叡智ノインシュタイン(3)
「な、何ですか? 」
「待て……! 」
アロイスは、少女を見た瞬間、額に汗雫が流れ出したのだ。それは、長年培われた戦闘の経験から感じ取った、脅威という念。アロイス自身、可憐な少女を前にそんな考えを持つなんて有り得ないとは思う。だが、そう思っていても。
(何だ、この感覚は……)
少女に対して、命に関わる脅威を感じる。防衛本能が嫌でもザワつく。
(少女から感じる気配は何だ。普通の人間のようでありながら、少女を取り巻くオーラはまるで危険種の魔獣のような……)
アロイスは動くことが出来なかったが、白銀の少女が忽然と目の前で倒れ、それを見たナナは抑止を振り切り、急いで少女のもとに近づいた。
「アロイスさん、倒れちゃいましたよ! た、助けてあげないと! 」
ナナは彼女を抱きかかえようとする。だが、その背中に腕を回そうとした瞬間、俯いていた少女の表情が、狡猾なものに変わった。一瞬の変化に気づいたアロイスは、素早く身体を動かし、ナナの前面に腕を伸ばした。
「ナナ、どけぇっ!! 」
「えっ!? 」
瞬く間、少女は大きな口を開き、尖った八重歯を光らせた。鋭い牙は、ナナを庇ったアロイスの腕に突き刺さり、鮮血を噴出させた。
「ぬぐっ! 」
噛みつかれた腕に走る、ビリッ! とした痛み。そして同時に腕へ雪崩れ込む、強烈な毒気と魔力。
(牙を通じて、何か肉体に打ち込んでいるのか!? ちっ……)
感覚的にわかる、強烈な毒気。このままでは不味い。すかさずアロイスは少女の腹部、みぞおちに左手を充てがった。
「女子にこの技を使うのは少々気が引けるが……少し痛いぞ。気絶して貰う! 」
それは、気合砲だった。充てた左手に一点、生命エネルギーである気力を集中させて体外に放出し、相手を吹き飛ばすもの。魔法とは違い、己の肉体のみで戦う武道家の類が利用するオーラ系の技の一種である。
「覇ッ!! 」
アロイスの魂の気力が昇華する。
左手から放たれた気合砲が、ズパンッ! と、炸裂音を響かせた。
「あぎゃっ!? 」
激痛に悲鳴を上げる少女。弾き飛ばされて地面を激しく滑った。当然、突き刺さった牙はズルリと抜けるが、辺りにアロイスの血が飛沫、凄惨な血痕を残す。
「アロイスさん、大丈夫ですか! ごめんなさい、私の軽率な行動で……! 」
ナナは泣きそうな顔で謝罪する。アロイスは「気にするな」と答えた。目の前の少女に対して優しさを見せただけの彼女を怒ることは出来ない。ただ、噛まれた傷跡にはポタポタと血が流れ続けている。
「ぐっ、血が止まらん……」
傷ついた筋繊維に力を込めて止血しようとするが、噛まれた傷から滴る血が止まる気配はない。どうやら血小板を凝固させ、出血を促す毒を唾液に含んでいたようだ。
「流れ出る血の量は大した事ないが、この少女は一体………って、おいおい。本気かよ」
弾き飛ばした少女に目を向けると、彼女は既に立ち上がっていた。赤き瞳を妖々しく輝かせ、風に煽られた白銀の髪が月明かりに映さ煌めく。唇から溢れるアロイスの血を、ゆっくりと舌で舐め取った。
「……」
少女は無言のまま、二人を見つめる。まるで気合砲のダメージは無いらしく、少女の異様な力を前にアロイスはナナを庇いながら一歩退いた。
「何だってんだ。やっぱり普通の女の子ってわけじゃ無さそうだな」
「あの子は一体何なんですか……」
少女は、布切れのような衣装から見える細い脚を動かし、一歩ずつ此方に歩き始めた。アロイスは身構えて戦う姿勢を取るが、少女は2,3歩動いた辺りでピタリ、と足を止めた。
「……っ」
そして、その場で両膝をついて、どさりっ。少女は地面に倒れてしまったのだった。
「ん、倒れた……? 」
どうして倒れたのか。だが少女が倒れたと同時に、あの禍々しい気配が消えていた。今なら近づけそうだ。慎重に少女に近寄って、そっと肩に触れ、声をかけた。
「おい、君……」
返事は無い。少女は息苦しそうにして、苦痛の表情を浮かべていた。
(生きてはいるな。俺の一撃が今さら効いたのか? いや、この子は虚弱的に倒れたように見えた。そもそも俺の攻撃については、受けた瞬間に何の効果もないようにしていたしな。何にせよ、この子をこのままにしておくわけにはいかない)
アロイスは、少女の膝と背中に腕を回し、お姫様抱っこの要領で抱きかかえた。何だか随分と軽い気がした。しかも、それに加えて……。
「ナナ、一旦酒場に帰っていいか。俺の腕も止血をせにゃあかんし」
「勿論です。その女の子は何なんでしょうか」
「まだ分からない。だけど人間の類では無さそうだ。それに、今この子に触れて分かったんだけども……」
それに加えて、この子の身体は妙に冷たかった。感情的な話じゃない。物理的に血の通った人間とは思えないほどに冷えていた。
「見た目は普通の女の子ですけど……」
「ああ。俺もこの子が何者なのか全然想像がつかんよ」
少女の行動は明らかに自分たちに敵対したものだった。更に不思議だったことは、噛まれた際に感じた魔力を流しこもうとしたり、出血の止まらない毒傷など、これらは魔獣の類が使う技に近かったことだ。
(こんな子がどうして……)
気を失って苦しそうにしている白銀の少女は、見た目は本当に可憐で可愛らしい普通の女の子なのだ。恐らく少女は魔族である、ということだけは予想するが……。
(どのみち看病しながら注意を払おう。また襲われたら堪らないからな)
とにかく一旦酒場に戻って考えよう。少女を抱えたまま、ナナと来た道を戻り始める。
しかし、この時はまだ気づいていない。
少女の胸元には、赤き石のネックレスが光踊っていた事を……。




