2.出会い
「今の、気のせいじゃなかったら……」
間違いなく男の人が空から降ってきた。ナナは、さぁっと青ざめた。
「お、落ちてきたよね。男の人……」
間違いなく落ちてきた。実際、未だに腐葉土置き場には酷く土煙が舞っているわけで。
「い、行かないと駄目だよね……」
ナナは、恐る恐る落下場所に足を向けた。
本当は直ぐにでも走って行きたいところだが、男は、どうやら空の彼方から落ちてきたようで、常識的に考えれば助かるわけがない。その場所を見るのが少し怖かった。
「……っ」
だが、それでも。一縷の望みが有るのなら。
勇気を振り絞ったナナは腐葉土置き場に近づいて、舞う土煙を払いながら「誰かいましたら返事して下さい」と、呼びかけた。
「げほっ、げほげほ!凄い土煙……!」
相当の衝撃に、未だ土煙は視界を完全に奪う。前も見えず呼吸もままならない中、ナナは必死に叫んだ。
「誰かいませんか、いましたら返事して下さい!!」
心の奥底では「もう無理なんじゃないか」と不安を抱えるが、それでも。
「だ、誰か。返事を……!」
しかし、何度呼んでも誰の返事も得られない。
やはり駄目なのか。ナナは、いよいよ最悪の事態が起きてしまったのだと考え始める。
(やっぱり、助かるわけ……。町の警衛隊にお話を……)
無理だ。ナナは商店通りにある、警衛隊に話をしにいこう。そう思った。
……ところが、その時である。
「ゲホゲホッ!なんじゃこの土煙は!」
自分ではない誰かの咳と声が、見えない視界の中で聞こえた。
「あっ、今の声!」
間違いなく声が聞こえたと、ナナは顔を上げる。もしかして、奇跡は起こったのだろうか。
ナナは男が生きていてくれたんだ、
「大丈夫ですか!怪我はないですか!」
と、見えない男に向かって大声で呼びかけた。
すると、それと同時に土煙が少しずつ晴れ始めたようで、その男はぬるりと現れた。
「ゴホッ…、すげー土煙だな。あーいてて、擦り傷は出来ちまったが、俺ってば何とか生きていたみたいだな……」
その現れた男とは、もちろん元冒険者の『アロイス・ミュール』であった。
「あっ、生きていて……!」
目の前に現れたアロイスを見たナナは「良かった!」と、安堵の表情を浮かべる。男は奇跡的に助かったんだと……思ったの、だが。
「ち、ち…ちちち、血だらけですよーーーっ!!?」
あろうことか、アロイスはまさに血みどろ、真っ赤っ赤に染まっていた。
それは例の『竜の巣』で浴びた返り血なのだが、それを知るはずのないナナは、彼が落下の衝撃で重症を負っているものと勘違いしたらしい。実際のところアロイスは、さっき自分で言っていた通り、かすり傷程度であって肉体そのものは至って健康の塊だったが。
「ん、誰だ君は……。て、いや心配には及ばないよ。これは、竜の巣っていうダンジョンでな……」
アロイスは目の前に現れた彼女に驚きながらも、冷静にそれを説明しようとする。
しかし目の前の出来事に到底落ち着ける筈のないナナは、アロイスの話を聞かず、彼の手を取って自分の肩に回させた。
「肩を貸しますから、すぐに治療院に行きましょう。近くの商店街の中にありますから、気をしっかり持って下さい!」
ナナはアロイスを重症患者だと思い込み、肩を貸してアロイスを治療院に連れて行こうとした。
するとそれは、誠に申し訳ない話だったが、アロイスの右腕はナナの胸に強く押し付けられて、彼女が畑作業用の厚手のツナギを着用していても、どことなく嬉しい感触に思わず笑顔になってしまった。
(な、何だこの女の子は……。ん、んん……この密着をしばらく楽しんでいたいけども……)
まぁ、女子に密着される嬉しさったら無いな。そうだな、もっと辛い振りでもすれば、彼女にもっと触れることが出来て、男心に高揚するものも得たいと思ったりしてしまうのは、男であれば共感してほしいところだ。
だけど、彼女はそんなアホな男心も知らず、アロイスを本気で心配していた。
「頑張ってください、私がついていますから……っ」
彼女の表情は真剣そのもので、心から優しさに溢れていた。そんな彼女の優しさを前に、欲望に流されるわけにはいかないだろう。
アロイスは「おーい」と、肩に貸されていた腕とは逆の手で、彼女の頭をぽんぽんと叩いた。
「どうしました、どこか痛むんですか。大丈夫ですか!?」
「いやいや違う違う。とりあえず落ち着いて足を止めてくれ。話をしよう」
