第112話 春の遠雷
ガラガラガラ――カンッカンッカンッ――ドゴォォォン……
「あーっ! もっと右! 右! ……違うそっちから見て右!」
「待てまだその梁は塗仕上が終わってない! こっちの梁を持っていけ!」
「とにかく掘るんだ! このへんは地震があるからな、とにかく土台を深く掘れ!」
「そらっ、せーので上げるぞ! っっせーのおおっ!」
「「「オラアアアアアッ!」」」
朝八時。
潮風が枯れ葉を転がす乾いた音しか立たぬこの町に、朝から賑やかすぎる喚声が響き渡り、メリディエスの民は飲んでいた薄いお茶を噴き出した。
まるで往時のように力強く、活気のある声。
それは、海を臨む高台の広大な空き地から聞こえてきていた。
眉を寄せ、恐る恐るという足取りで坂を上ったダヴィドたちを迎えたのは、キラキラと朝日を反射する、澄んだいくつもの赤い瞳。
「あっ! おはようございます! 今日から引っ越してきました、イリオス一同ですっ!」
炎をまとった得体のしれぬ鳥を肩に乗せ、安全ヘルメットを被りツルハシを手にした少女は、汗をぬぐいながら朗らかな笑みを浮かべた。
人の耳を惹きつける楽器のようなその声に、先日岬ですれ違った少女だと悟る。
「イリオン人、だと……!?」
「はいっ!」
見る見るうちに険しく変わっていく町民たちの表情にも、怒気を湛えた詰問にも、まるで気づかぬような明るい頷きが返された。
「何をしに来た!?」
「ここで暮らしに!」
「どッどの面を下げて……!」
「面!? こ、こういう感じでしょうか?」
「っ……!」
誤解しないでほしい。ダヴィドが文句をつけているのは大人の男に対してだ。
年端もゆかぬ少女に怒鳴る趣味はない。
だが、なぜかこの小さい女の子がすべて応答してしまい、それに対してイリオン人の大人たちは咎める様子もないのだ。
(なっなんだこいつら……!? いや、それはいい!)
「出ていけ! お前たちが住んでいい場所など、この町に一つもない! 二十年前のこと……おれたちは一つも! 忘れてねえからな!」
「二十年前?」
憤りを込めたダヴィドの大声に、少女の後ろで立ち働いていたほかのイリオン人の手が止まった。
何を言うつもりだ? と言わんばかりの不思議そうな顔に、腹の底から怒りが膨れ上がる。
「かつてここが、どれほど華麗な都だったか……! 母なる海、ぶどう酒色なせるエヴァンタイユは怪物に汚染され、メリディエスは息の根を止められた! すべて! 何もかも、お前たちの身の程知らずな思い上がりが招いたことだ!」
眼下に広がる浅瀬と同じ色をした瞳に、暗い炎が瞬く。
「よくも……よくも海を、船乗りを、殺しておいて! この町に顔を出せたものだな! 今となっちゃあお前らの国も滅びて見る影もねえが、自業自得! バカげた国の勝手な滅亡などとこの町の辛苦が、釣り合うものか!」
町民たちも「そのとおり!」と頷いた。
「出ていけ! 厚顔無恥の半獣ども!」
「誰のせいでこの有様になったと思ってるんだ!」
「あたしらは決して認めないよ!」
罵声を受け流すアリアの背後で、──濃厚な怒気が、立ち上った。
「勝手な、滅亡だと?」
ゆらり……と緩慢に身を起こす気配がし、誰かの手から離されたバケツが、ガシャン! と音を立てて地面に落ちた。
「ハハッ! 言うに事欠いて、勝手とはなあ……」
「こりゃあ……頭っから中央広報を信じ込んでいる、お花畑と見える……」
「ああ~……! 久々に、暴れまわりたい気分だわ……」
ゴキゴキッと首の骨を回したのは、ニコスの母。
(こ……こここっわ! イリオスって本気で怒ると静かなのね!? 普段あんなにうるさいくせに! こっっっわ!)
