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8.守りの子

八章 守りの子


「そうだ、聞くのが遅くなっちゃった。ええと、貴方、名前は何というのかしら? サラ、ではないわよね」


 は、と気付いたようにマユリさんが言った。


「ユーマ、とか呼ばれてたぞ」


 シルヴァさんの答えに、あらそう、と頷くマユリさん。違うんです、と慌てて言った。


「それは仮の名前というか、違うんです。あたし、森瀬かさねと言います。カサネと呼んでください」


 あたしたちを助けてくれた人たちだ。嘘をつかなくていいと思った。


「カサネ、ね。分かったわ。私のことも、マユリと呼んでちょうだい」


「は、い。あの、質問いいですか?」


「なあに?」


「先読みとかって力で、あたしの名前とかわかんないものなんですか?」


 あたしがサラの転生後の姿だとか、シルヴェーヌさんの酒場に来るだとか、そういうことがわかるのなら、名前の一つくらい知っていそうなのに。

 マユリさんは困ったように笑った。


「ええと、先読みって言うのは、映像しかわからないのよ。音は聞こえないから、名前までは」


「音は、聞こえない?」


「そう。ああ、先読みについての説明をしたほうがいいわよね。初めて聞いた言葉のようだし」


「お願いします」


 未来を知るという、先読み。もしかしたら、あのカインですら知らない存在かもしれない。この知識はきっと必要になる。


「先読みといっても、普段は巫女となんら変わらないの。力に差異はあれど、ただ巫力があるだけ。

 勿論、キャスリーの使いなどではないわ。パヴェヌを信仰し、彼の為に膝を折って頭を垂れて祈る。ごく普通の巫女のように修行をし、学び、得たものを人々に還す。

 ただ稀に、そう、極々稀に、未来が見えることだけが、違う」


「未来が見える、ですか……?」


「そう。そうね……、例えば今、私は貴方を見て話しているけれど、急にふ、と視界が切り替わることがあるの。

 天映てんえい、と先読みの言葉で言うのだけれど、天から後の世の映像が自分に降ってくるの。天映は前触れも何もなく、いきなり降ってきて目の前に広がる。その映像というのが、これから後の世のもの。起こるべき未来なのよ」


 マユリさんの琥珀の瞳を思わず見返した。この綺麗な澄んだ瞳に、未来が映る?


「天映が訪れたら、まず体が動かなくなる。視覚以外の五感が固まって、機能しなくなるの。だから、耳は何の役にも立たない。視覚だけが情報源なの。

 貴方のこともそう。名前は聴くことができなかった」


「視覚以外使えなくなるってことは、見るだけ、ということですか?」


「そう。見るだけ。それも強制的に降って来るから、見させられているというほうが正しいかもしれないわね。

 天映の間は瞼を閉じることすらできないから、ただ見ているしかない。例えば人が殺されても、瀕死の人が助けを求めても、ただ傍観しているしかないの。泣き声や悲鳴を聴かなくていいというのは、不幸中の幸いかもしれないわね」


 淡々とした口調。けれど、瞳に悲しそうな色が浮かぶ。


「でも、これから起こることがわかるのなら、先回りして妨害することができるんじゃないですか?」


 訊くと、マユリさんは力なく首を振った。


「できないの。先読みの言葉には巫力が必要だと、さっき言ったでしょう?」


「聞きました。巫力がないと発せられない、って」


「そう。天映を受けた先読みは、見た未来を宣言しなくてはいけない。その宣言は、巫力を持って発するの。そうすることによって、先読みの言葉は決定事項になる」


「巫力を持って……、決定事項に?」


「そう。宣言は先読みの巫力によって守られることになる。それを覆すことはできないの。変えようとすればその人に害が及ぶ。私本人ですら、ね。宣言を覆そうとしたら、その先に待っているのは、死よ。宣言しないとか、内容を偽ることも、無理。命をかけたとしても……難しいでしょうね」


 禍々しいことを口にしたマユリさんは皮肉に笑った。


「天映というのは、どうしてだか負の未来ばかりなの。だから、それを宣言し、巫力によって保護までしてしまう先読みは、疎まれてきたんでしょうね。嫌なことばかり言って、それを変えることは許さないんですもの。だからこそキャスリーの使い、何て言われたんでしょうけど、それも仕方ないことだと思うわ」


 否応なく見える未来。それを口にした時点で、未来が決定してしまう。

 なんて恐ろしい力だろう。


「……! でも、あたしを助けてくれました」


 マユリさんは、あたしが対珠を破壊され、神武団に囚われることを知っていたからこそ、対珠を貸してくれたのだろう。

 これは、未来を変えることになったのではないのか。

 マユリさんは、小さく笑った。


「私は、貴方が殺される天映なんて見ていないもの。幸いというべきか、私が見たのは貴方が神武団に連行されるところまで、なの」


「連行されるところ、まで……?」


「そう。引き車に押し込まれる貴方と、隣の部屋で寝ている彼の姿が見えたところで、天映は終わりだった。

 その前に、一等神武官と、貴方の対珠が壊されるのも見たわ。だから、あのままではきっと逃げられないだろうと判断した。逃げられないまま神殿に行くと、どうなるかなんて、見なくても分かるでしょう?」


