第115話 ダヴィド・ダルシアク
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ……! ゴエッ……!」
まだ明けきらぬ薄明に跳ねる、咳。
喉に絡む痰。
ガラガラとした喘鳴。
寝聡く目を開けたダヴィドは、慣れた仕草で枕元の水差しを取ると、開きっぱなしのドアから身を滑らせて隣室へ這入った。
窓辺から差し込むのは、夜明け前の薄青い光。
寝台の上で身体をくの字に折り、尖った肩を幾たびも跳ねさせる人影が照らし出されていた。
「母さん、水」
コップを差し出しながらサイドテーブルを見下ろせば、いまだ開いていない包み紙は一つだけ。
(チッ。もう、薬が切れたか……)
何も言わず、薬包を開けて水とともに渡す。
病人は震える手で受け取り、一口の水で喉を湿らせると再び水を口に含み、粉薬を嚥下した。
その細い喉ぼとけの上下する様を、ダヴィドは暗い目で見つめていた。
飲み終わってもしばらく、身体を破裂させるような激しい咳嗽を繰り返していたが、次第に間隔が伸びていき、やがて大きな息を吐いた。
身体が弛緩する。
母の丁子色の瞳が、伺うようにダヴィドを映しこんだ。
「……起こして、すまなかったね。我慢しようと思ったんだけど……」
空になってしまった薬包に目が伸びるのを感じて、息子は大きな手で包み紙を隠した。
「いいって。薬のことなら、気にすることねえよ。またもらってくるから」
「すまないね。……うちは本当なら、薬に困るような身上じゃあないんだけどねえ」
母の眼差しが、次第に青さを増していく空を臨む。
「お父さんがいてくれたら」
いまだに慕わしい響きが滲むあてどない呟きに、被せるようにして「関係ない」と吐き捨てた。
包み紙をクシャリと握りしめる。
怒りを湛えたその目は、母と同じく、明け始めた空を睨みつけていた。
「あんな男の話はやめろ。おれたちを捨ててどこかに行ったやつなんて……最初から、いなかったのと同じだ」
「捨てただなんて」
「いい加減現実を見ろよ、母さん。……今日は午後にサルヴェール先生の往診がある。おれはそれまで仕事があるから、何かあったらビアンカさんに言ってくれ。出勤まで、寝る」
「……うん、おやすみ」
さみしげな母の目を断ち切っておのれの寝具に戻ったが、すでに春先の空気は綿の隅々まで入り込み、夜気と変わらぬほどに冷え切っていた。
目をつむっても頭の芯が冴えて、眠れそうもなかった。
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隣町スーラでのダヴィドの労働は、日雇いである。
共同体に属する者が従事したがらない仕事――汚物の処理、屠殺に解体、遺体の埋葬、ドブさらい。
ゴミの運搬が一番マシな部類といった、つまりは社会の底辺と呼ばれる階層に属するのが、ダヴィドである。
魔獣を狩りにやってくる冒険者の案内や、年末に搔き入れ時を迎える蝋燭工房の下働きとして呼ばれることもあるが、それも怒鳴られたり蹴られたりと、ろくなものではない。
この日もダヴィドは裕福な商家を隅から隅まで回って、瓷に汚物を集めていた。
悪臭は病の原因となるので口元に布を巻いているが、関係なく貫いてくる。
だが、臭いにはもう慣れた。
集め終わると、瓷に固く蓋をして背負う。
「終わったか」
「へえ」
「じゃあとっとと失せな」
こういう上流家庭を訪れる際には、決まって下級使用人が見張りにつく。
社会の底辺などを監視も付けずに邸内へ入れてしまっては、盗みを働くに違いない――そうした共通認識を、この国の豊かな人間は持っていた。
見張りに付いていたメイドは、鼻にハンカチを当てて顔をしかめながら、足で蹴飛ばすようにしてダヴィドを屋外へ追い出した。
「失礼します」
「臭いんだよ、クソ喰らいが!」
「おっと」
鼻の先でバン! と扉を閉められて思わず後ろにのけぞったが、何とか腹筋で体勢を維持した。
転んだら大惨事である。
瓷を車に積みながら、苦笑とともに布の下でため息をついた。
「別に、クソを喰ってはいねえんだけどな……。おれが持ってってやらなきゃ、困るのはあんたらじゃねえか」
スカベンジャー。
この町は、ダヴィドのことをそう罵倒する。
繁栄を享受していたメリディエスの凋落に対し、隣町は冷淡だった。
ダヴィドが数少ない残った学友たちと共に職を求めて訪れたのは、もう十三年も昔。
まだ十二歳の頃のことだった。
いずれの工房も商店も侮蔑と悪意をぶつけ、お前らにはクズ拾いがお似合いだと嘲笑った。
実際のところ、クズ拾いはだいぶマシなほうだったのだが。
その時点ですでに往時の何十分の一になってしまっていた仲間も、数年のうちに見切りをつけてほかの土地へ去り、今も残っているのはダヴィドも含めて七人しかいない。
