9.優しい味。そして、飲むよ!
「……甘い」
先ほどの強い刺激臭はほとんど無く、果実の甘さと濃厚なミルクのコクがいっぱいに広がる。味の余韻には、仄かなアルコールのクラッとした刺激が鼻の中を心地よく抜けた。
「あっ、美味しい……! 」
「かなり薄めてあるから飲み易いだろ。これこそ親父さんの味なんじゃないだろうか」
「これが、お父さんの味が伝えたかった味……」
ナナは桃色のグラスを手に持ったまま、酒を味わい、静かに目を閉じて言う。
「アロイスさん。お酒って凄いんですね」、と。
「おっ。そんなに美味しかったかな」
「それはもう。だけど美味しいのは勿論なんですが、凄いって思ったのはそこじゃなくて」
グラスに残った桃色の輝きを見ながら、ナナは言った。
「お酒って、何年の時を越えて誰かに伝えたかった味を伝えられるんだって」
その言葉にアロイスは「なるほど」と思った。
言われてみれば、お酒とは時代を越えるタイムカプセルのようなものなのかもしれない。
「素晴らしい事を言ってくれるよ。確かにその通りだ」
「えへへ、そうでしょうか」
「そんなこと考えもしなかった。……それじゃ、親父さんの遺した酒の味、俺も愉しんで良いかな」
「はい、是非飲んで下さい! 」
元気の良い返事を聞いて、いざ自らカクテルを作り、飲もうとする。
ところが、それと同時に姿を消していた祖母が右手に何か入った袋を携えて「ただいまさねぇ」と、戻ってきた。
「あ、お婆ちゃんお帰りなさい。どこに行ってたの?」
ナナが尋ねると、祖母はテーブルに並んだ酒と少し顔の赤いナナを見て「あらま」と両手を上げた。
「何だい、もう酒盛り始めてたのかい。私がいないのに始めるなんて、良い度胸してるさねぇ」
祖母はジトッとした目でアロイスを見つめ、意地悪そうに脇腹を突いて言った。
「っとと、すみません。勝手に始めてしまって」
「ふっふっふ、別に怒ってないさ。それより、ほれ」
祖母は、手に持っていた袋をテーブルに置いて、ガサガサと袋の中から何かを取り出した。
「酒持ってきた辺りから飲むつもりだったんだろうと思ってなぁ。だけど甘い酒ばっか並んでたし、アロイスさんはもっと硬派なの飲みたいと思ってね、商店街までひとっ走りしてきたんさ」
テーブルに並べたそれは、市販されているウィスキーとクラッカーやサラミ、チーズといった多種なツマミだった。
(あっ、お婆ちゃんたら)
一見すれば祖母が一緒に酒を飲むために買ってきたと思うかもしれないが、ナナだけは祖母の行動がどういうことか理解していた。
きっと、ナナの父親もとい息子が遺した酒を前に、つい涙してしまった恥ずかしさを隠したくてわざわざ買ってきたのだということを。
今にでも宅飲みが始められそうな状況だが、アロイスは「待って下さい」と言った。
「お婆さん、その気持ちは有り難いんですけど、そろそろ夕方なので失礼しなければ」
もう、時刻は午後3時を回っていた。
約束の片付けもほとんど済んでいないままだし、アロイスはさくっと酒を飲んだら、商店街に出て宿で一泊して、明日には廃屋の片付けをしに行こうと考えていた。
「夕方ってことは、飲みしながら今日は泊まっていけばいいさね。なぁ、ナナ」
祖母はナナに同意を求めると、ナナは髪の毛をぴょこんと動かすくらい頷いた。
「アロイスさん、よければうちに泊まっていってください」
それを聞いたアロイスは、さすがに「それは…」とたじろぐ。
「それとも、行く宛があるなら引き止めしないがねぇ」
「……行く宛は特にないのですが、何から何まで厄介になっては迷惑を通り越してますよ」
「アロイスさんが良ければって話さね。うちとしては、ナナの父親……私の息子の遺し物を見つけてくれただけで感謝しきれないさ」
「お昼ご飯を食べさせて貰って、お礼の片付けの合間に見つけただけですし……」
