第104話 玉座のゆくえ
「師匠。……怒ってますか?」
少し不安げな朝焼け色の瞳が見上げたのは、朝食の皿を洗っている時。
テセウスが転移してくる日の朝のことである。
魔法があれば手を使う必要はなかったが、どうしてかアリアが乞うので、ネメシスは弟子と二人で流しに向かっていた。
二人きりで話したいことがあるのだと察した他の皆は、庭仕事に精を出している。
「わたしが? きみに? ――まさか!」
魔法の師は、滅相もないとばかりにガン決まりの金眼を見開いた。
「どうしてそう思ったんだい?」
「だって……わたしが起きてから、目が合わないもの。師匠なら、生きて帰ったことを大喜びしてくれると思ってたのに……。それよりも、命を粗末にしたことを、怒ってるのかしらって……」
「……」
たしかにこの二日ほど、この真っ直ぐに人を見上げるピンクの双眸を見返すことが難しかったが、それは怒りが理由ではなかった。
「……アリアくん」
ネメシスは手を拭くと、アリアに向き直った。
「わたしの正体を聞いただろう? わたしはニュクスが作ったゴーレム、土人形。……人間ではないんだよ」
ネメシスは、ベ、と舌を出してみせた。
蛇のように長い舌には、EMETHの文字。
「これがかき消されるようなことがあれば、わたしは一瞬で土に戻る。身体を切ったとて血の一滴も出ない。……作り物なんだよ」
「そんなの関係ない! わたしの師匠だもの!」
キッと見上げた大きな瞳は、珍しく、傷ついたようにも怒ったようにも見えた。
「生まれた時から、わたしのことを愛してくれてた! 死にそうな顔になりながら、それでも愛しくて仕方ないって目でわたしとお母さんを見てた……! 先輩が……教えてくれたもの!」
ニュクスであれば、自分の説明をするときに、魂の欠片が入っているのだと伝えてあるだろう。
欠片しかない本物を、大事で仕方がないのだとぎゅっと握りしめる少女は、やはりいつでもネメシスの心を温めてくれる。
ぽん、と小さな頭に大きな手を乗せると、――朝焼けの瞳はなぜか、ひるんだように揺らめいた。
「師匠は……自分を殺して、大事な弟を死ぬより辛い目に遭わせた皇帝が、憎い?」
唐突に、小さな問いが零される。
ネメシスは「もちろん」と頷いた。
「アンブローズを滅ぼしてやりたいと思う?」
「そう設計されているからね」
「テセウスさまも、憎い?」
「……いいや」
激怒の解けぬ金の瞳は、流し台の上の窓を見た。
「きみの武術の師のオーレルを始めとして――その手でイリオスを殺した者はみな、殺してやりたい。けれど、生まれてすらいなかった子どもに咎があるというなら、わたしはそいつをぶん殴ってやろうと思うよ」
日差しを受けて、儚く溶けていきそうな横顔の穏やかさに、アリアは息を飲んだ。
「氏素性の罪深さや、父祖の罪を嘯く者はいるだろう。だがそんなもの、迷信深いバカの口から出る世迷言に過ぎない。……血に、罪が宿るとでも言うつもりだろうか。血も骨も肉も、人の肉体を為す全ては、ただの構築情報に過ぎないというのに。わたしは魔法使いだけれど、本当は錬金術の方が得意だからね。非科学的な迷信は、断固否定するよ」
それはテセウスに対してだけではなく、自分のことも指しているのだと気が付いた。
役立たずの無能なリオンダーリの血と、悪逆非道なアンブローズの血を継いだこの身のことも肯定してくれているのだと、名言されずともたしかに感じ取ったアリアは、「それを聞けて安心しました!」と笑みを浮かべた。
「これで堂々と、テセウスさまとお話できるわ! ……わたし、やっぱり、師匠がお父さんがよかったな」
「光栄だよ」
ネメシスは、耳をくすぐる響きに笑みをこぼしながら皿を拭いたが、――次に続く言葉で、表情を落っことした。
「いっそ、わたしがお腹に宿る前に、時計の針を戻せればいいのに」
それは、ニュクスすら聞いたことのない、アリアの心の深いところからの声だった。
「あんなクズの子がお腹に宿っちゃったから、お母さんは逃げられなくなった。お母さんが逃げられないから、おじいちゃんはホイホイ無理な条件を呑んだ。お人好しのオルフェンたちも文句ひとつ言わず、おじいちゃんとお母さんの言うことを聞いてばっかりで」
朝焼けの瞳は、いつもあれほど豊かな情感を全て失ったように、ガラス玉に似た無機質さで窓の外の景色を反射していた。
「……皇帝の策が完成する前に戦えば、勝てたのに。強くて負けなしのイリオンだったのに。……バカみたい。あんな、何の役にも立たない、赤ん坊一人のために、……何もかも奪われて、みんな死んでいった」
「――アリア」
ネメシスが発した声は短かったが、厳しく強い怒気が含まれていた。
弟子に無限に甘いこの師が怒りを露わにしたのは、毎夜魔法を教えてきた半年の日々の中で、初めてのことだった。
「ごめんなさい」
すぐに謝罪を口にしたアリアを、ネメシスは強く抱きしめた。
「よく我慢していたね。偉かった」
「……!」
温かい身体。
鼓動が聞こえないことを除けば、人と全く同じぬくもりを持つ身体は、大きな腕でアリアをすっぽり包み込んだ。
ローブにぎゅっと押し付けられ、薬草とインクの匂いが鼻腔に満ちる。