それでもこの地を去らないのは、――去ることができないのは、いつか帰ってくると約束したから。
厚い皮をした、大きな手の温かさを覚えている。
頭に乗せられたその指先から、いつだって薬草の香りがしていたことも。
「何が、ダルシアク薬問屋を再興するだ。白金貨を千枚持って帰ってくるだ……。どうせ、知らねえ土地で知らねえ女と、所帯でも持ってんだろうが。……おれたちのことを忘れやがって。クソ親父」
いずこからも忘れ去られ、時を止めた灰色の町で、ダヴィドは若い青年の年月を這いつくばるように過ごし、浪費していた。
帰らざる待ち人をただ待っていた。
ふと油のよい匂いが、南風に運ばれて嗅覚をくすぐった。
「さあさ! アランチーノ! 揚げたてアツアツのアランチーノだよー! 一口食べたら泣き虫小僧もニッコリ! ほっぺが落ちちゃうアランチーノ!」
チーズ入りのライスコロッケの黄色い屋台から、野太くも朗らかな口上が飛んできた。
昼時のため客が列をなし、愛想のよい店主が次から次に揚げては笑顔で渡している。
(アランチーノ……母さんの好物だったっけ)
労働で燃料を使い果たした胃袋が、グルグルと動き出すのを感じた。
(あんなの持って帰ったら、喜ぶだろうな。最近は大麦粥ばっかり食ってるから……)
めっきりと見られなくなった母の笑顔を想像し、布の下の口元にほのかな笑みが浮かんだが、今は仕事帰り。
この車を牽いた状態で飯処に近寄ればどうなるかなど、身をもって知っていた。
踵を返そうとしたがそれよりも、強い南風が進路を変え、列に並ぶ客に臭気を届けるのが早かった。
「ん? なんか臭いな。――げっ! 肥溜めがいるじゃねえか!」
「はあ!? 最悪! 昼飯時だってのに!」
「いい気分が台無し!」
「……んだって?」
店主の顔から笑顔が消え、一瞬にして憤怒の形相へ変わる。
(! まずいっ……)
逃げようとしたが車を牽いた身では叶わず、大股で距離を詰めた店主から容赦なく横面に拳を打ち込まれた。
「ウッ!」
足がもつれる。
バランスを崩した車から瓷が一つ落ち、ズレた蓋から跳ねた中身が白い砂地に痕をつけると、行列から悲鳴が上がった。
「野郎……! クソなんてばら撒きやがって! 人の商売の邪魔をするなんて、このッ! 社会のクズが!」
激昂した店主から二発目、三発目の拳を受け、たまらず身をかがめると、腹部に蹴りまで入ってきた。
衝撃に視界が白くなる。
胃液が口へとせり上がる。
「おえっ……! ゲホッ、うえ……!」
「失せろ! クソ喰らいが!」
身を震わせて嘔吐するダヴィドに唾を吐き捨てる店主の眼には、隠しようもない愉悦が浮かんでいた。
客たちの無数の目も同じだった。
興奮と軽侮。
虫をいたぶる幼子と同じ色。
「……」
見飽きた目だ。
こんな扱いをされるのは、初めてではない。
仕事の悪臭にも、打擲にも足蹴にも、とうに慣れた。
だが、魂を踏みにじられる痛みには、慣れることができない。
ダヴィドは吐瀉物に塗れた口元の覆い布を剥がしながら、再び立ち上がった。
「アハハハ! 立った立った!」
「さすがクソ喰らい、頑丈だぜ!」
なにがおかしいのか、手を叩いた笑い声が行列から上がる。
身体のどこもかしこも悲鳴を上げたいくらいに傷んだが、うめき声など洩らそうものならさらにやつらを喜ばせるだけだとわかっているので、奥歯を噛んでぐっとこらえた。
甕の蓋を閉じ、車に積み上げて、牽く。
母の往診の時間までに、郊外の処分場に行かねばならないのだ。
お読みいただきありがとうございます!
間が空いてしまってすみません。
土日はツイッター宣伝用の表紙を描いていて、月曜は風邪引いて寝てました。
汚い話の上、アリアが出てこなくて恐れ入ります。
鍵になるのでしっかり描写せざるを得なかったのですが、ヒヤヒヤしております…
ダヴィドは孝行息子、25才、赤毛緑目、そこそこイケメンです。
作者ツイッターアカウントはこちら→@BiggestNamako
(目次と各話ページ下部にリンクもあります)
更新情報、絵、小ネタ漫画などを上げることもありますが、大したことは呟いていませんし全部こちらにもアップしますので、フォローして頂くと作者が喜ぶだけです。
以下、アリアを描いた第2部表紙です。
イメージを壊したくない方はスクロールはここまでで…!
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よろしくお願いします!
なぜこんな戦闘民族みたいな表情なのか?
2部後半でおわかりいただけるかと思います!
それまでどうか、お楽しみ頂けますと幸いです!