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あと、もう少しだけ

作者: 東方博

 瀬川明が転校する。

 その事実を私が知ったのは、本人の口からではなく、友人の噂話からだった。

「卒業したら東京に行くんだって」

 それは転校とは言わないぞ、友よ。ツッコミの言葉はサイダーと一緒に喉の奥へ流し込んだ。しかしまあ、恵理子がそう言うのも無理はない。中学校を卒業した生徒のほぼ全員が東と西とに二分され、二つしかない高校のどちらかへ入学するような地域だ。東京の学校で勉強なんて、留学に等しい。行くとしてもせいぜい大学からだ。高校からというのは滅多にない。

 つまりあの男は、この地域で生を受けた以上たどるべき道からそれて、一人都会に行くのだ。正確には二人か。あいつ、母子家庭だから。

「千鶴は聞いてなかったの?」

「なんで私がいちいちクラスメイトの進路まで把握しなきゃならないのよ」

 瀬川明が東京へ行こうが月へ行こうが関係ない。私は、奴の兄弟でも恋人でもないのだ。

「だって」

 恵理子は唇を尖らせた。

「あんたお隣さんじゃん」

私は中身を飲み干した空き缶を、公園の隅にあったごみ箱に放り込んだ。ガシャン、とお世辞にも心地よいとは言えない音。

「だから?」

 お隣さんで昔は風呂にも一緒に入った仲です。ぶっちゃけ家族同然でした。

 それが、どうかしましたか?



『転校』の理由なんて聞かなくてもわかる。親の仕事の都合だ。明は昔から母親の都合に合わせて生活していた。毎日私の家にずかずかと上がり込んで一緒に晩御飯を食べるのも、そのあと私と遊ぶのも、全部明の母親が夜遅くまで仕事をしていたせいだ。

――あと、どれくらいかな……。

 夜の八時を過ぎるとあいつはいつもそう言った。たとえテレビのお笑い芸人が体を張って観客の笑いを取ろうとしている時でも、自分が明日の宿題にうんうんうなっている時でも、ゲームのコントローラー片手に私と白熱した対戦を繰り広げている真っ最中でもお構いなしに。あいつは少しばかり寂しげな顔で、私にたずねてきた。

「もう少しだよ」

 このマザコンめ。内心毒づきながらも、私はその度に律義に答えてやった。

テレビ画面ではパズルゲームの対戦でカッコよく三連鎖を決めている奴が、現実ではママの帰りを今か今かと待ちわびているのだ。ともすればコントローラーをにぎる私の手に力がこもる。

 負けてたまるか。私はひそかに闘志を燃やした。だってあんまりじゃないか。こっちは全力で遊んでいるのに、あいつは母親が帰ってくるまでの時間つぶしだなんて。同じテレビの画面を見ているのに、全然違うことに気を取られているなんて。

 私が華麗なる反撃に移ろうとした時だった。

 ピンポーン、という間の抜けた音がそれをさえぎる。聞きなれた我が家のインターホン。

「明、帰るわよー」

 愛しのママのご登場。あいつは「うん」と素直に、あっさりとうなずいてコントローラーのポーズボタンを押しやがった。画面が硬直。ついでに私も固まった。あいつはコントローラーを置いて部屋を出て行った。私を残して。

「いつもすみません」

「いいのよ。千鶴の遊び相手になってくれて、助かるわ」

 お決まりのやりとりが玄関から聞こえる。私は動かなかった。テレビ画面に現れた

「PAUSE――スタートボタンを押して下さい」

 という文字をただ、じっと見つめていた。

「千鶴ー、明君が帰るわよ」

 帰れ帰れ。明日もどうせ来るのだ。見送りなんてしてやるもんか。私は半ば意地になって

「スタートボタンを押して下さい」

 の文字と、床に放置されたコントローラーに目をやった。中途半端に投げ出された勝負。今再開させてしまえば勝つのは私だな、とくだらないことが頭に浮かぶ。

「またな、ちーちゃん」

 明は帰る時、いつもそう言った。どんな顔して言ったのかは、わからずじまいだ。

 私は結局、一度もあいつを見送ったことはなかった。部屋に放置されたまま、画面と同じく「PAUSE」していた。

 明が帰ってしばらくしてから、ゲーム機の電源を切った。再開されることなく硬直していた画面がぷつりと消えて真っ暗になる。余韻に浸ることもなく手早く部屋をかたづけて、明日には何食わない顔でやってくる明を迎え入れる――それがいつものパターンだった。

 でも、時間の経過と共に、少しずつ変化は訪れた。

 まず私の呼称が「ちーちゃん」が「千鶴」に変わった頃、あいつは一人で留守番するようになった。さらに「千鶴」ではなく「森本」と苗字で呼ぶようになった頃には、夕食を一緒に食べることさえなくなっていた。

