第118話 奪うもの
「……どう思います」
「いや、そんなはずは……あの方に限って、そんなはずはない……と、思うのですが……」
「もしかしたら……ぼくらが傍で見ている以上に、あの子も、いっぱいいっぱいかもしれませんね」
「……ッ!」
魔法使いの見解に、ティルダは胸を押さえると、「なんとッ、不甲斐ない……!」と地面に崩れ落ちた。
「こんなに近くにいるというのに、お支えすることもできないとは……! 何が騎士! 何が剣! 何が盾……! これじゃあべらぼうに顔がいいだけの、役立たずのでくのぼうじゃないか……!」
「ティルダ……」
「――筋トレします」
「ん?」
断固として告げられた決意が理解の範囲外だったために、聞き間違いかとニュクスは五度ほど瞬きをした。
「父は言っていました……雑念も迷いも、日々のたゆまぬ鍛錬が打ち払うと。心に陰りがあるということはつまり、まだ筋肉を虐め足りないということ」
「あ、幻聴ではなかった」
「翼竜を屠るくらいでは足りない。それくらいの騎士なら、敵にだっている。レヴィヤタンだろうがベヒモスだろうが、我が剣の一閃で首を落とせるほどの強者になれば、きっと姫君の憂いも晴れる」
「あの、本当にそうなのかよく考えてみましたか?」
「間違いありません。この世のすべてがあの方のものとなり、あらゆる魔物が頭を下げ、あらゆる王が冠を外して膝をつき、赤い絨毯を敷き伸ばすしもべとなる。王の中の王、その座のみが我が君には相応しい……! そしてそれを導くのは――並ぶ者のいない、筋肉のみ」
「これ何から訂正すればいいんです?」
脳筋そのものの結論。
ティルダは立ち上がって膝の土を払うと、ニュクスを掠めるように一瞥し、すぐに顔をそらした。
「……あなたが、羨ましい」
海辺の強い日差しから作り出された、影の濃い木下闇に目を凝らし、さみしげな横顔で吐き捨てる。
「兄貴面ができて、あの方にも慕ってもらえて。わたしにはあの方と、そんな絆はありません。……わかっています。夜の帳の家系に生まれつかなかったわたしでは、あの方のお側を守るのは力不足だと。だから今に至るまで、胸の裡を明かしてもらえない」
「……いえ、」
ぼくも何も聞いていません――と言うよりも早く、騎士は姿を消してしまった。
あとに残されたのはプラタナスが落とす濃い影と、影の向こうできらめく群青の海。
ニュクスは呆然と立ち尽くし、――頭を抱えた。
(む、難しいー……ッ! 何だこれ!? 何が正解だったんだ!? いかなる奇書難書と呼ばれる類も、人の心の比ではない! 何せ、読めば答えが書いてある! あの子はよく、こんな問題に四六時中取り組むことができるな……!? 飽きもせず、365日! 何もかも、イリオン再興のために――ウッ、尊い……)
魔法使いは心臓を押さえながら、日差しの中で、仲間に囲まれる少女を見つめた。
――なぜか不死鳥から執拗に頭を突かれていた。
「さーて、まずはお片付けしましょうね! いたッ、いたッ! ちょ、ぽにすけ、ごめんってば」
「キュイーッ!」
「プッ、スカベンジャー……ふふっ、ちょっとかっこいい……」
「うんこで野菜作るの!? ウケる、やろやろ! こないだ作った新作の散水機試させてよ!」
「濡れ衣を着せて悪かったわ。……だってほんとにアリバイがなくて、動機があるんだもの、あはははは!」
「キューーーーー!」
耳をくすぐる子どもたちの笑い声、禽獣の鳴き声。
あぜ道に咲き始めた小さな花々。
春の風にあおられて、屋根の上の風見鶏がくるくると踊る。
ズレた関節をそのままに、赤い目の共同体は今日も忙しく立ち働く。
やることは山ほどあるのだ。
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「先生。……約束通り、持ってきた」
夕暮れ時。
寂れた小さな地方都市スーラの、人気のない細い路地。
思いつく限りの知人に頭を下げ、地面に額づき、何とか搔き集めた二百シルを、ダヴィドはサルヴェールに差し出した。
ノックをし、扉を開けて招き入れた時にはぬくもりを持ってダヴィドを見ていた人々は、金を貸してほしいと頼んだ瞬間に、温度も色も取り落とし、路傍の乞食を眺めるのと同じ冷え切った軽蔑を滲ませた。
罵倒よりも殴打よりもはるかに痛いものがあるということを、青年は二十五年生きてきて初めて知った。
(底辺だ底辺だとばかり思っていたが、まだ落ちる先があるとはな。本当、見下げ果てた世界だぜ……)
共同体から出たことのないダヴィドにとって、知人からの信頼と繋がりは、命綱とも呼べるもの。
その多くを自ら投げ出してしまったこの先のことは、想像することすら頭が拒絶していた。
(だが……何を差し出しても、惜しくなんかねえ。おれの出せるものなら、何だって……!)
