第一章 生い立ち
今を「幸せだ」と本当に実感しながら生きている人は世界に何人いる事でしょうか。
私の人生観ですが、一番の「幸福」とは良い事がある日々では無く「不幸」が無い日々が続く事であると思います。
「幸福」の定義もその人の生きる環境によって様々。
人とは生まれ育った環境で「幸福」の定義が決定されその世界の中で生きていく事にもがき苦しむ生き物です。
食べる物が無く明日、餓死してしまうかもしれない状況や砂漠で喉の渇きにひたすら水を求めて彷徨い歩いている時に、もし食べ物や水を得られれば人は心から安堵し幸せを感じると思います。
でも、現在の日本の様に食べる物や生活に全く困る事のない環境で生きていても、失恋して生きる希望をなくしたり、学校でいじめを受けて自殺を考えたりしてしまうのも、同じ人間なのです。
もしも、「もう、人生なんかどうでもいい・・・。」と人生に生きる価値を見いだせない、そんな苦境に立たされている人がいたら、こんな半生を生きた人間もいたという事を知って頂きたい。
「人」にとっての本当の幸せはいったい何なのか・・・。
このお話は日本という世界の中でも安全で裕福な国に生まれたにも関わらず、生きる希望を無くし、もがき苦しんだ、そんなある男の半生です。
第一章 生い立ち
ごく普通のサラリーマンの父と、専業主婦の母との間に私は生まれました。
二人の馴れ初め迄は知りませんが、父には母と出会った当時、奥さんと二人のお子さんがいました。
私の母と父は不倫の関係にあり、母が私を身籠もった事がきっかけで父と駆け落ちをしたそうです。
そして間もなく私、翌年に年子の妹が生まれました。
私は小さい頃から優しくて、大きくて、温かい温和な人柄の父が大好きでした。
父は最後まで言葉では伝えられないほどの愛を注いでくれたと思います。
今、振り返って見れば、それは自分の私情の為、会えなくなった前妻との間の子供達への償いも気持ちもあったのかもしれません。
家庭環境は妹が小学校に入学した年、父の仕事関係のもつれで多額の負債を負うことになり、夫婦間でお金に関しての争い事が耐えなくなりました。
母は小さい頃からお金で苦労をしてきた経験もあり、夜、水商売に出てどうにか生計を立てようと努力したのですが、父にはそれが非常に辛かった様です。
また、そのころから母がストレスからか、私たちに時折、暴力を奮う様になりました。
今で言う、虐待の様な陰湿で酷い物ではありませんでしたが、それは「叱り」による「しつけ」ではなく「怒り」による「暴力」でした。
身体の傷はすぐに消えますが、そのとき感じた心の傷は一生消えない物になったと思います。
だからといって母を責める気はありませし、むしろ、それを経験し、痛みを学んだからこそ、自分が人にそういう傷を負わせる事だけはしないように生きていこうと子供心に決めました。
私の傷を見て父が母を問いつめ、喧嘩が始まり、さらに夫婦関係は悪化しました。
そんな夫婦間の争いが約一年続き、両親は離婚しました。
親権は私の強い希望で父に、母親っ子だった妹も兄妹は一緒の方が良いとの理由から父が私達兄妹を育てる事になりました。
結果、母が家を出る事となりました。
母親っ子であった妹にとってはとても辛く悲しい事であったと思います。
夫婦喧嘩がエスカレートする中で、私と妹はそれぞれ、父と母にバラバラに引き取られる事をいつも覚悟をしていました。
当時、小学校2年生の子供ながらに両親の夫婦喧嘩中にもう、妹には会えなくなってしまうかもしれないと思い、互いに一番大切にしていたおもちゃを交換したのを今でも覚えています。
妹と共に父に引き取られる事が決定し、当時住んでいたマンションで親子3人での新生活がスタートしました。
生活は母の収入分の生活費がなくなり、苦しいものでしたが父が好きだった私には何の問題もありませんでした。
母も月に一回ほど、父が仕事に行っている時間帯に私達に会いに来てくれていました。
もちろん、父には内緒でしたので、もし、父に見つかったらという不安が常にありました。
そんなある日、小学校から帰宅途中私は妙な胸騒ぎがしました。
よく「虫のしらせ」というのがあると言いますが、その日の胸騒ぎはまさしく、何かの知らせを感じるものでした。
自宅に帰ると仕事に行っているはずの父と先に学校から帰宅していた妹が沈黙したまま、テーブルを挟み座っていました。
その時は、なぜ仕事中のはずの父が自宅にいるのかはわかりませんでしたが、母と父が出くわしてしまった事はその場の雰囲気と帰宅途中に感じた胸騒ぎから確実でした。
