実は優秀な婚約者
クラトの眼鏡にかなった契約書にディラム伯とレティシアから署名を貰いに来た俺はだったが、伯に「一旦預かって内容を吟味させてほしい」と言われて快く了承した。クラトと違って伯は当事者なのだから、即決を避けたいのは当然のことだ。ついでに伯から、せっかくだからレティシアと親睦を深めていっては、と勧められたので、今は婚約者殿と庭で紅茶を嗜んでいた。
「わたくし、考えたのですけれど」
ぽつぽつと交わしていた当たり障りのない会話が途切れたタイミングでレティシアがそう切り出してきたので、続きをどうぞ、と促すように手の平を差し向ける。
「わたくしは、世間知らずです」
急にどうした?とは思うが、俺は心中でうん、と心から同意する。
「自領のことにも関心が薄かったわ。わたくしが領主を継ぐことはありませんが、教育を受けていなかったことは言い訳になりません。心の持ちようが未熟でした」
うんうん。
「だからわたくし、ライゼル様の領地について勉強しました」
……うん?
「失礼ながら、辺境伯領はあまり作物の育ちが良い場所ではないと記憶しております。それに、外敵との小競り合いが多い土地でしょう?わたくし、どうしてライゼル様がうちの領を支援するだけの余裕があったのか、疑問に思いましたの」
……おや。
「カークランド領には銀鉱があるのですね。それに、遊牧が盛んな土地柄、毛織物で有名だとか。ここ最近、王都で銀細工の小物や変わった模様の羽織りものを見かける機会が増えました。産地を伺いましたら、カークランドだと」
へぇえ。
「それから」
「凄いな、よくそれだけ――」
レティシアに被せてしまい「悪い、続けてくれ」と謝った。まだ続いているとは思わなかった。ここ数日間でこれだけ情報を集めて整理できるだけでもその優秀さがわかるのに、まだ手持ちのカードがあるらしい。
レティシア嬢は俺の期待に満ちた眼差しにちょっとたじろいだが、小さく咳払いをして気を取り直した。
「そ、それから、国境付近の地理を活かして、交易を考えていらっしゃるとか」
「……」
「……」
「終わり?」
「お、終わりです。悪かっ――」
「いや、本当に凄い、よく短期間でこれだけ――おっと」
「……」
「……」
再び互いに口をつぐんで互いの顔を見合わせる。
「……すまない、また被せて。わざとじゃないんだ」
「……い、いいえ」
褒めたくてうずうずしていたのが丸分かりだっただろう。俺が少し気まずい思いで謝ると、レティシアは鳩が豆鉄砲をくらった顔になり、それからじわじわと顔を赤くした。
「どうした?急に照れ始めて」
「そっ――あ、貴方がいきなり褒めるから!」
「褒めちゃ駄目だったか?」
「だっ、めじゃない……です」
きっ、と俺を睨んだ目線が、だんだんうろうろし始め、ついにはふいっと困ったように逸らされる。俺は出会って初めて、彼女を可愛いと思った。
「作物が育ちにくいとか、他の特産物のことは、前から知ってたのか?」
「特産物のことは本当に最近知りました。交易のことも。銀鉱については知っていましたが、細工物を売り始めたのは最近ですね?それ以外のことは、前から知っていました」
「どこで習ったんだ?」
「それは、その……クラト様――いえ、アルラント子爵様が、ディラムにいらした時、授業を一緒に受けておりまして……」
「なるほど」
クラトが受けていたということは、王族が受けるのと同じ高等教育だ。それを約二年。しかも、その恵まれた環境に胡座をかくことなく、自分の糧にしている。
きっと、クラトと離れてからも学習意欲は損なわなかったのだろう。女性に教育は必要ないとまで言われる世間の風潮を思えば、レティシアは得難い女性だ。
あのヒロイン発言は何だったんだ?と思うほどである。
「アルラント子爵は見る目があるな。
貴方も、どうして自分の一番の価値が『容姿』だなんて言ったんだ?どう考えても、もっと良いものを持っているじゃないか」
レティシアは大きく目を見開き、みるみるうちに宝石のような瞳を潤ませた。
「だ、だって……」
ぽろ、と耐えきれずに大粒の涙が溢れる。
なんと。泣かせてしまった。
「れ、レティシア嬢?」
「ご、ごめんなさい。見苦しいものを、お見せして」
レティシアは、自分では止めたいだろうに、しゃくり上げるばかりでなかなか泣き止めない。泣くって、制御が難しい感情だ。
俺は泣き止むまでそっとしておきたかったが、何もしないで泣いている女性を放っておくのはどうにも居心地が悪い。迷った末、椅子から腰を上げた。そしてテーブル越しに手を伸ばし、そうっとレティシアの頭に手を乗せる。
レティシアが弾かれたように顔を上げ、俺も思わず手を離す。その拍子に、レティシアの瞳からまた涙が溢れ落ちた。
俺は躊躇いつつもう一度手を伸ばし、ぽん、ぽん、とあやすように触れて、頭の天辺から前髪までをぎこちなく撫でる。
……あの、レティシア嬢?俺を凝視するの、やめてもらえませんかね。
ということを口に出せる空気ではなかったので、慣れないながらも彼女の頭を撫で続ける。その甲斐あってか、ようやく涙が止まったので、俺はかなりほっとした。
「落ち着いたか、良かった」
安堵した気持ちのまま笑いかけると、レティシアは両手で顔を覆って俯いてしまった。
な、泣き止んだはずでは……?
俺は再び狼狽えたが、彼女の耳が真っ赤になっていることに気付いて、得心がいった。おそらく、ちょっと落ち着いたところで、泣き顔を見られたことを自覚して羞恥心を覚えたのだろう。
気持ちはよくわかるので、俺は今度こそ、そっとしておくことにした。