サルヴェールは重い革袋を受け取った時も、中身を確かめている間も、ピクリともその無表情を変えることはなかった。
「……たしかに。残金、受け取った」
「で!? いつ、受けられるんっすか!? できるんなら明日にでも……!」
「話を通したのだが」
息を切らせて急かすダヴィドの言に被せて、医師の低く冷たい声が落とされる。
「患者の状態が悪いため、術符と神聖力が通常より多くかかるそうだ」
「……つまり?」
「あと五百シル、必要だ」
薄い唇が語る言葉の意味を、しばし理解できなかった。
「……!」
息を呑んだダヴィドの目の前で、男は懐深く、金貨をしまい込む。
凍り付いたまま動けない。
強張った肩に、ぽん、と気さくに手が乗せられた。
日に焼けたこともなさそうな、綺麗な手だと思った。
他人の汚物をかき集めたことも、地べたに這って金を無心したことも、ただの一度もない手。
「ないのか? 払えるだろう? ……唯一の母親だもんな」
片眼鏡の奥で、灰青色の瞳が三日月形にニイ……と歪む。
初めて目にした男の笑みは、生涯忘れられそうもないほど、無慈悲で酷薄だった。
「じ、時間をくれ……」
「好きにしろ」
震える声で何とかそれだけを返したダヴィドを置き去りに、サルヴェールは身をひるがえした。
ミモザ散る頃といえど、日が沈めば風の冷たさは身に染みる。
おのれの歯がガチガチと鳴らす音でやっと我に返ったダヴィドが、路地裏から抜け出た時には、スーラの寂れた酒場通りには灯りがともりはじめていた。
滲む灯りを見つめながら、ぼんやりと故郷の町を思う。
ほんの半月足らずで、亡霊町から息を吹き返しつつあるメリディエス。
(こんな……松明に毛が生えたような、粗末な街灯じゃなかった。もっと造りがしっかりとした華やかなやつを、目抜き通りの端から端まで、惜しげもなく立てていた。しかも、最新式のガス灯だ)
足を滑らせれば、舗装されていない乾いた砂地。
靴底の穴から砂利が入って来る。
(道だって全然違う。あの滑らかさ、どんな重い貨物が行き来しようときっと揺らがぬ頑健さ……砕石舗装だ。排水を意識して中央を高く端を低くした、トレサゲ工法を使っている)
様変わりした景気の良さを思うと、舌に苦いものが湧き出てくる。
工事の人足は、人ならざる力で動く土人形を使えども、材料には莫大な金がかかったはずだ。
特に最新式のガス灯は、アングリア王国から発光剤を取り寄せねば、作り出せぬはず。
坂の下から遠く仰ぎ見るだけでも見惚れるほどに眩しい、純白の漆喰の家々を建ててなお、有り余る富。
――ダン!