「もう母には会えなくなった」と感じました。
あとから妹に聞いた話によると、体調不良で仕事を早退し帰宅した父が自宅に来た母に対して「お前は親失格なのだから、もう子供達には会いに来るな」と激怒して追い返したそうです。
父からしてみれば、子供を一人で育てていく覚悟をした以上、中途半端に関わって欲しくなかったのだと思います。
その後、父は借金の取立てや男手一つでの子育ての心労の為、病気を患い働く事が出来無くなり、職も失いました。
父は就職先を探しながら、懸命に何とかしなければと焦っていたと思います。
しかし、完全に収入が途絶えて、負債を抱えている状態が続いた為、とうとう食べ物を買うお金もなくなりました。
父が何日も食事をしていないのを知っていた私達は空腹である事を父には一言も漏らさず、我慢していました。
それに、小学生であった私達、兄妹には「給食」があったので学校のある日は、その一食でもどうにか耐える事が出来ました。
そんな時に父が唯一、残っていた小麦粉と調味料で作ってくれた食事を覚えてます。
小麦粉を生地にしてただ焼いただけの具なしのお好み焼きにソースをかけた物とと醤油スープに団子にした小麦粉をいれたすいとんスープ。
父は「戦争中の疎開先でよくこういうのを食べていたんだよ」とこんな状況にも関わらず、笑顔で話してくれ、こんな状況にも関わらず親子3人で楽しく食事をしました。
今、思い出しても決して美味しいと思える物ではありませんが、私の人生の中で一番、貧乏な時の思い出としてその味はよく覚えてます。
その後、状況は更に悪くなっていきました。
父は栄養不足で痩せ細り、病状は更に悪化して外出も困難になりました。
毎日、マンションのドアを大きな音で叩く「借金取り」が玄関扉前に数時間入り浸る状況が何日も続きました。
私が学校から帰ってくるとスーツを来た男が扉の前で待っており、「親はいるか?」「どこへ行っている?」等を聞かれる毎日でした。
時には何回もドアを叩き「いるんだろ!出てこいよ!」と何時間も怒鳴り続ける時もありました。
この時、私は生まれて初めて「どうして、こんなに困っているのに誰も助けてくれないんだろう?」と思いました。
子供の私には誰に助けを求めればいいのかもわかりませんでしたし、父が実家を出た経緯は聞かされていたので実家に連絡をされるのだけは嫌だと思い父に聞く事が出来ませんでした。
でも、日に日にやつれていく父を見ると「このままでは父が死んでしまうのでは・・・。」という強い不安や悲しみに襲われて、溢れる涙を歯を食いしばって耐えたのを覚えています。
「誰か助けて!」って何度、叫びたかったか。
毎日、「自分はどうなってもいいから、どうか父と妹だけでも助けて欲しい」と神様に祈ってから寝てました。
父はマンションの家賃滞納から強制退去を求められ、家具や私財も差し押さえの上、運び出され畳さえ撤去された部屋の床の上に薄布団一枚で病床に伏せていました。
今までは私たち兄妹が学校から帰ってきてマンションのエントランスでエレベーターを待っているといつも笑顔で「お、今日は早いね。お帰りなさい。」と声をかけてくれた管理人夫婦も豹変し、「病気だか何だか知らないが早く出て行け!」「あんたみたいのが、一番困るんだよ!」とガリガリに痩せ、高熱に苦しむ父を前に言葉を吐き捨てていきました。
「なんで?」
「こんなに困っているのに?」
「助けてほしいのに」
その時、色々な言葉が頭を巡りパニックになってしまいました。
父はこんなに苦しんでいても、常に私達の事だけを気遣い自分の食事を削ってでも子供に与えてるのに、この人達は病気で苦しみ、財産を失い、子供達を守ってやれない無力感に打ちのめされた父に対して「出ていけ!」と憎悪を込めて言っている。
私は人が信じられなくなりました。
そして、この人達だけは絶対に許さないという思いにとらわれました。
一番辛い思いをしていたのはきっと、父だったんだろうと思います。
誰よりも子供を愛し、自分が守っていく想いを貫き通し生きていくと決めた自分に対しての悔しさや無力感に・・・。
そんなボロボロの生活が約1ヶ月続きましたが、少しずつ体調を回復した父の知り合いの伝手で借金を返済し、家賃3万円のぼろアパートに3人で引っ越す事が出来ました。
引越しと言っても荷物は手に持った、少しの服をいれたビーニール袋が2個あるだけでした。
猛暑日の炎天下の中、引越し先にはその袋を持って、約15キロの道を親子3人で歩きました。