見つけようと思って見つけたわけではないし、そもそもお昼ご飯のお礼として行うはずだった片付けも終わっていない。これ以上、恩を作るのもどうかと思った。
「……そうかい。でも折角買って来たし飲んで食べておくれよ」
「うっ、そう言われると弱くなりますよ。本当は俺も優しさを無碍にしたくはないですし……」
「なら決まりさ。飲もうさね!」
「えっ」
祖母はナナに「何か他のツマミでも作ってくれるかい」とお願いし、ナナは「うん」とキッチンに消えた。どうやら完全に流れを持って行かれたようで、最早、断ることは出来ない様子である。
「分かりました、その勢いに負けました」
アロイスは両手を挙げ、参ったとポーズを作って言った。
「素直に厄介になります。お婆さん、すみません。何から何までご面倒をおかけしてしまいまして」
「なに旅は道連れ世は情けというだろう。さっきも言ったが、アロイスさんは忘れられてた酒を見つけてくれた。こっちもお礼は言い尽くせないよ」
「それは本当にたまたまですから……」
恐縮してアロイスは言った。……と、そうだ。時間が出来たのなら丁度良いか。アロイスは、聞きたかった事を一つ思い出した。
「ところでお婆さん、大量のお酒はどうしましょうか。あのままですと、地下室はいずれ朽ちるかもしれませんし、処分方法を考えませんか」
それは、保存されていた酒の行く末についてだった。あれだけの酒、いくら恵まれた酒蔵とはいえ放置するわけにはいかない。
アロイスの問いに、祖母は「うーん」と唸って首を傾げた。
「酒の量は私は見てないから分からんが、相当な量があったのかい」
「ありました。金額にしたら数百万ゴールドは下らないでしょう。しかし……」
祖母の様子を見るに、やはり祖母は酒蔵のことは一切知らなかったようだ。
「その様子だと、やはり地下のお酒は一切ご存知なかったですか」
「知らないよ。息子が勝手に作ってたんだね。地元の工務店にでも頼んだんだろうが……」
「ふむ…。ですが酒の量が量ですし見てみぬ振りも出来ません。何か対応を考えるなら、自分も力添えしたいと思うんですが」
ナナと祖母、二人の優しさは底知れずだと感じていたアロイスにとって、今回の事を知ってしまった身である以上どんな願いでも聞いてあげたいと思っていた。
「……私じゃ何も良い案は浮かばないよ。アロイスさんは何か良い案とかはあるかねぇ」
祖母が尋ねる。アロイスは、
「そうですね…」
軽く浮かんだ案を言ってみる。
「思い出に残しておきたい酒は今の家に運んで、後は売って処分なさるというのも手かと」
「そうは言っても、買い手を見つけるのも難しい話じゃないかい」
「良ければ商人の友人を紹介します。最高金額で取引をお願い出来ます。当然、お二人が私を信用して頂く必要はありますが……」
まるで悪徳商法のセールスマンのような言い草に、もっと上手い言い回しがなかったものかと自身で苦笑してしまうアロイスだが、祖母は意外と乗り気に返事した。
「ふむ。私らには売る伝手がないし、アロイスさんが紹介してくれるなら悪くないかもしれんさねぇ」
祖母がそう言って眉間にしわを寄せ頷いているところ、丁度ナナが切り分けたサラミやチーズを運んで来たのを見て、祖母はナナに尋ねた。
「ナナ、お前はどうしたいかね?」
「えっ、私?」
突然の質問にナナは驚くが、キッチンで話は聞いていたらしく、すらすらと自分の考えを祖母に伝えた。
「正直私はお父さんの遺してたものだから大事にしたいなっては思うんだけど……」
「それなら、地下室の酒蔵を修復して酒を残そうかね」
「ううん。けどね、余計なお金が掛かるんだったら売っちゃっても良いよ。私は今のお婆ちゃんとの生活が大事だもん」
……優しい娘だ。祖母共々アロイスは思った。
