの子の痛みが、ほんの少しはわかるだろう!!」
背を丸め身を固くして、ひたすらに猛打を受けながら、浅瀬色の瞳は呆然と見開かれていた。
すでに魔法使いの戒めは解けたというのに。
子を奪われた母の焔は誰も止めようがなく、市民もイリオスも手を宙ぶらりんに浮かべたままで、上空の魔法使いですら呆然と眺めている他なかった。
きっちりと結ってあった髪が解け、亡き息子と同じ、少し癖のある栗毛がバラリと頬にかかる。
「お前が獣に売り飛ばそうとした子は……! ベネの今際に、子守唄を歌ってくれた子だ! あの子の髪を撫でながら、まるで、わたしが傍にいるように……! だからあの子は、最期の最期に、母と一緒にいることができた……っ!」
シンシアの瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた。
「姫さまは……! 姫さまはわたしの焼いたパンを、おいしいって食べてくれた! 一緒に洗濯をして、歌をうたって……! 内緒の恋を、打ち明けてくれた……! ――お前たちは一度では飽き足らず二度までも、わたしから子を、奪おうとする……!」
バキッ!
力任せに殴り続け、箒が半ばから折れて弾き飛ぶ。
獲物を失った左手が空を掻き、――おのれの腰に下げたままであった、剣の柄に気がついた。
++++
その場所は、花の香りに満ちていた。
少し青く、輪郭のまろやかな甘い香り。
(……ミモザ……?)
目を開けると、頭上には一面の小さな黄金の花が茂っていた。
光が降り注いでいるが、薄曇りに似た淡い霞が遮って、太陽の在り処はわからない。
アリアは身を起こしながら、パチパチと瞬きをした。
「ここ……どこかしら」
「やっ! 久しぶり!」
元気な声に振り向くと、赤い目をした少年が佇んでいた。
少しクセのある焦茶の髪、柘榴のような瞳はキラキラと輝いて、親しい友を見る眼差しでこちらを映している。
二度ほどまばたきをして、アリアは人差し指を向けた。
「……。ベネ!?」
「ピンポーン!」
「あれっ、もしかしてわたし死んだ?」
「んーん! ギリセーフ」
軽い調子で問われた超重要質問事項に、同じく軽い調子のアンサーが打ち返される。
「でも瀕死状態だけどね。今のこの状況は、いわゆる臨死体験っていうやつかな」
「よっしゃ! 首の皮一枚つながったわ~」
グッと安堵の拳を握ったアリアの横に、少年は笑いながら腰を下ろした。
生成りの麻でできた動きやすそうな貫頭衣、皮を編んだサンダル。
まるで遠い神話時代のような衣装を身にまとっている。
「ここは生と死の狭間、野辺送りのエクフォラ。エリュシオンの手前の場所だよ。ふつうの生者は来ることができないけれど、アリアはリオンダーリだから、境を超えてここへ来た」
「生と死の狭間……」
「うん。きみは往くことも、帰ることもできる。で、よかったらなんだけど、ぼくとちょっとお話しない? ここは時間ってものがないからさ。その代わり、お茶とかも出てこないんだけどね」
当然、アリアに否やはない。
「もちろん!」とニッコリすると、伸ばしていた足を曲げて両膝を抱えた。
「お話したいことがあるの?」
「うん。きみたちのことずっと、見てたから。……で」
同じようにニコニコとしていたベネの瞳が、すっと開かれる。
「アリアは何がしたいの? あの海辺のゴーストタウンで。ずっと見てたけど、ぼくにはわからなかったよ。これまでのきみの冒険は単純明快で、魔獣や人狩りをやっつけてお金儲けしてハッピーエンド! だったじゃない? 今回はちょっと違うよね。教えてよ。きみはメリディエスで、何を得ようとしているのか」
お読みいただきありがとうございます!
地獄の上映会は、アリアに見せたものよりさらに縮めたダイジェスト版です。
調子こきのガキンチョだった過去は、さすがにニュクスも大勢様に見せたくないから…
コピペ剽窃され対応しておりました。
「旋律のアリアドネ」がタイトル、主人公の名前のみ変えて、本文を95%コピペされて他人名義で連載されておりました(カクヨム・アルファポリス)
すでに作品は取り下げられており、現在カクヨムで「杉山めぐみ」名義で連載しているものは本人です。
私がこれ以外の名義、かつアリアを別の女の子にすげ替えて改稿したものをネットに上げることは、決してありません。