第114話 置き去りの町、輝くもの(2)
崖上の集落までの帰路。
パタパタパタッ……
不意に零れ落ちた新鮮な血の臭いに気付くのは、アリアよりティルダのほうが早かった。
「姫君!」
「あらら……」
顎まで伝う勢いで、アリアの鼻から血が滴っていた。
「だーいじょ」
「なりません……!」
ティルダは、袖口で適当に拭おうとする主の手を止めて、ハンカチをそっと当てながら、泣きだしそうに瞳を潤ませた。
頬に手を当てると、熱を持っているのがわかる。
この小さな主君が鼻血を出すほどに限界を迎えている姿を見るのは、あの地獄の伯爵邸以来、二度目のこと。
孤立無援だったあの時と違い、今は必死でかき集めた仲間もその家族も、――自分だっているというのに、彼女はまた同じ道を辿っている。
(やはり……休ませるべきだった! 少しくらい無理矢理でも! 落ちてるものでもカビが生えたものでも気にせず飲み食いするアリアさまのこと、バレずに薬を飲ませるのは犬より容易い! そして、テキメンに効く! ──わたしはずっと、無理をしていることを知っていたのに……!)
ティルダは強く、下唇を噛み締めた。
この海辺の町で、アニス、カネラ、ニコス、ボアネルジェスは、それぞれの父母と暮らしている。
子を失ったベネの両親、いまだ弟以外の家族の消息がわからないティルダ、そして両親がいないアリアとニュクスは、最も海に近い一軒家で、仮初めの共同生活を送っていた。
だから知っていた。
いつまでも、主の部屋から灯りが消えないことを。
この地に移住してから、ベッドで眠った形跡などないことを。
(悩みの尽きない、日々だ。我らイリオスの暮らす地の整備だけでも、手に余るはずだというのに……。まだ、こんなに幼い身で)
断続的に襲撃する魔獣。
簡単に拭うことなど決してできぬ恨みを燻ぶらせ、反目しあう住民たち。
目に見えた爆弾を抱えて、それでも望み通りの未来を手繰り寄せようと、慎重な綱渡りを試みている。
(たしかに、姫君はイリオスの主だ。この方以外に我らの王はいない。けれど……迷う素振りすら、見せては下さらない。荷を分けようとして下さらない)
キラキラとした光を失うことのないピンク色の瞳の下に、疲れ果てた隈がくっきりと浮き出ていた。
(あなたのプライドの高さを、知っている。だが……命を削ってまで尽くしてほしいなど、誰も願ってはいないのに……!)
「無茶のしすぎです。先に戻って休ませます」
「!?」
ここにいるはずのない、飄々とした声。
驚愕した赤い目たちが振り向いた時には、音もなく現れたニュクス・ピュティアはすでに、アリアの腕をしっかり掴んでいた。
「ちょっ……! また、抜け駆けをする気ですか……!」
制止をよそに、生暖かい風が地面から立ち上る。
ティルダの声を置き去りにして、紫の転移魔方陣は亜空間を渡った。
「……っ!」
愛しい姫は連れ去られ、あとに残ったのは月桂樹の枯れ葉だけ。
ティルダはワナワナと震えながら、女子二人に訴えた。
「いつもいつもいつも……! 影からアリアさまをじっとり窃視して、おいしいところを搔っ攫っていく! あれでよくわたしのことを、歪んだ独占欲だの言えると思わないか……!?」
「「……」」
カネラの橙色の瞳も、アニスの柘榴色の瞳も、無言で否を示していた。
「いや。……実際、どっこいどっこいでしょ」
カネラの言葉に、アニスも「うん」と死んだ目で頷く。
「ニュクスさまからは盗撮に盗聴。ティルダからは一秒も離れぬ超至近距離の付きまとい。並の神経を持った女の子なら、とっくに発狂してる」
「二人が引っ叩かれてないのは、アリアだから」
「ただ警邏に被害届が出てないだけだよ」
「くッ……! 正論は効く……!」
樫の木造りの扉が開く音に、ベネの母シンシアはパンをこねていた手を止めて、「あらまあ」と赤い目を丸くした。
アリアを背負ったニュクスが戸口に立っていたからだ。
大人たち以上に忙しく働く二人の子どもが明るいうちに家に戻ってくるのは、引越し以来初めてのことだった。
「若さま、それに姫さまも! どうなさったの? おんぶなんてなさって」
「シンシアさん、ただいま!」
「はい、おかえりなさいませ」
シンシアは手を洗いながら元気な挨拶に顔をほころばせたが、「無理がたたって鼻血を出したので、連れて帰ってきたんです」とニュクスからの絶対零度の報告を聞き、たちまち「まあ……」と気づかわしげに眉根を寄せた。
「まったく。昨夜も徹夜で下水道計画書を作っていて、その前の晩は道路舗装法について朝まで調べていましたね。その前の前の晩も、ずっと休んでいない。夜は書類仕事に調べ物、昼は現場監督に魔獣を狩って町を見回りして愛想を振りまいて……そんな働き方をしていたら、誰だって身体を壊します。きみは決して超人ではない。自分の容量を考えて動きなさい」
「……」
低い声で説教をされ、背負われたままのアリアは無言で小さくなった。
「姫さま……」
シンシアが遠慮がちに、肩に手をおいた。
「そんなに頑張ってくださっていたんですね。けど、無理はいけません。今日は姫さまが好きなパンチェッタとひよこ豆のスープにするから、夕飯までぐっすり寝ていらして」
「わあ、嬉しい……!」
「夫人、ありがとう。――この聞き分けのない娘が休んだフリをして余計なことをせぬよう、夕餉まで見張っておきますので」
「ウッ」
「フフ、頼もしい。お願いしますね」
ニュクスは、背中の少女が戦々恐々と身をこわばらせているのを感じながら、二階への階段を上った。
先程はアリア以外を置いてきたが、イリオンの子らを全員まとめて転移することくらい、稀代の魔法使いにとって造作もないことである。