本当は両親の遺したものである手前、本心では全てを置いておきたいと願っているはずなのに。だけど彼女の言うように、今の生活が大切である事も事実だ。
「今の生活が大事かい。うん、確かにそうさねぇ」
「過去も大事だけど未来も大事だから。あ、でもね。ちょっとだけお父さんのお酒は手元に置きたいな」
「うん、分かっているさね。それじゃ、少し残して売ってしまおうかねぇ……」
祖母とナナは『売る』方向で決めようとしているらしいが、話を聞いていたアロイスは少し気になった。それは、自分が居るから早急に答えを出そうとしてしまっているんじゃないか、急かしてしまっているんじゃないかという考えだ。それではいけない。アロイスは二人の会話に割って入り、言った。
「……ま、待って下さい二人とも。確かに高値の酒ということもあって扱いは難しいですが、早急に回答を出すべきでもないと思います。折角お父さんの遺してくれたものですから、一晩考えて、明日の朝やそれ以降に答えを出すというのはどうでしょうか」
アロイスの言葉を聞いたナナと祖母は、少し間を置いて「確かにそうだ」と言った。
「そうさね、慌てて答えを出しても最良とはならんからねぇ」
「アロイスさんの言う通りですね。一晩じっくり考えてみます」
良かった。祖母の言った通り、慌てて答え出すことは得策じゃない。
「はい。明日改めて回答を聞かせて頂ければ、出来得る限りの力を貸しますので気兼ねなく仰って下さい。自分が出来ることなら、何でも致します」
アロイスは「任せてくれ」と言わんばかりに自分の胸の中心に手をあてがって言う。
それを見たナナは、頭を深々と下げた。
「有難うございます、アロイスさん。こんなに私たちの為に色々と手伝って頂いて」
「それはこっちの台詞さ。俺を助けに来てくれたのもそう、持て成しもそう、二人の優しさに免じて俺も優しさで返したいと思ったんだ」
「アロイスさん……。有難うございます」
ナナはアロイスの優しさに微笑み、礼を言った。
アロイスも「気にしないでくれ」と笑い返すと、そのタイミングで祖母が手をパン!と鳴らした。
「はいはい、話は一旦終わりさね。私も久しぶりに飲みたいんだ、さっさと飲もうさ。アロイスさんも今夜はとことん付き合ってもらうさね。ナナもちゃっちゃと座って、一緒に飲むよ!」
祖母は自分の買ってきたウィスキーに手を伸ばして栓を開ける。
ナナも「うん」と慌てて椅子に座るが、アロイスは「ちょっとお待ちを」と祖母の手を止めた。
「ナナとお婆さんは先にシャワーなどを浴びてくるべきかと。飲んだ後の浴室は危険ですし、先に汗を流されては如何ですか」
飲酒の後の入浴などのバスタイムには危険が伴う。全身の血管にも負担が掛かり、下手をしなくても命の危険を晒しているようなものなのだ。
「……そうだね。急ぎすぎたよ。ならアロイスさんが先にシャワー浴びておくれ」
「えっ、自分は……」
「何事もお客さんが先さね。私らは酒が進むようにツマミの準備もするからその間に入っておくれよ」
ナナも祖母に合わせ、
「アロイスさんからどうぞ」と言った。
「う、うーん……」
少し悩んだが、まぁ確かに、体の土を振り払ったとはいえ空から落ちて腐葉土に突っ込んだうえ、廃屋で地下探索までしてしたのだから埃臭い。そもそも昨日は戦いで汗もかいたし、客人として自分の存在は失礼極まりないのではないか。
「……わかりました。先に使わせて貰いますね」
「遠慮せずに入っておくれ。それと、ナナも一緒に入れて貰えるかな」
「は……」
一瞬ビタッと体が固まる。
ナナは「お、おばーちゃんっ!」と、声を上げた。
「あはは、冗談さね。ほら、さっさとアロイスさん案内してやんな」
「もー、そんなことばっかり!アロイスさん、行きましょう!」
「お、おう」
「こっちです!」
顔を赤くしたナナは足早に居間を飛び出し、アロイスも彼女を追って廊下に出た。