「治療院が怖いのは分かりますけど、そこまでの重症は命に関わりますよ!」
「うん、実は治療院が怖くてさぁ……って、違う!いいから、まず俺の話を聞いてくれ」
何はさておきアロイスは、ずっと彼女の胸に押し付けっぱなしだった右腕を無理にでも離して、口を開く。
「まず、俺は怪我をしちゃいない、安心してくれ」
自由になった両腕を、これでもかと大きく広げてみせた。
しかし彼女は「嘘ですよ!」と信用しない。
「そんな血だらけで…治療院が怖いなら私も一緒に行ってあげますから!そのままじゃ死んじゃいますよ……」
「だけど本当に俺は怪我をしてないんだ。信じられないのも無理ないけども」
「空から降ってきて、そのうえ血だらけなのに怪我をしてないわけないですよ!」
至極真っ当な答えが返ってくる。しかし、怪我をしていないのは事実なのだ。
「いや俺は本当に……。ううむ、どう説明したら良いものか。えっと俺は……、あっ、そうだ。俺は確かに空から落ちていたけど、この血は俺の血じゃないんだよ。ちょっと見てくれるか」
そう言うと、アロイスはおもむろに血だらけのシャツを脱いだ。
ナナは、その血量から傷だらけの体を想像してビクリとするが、シャツを脱いだ彼の筋骨隆々とした上半身には、大きな古傷跡は幾つかあれど、流血する生傷は皆無であった。
「さすがに落ちた衝撃がデカかったから、それなりにちっちゃい擦り傷はあるが、血を流してる傷はないだろ。あっ、勘違いするなよ。右胸から左脇腹に伸びてる斬り傷は、むかし別の場所で受けた古傷だから安心してくれ。それと、こっちの左肩にある十字の傷跡は4年前に砂漠地帯の盗賊団にやられたもんで、背中の真ん中にある刺し傷は、えーっと……」
アロイスはすぐ心配しそうな彼女の為に、一つ一つの跡を説明した。
すると彼女は、アロイスが本当に元気であることが分かった瞬間、ヘタヘタとその場に崩れ落ちてしまった。
「ど、どうした、大丈夫か!?」
アロイスが尋ねる。彼女はじんわり涙を浮かべて言った。
「ほ、本当に大丈夫なんですね。良かったです……。そしたら、安心して力が抜けちゃって……本当に何もなくて良かったです……」
それを聞いたアロイスは、
「勘違いさせてすまなかったな」
と、直ぐに本当の事を言わなかったことを謝った。
「いえ、私が早とちりしただけですから…。私が悪かったんです。ごめんなさい……」
「そんなことはないさ。君の気持ちは凄く嬉しかったし、その優しさは大切にしてほしいと思う。どれ、立てるかな」
アロイスは手を差し出す。彼女は「有難うございます」と裾で涙を拭くと、差し述べられた手を握って立ち上がった。
「こっちこそ有難う。もしよければ、君の名前を教えてほしいんだが良いかな」
「あっ、申し遅れてすみません。私は『ナナ・ネーブル』と言います。貴方のお名前は…?」
「そうだった、先に名前をいうべきだったな。俺は『アロイス・ミュール』だ。改めて宜しくな、ナナ」
そう言ったアロイスは、にこやかに笑みを見せる。
ナナも笑顔になって「こっちこそ宜しくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
「うん、宜しくな。……ああ、ところで、この辺は何ていう土地なんだ?」
落ち着いたところで、アロイスは自分の落ちてきた場所についてナナに尋ねた。
「イーストフィールズのカントリータウンです。名前の通り、小さな田舎町ですよ」
「なんと、俺が居たのはウェストフィールズだぞ。西から東まで流されていたのか……」
気づけばかなり遠くまで来てしまったものだ。とはいえ、慌ててもどうしようもない。
アロイスは背伸びして「これからどうすっかなぁ」と欠伸がてら言ったが、ふと、忘れ物を思い出した。
「……っと、危ない。忘れるところだった」
アロイスは振り向き、一旦、自分が落下した場所に戻る。そして一緒に落ちてきた大剣を拾い上げると、肩に乗せてトントンと鳴らした。
「ふむ、大剣も無事なようだ。今更壊れて困ることは無いけど、今まで旅してきた仲間だからちょっと寂しいもんなぁ……」
大剣の無事を確認したアロイスはナナの元に戻る。
すると彼女は、その大きい剣を見た瞬間「わぁ」と驚きの声を上げた。
「すごい大きい剣ですね。私の身長くらいありそうです……アロイスさん、力持ちなんですね」