得体のしれぬ陽気さすら滲ませながら、しかし地を這うほど低く怒気に満ちた声に、アリアは振り向かずに冷や汗を流した。
ビリビリと背中に当たる憎悪の重たさに、気づいている。
赤い目の大人たち、そしてニュクスは、二十年前、地獄そのもののイリオンから命がけで逃げてきた者たちだ。
家も土地も財産も、友も家族も思い出も、生まれ育った国で愛した何もかもを失った者たち。
その始まりがユスティフによる約定の破棄であり、過程は人倫など一つもない虐殺そのもの、そして結末は、欺瞞に満ちた歴史と長い長い狂った宴の始まりであったことを、知らぬ者は背後にいない。
いずれの家族の子もみな、その身に鞭を打たれ、家畜のように烙印を押された。
痛めつけられ、絶望の中で落とした命があった。
──その肉は、人の皮を被った獣どもに喰われた。
ベネの両親の赤い瞳が、何も言わず、ただ身を貫くような鋭さを以ておのれの背を見つめ続けているのを、アリアは感じていた。
だが、起きてはならない諍いを抑え込むのも、王の務めである。
そう。
これは、起きてはならぬこと。
アリアは右手を伸ばし、細い人差し指をちょんと立てて、イリオスたちを制した。
(ごめんなさい、みんな。……でも、どうかこらえて。ここで立ち止まったら辿りつけない未来に、みんなと行きたいの)
敵愾心を露わにした町民たちに対しては、――左足を斜め後ろの内側に引き、右足を曲げ、簡素なワンピースの裾をそっと持ち上げてみせた。
カーテシー。
ユスティフの貴族女性が、目上の者に行う礼である。
「「「……!」」」
当然、そんな挨拶を受けたことなどないダヴィドたちは面食らい、ふわっとこちらを見上げた顔に、敵意の一つもない天使のような笑みが浮かんでいるのを目にして、言葉を失った。
「失礼、メリディエスの皆さま。わたしはアリア。後ろの人たちのボスをしてます。何かご迷惑をおかけすることがあったら、わたしに言ってください」
「あ、あんたに?」
「はい」
笑みを浮かべたまま、可憐なしぐさで小首をかしげる。
「皆さまのお邪魔にならないように暮らしますので、どうぞご容赦くださいな」
まだ幼い少女に下手に出られては、メリディエスの民もそれ以上罵詈雑言を投げつけるわけにはいかない。
ダヴィドは「チッ!」と踵を返した。
「子どもを矢面に立たせて……卑怯者どもが!」
「いやあの、真実わたしがボスなんです」
「いいか!? こっちの要求は伝えた! 出ていかねえんなら……おれにだって考えがある!」
「クソったれの半獣どもが!」
「地獄に落ちろ!」
唾を置き土産に吐き捨てて、敵意たっぷりの町民たちは坂を下りて行った。
「姫君……っ」
「まあ、嘘なんだけど」
「え?」
真っ先に駆け寄ったティルダをよそに、右上のほうの虚空を見上げながら呟いた。
「邪魔にならないようになんて無理。同じ町だもの、会わないわけに行かないわ。必ず、ぶつかることになる。だからその前に……稼げるだけ、好感度を稼いでおく。それしかない」
「……」
物思いに耽る姫の横顔に、いくつもの赤い瞳が物言いたげに交差しあった。
「そんな必要、ある?」
そう尋ねたのは、ボアネルジェスの母。
「あんなやつら、追い出せばいいんだよ」
ニコスの父も、眼鏡の奥の赤い瞳で静かにこちらを映した。
「ああ。姫さんや若がいやなら、おれがやったっていいぜ。なーに、簡単だ。どうせ杖だのインクだのなけりゃあ、歌えもしない劣等民族だ」
引き継いだのは、アニスの父。
「……おれたちのせいだって、言いやがった」
カネラの父が、震える声で吐き捨てた。
大人たちは、カンナやツルハシをきつく握りしめ、何も道具を持っていないものは強く強くこぶしを握り、泣きそうな顔で地面を一心に見つめていた。
ニュクスを見ると、彼もまたゴーレムに指示を出す手を止め、遠い目で、少し離れた場所の木桶を眺めていた。
「侵略者は、奴らのほうなのに」
「何もかも嘘で塗り替えて、わたしたちの犠牲も自分たちの罪も、なかったことにした……!」
「でも、あたしらは忘れないよ。大ぼら吹きの、殺戮者ども! 二十年前も、それから長い長い間ずっと、ずっと……! やつらがあたしたちを、どう踏みにじってきたのか!」
「おれら民草が這いつくばるのは構わねえ。けど姫さん! あんたが下手に出るのを見るのは、我慢ならない! あんな、獣以下のやつら相手に……!」
「……」
血の噴き出るような、声だった。
実際に、誰もが大事な誰かを失っている。
魂の深い場所の傷はいまだじくじくと血が滲み、時が経とうと癒えることはない。
(けど……避けては通れない)
アリアはぐっと腹部に力をこめると、努めてニッコリとした笑顔を浮かべてみせた。
「よくこらえてくれたわ、みんな。それでこそ誇り高いイリオス! わたしの家族!」
立ち尽くしたままの一人一人の腕を順番に叩きながら、高台の中でももっとも高い場所、崖の端へ歩いていく。
「心配いらない。この目には最初からずっと、見えてるから。獣どもがあなたたちにしたことの落とし前をつけさせて、不当に占拠しているものをすべて取り返して、――あの島で、ずっと幸せに暮らすの! 一人残らず!」
右手が指し示すのは、はるかなる故郷イリオン。
春の霞の中に身を沈め、その雄大なる島影を仰ぎ見ることは叶わない。
振り向き、赤い目の民を見下ろした表情は、彼女が背負う海の果ての千年の君主たちと同じ色をしていた。
傲慢と紙一重の、気高い黄金。
「だから、迷わずついてきて。こんなところでよそ見なんて許さないわ」
尊大とも取れる仰せに、――いずれのイリオスもひとまずは憤りを収め、微笑みとともに頷いた。
高いプライド、堂々とした自己主張、負けん気、鼻っ柱の強さ――そうしたものをこよなく愛するのが、日の当たる国の性であるから。
「とりあえず、日が沈むまでがんばっておうちを建築して、そしたら~~……宴会しましょっ! 引っ越し祝い!」
「「「オーー-!」」」
賑やかな雄叫びとともに、再び動き出した建設現場の、甲高い釘打ち、木を削る鉋音、土を運ぶ車輪の振動を感じながら、――アリアは、幾たび目かの虚空に目をやった。
隣人を憎むことは、辛く苦しい。
仇への憎しみを忘れて生きよというのは、誇りを奪うに等しい。
ではどのようにして、彼らを楽にすることができるのだろうか。
(ここからは……一手たりとも、間違えることは許されない。――だって)
針の穴に糸を通すよりもはるかに困難極まる未来だけを、手繰り寄せようとしているのだから。
お読みいただきありがとうございます!
ビビっていますが、キレると静かになるのはアリアも一緒です(エミリー殺害未遂時、ベネ死亡時)
改稿作業の調節により分割させていただきました。(2023/5/28)
本当にサルめが度々申し訳ございません!