「きみは王たる者が何者なのか、あまりによく知っている。……まあきっと、あの方の仕業だ。時の流れぬエリュシオンで長い時間をかけて、きみの魂に刻み付けたんだろう。ふふ、まったく、ひどいことをするよね。ニュクスはあの方のことを、人の心を失った魔人って陰口を叩いていたんだよ」
「……」
アリアは言葉もなく、ただローブを両手でぎゅっと握って、顔を埋めた。
「王たる者が、どんな言葉を吐いて、どう振る舞うべきなのか。それはきみの魂に染み付いている。だからイリオンの子らの前はもちろん、オルフェンの前でも、これまでずっと揺らがずに立ってみせた。導くべき民を相手に、王は弱音など吐かないから。……でも、わたしは知っていたよ。いや、実を言うとニュクスも知っているし……もしかしたら他の子らも、知ってるかもね。きみが、ちょっとばかし、無理をしてるのを」
大きな手が、背中を優しく撫でた。
「だって、自分の血を恥だと吐き捨てたきみが、そんな自分のことを、手放しで信じているわけないじゃないか……」
「……」
脊髄の稜線がわかるほど華奢な背は、声もなく、かすかに震えていた。
嗚咽をこらえた熱い息が、ネメシスの胸に沁みていく。
「でもきみは意地っ張りだから、なかなか言う機会を与えてくれないよね。そこはお母さん似だ。こうして甘えてもらえて、わたしは幸せ者だよ。きみが自分に言えないのなら、わたしが言うよ。何度だって肯定する。――きみが生まれたと聞いた日。わたしは泣いたよ。ニュクスが生まれた日に、こんな輝かしい日は二度とないと思ったけれど、同じくらい輝いていた。きみを初めて見た時、目の前にいるのは、人の子じゃないと思ったよ。眩しくて、触れたら溶けてしまいそうなほど神聖で、柔らかな頬も笑みも愛おしくて……、これはきっと、神々の宝が間違えて地上に落ちてきてしまったに違いないと、早く隠さないと取られてしまうと、本気で考えた」
「……し、師匠の、娘じゃ……ないのに」
「そう」
震える涙声に、優しく頷く。
「わたしが人生をかけて恋した女性、そして、無二の親友との間に生まれた宝。……そりゃあ、きみも知ってのとおり、花園の果てで待ち受けていた結末は、裏切りと滅亡だったけれど……たとえその未来を知っていたとしても、今のわたしが、あの時間に戻ったとしても。同じように、――いや、以前にもまして、きみの輝きに目を眩ませて、泣いて喜ぶだろう。だって成長したきみを、知っているから」
真っすぐなプラチナブロンドを、何度も繰り返し撫でる。
「わたしを見上げるピンクの目も、花のように笑う顔も、ちょっとおかしいくらい広すぎる懐も、人のために怒ってばっかりなお人好しなところも、眩しい何もかもを、知っているから」
子守歌でも歌うように、ささやくように。
誇り高い心にも、優しい雨が沁み込むようにと。
「アリアドネ。世界に一人しかいない、わたしの小さな姫。千年王国の、全てのイリオスの娘。あの日滅びたイリオスたちは、みんな、きみを愛していた。どうか、生まれてこなければよかったなんて自分を責めないで。きみがいてくれるから、わたしもニュクスも、夜明けがあると信じることができる。他にもいくつもの手を引いて、長い夜を駆け抜け、朝を連れてきただろう? 思い出してごらん。きみを頼り、きみを愛するたくさんの手を」
胸元で、ズッと洟をすする音がした。
「……知ってる。師匠が、……みんなが、わたしを愛してくれていること」
「ふふ」
嗚咽すら上げない、本当にプライドの高い弟子を、ネメシスは愛しげに目を細めて見下ろした。
「それも実は、みんなが知ってるよ。きみがわたしたちの愛を受け止めていることも、だからこそ、びっくりするほど我慢強いってことも。大丈夫。わたしはオルフェンでもイリオスでもない、ただのゴーレムだから、いくらでも情けないことを言っていい。むしろ大歓迎だ! きみはまだ九歳の女の子なのだからね。そんな悲しい言葉、口にする気もなくなるくらいに、わたしが何度でも繰り返すよ」
「……ううん。もう、大丈夫……!」
アリアは木綿の袖口でぐしぐしと顔を拭うと、ネメシスを見上げて、ちょっとバツが悪そうに「へへ……」と笑みを浮かべた。
「師匠、ありがとう。……やっぱり、師匠はわたしのお父さんだわ。血が繋がってなくても関係ない。きっと、本物のお父さんより、お父さん……!」
目元と鼻の頭を赤くした泣き笑いの笑顔は、ふだんの彼女からすればずいぶん下手くそだったが、ネメシスにはこの上なく愛おしく映った。
「よしっ! たくさん褒めてもらって元気出ました。これで心置きなく、ぶん獲りに行けるわ」
流しの水をバシャッと被って、アリアは乱暴にタオルで顔を拭った。
「何を?」
「玉座!」
クリーニングの品を受け取りに行くような気軽さで、ニコッ! と見上げてきた表情は、早くも通常運転の、ピカピカの笑顔だった。
「空っぽの手じゃダメよね。ふふっ、大丈夫。ちゃーんとこの頭に計画があるの!」
「アリアくんは立ち直りも早いなあ」
「見ててくださいね、師匠。――敵をメッタメタにして、取られたものは全部総取りして、それでもユスティフと友好関係を築いたまま、ゴッリゴリのムッキムキのパワフルな国を、作ってみせるから! まず手始めに、テセウスさまを口説き落とすわ!」
「欲張りだねえ」
「そうなの!」
朝焼け色を映しこんだ瞳は、いつだって真っすぐに笑っている。
「ハッピーエンドってそういうものでしょ!」