第110話 ゴーストタウン【挿絵】
ユスティフ帝国南部、メリディエス市。
中央の目抜き通りに、人影はない。
市庁舎、教会、酒場、取引所に宿屋、無数の家々と、立ち並ぶ建造物こそ多いが、全てが潮風で黒ずみ、窓は失われ、屋根は端から崩れ落ちていた。
「……チッ」
ダヴィド・ダルシアクは、風に吹かれて転がっていた木桶を蹴飛ばして、味のしないタバコを吐き捨てた。
目を落とせば、深々と亀裂が入り、ガタガタにひび割れた地面が見える。
――輸送が命のこの町は、最新技術のトレサゲ工法で舗装した道を誇りに思っていたものだったのに。
顔を上げれば、廃墟ばかりとなった光景が目に入る。
――あのドレスショップにもあちらの宝飾店にも、異国の最新流行が所せましと飾られて、ユスティフ各地の貴婦人たちがこぞって列を作ったものだったのに。
まったく何をしていても、どこに目をやっても、今のこの町はダヴィドをどうしようもなく苛立たせた。
「クソが。……クソ、クソ、クソ。この世はクソだらけだ」
その町はかつて、四つの国を海路で繋ぐ、象牙色をした結び目だった。
エヴァンタイユ海の真珠。
ユスティフ王国の南の港、メリディエス。
『よお坊主! 親父さんの手伝いをしてえらいな!』
『そら、子羊の焼き串だ! 一本くれてやるよ!』
『休まず働いて、立派な港ツバメになるんだぞ!』
港で働く者たちの、毎日変わらず東から昇る朝日のように揺らがぬ明るい声、水面を映してキラキラと輝く瞳を、今でも覚えている。
この町で生まれたダヴィドは、自分の祖父が生まれるよりもずっとずっと前から、かたく結ばれてきたつながりがほどけることなど、未来永劫ないのだと思っていた。
循環し続ける富。
取引の積み重ね。
契約と信頼で縛られた縄。
荒れ狂う波がそれをたやすく断ち切ったのは、二十年前。
海の向こう、不動の千年王国イリオンが、世界に牙を剥いた。
大型船の入るユスティフの港ではもっともイリオンの島々に近いのがここ、メリディエスである。
雨上がりのよく晴れた昼間などには、起伏の多いその島影を望むこともできた。
イリオン人は地上であればいかなる場所にも瞬時に移動できる超常の力を持っていたが、同時に波を愛する海の民でもあったから、好き好んで帆船に乗り、貿易のためこの町へ訪れていた。
その持ち込む品々の、見事なことと言ったらなかった。
人ならざる赤い目を持ち、いかなる時も自信満々に堂々と振舞う異国の者たちのことを、港の市民はみな、好感とほのかな憧れを抱いて眺めていたものだった。
それは、よく晴れた夏至の短夜のことだった。
今でもダヴィドはよく覚えている。
南西の空が、昼間のように明るく光っていたこと。
時折、上空が白銀に強く輝いては、地の一点に吸い込まれるように消えていったこと。
何度も、何度も、叩きつけるように。
『なんだ? あれ……』
『イリオンの方、だよな?』
尋常ではない夜空の様子に、市民たちは窓から顔を出し、ある者は波打ち際まで近づいて首を伸ばした。
幼いダヴィドもまた、崖上の家の二階でベッドに膝をついて、遠い夜空をぽかんと眺めた。
やがて睡魔に負けて眠りに落ちたが、明け方ごろ、天が割れたかと思うような轟音で目を覚ました。
『……なに……?』
再び窓辺から顔を出すと、薄明の中、灰色の煙がまるで巨大な岩の生き物のように、明るみ始めた空へ広がっていくのが見えた。
もうもうと吹き上げるその根元は、はるかなハルナソス山。
『……』
膝立ちで口を開けながら、これまでの世界と何かが変わってしまったのだということは、当時のダヴィドにもわかった。
――だがまさかこれほど無残にも、何もかも奪いつくされるとは。
神聖歴586年、六月二十日。
神々の国イリオンは、フルクトゥアト大陸に侵攻しようと、ハルナソス山に眠る太古の怪物を呼び覚ました。
しかし、古代エレウシス朝期に封じ込められた怪物の力は恐るべきもので、イリオン人たちにも制御できず、あえなく千年王国は一夜にして滅びた。
島は火山の焔に呑み込まれ、民は散り散りとなって逃げた。
中央皇都からのその広報は、このような南の果てにも迅速だった。
(大昔のおとぎ話のようなことが、こんな目と鼻の先で起こるなんて――)
そうメリディエスの民が深刻な表情で海の向こうを見ていられたのは、ほんの一日のことだった。
その朝、出港した船は、戻らなかった。
ただの一隻も。
イリオンが呼び覚ました怪物は、一匹ではない。
島の中で大人しくもしていない。
千年王国を滅ぼした獰猛な魔物どもが周辺海域に侵襲しているという事実を海運協会が把握するまでに数日かかり、その間に多くの港ツバメたちが、捜索に向かった者たちも含めて全員、海の藻屑と消えた。
安全な海路を探す手立てはなかった。
アフラゴーラへ向かう東道も、エステルへ向かう西道も、イリオンへ接近せざるを得ない。
海路を潰されては、港町は息の根を止められたも同然。
店は閉じ錠を下し、一軒、また一軒と、夜に灯りの灯らぬ家が増えた。
手を尽くしても手を尽くしても、無駄だった。
日ごと増えていく空席、さよならも言わず姿を消していく学友の後ろ姿が、学校へ向かうダヴィドの歩を重くさせた。
肩を落とし街を後にした家族たちがその後どこに消えたのか、ダヴィドは知らない。
二度と会うこともない。
星付きの宿が閉じるころには、市庁舎は隣の隣の市へ移転し、海運協会は三百年の歴史に幕を下ろし、後にはただ、立派な廃墟のみが残された。
人が減れば、そこには魔獣が現れる。
人を喰らう魔獣が出れば、さらに人はいなくなる。
往時には数万戸を数えていた象牙色の港町メリディエスは、今や移住の気力すら失った十数戸がへばりつくようにして残るのみとなり、たまに魔獣狙いの冒険者どもが――これもまた、魔獣と似たり寄ったりのろくでなしである――来る以外は、まさしく忘れ去られた幽霊都市となっていた。
冒険者の道案内、または近隣の町での日雇い労働。
ダヴィドの収入はそのどちらかで、いずれも人間扱いされるとは言いがたい。
「クソが。……何もかも、クソイリオンどものせいだ。思い上がったマヌケな半獣どものせいで、おれたちはこんなことになった」
――本当なら、自分は。
青年は、潮風に黒ずんで朽ちかけた廃墟を横目で眇めて、顔を背けた。
かつてその店は、瑞々しい若草色に塗られていた。
ひいじいさんの代から掲げているんだと、父が誇らしげに見上げていた薬問屋の看板は、とっくに朽ち果てた。
「あれがイリオン!?」
不意に、完璧に調律された小さな弦楽器のような声が、耳を惹いた。
「いえ、違います。その手前のカフカ島です。今はあそこも無人島になっています。う~ん、今日は……靄がかっていて、見えそうもないですね」
「姫君、お手を。足元に岩があります、お気を付けて」
「ありがとう!」
風に乗って聞こえてくる賑やかな話し声。
(……?)