「ん、まぁ他の奴よりはちょっとは力はあるかもしれんな」
可愛い女子に褒められて悪い気はしない。少し調子に乗ってみる。アロイスは大剣を片手でクルリと回して地面に刺したりしてみた。
「わっ、本当に凄い力ですね!えっと、武器を持ってるってことはアロイスさんは冒険者さんなんですか?」
「その通り、俺は冒険者だ……て、そうじゃなかった、元冒険者だな。昨日引退したばっかだ」
「昨日ですか!随分と最近のお話なんですね。でも、そしたら……」
ナナはアロイスに、気になったことをぶつけた。
「アロイスさんは引退したばかりで、空から落ちてきたっていうのはどういう状況だったんですか……?」
そりゃ巻き込まれた当事者なのだから聞きたくなる質問だ。
ナナは「あ、答え難かったら無理には良いんです」と断りを入れるが、アロイスは恥を忍びながら事柄通りに答えた。
「竜の巣っていうダンジョンを攻略した帰りに、使役した竜の背で昼寝したら落っこちたんだよなぁ……」
答えを聞いたナナは、当然「えっ!?」と声を上げる。アロイスの台詞には、到底信じ難い言葉が並んでいた。
「りゅ、竜の背に乗ったとか、それで昼寝しちゃって落ちた……ですか」
「冗談に聞こえるかもしれねぇけど本当なんだよ。雲よりずっと高い位置から落ちちまってなぁ」
アロイスはバツの悪そうに自分が落ちてきた空を見上げて言った。
すると、それを聞いたナナは驚きつつも、現実味ない出来事に思わず笑ってしまった。
「ふふっ、アロイスさんてば強そうなのに、ドジっちゃったってことですよね」
「ドジ…だな。本当だよ、ドジっちゃったんだよ。ハハハッ、俺ってば格好悪いな」
「そんな事。でも、そんな高い位置で竜に乗って、昼寝しちゃって私のところに落ちてくるなんて、あははっ」
あまりの衝撃を受ける話にナナは笑う。
アロイスも「勘弁してくれよ」と彼女につられて笑う。
……と、その時。
「ふたりとも、随分と楽しそうに笑ってるさねぇ」
いつの間にか、畑仕事を終えたナナの祖母が、二人の背後に立っていた。
「あっ、お婆ちゃん!」
「はい婆ちゃんだよ。もう畑仕事は切り上げたさね。したら、ナナが道をそれた場所で男と笑ってるから、声かけちまったさねぇ」
「えっ!?畑仕事切り上げたって、今は何時……」
慌ててナナは腕時計を見る。指針は既に12時を越していた。
「あ、もう12時になっちゃってる!先に帰ってお昼ご飯作るって言ってたのに!」
「別にゆっくりでいいさね」
「そう言ってられないよ、直ぐに作るから、ね!」
二人のやり取りを見ていたアロイスは、「ああ自分のせいだ」と察する。地面に刺していた大剣を手に取ると、二人から一歩退いて言った。
「あー、なんか俺のせいで悪かったな……。俺もそろそろ行くよ、今回は有難うな」
アロイスは彼女にお礼を言いつつ、後ろ歩きのまま、さっさとその場を去ろうとする。
だが、離れようとするアロイスにナナは「あぁ、違うんです!」とアロイスの元に駆け寄った。
「違います、アロイスさんのせいじゃないんです。違うんです、そうじゃなくて、なんか私もアロイスさんを直ぐに助けようとしなかったのが悪いっていうか……」
彼女は自分のせいだと言うが、普通に考えても、天地がひっくり返っても有り得るものか。
アロイスは(また押し問答になるな)と思い、今度こそナナの前から立ち去ろうとしたの……だが。
"ぐぅぅ……!"
あろうことか、このタイミングでアロイスの腹の虫が鳴ってしまった。
考えてみれば昨日の夕刻から何も食べていないわけだし、腹が減ってしまうのは仕方ないことかもしれないが……。
アロイスは直ぐに腹を抑え「今の音は気のせいだ」とか言って真面目な顔をするが、ナナは笑いを堪えながら言った。
「あの、今からお昼ご飯作るので一緒に食べませんか……」
「いやいや、さすがにそれは」
当然アロイスは断る。しかし、後ろにいたナナの祖母がアロイスの背中を"ぽん"と叩いた。
「ん、どうしました」
「なんじゃアロイスさんというお方、ナナのお友達なら一緒にお昼食べなさい。なぁ」
皺に皺を寄せた満面の笑みで、祖母は言った。
「あ、いや……。あー…、はい……」
お年寄りの優しさと、その笑みを前にして、アロイスはついイエスと答えてしまった。
こうして、何だかんだアロイスは、ナナの自宅に赴くことになってしまったのだった……。
……………
……
…