 それでもって今度は、転校もとい引っ越し、だ。私が少しスタートボタンを押せない間に、あいつはどんどん進んでいく。



「まさか、お前が来るとは思わなかった」

 各駅停車しか止まってくれない駅で電車を待つ時間は長い。明はその微妙に空いた時間を埋めるようにつぶやいた。

 中学生になってからは話どころか挨拶さえしてないのだから、あいつの言うことはもっともだ。私だってのこのこ顔を出すつもりなんてなかった。駅のホームまで見送りって、家族じゃないんだから、母さん。

 嫌がる私を無理やり引きずってきたその母さんは今、明のお母さんと談笑している。残されたのは特に話すべきこともない元クラスメイトにして元おさななじみの二人。電車よ、早く来ておくれ。そんでもってこの男を東京でもアメリカにでも送り届けてしまえ。

 平日の昼頃なのでホームに人気はほとんどなかった。沈黙に耐えかねて先に口を開いたのは明の方だった。

「お前、大学もこっちのに行くのか?」

「そのつもりだよ」

 会話終了。願いむなしく電車が来る気配は全くない。ホームに一つしかないベンチに座る女性は鞄から文庫本を取り出して時間をつぶしている。的確な判断だ。

 やることのない私は居心地の悪さに八つ当たりした。なんで他に見送りする奴はいないんだ。あんなに馬鹿騒ぎしていた友達がいたじゃないか。そいつらがいれば、私は絶対に見送りなんぞに行かなかった。行くもんか。別のことに気を取られている明のために時間を割いてやれるほど、私は優しくはない。今も昔も。

 でも私の口は別の言葉を発していた。

「あんたは東京の大学に行くんでしょ?」

「おふくろの仕事によるけどな」

 明の視線の先には彼の母。背が高くなって声が低くなっても、あいつが見ているものは変わらなかった。もしかしたら私も、あの部屋で「PAUSE」したままなのかもしれない。

「でも、もうここには来ないだろうな……」

 そうだろうね。私は心の中でうなずいた。ここはあいつのお母さんの実家でもない。仕事の都合で数年住んだだけ。東京からわざわざ訪れるほどの場所でもなかった。

 ちょうどその時、駅構内に機械的なアナウンスが流れた。次の列車の発車時刻を、数少ない利用客に知らせるために。私は腕時計を確認した。あと五分もない。しかしもう特にすることもなかった。今すぐ電車が来たってかまわないくらいだ。

「元気でやりな。じゃあね」

 私のおざなりな挨拶にしかし、明は軽く目を見開いた。

「何?」

「いや……」

 何を思ったか、あいつの口がゆるい弧を描く。

「お前が見送ってくれるのは初めてだなって」

 何のことだが思い出すのに、十を数えるほど時を要した。

ずいぶん経っているのに、そんなことを覚えていたのか。気にもかけていないと思っていたのに。

「だって、あんた、毎日うちに来てたじゃん」

 そして片づけもせずに毎日母親が来るなり帰って行ったのだ。一人残された私は、たしかに寂しかったのだ。でもそれを認めたくはなかった。だって馬鹿馬鹿しいじゃないか。明日にはまた明は来るのだから。同じ日々が続くと信じて疑っていなかった。

 物わかりよく部屋に閉じこもっていた私は、ただ「PAUSE」したままの子供だった。一人でスタートさせることのできない、ただの意地っ張りだった。

「相変わらずだな、お前」

 明は苦笑した。

「ずけずけ物言いやがって。覚えてるか? 俺、いつもお前にきいてただろ?」

 あんたはいつも、帰りたがっていたじゃないか。私が一番続いてほしかった時間が早く終わることをあんたは願っていた。意味もなく「PAUSE」させておきながら、一度だって私の方を振り返ることはなかった。

 ベンチの女性は文庫本を閉じて立ち上がった。消えかかった黄色い線まで近づき、線路の遥か先を眺める。上りの電車がもうすぐ現れると言わんばかりに。

 明は壁に貼り付けてある時計を見上げた。

「あと、どれくらいだろうな」

 心配するな。あと、もう少しだ。

 以前なら平気な顔で口にしていた返答は、明の横顔を前にして止まった。

 あの頃と同じ、寂しげな顔であいつは言ったのだ。違うのは今思えば申し訳程度にはあった可愛げがほとんどないことと、つぶやく声が記憶のそれと比べてずいぶん低いこと、そして、

 ――ここにいられるのは。

 あいつが、そう付け足したことだ。

「森本?」

 やばい。この男。マザコンのくせにマザコンのくせにマザコンのくせに、最後の最後で逆転ホームランを打ちあげたよ。どうしてくれるんだ。電源を切ろうとした寸前にスタートボタンを押しやがって。勝手に再開されちゃったじゃないか。

 なんでもない、と私は顔をのぞきこむ明に答えた。

「あと、もう少しだよ」

 その少しの時間を、あんたも惜しんでくれた? 私が感じた十分の一でも、寂しいと思ってくれた? 今さら訊ねるわけにもいかなかった。私はとても意地っ張りな子供だから。かわりに強く、強く、あの頃よりも強く願った。

 ここに向かっている電車よ、私がスタートボタンを押すまで「PAUSE」してて下さいお願いします。

 あと、もう少しだけ。


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