強く握った拳が、煉瓦の壁を殴りつけた。
「チクショウ……ッ! 金がほしい……金がほしい金がほしい金が欲しい! これまで必死で、働いてきたってのに……! なんにも楽しいことなんて、なかったってのに!」
酔っ払いが行き交う通りで喚いたところで、気にする者など誰もいない。
一度口に出せば、胃の腑を絞り出すような憤懣も掻痒も、後から後から溢れ出てきた。
「どうしておれには、何一つ残らねえんだ! あの半獣どもには、人に施しを与えるくらいに余っていて、どうしておれには……ッ、チクショウ!」
「半獣?」
――貧しいスカベンジャーのたわごとを面白そうに聞き返したのは、テラスで酒を飲んでいた男たちだった。
「おい。お前いま、半獣って言ったか?」
それは、黒灰色の革張りの装備を身に纏っていた。
「……あんたらは?」
獣じみた目つきの野蛮さ、殺しも躊躇わないであろう荒んだ気配は、冒険者に似ている。
だが、やつらの多くが自己を誇示するために豪奢な鎧を身に着けるのとは真逆の、闇に身を沈めるような装いが異質に映った。
肩から下げた施条銃の銃口が、鈍く光る。
「まあそう警戒すんなよ。……兄さん、聞こえたぜ。金がほしいんだろ。頭の中にある情報、ことによったら、数百万もの値打ちがあるかもしれないぜ」
「……」
怪しい話だ。
だが、何だって構わなかった。
歩めども歩めども一向に出口の見えぬ、この地獄から救い出してくれるのならば。
男は、分厚い胸板で狭そうなポケットから葉巻を取り出すと、火をつけた。
貴族でもなかなか手に入れることのできない、高級品である。
「表じゃあ知られてねえが、こっちの世界じゃ常識。……半獣はな、どんな魔獣より高く売れる。翼竜を十狩ったって、まだ全然届かねえ。それくらい、一匹の半獣の価値は高い」
「おれらはそういう半獣の情報を探すお仕事をしてんのよ」
「……売るって、どういうことだ? 人間だろうが。ただ、目が赤いだけで」
「おっと」
「これはこれは」
男たちはおかしそうに目配せし合い、肩をすくめた。
まるで小さい子どもに話すように太い指を立てる。
「兄さん、あんた、善い人みてえだな。ああ、あんたの懸念も最もだ。何、ひどい扱いはまずされねえ。考えてもみろよ? 小せえ城だって買えるような値段の奴隷を、粗末に扱うやつがいるか?」
「化け物じみた力を持つやつもいるし、ふつうの人間の奴隷とは話が違うわな。要はまあ、大金持ちのペットさ。いい服を着ていいもん食って、媚びへつらってかわいがられて暮らすのよ」
「……」
ダヴィドの脳裏に、はしゃぎながらペンキを塗る小さな者たちが思い起こされた。
「情報提供料だが……そうだな。一匹につき、大人なら百。子どもなら二百」
「!」
見開かれた青緑色の目に、男たちの笑みが深くなる。
「あとこれは、兄さんだけに教えるトップシークレットなんだが、……ものすご~~く、高い値がつく半獣がいるんだ」
低い声がより低くなり、ダヴィドは無意識に身を近づけた。
「ああ、誰からの依頼かは聞いてくれるなよ。おれたちみてえな末端は知りもしねえ……けど、仰ぎ見るような方々からの思し召しよ」
「半獣っつーのはな、大抵が血みてえな真っ赤な目をしているもんだ。宝石のガーネットに例えられる赤い瞳。だがその目……淡くて、桃色がかっていて、ちょうど晴れた日の朝焼けみてえなピンクの目をした、金髪の小ちゃい女の半獣……」
「……!」
表情を変えたダヴィドの前に、人差し指が立てられた。
「そいつの居場所を教えたやつには……1000。一気に1000シルの超豪華賞金を、お約束しよう」
ドクドクと、血がこめかみで脈動していた。
耳の中で、波打つような耳鳴りがする。
冷え切った手足の痛みが、遠ざかる。
「知っている」
おのれの喉から出たはずの声は、どこか上擦っていて別人の声のように聞こえた。
「その半獣がどこに住んでいるのか、教えてやる。……だから、金をよこせ。今、すぐに!」
青年の血走った浅瀬色の瞳を見て、酒臭い息を吐く男たちの唇が、弧を描いた。
その笑みは、冷酷な医者のものとまるきり同じだった。
この世界は、これまでちっともダヴィドに優しくしてくれなかった。
どれほど尽くしても、決して報いてくれなかった。
愛したものには置き去りにされ、背筋を伸ばして生きようとしても虚しく叩き折られ、必死にかき集めたものは悪党に奪われて、とうとう、自分の命より大事なたった一人すら、無惨に剥ぎ取られようとしている。
(何が悪い? あんなにたくさんある場所から少し掠め取るくらい、許されていいはずだ。奪うだけ奪って、何一つ返してくれなかった世界から、……おれが奪い返して、何が悪い!!)
お読みいただきありがとうございます!
本当はここまでを前話とまとめる予定だったのですが、いつも量が増えてしまう…すみません…
3人の中ではティルダが一番脳筋度が高いです。
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