 あたしが捕まったところしか見ていない。決定事項の未来はそこまでで、そこから先は変えられるということか。


「だから、これを渡した。これさえあれば、貴方を助けることができるかもしれないと思ったから」


 差し出しされた手の平には、半球の対珠が二つ載っていた。


「え……? ふたつ?」


「そう。これはね、二つで一つ。ほら、こうしたら、完全な球体になる」


 マユリさんが両手でそれを摘み、平面を重ね合わせると、二つの半球は吸い寄せられるようにくっついた。接合面は瞬時に分からなくなり、一つの完全な球体に姿を変えた。

 驚いたあたしに、くすりと笑って見せたマユリさんの顔は、少し楽しそうだった。


「すごいでしょう? この対珠は特殊でね、互いを呼び合うのよ」


「呼び合う?」


「そう。離れていたら、相手を呼ぶの。だから、貴方を転送できたのよ。呼び合う対珠の力を利用して」


 対珠は互いを引き合う性質があり、離れ離れになっていても片方さえ持っていれば、もう片方を呼び寄せることができる。逆に、離れた珠の元に行きたいと願えば、転送のように跳べるのらしい。

 あたしを転送したのも、反応し合う対珠があったからこそできたのだそうだ。


「でも、私の力じゃ貴方一人しか引っ張れなかった。彼も一緒に転送できたのは、貴方の力があったからよ」


「あたしですか!?」


「そう。だからそんなに疲労しきっているのよ。まだ巫力が戻ったばかりで扱いにも慣れてないのに、無理したから」


 あたしが、セルファを……?

 確かに全身が砂袋になったように重たくきついけれど、ただそれだけで、巫力が戻ったなんて分からない。

 そういえば、引き車の中でセルファも同じようなこと言っていた。力が戻ったから言葉が理解できるようになったんだ、って。

 対珠無しでも会話に支障がなくなったのは助かるけど、かといって劇的な変化を感じるというわけではないんだけどな。


 でも、あたしがセルファを助けられたというのなら、嬉しい。守られてばかりではなかったんだ。


「あたし、本当に巫力とかあるんですか?」


「あるわよ。そして、その使い方を私が教えるわ。大丈夫、魂に刻まれている貴方なら、きっと使いこなせるようになる。命珠は、貴方が壊すのよ」


「命珠を、あたしが壊せるんですか?」


 マユリさんの言葉に、心臓が鳴った。ブランカに来た目的は、命珠を壊せる可能性を求めること。

 それを、あたしができるというのだろうか。


「ええ、できる」


 マユリさんは力強く頷いた。瞳に、激しい色がちらついた。


「貴方がいれば、リレトを殺せる」


「…………!」


 また、だ。

 マユリさんは、リレトに対して激しい憎しみを抱いている。さっき、一族を滅ぼされたと言っていたけど。それはどうして? 何があったの?