その途中、妹とたくさんの自動販売機等の釣り銭返却口等を調べて、集めた30円でアイスをひとつの買い3人で食べました。
チョコアーモンドでコートされたそのアイスは本当に美味しかったのですが、私も妹も少しでも多く父に食べて欲しくて一口、二口食べて「もういらない」と父に渡しました。
アイスを食べる父の目に涙が滲んでいたのを見ました。
その後、父は生活保護を受けながら働く事ができる様になりました。
引越し先は6帖一間でお風呂なし、トイレは汲み取り式の共同トイレ、壁はベニヤ一枚といった感じで隣の話し声が筒抜け、しかも、通っていた小学校までは通勤ラッシュの電車を使っての電車通学でした。
ぎゅうぎゅう詰めのラッシュアワー通勤の大人達に混じっての電車通学は電車に乗るのも大変で、乗った後も足を踏まれたり、降りようとしたときにランドセルが引っかかって電車のドアに挟まれたり、大変でした。
妹をかばいながらの毎日の通学は、毎日が戦いでした。
関東地方が大雪に見舞われ子供の膝丈まで積もった日は小学校から駅までの道を妹の通り道を作る為に、前を歩きながら、しもやけのかゆみと痛みにに耐え、雪を足でかき分け進みました。
そんな、ある日、まだ体調が完全でない父が私達、兄妹に「父さんにとって、二人は何よりも大切な物だから、どんな事があっても必ず守ってみせるから、迷惑かけるけど許してな・・・。」と言いました。
私としては父と一緒に暮らせるだけで幸せでしたし、そんな事を言われるとは思ってもいませんでした。
逆に私達が母に引き取られていれば、父はこんな苦労をさせないで済んだのにと思い、自分を責めた事もあったくらいです。
約一年間とても、貧しい生活でしたが充実した日々でした。
父は仕事と家事を完璧にこなしました。
必ず、朝ご飯を作り、私達に食べさてから仕事に出て、夜、仕事で帰りが遅くなる時は、仕事先から行きつけの中華屋さんに出前を頼み、届けさせてくれました。
毎日の様に仕事帰りにちょっとしたコンビニのお菓子等のお土産も買ってきてくれました。
そんな子煩悩でまめな父でしたが一度だけ失敗をした事がありました。
それは、私が小学校4年生の運動会の日、朝、運動会昼食用の弁当の仕度が間に合わず、父が「お昼まで仕事一端抜けて何か買って学校に届けるから」と言って仕事に出たのは良いのですが、みんながもう、弁当を広げ始めた時間になってもお弁当は届かず・・・。
私は担任やクラスメイトに事情を話していたので、問題なかったのですが、友人の一人が「遅いね~、みんなの弁当のおかず、少しずつ分けてあげようよ!」と言ってくれ、大盛りオリジナル弁当が完成しました。
気恥ずかしさもありましたがそれ以上にクラスメイトの優しさに感謝しました。
でも、私はそのお弁当をそのまま食べる訳にはいきませんでした。
きっと妹も困っているに違いないからと事情を担任や友人に話して妹のクラスに行ってみました。
案の定、そこには泣きじゃくっている妹がいました。
私のようにのんきでは無い、妹はお弁当が無いプレッシャーに耐えきれなかった様で、訳も話せず、ただ泣く事しかできなかった様です。
兄として妹に可哀そうな事をしてしまいました。
妹の担任の勧めで妹を私のクラスに連れて行き、みんなのカンパからできた特製弁当を妹と分けて食べていると、さらにみんなが「これもあげる~」といって妹の器におかずを少しずつ入れてくれました。
私自身の事を気遣ってくれた、みんなの気持ちも嬉しかったのですが、妹へのみんなの優しさは本当に今でも忘れられない思い出です。
その30分後、あと五分でお昼時間が終わるというところで父が息をきらせ「ケンタッキーフライドチキン」の詰め合わせを届けてくれました・・・。
その「フライドチキン」はクラスのみんなで分けて食べました。
どんな時でも、人は困った時、助けを求めた時に人のありがたさや、優しさに初めて気づくものです。
でも、自分が困ったり、助けを求めたりしている状態で無いと、そうやって手を差し伸べてくれる存在の人に気が付けない。
私は小学生時代に助けてくれない人達への人間不信と、助けてくれる人たちへの信頼の両方を体験しました。
今の小学生達はこんな思いをする子はほとんどいないと思いますが、この経験は自分に取ってとても貴重な経験となりました。
「助けを求めた時」に助けてもらえないからといって誰かを恨む人間より、「助けを求めてる」人に対して自分の出来る範囲の事をしてあげられる大人になる事が私の目標となりました。