この亡霊のような町には到底場違いな明るい響きに、ダヴィドは眉をひそめた。
旧ダルシアク薬問屋から歩いて五分ほどの岬、シュードポール。
黒いローブを纏った長身痩躯の涼しげな青年、やたらと美々しい顔だちだが男女の区別がつかない子ども、それから白金の髪をした少女。
実に人目を惹く風変わりな一行が、高台から町を見下ろしていた。
ブロンドの少女はキャスケット帽を深々と被り、後ろ頭を向けている。
(なんだ……?)
この廃墟の町で、幼い者たちなど長らく見たことはなかった。
ずいぶん離れているというのに視線に気づいたのか、青年と剣の少女はプラチナブロンドの少女をダヴィドの目から守ろうとするかのように、立ちはだかった。
黒曜石のような黒い双眸が、ぞっとするほど冷たくダヴィドを見据える。
鉄鉱石のような灰色の大きな切れ長の瞳も、ひたとこちらを見つめながら、音もなく腰の剣に手をかけたのが見えた。
「何か?」
青年の声音は、思わず後ずさりたくなるような冴え冴えとした威圧感を湛えていた。
「……こっちのセリフだ。こんな地の果てのさびれた港に、子連れでなんの用だ? 見ての通り、お子さまが楽しめるようなもんは何もねえよ」
「ご忠告どうも」
「わたしたち、下見に来たんです!」
青年は『話しかけるな』という険を隠しもしなかったが、黒衣の後ろから上がった声は、顔も見えないのに朗らかで人懐こかった。
「このあたりに土地を買おうと思って」
「土地、だって? ……おいおいおい、正気か?」
ダヴィドは噴き出した。
この少女――裕福な家庭の娘か何か知らないが、おそらく不動産屋に口先八丁で丸め込まれたに違いない。
そうでなければこんな場所を買おうなんて酔狂なもの好き、いるはずないのだから。
「そりゃ詐欺だ、嬢ちゃん。なんて業者を使っているのかしらねえが、ここがどんな場所か、ちゃんと教えてくれる不動産屋を選んだ方がいい。まさか、そこの男前がいいように丸め込んだのか? そいつはいけねえよ兄さん。いくら面が良いからって、やっていいことと悪いことがある」
青年は、ゴロツキのような風体から良識あるセリフが出てきたのが意外だったか、切れ長の目をパチパチと瞬かせ、ダヴィドは肩をすくめて続けた。
「子どもから金をだまし取ろうなんざ、地獄に落ちるぜ。――ここは、金を出して買う価値なんてない土地だ。わかったら帰んな」
くるりと踵を返した背に、「どんなところが?」と屈託のない問いが飛んできた。
「へ?」
「どんな点で、買う価値がないって思うんですか?」
「だっ……だから、見りゃわかるだろ? 廃墟だらけだし人はいねえし、残っているのはおれみてえな社会の底辺ばかりだ。学校もねえ、病院もねえ、宿も商会も店もねえ。出るのは魔獣とチンピラ上がりの冒険者ども。逆に、おれが教えてもらいてえよ。いったいここに、どんな価値があるってんだ?」
「でも、あなたはまだ残ってます」
「!」
唐突に図星を差されて、ダヴィドは言葉に詰まった。
黒衣の後ろから、帽子を目深にかぶった頭がひょこっと出てきた。
「こら」
「ふふ! お兄さん、いい人みたい!」
顔立ちはわからないが、口元が微笑んでいるのが見えた。
その時。
この時期の深南部には付き物の、強い東風がキャスケットを吹き飛ばした。
「!」
あらわになったのは、朝焼けのような淡い赤い瞳。
「イッ、イリオン人……!?」
「いけない」
指を差して目を見張ったダヴィドをさして気にした様子もなく、少女はジャンプして帽子をつかんだ。
「だから言ったのに」
「内緒にしてくださいね。――じゃないと、ちょっと痛いことをしないといけなくなっちゃうから」
赤い瞳は、ダヴィドを見上げて堂々と不敵に笑ってみせた。
はるか遠い昔、同じ瞳を持つ者たちがそうであったように。