Opening
夜を思わせる漆黒の髪は、ぎりぎり結べる長さで首にまとわりついていた。直接見ることはできないけれど、瞳は海と同じ深い青。
おもむろに伸ばした手に触れた髪は、現実の自分のものよりも柔らかく、さらりと指先からこぼれ落ちた。
「これが、E-amのVR技術……」
思わずこぼれた声に旧型のTVの画面が付くかのような音が反応を示した。音の発生源に視線を向けると、そこにはシステムの画面が浮かんでいた。
「え、と……名前を入力してください」
呟くように文字を読んでから、画面に付随して現れたキーボードに手を伸ばす。音声入力が手動入力を上回った現在でも、ネットワーク人口の2割以上がキーボードを愛用していた。そのキーボードに軽く手を置いてから首をかしげ、おぼろげな、けれど大切な思い出を手繰り寄せてわずかに“残ってい”た記憶のままに作った青い瞳を閉じて、記憶を探る。
「なんだったかな……」
口元に楽しげな笑みを浮かべて、ゆっくりと思い起こす。閉じた瞼の裏、脳裏に浮かぶのは、見渡す限り広がる菜の花畑。
腕に抱えた菜の花の香りに頬を染め、微笑みながら振り返った記憶の中にいる少女は、柔らかい薔薇色の緩やかに波打つ長い髪と琥珀色の瞳を持っていた。
『アンテリーゼ・クリスタルロゼ』
誰もが見蕩れるような、薔薇のように鮮やかな美人、ではない。瞬間的に目を惹く、清楚で可憐な百合のような美人、でもない。
例えるなら向日葵のように、見ているこちらまでも嬉しくなるような、楽しくなるような、他人にも元気を分け与えるような愛らしい少女、それが彼女だった。
『オズ、オズワルド』
彼女の姿も、名前も、じっくり記憶を探るまでもなく脳裏に鮮やかに蘇る。アンテリーゼの記憶に引きずられるかのように、彼女が呼びかける声と共に、記憶に埋没していた『自分』の名前を“思い出した”。
「オズワルド・エンプティ=トライワレイ」
記憶を掘り起こすように自分の名前を口にしたオズワルドは、うきうきした様子を隠せないまま入力を終えた。
「オズワルドでよろしいですか」
画面に表示されたままの言葉を読み、オズワルドは嬉しさをこらえきれないように表情を崩して頷いた。右手の人差し指は、ENTERのキーに触れている。
「ENTER」
言葉と同時に、軽くENTERキーを押す。一瞬の浮遊感の後、オズワルドの視界は真っ白に染まった。
何もない、という表現が一番近いのだろうか。上下左右、ただ白い広大な『場所』に殊さらゆっくりと足から下ろされたオズワルドは、白い『地面』に設定されただろう場所に足裏をつけて軽く息を吐いた。
緩やかに水に沈むように空中を降りた体は、目に見える足場が存在しないというだけでオズワルドの心にじわじわと染みのような恐怖をもたらしていた。
『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』
一息ついたオズワルドの背に、不意に白い空間全体に響くような荘厳というべき声がかけられた。重々しく響く、男性の声。
男の声にぴくりと肩を震わせたオズワルドは、恐る恐るというよりはどこか不快とでも言うべきような表情でゆっくりと振り返った。
まず目に入ったのは、漆黒の門。男の言葉とは裏腹にくぐり抜けるのは不可能だろうと言うべき門というよりは両開きの扉。
繊細に、とでもいうべきなのだろうか。蔦や葉が細やかに彫りこまれ、刻まれ、扉から浮き上がっていて、上部に人が座っていた。
「……地獄の、門……?」
目を瞬かせながら零れた、呆れと困惑、僅かな不快を滲ませたオズワルドの声に反応したかのように、その“声”は再び空間に響き渡った。
『苦悩の都に向かう者、我を通り過ぎよ。永遠の苦痛に向かう者、我を通り過ぎよ。魂を失った人を訪ねる者、我を通り過ぎよ』
言葉とともに、ゆっくりと両開きの扉が開かれていく。扉の間に見えるのは、こちらとは一転した何も見えない深い闇。
『光を願う愚者たちよ、闇にその身を委ねよ。囚われよ』