(だが……二人で話しておかなくては。ぼくが言わねば、この子はきっと言い出さない)
ニュクスもまた、よく知っていた。
このたった一人の主は、プライドが高いだけでなく、呆れかえるほどに優しいお人よしなのだということを。
「先輩……」
困ったように見上げてくるアリアを無視し、ベッドに横たわらせて羽毛布団をボフッとかける。
乱暴にしたのは、少し怒っているからだ。
「意地っ張り」
夕刻色の瞳には、仕方のない子どもを見るようで、どこか痛みを堪えるような色が滲んでいた。
「覚えているくせに。……ぼくは真実を見てきて、それを他人の目にも映るよう、写し絵を展開できるということを」
掛け布団に埋もれたアリアもまた、辛そうに目を細めてニュクスを見上げた。
「あの卑怯者の大ウソつきが、二十年前の夏至の夜に何をしたのか、映像を見せればサルでも理解できます。――さて、どれにしましょうか」
スツールを引き寄せて、バサリとローブを払うと足を組んで腰かけた。
「火焔巨砲を市街地に向かって放つ姿? 吐き気がする欺瞞だらけの意気揚々と御託を並べる姿でもいいでしょう。命乞いをする民を、何も知らない子どもをなぶり殺しにした……あのクズの見下げ果てた場面なら、いくらでも選り取り見取りです。もとよりきみは、こんな苦労をする必要はない。イリオスのためならともかく、たかがユスティフ人の理解を得るためになど、何の労力も払う価値はないんです。ただ一言、ぼくに命ずればよい。見せよ、と」
「どうやって?」
ニュクスを見上げる朝焼けの瞳は、大人しく横たわりながらも、深く凪いでいた。
「町の人を全員魔法で呼び出して、椅子に縛り付けて? 見たくない、聞きたくないって言っても、無理やり目を開けさせて? ……それで、『全部誤解だったのね、ごめんなさい』ってなると、思います?」
思いがけないことを静かに問いかけられ、ニュクスはただパチパチと瞬きをした。
朝焼けの瞳は、ふっと虚空を見た。
「ずっと信じていたことを他人に覆されるのは……苦しい。耳を傾けたくなるまで待って、そして、この人が語ることなら本当かもしれないって、そう信じてもらえるようになるまで、近づくしかないんです。人の心に届くには、正道しか、道はないから」
それに……と花弁のような唇が言葉を継ぐ。
砂糖菓子なのは見た目だけ。
自分の首を絞めることになっても躊躇わない、高潔な魂。
「先輩の思い出は、先輩の大事なもの。暖かいものも光り輝くものも、痛みも絶望も全部、今のニュクス・ピュティアを形作るかけがえのないもの。たとえ先に進むためだろうと、わたしが道具扱いしていいわけがない」
「……」
ニュクスはしばし目を見張ると、ずるずると顔を覆い、「はあああ~~~~……」と長い長いため息を吐いた。
「ぼくよりきみのほうが、よほど大人だ……」
「そんっ……! ……先輩は、火力に全振りしてるから!」
「途中で否定するのをやめましたね」
苦笑いを聞きながら、アリアはふと天井を見上げた。
(遠い昔どこかで、同じことを誰かに言われた気がする……)
それがいつのことなのか、だれの言葉だったのか、思い出せない。
「でも」
薬草の匂いが染み付いた手が伸ばされて、アリアの額にそっと押し当てられる。
少し熱を持った額に、いつも冷えている手が心地いい。
「きみが寝ずに仕事をした上、疲れ果てているのに魔獣を狩ったり、愛想を振りまきに行ったりする必要がなくなるのなら……何を見せたって、構わない。ぼくのすべてはとうの昔に、きみのものなのだから」
「……!」
滅多に見せない柔らかな笑みとともに言われた言葉が、あまりにひたむきで、あまりの破壊力だったものだから、瞬く間にアリアの頬は真っ赤になった。
「はっ、初耳ですが……!?」
「そうでしたっけ。では今後覚えておいてください」
言った本人はケロリとしていて、おのれの言葉が相手の心中にどんな効果をもたらすかなど、まるで考えてもいない。
アリアは愕然と口を開けた。
(こっ、の人……! いったい、情緒どうなってるの!? 引くほど頭がいいのに、心についてはポンのコツすぎるわ! 師匠はあんなに素敵な恋をしてたのに……どう育てたら弟がこうなるの!? これで人のことを妹って……無理がある……!)
白金の頭が、羽毛布団に深々と埋もれていった。
「もうちょっと……人の心の機微とか、こう言ったらどう受け取るかとか、知ってた方がいいと思います……」
「!?」
なんでも大目に見てくれる最愛の女の子からの、滅多にないお叱り。
ニュクスの顔から血の気がザッと下がり、スツールに脛をガッ! と思い切りぶつけながら立ち上がった。
「なっななななにか、気に障りましたか……!?」
「いいえ。わたしのことをタラシって責めるけど、先輩には言われたくないと思っただけです」
「……いや。アリア、そのことならぼくも言いたいことがある。誰彼構わず落としてきて、変なものにばかり好かれて、ぼくがどれほど気を揉むか考えたことがあるんですか?」
「それは……盗撮と盗聴、不要不急のストーカーをやめればいいのでは?」
「クッ……! 正論は控えめにしてください、ダメージが大きい……!」
正午過ぎの高い日差しが照らす町。
潮風が撫でる高台の真新しい家々を、ダヴィドは暗い眼差しで見上げていた。
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不要不急じゃないストーカーとは何でしょうね…
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