第102話 君主論・ザ・ジャイアント
(わざわざ叔父上まで連れて、遠いプランケットまで出向かせたのは……確実に彼女を、イリオンの王家の血を、捕捉するためか)
数少ない情報から答えを探し当てたテセウスは、瞳を伏せたまま細く息を吐き、苦い笑みを浮かべた。
「では、おれときみは、……敵同士になるな」
「……」
アリアはしばしパチパチと瞳を瞬かせると、少し考えてから、――皇太子の頬をむい~とひっぱった。
「!? ひゃっ、ひゃにをするんだ!?」
「もう。すっごく頭がいいのに、肝心なところでしょうもない結論を出すんだから」
「しょっ、しょうもな……!?」
「これからの話をしたいって言ったでしょ。さよならなんてする気はないわ。たとえあなたが嫌がってもね。わたしたちの未来には、あなたが必要なの」
「……!?」
明るい笑みでそう告げられて、今度はテセウスの方が目を白黒させる番だった。
「どっ……! どうしてそうなる!? おれは……! きみたちの、仇の息子だろう!?」
「そう、息子。あくまでもね。イリオンの人って、そういうの気にしないみたい。……ここだけの話なんだけど、ちょっと変わってるの。先輩が言うには、みんなそうなんだって。わたしもそう!」
「まあ傾向として、単純な脳筋バカが多いので。……いや、語弊があるな。脳筋バカしかいない国なので」
「わたしは気に入りません。姫君に顔が近すぎると思います。頬をかわいくひっぱってもらったりしやがって、クソが! 羨ましい……! おい、少しは離れたらどうだ? アンブローズの息子」
アリアの後ろからニュクスとティルダがそれぞれ口を挟み、騎士からは鞘に入ったままの剣をヒュッと向けられて、テセウスは慌てて後ずさった。
ほっぺたを掴んでいるのはアリアの方なので、理不尽にもほどがある。
「き……きみたちは、帝室を……おれを、憎んでいるだろう?」
声が裏返ったのは、アリアからも二人のイリオン人からも憎しみを感じ取れないことが、信じがたかったからだった。
まあ騎士の方からはビリビリとした敵意を感じるが、理由は一瞬で把握した。
だが、テセウスは覚えていた。
七日間、休むことなく火砲を放ち続けた魔法使いの、死にそうに切羽つまった横顔を。
惨劇の宴で膝をついていた灰髪の少女の頬に、幾筋もついていた涙の痕を。
「あの夜の惨劇を、おれも見た……! 二十年、おれたちはあれを、繰り返してきたんだ! 何の罪もない、幼い子どもたちに! きみたちが、憎まないはずがない! 皇都を、ユスティフを、焼き滅ぼしたくて仕方がないはずだ……!」
「当たり前でしょう」
淡々とした声音で答えたのは、ニュクスだった。
「都など、灰になればいい。ユスティフ人など、一人残らず死に絶えればいい。この大陸が向こう千年、草も生えぬ不毛の土地と成り果てるのを目にすれば、多少、溜飲も下がる。――だが、それだけだ。この子が手を伸ばす未来に比べたら、そんなもの、手で払う小バエ程度の価値しかありません」
頭一つ分高い目線は、少し俯いて白金の後頭部を見下ろした途端、ふわりと和らいだ。
「我が炎は必ず、獣どもを骨まで灰にし、奈落の底に突き落とす」
剣呑極まりない殺意を語っているというのに、驚くほど穏やかな夕刻色の瞳。
「だがその他のことには、関与しません。……こんなに一生懸命、強く引っ張る手があるというのに。ぼくがよそ見をしていては、怒られてしまう」
なぜか自慢げな笑みまでかすかに口元に浮かべた魔法使いは、誇らしそうにそう言ってのけて、テセウスはぽかんと見上げた。
「わたしも同じだ」
左に立つティルダの目も、等しく凪いでいた。
「わたしを長く苦しめた醜悪な豚は、あの夜、姫君が命と引き換えにして裁きを下し、その汚らわしい魂に相応の獣に変えてくださった。そして若が、子どもたちの責め苦をそっくり返してから焼き滅ぼした。……ああ、あの無様な悲鳴! ふふっ! 思い出すと今でも笑みがこぼれる……」
髪をサラリと揺らした少女は、頬に手を当てながら恍惚と微笑んだ。
「屈強な武人でも、まして、千年の神々でもなかった」
眩しそうに細めた柘榴色の瞳に映るのは、プラチナブロンドの後ろ姿。
「わたしの絶望も屈辱も全て握りしめてくれたのはこの、小さな手。虫すら殺せぬ華奢な拳こそが、敵を打ち砕いてみせた。……だから、ここから先のことは全て、姫君の御心のまま。我が主人の敵ならば、皇太子だろうが皇帝だろうが、その喉元引き裂いて必ず息の根を止めてやる。だが白魚の御手が伸ばされるというのなら、従う。ただそれだけのこと」
切れ長のガーネットはそこまで言ってようやく皇太子を見下ろし、「わたしは、並ぶ者なき王の騎士だからな」と、こちらも自慢げにニヤリと笑った。
「……」
まじまじと見つめるばかりのテセウスに、アリアは「ね、変わってるでしょ……」と、少しばかりくたびれたような笑みを浮かべた。
「……きみたちの未来におれが必要とは、どういう意味だ?」
「二十年前、イリオン陥落戦の時、皇帝レクスがついた嘘のことよ。つまり、ユスティフとイリオンの恒久平和。わたしたちを滅ぼすための大ウソつきの大義名分を、今度は、ほんとのことにしようと思うの」
抱えた膝に頬杖をつきながら、アリアは少し首を傾けて、夕食の献立でも告げるように気負わずそう言ってのけた。
