第101話 花じゃなかった、鉄だった
木漏れ日が風に揺られ、秋の長く伸びた日差しをキラキラとこぼす。
(……ここ、でいいのか? 何もないが……)
人の気配一つない深い森に不安を覚えたが、ほどなくして、こちらへ駆けてくる軽やかな足音がテセウスの耳に届いた。
「テセウスさま~」
「!」
小さな手がぶんぶんと振られている。
乾いた秋風になびくのは、柔らかなプラチナブロンド。
秋が深まり、彩度の落ちた世界にひときわ鮮やかな、パパラチアサファイアの瞳。
身に纏うのは、湖畔の宴の時とはうって変わった質素な庶民のワンピースだが、その輝きに何ら見劣りはなく、右には顔色の悪い魔法使い、左には剣を佩いた見知らぬ子どもを引き連れて、アリアは以前と寸分違わぬ朗らかな笑みを浮かべてみせた。
地獄を七晩、その身の傷で数えたはずなのに。
「わたしのことをずっと探してくれてたって、先輩から聞きました。皇太子業ですっごく忙しいのに、ありがとうございます!」
「……あ……」
会えたらまず、言おうと思っていたことがあった。
が、何を言おうとしていたのか、忘れてしまった。
気持ちが逸って抱きしめてしまうかもしれないと思っていたが、――夢にまで見たその顔を目前にしたら、とてもできなかった。
自分は自分で思っていたほど、男らしい性格ではないのだと初めて知った。
「……ウッ……」
「!?」
テセウスは、その場にガクリと膝をついた。
「大丈夫ですか!? お、お腹が痛い!? なにか落ちてるもの食べました?」
「ああ……、いや、問題ない。……きみが元気そうにしているのを見たら、気が抜けた」
「あ、あらまあ。照れます」
はにかんだような声と共に、手が差し伸べられた。
バキバキに折られていた指が元通りになっているのを目にして、小さく安堵の息を吐きつつも、──「やめてくれ」と、テセウスは手の甲でそっと制した。
ロイヤルブルーの瞳が、足元の落ち葉を映し込む。
「おれは……きみに、会わせる顔などないんだ。けれど、どうしても一目見たくて、来てしまった。そんな資格などないと知っているのに……」
「……」
声もなく、一歩、こちらへ近づく足音がした。
木綿の服がくしゃりとたわむ音がして、彼女が自分に合わせてしゃがんでくれたことを悟る。
「今日は、……さよならを、告げに来たんだ。到底足りないが、詫びを伝えたくて。この頭を地面に擦り付けたところで、何の価値もないのだが」
「テセウスさま」
「き、きみに、癒えぬ傷を負わせた者ども……! 幼い子らを何のためらいもなく食い荒らした、人の心を持たぬ、残酷な獣を率いているのは! ……率いて、いるのは……ッ!」
こめかみがドクドクと脈打ち、握ったこぶしに爪が食い込む。
「おれの……父だ……!」
ぎゅっと閉じたまぶたに、「テセウスさま、あのね……」と、相も変わらず優しい声が沁みた。
「さまなど、つけなくていい! おれはそんな、そんな……ッ!」
「じゃあ、テセウス!」
「!?」
――好きな子から突然親しげに呼び捨てにされて、思わず顔を見ない男子がいるだろうか。
テセウスは瑠璃の瞳をまじまじと開いて、アリアを見た。
アリアは少し首をかしげて、「やっと顔を上げたわね」とニッコリした。
からかうような笑みの目は、怒りも憎しみもなく、自分の間抜け面をただキラキラと映しこんでいた。
(……わ、笑っている……)
「テセウス。わたしを見て」
「……見、てる」
「何か、減ってるように見える? あなたのピアノで真夏の夜の夢を歌ったときのわたしから。何か大事なものを、永遠に取られちゃったように見えるかしら?」
「……見えない。見えないが、だが……! たとえ身体を癒してもらったとしても、きみの心が、負った傷は……ッ」