「わたしはね、欲深いの。取られたものは全部取り返すし、邪魔する人は跳ね飛ばすし、あなたの父親を筆頭とした獣たちは、全員奈落に落とすけれど……その上で、あなたの手を離す気がないのよ。これは……心苦しいけれど、テセウスがわたしのお友だちだからじゃない。打算」
言葉通り、花の瞳は苦しそうな色をにじませた。
少年が知る限り、初めてのことだった。
「あなたはわたしの仇じゃないけれど、わたしは、あなたの父の仇になる。必ず。それでも、あなたを決して離さない。だから、……憎まれるのは、わたしのほうだわ。でも、ユスティフもイリオンも、どちらの大事な人たちも一人残らず、一生、しあわせに暮らしてもらうには、わたしたちが手を離してはいけないの。……わたしたちは、王だから」
「……」
皇帝を殺すと告げられたことは、いささかも心を波打たせなかった。
元より、父子としての情など皆無である。
それより耳を打ったのは、つねに柔らかく朗らかな声が泣くのを我慢しているように固く張りつめた響きと、ある言葉。
「……おれが、王」
「違った?」
小さな右手が伸ばされて、テセウスの手を取る。
少女の華奢な左手首に、おのれの人差し指を添わされて思わず息を呑んだが、――やがてトクトクと脈打つ鼓動が、指の腹から伝わってきた。
「わたしも、あなたと同じ。……自分の血を恥じてるの。取り返しのつかない判断ミスを積み重ね、長い長い地獄を招き寄せた、無様で役立たずなこの血には、怒りと屈辱しか湧かない」
黙って耳を傾けていたニュクスが、何か言いたげに口を開いたが、逡巡のすえ、眉間に深くしわを寄せながらも再び閉ざした。
「でも王は、頭から爪先に至るまで、誇りに満ちていなくちゃいけない。この身体を満たす血が、汚辱に塗れたものであってはならないの。自分のことを……バカで無力な愚か者だと思いながら、許されない罪人だと思いながらも、それでも玉座に就こうなんて、ふざけてるのよ。――だから、わたしたちはわたしたちの代で、この血を塗り替えなくちゃ。たとえ、魂をかけてでも」
そっと指を掴んでいた手が外されたかと思うと、――音がするほど強く、手を握りしめられた。
瞳はやはり、初めて見る色をしていた。
焦燥と悲しみと、テセウスを想う痛みで潤み、それでもまっすぐに夜空を映しこむ二つの大きな朝焼け。
「あなたには、酷いことを強いるわ。でもどうか、一緒に来てほしい。あなたが欠けたらたどり着けない未来に、行きたいから」
テセウスは、しばし黙して目を細めた。
(甘く優しいだけの少女じゃない。きみは孤独も痛みも恐れぬ、君主。……そしてやはり、甘く優しい、心の持ち主だ)
だからこんなにも、慕わしい。
「……どうしたら、きみのような娘が育つのだろうな」
「えっ」
「何でもない。ちょうどおれの用事も、きみの行く先にあるみたいだと、思ったんだ」
「!」
地面についていた膝を上げて座り直すと、少年は曲げていた背を少し伸ばした。
「この国の中枢に人の皮を被った獣がいるというのなら。それがあろうことか、王冠を被っているというのなら。おれ自身が、綺麗さっぱり片付けることを望む。きみが手を下すまでもない。おれが作るユスティフは、賢く合理的で、新しき人間たちの国としたいからな。――『無駄・即・斬』。我が国家に、子どもを虐げた犯罪者などに与えるべき無駄な役職も給与もない」
「ムダ・ソク・ザン」
突然あらわれた標語を、アリアは神妙な顔で繰り返した。
「ああ。――常々、思っていたんだ。高官どもの給与が高すぎると。しょっちゅう貴族連中をサロンに招いているのも無駄極まりない。やつら、あの茶菓子がいくらするのか知っているのか? 何かにつけて祝いの宴も多すぎる。毎月開催しているバカげた狩りも、周辺国と全く折衝しないせいで湯水のごとく出ていく軍事費も、魔術師どもの絶対に虚偽申告している高額な研究費もそうだ。皇宮のどこを歩いていても、何をしていても、無駄が目につく。許しがたい」
「……」
急に、何の話が始まったのか?
眉根を寄せてパチパチと瞬きをするアリアに、テセウスはふっと微笑んだ。
手を伸ばし、プラチナブロンドをそっと撫でる。
思っていたとおり、柔らかな猫っ毛の手触り。
一瞬だけ確かめるように触れて、すぐに手を離した。
――破裂しそうな心臓の音が、聞こえてしまうのではないかと思われたから。
「だから、詫びは不要だ。どう転んでも、答えは決まっているのだから」
アリアが答えてみせたのと同じ答えを出したテセウスに、アリアもまた、笑みを返した。
「……ありがとう、テセウス」
「こちらこそ。きみの旅路に誘っていただけたことを、光栄に思う。……君主とは、孤高だと思っていた。だが、こんな道行の形も、ありえたのだな」
少し伸びた影が、地面に座り込んだままの二人の少年少女の形を作る。
「あなたはユスティフの皇位を、わたしはイリオンの王位を手に入れる」
「約束する。必ず掴み取る、何があっても。――きみの手を、離さぬまま」
こちらを向いた彼女は、いつもの曇りなきピカピカの笑みではなくて、――どこか困ったような、まるで「お人好しね」と言いたげな笑みを浮かべていた。
それはテセウスがこれまでに目にしたどんな人間の表情よりも、鮮やかに胸に焼き付いた。
お読みいただきありがとうございます!
改稿により文字数が増えたので分割しております(2023/5/23)