「一つもなかったわ。獣がわたしから奪えたものも、与えることができたものも、何一つ」
花の瞳に、一瞬、黄金の火焔が揺らめいた。
「獣たち、あの手この手で七晩もかけて、わたしを絶望させてお人形にしようと試行錯誤してたけれど、結局、うめき声一つもらえなかったの。当たり前よね! 涙も怒りも誇りも全部、わたしのものだもの! 無駄な努力ご苦労さまだわ!」
「……!」
曇りのない笑顔は、湖畔で見た時と変わらないどころか、さらに力強く輝いていた。
テセウスは、ただぽかんと口を開けた。
(……あんな目に遭って、どうして笑えるんだ? おれの一族が、諸悪の根源だと確かに伝えたのに……。なぜ、そんな優しく……)
「だから、あなたがしょんぼりする必要はないのよ」
「!」
優しく頬を包まれて、その手の小ささと温かさに、一瞬心臓が跳ねる。
「わたしはあなたと、これからの話をしたいの」
だが、こちらを見据える眼差しは、ちっとも甘くなかった。
「たとえわたしが何も失ってなくても、命を落とした子がいたわ。その子だけじゃない。取り返しのつかないものがいくつもいくつも奪われて、今も、不当に占有されている。あなたに謝ってもらう必要は、最初から最後までないの。あなたは獣どもの仲間じゃないし、もしそうだとして……獣が泣いて詫びて命乞いをしたって、関係ないから。わたしたちは取られたものを全て取り返して、一人残らず奈落に落とすもの」
だから詫びには意味がないのよと、おのれを映すその瞳の強さに、テセウスは呼吸を忘れた。
無邪気な、小さな花のように柔らかな少女だとばかり思っていた。
いつから、そう錯覚したのか。
「……ふっ」
ふと、自分がとんだ思い違いをしていたことに気づき、――少年はかすかに噴き出した。
(バカだな、おれは。彼女を探してるうちに、おれを童話の王子に、彼女を姫になぞらえていたみたいだ。……すっかり、忘れていた。甘く優しい、かわいらしい女の子だからじゃない。それだけの令嬢なら、皇都に掃いて捨てるほどいる。彼女が養母を救い出した時の、あの火傷するような強さにこそ、焦がれたというのに)
動かぬ男たちに一瞬で見切りをつけ、ためらわず下着姿になって飛び込んだ水飛沫に。
濡れ衣を着せられても一言も弁解せず、ただ軽蔑と怒りを傲然と伝えたあの眼差しに。
(きみは一度だって、浴びるとわかっている礫を理由に、退いたことはなかった。――礫を恐れず、誹りも悪罵も恐れず、たった一人で進む者を……孤独な、その者のことを……おれは君主と、呼んだのだ)
自分の頬を捉え、こちらを逃さず見据える朝焼け色の瞳を見つめ返す。
やっときちんと見えた顔は、たしかに庇護すべきかよわい少女ではなく、――小さな王だった。
たとえ癒えぬ傷を受けようと関係ない。
命ある限り荷を負って進むことを決めた者に無用な同情だと、その表情が雄弁に語っている。
テセウスの脳裏には、赤い目の民を率いて皇都を炎の海に沈める彼女の姿が、黄金の双眸の熱さとともにありありと想像できた。
「……そうか。だから陛下は、おれにきみを確かめるようにと、命じられたのか……」
思索の海で、水底で光る小石に手を伸ばす。
二十年前に滅ぼされた海上の王国。
奇跡の千年の王権を持つ一族がいたことを、決してこの国の歴史書は語らぬが、黒塗りにするだけでは消すことのできない随所に、その存在は垣間見えている。
アリアの右に控えるニュクスの膨大な魔力とその人知を超えた技は、先の七日間、この目で見てきた。
おのれの父、皇帝レクスにも比肩しうる、強大な魔法使い。
彼が守るアリアこそが、――きっと、千年王国の最後の姫だ。
お読みいただきありがとうございます!
改稿の結果、1万字を超えてしまったので2分割させていただきました…
愚かなサルめが申し訳ございません。