「リレトと、何があったんですか?」


 頬の引き攣れに、マユリさんは手を添えた。形の綺麗な爪で、カリカリと傷跡を掻く。


「……昔話をしてもいい?」


「聞きたいです」


 言うと、彼女は長くなるけど、と呟いてシルヴァさんに顔を向けた。


「オレは別に構わん。寝とく」


「寝ないで。シルヴァだって知ってることでしょ。一緒に話して」


「めんどくせえな」


 しかし、起きていてくれるらしい。シルヴァさんはポケットから煙管を取り出して、それにケイルの葉を詰めた。火打ち石のようなもので手際よく火をつける。

 ぷう、と紫煙を美味しそうに吐いたのを見て、マユリさんはあたしに視線を戻した。


「体が辛くなったら切り上げるから、言ってね」


「大丈夫です」


 横になっていれば大丈夫だ。ルドゥイのお蔭もあるのか、辛さが多少薄らいでいた。

 マユリさんは、ゆっくりと話を始めた。



「海岸線を、ブランカより南へぐんと下ったところ。天気が良ければゼユーダを遠くに見ることのできるほどのところに、キルケという名の小さな集落があった。

 カナシス海とキリ山に挟まれていて、街道からも大きく外れた位置にある、陸の孤島のような場所。私はそこで生まれ育った。

 鄙びた土地ではあったけれど、海と山の恵みを受けられて生活にはさほど困らなかった。人々は仲良く支えあって、日々を営んでいたわ。

 父のヒノトは漁師、母のコトリは薬師だった」


「薬師……、って医官のことですよね? でも、神殿入りはしない、って」


 この世界での医者は、薬草学に特化した神官、別名医官だとカインに教わった。当然、神殿入りして修行していないとその仕事にはつけない。

 あたしの問いに、マユリさんは小さく首を振った。


「田舎に行けばいくほど、神官の数は少なくなる。場所によっては礼拝堂すらないの。私の邑もそうで、神官のいる町までは馬を四日も走らせないといけなかった。

 そんな不便な場所では、薬師という仕事があるのよ。巫力のない者でも、医官から薬草学を学べば、医官に準ずる薬師になれるというわけ。

 私の家は先読みとして、神官や巫女と同等の知識があったのだけど、邑内では薬師の家系ということにしていたわ」


 新しい知識を脳内で反芻しながら頷いた。


「邑の人たちは私たちをとても大切にしてくれた。よく効く薬を煎じることのできる母は、薬師の家は邑には大事な宝だから、って。

私と、双子の姉のナユルも、随分可愛がってもらった。私たちはいずれ、母の跡を継いで薬師になるはずだったから。みんな優しくて、温かくて、邑全体が自分の家族のように思っていたわ」


 マユリさんの視線は遠く、それは過去を懐かしんでいる色があった。


「あれは、私たちが十になったばかりのことだった。父の親友が、邑へやってきたの。

 その人はジークといってシルヴァの父親なのだけど、近海で不認可の貿易をしたり、その、法に触れるような少し乱暴な交渉なんかを生業にしていて」


「海賊だ、海賊」


 曖昧なマユリさんの言葉を、シルヴァさんがあっさりと片づけた。

 顔を向けたあたしに、ふ、と皮肉っぽく笑って見せる。


「オレのオヤジは、そこいらの海を牛耳ってる海賊の頭だったんだ。元々はこいつのオヤジと同じ邑の出だったんだが、いかんせん血の気が多くてな。手に追えねえって追い出されたんだとよ。で、海賊業なんてのに手を出したんだな。今は、オレが継いでるんだがな」


「は、あ」


 余りにも雰囲気の変わったシルヴァさんに、どうも慣れない。

 しかし、海賊か。山賊扱いのレジィのように事実と異なる訳ではなく、こちらは本当に、それが本業のようだ。


「人が気を使ってあげたのに、元も子もない言い方ね。ジークはそんなお仕事のせいで邑人からほんの少しだけ……疎まれてたんだけど、父とはすごく仲が良くて。こっそりやってきては、異国の珍しいお菓子や洋服なんかをお土産にくれたの」


 シルヴァさんの衣着せない説明にくすりと笑ったマユルさんだったが、こほんと咳を一つしてから再び話に戻った。


「それで、私たちが十になったとき、いつものようにジークはやってきたのだけれど、その時持ってきた、いえ連れてきたのが一人の男の子だった」


「男の子、ですか」


「ええ。年は五つくらい。真白の肌に漆黒の髪。黒曜石の瞳を持つ、とても綺麗な男の子だった」


 どくんと心臓が鳴った。その容姿にあて嵌る人間を、あたしは知っている。


「続きは、シルヴァ」


 マユリさんの視線を受けて、シルヴァさんが口を開いた。


「襲ったのは南方へ向かう船だった。許可証も何も持ってない、オレたちと同じ違法者の船。オレは初めてオヤジの仕事に同行を許されて、仲間と一緒にその船に乗り込んだ」


 仕事というのは、海賊のそれだろう。

 マユリさんとシルヴァさんは年が変わらないように見える。ということは、シルヴァさんは十歳前後で海賊稼業についたのか。


「海賊にはジンクスがある。初めての仕事で、初めて奪った物をお守りにすれば、それからの仕事は安泰だ、っていうな。オレのオヤジはどっかの国の巫女の腕輪を持ってた。金の髪飾りを持ってる奴もいたし、ああ、麻袋の切れ端、なんて奴もいたな。まあ、様々だ。

 オレも意気揚々と探しに行った。一生のお守りってやつを何にしようか、ってな。船倉には色んなモンがあった。絹の反物の山に、砂金。でかい石の嵌った首飾りに上等な設えの短剣。

 どれにしようかと悩んでいたその先に、オレは縄に繋がれたガキを見つけちまった」


 シルヴァさんが苦々しい表情を浮かべた。


「奴隷として売られる途中だったんだと思う。横に母親らしき女がいたが、とっくにこと切れてた。腐乱し始めていた死体の横で、あいつは無表情で座り込んでいやがった。

 驚いたオレは、思わずそいつの腕に食い込んでいた縄を切っていた。それをオヤジが見ていて、言った。それがお前の初めての獲物、お守りだな、と」


 それ、というのは勿論、目の前の男の子を指していた。


「今でも後悔してる。あんなモン放っておいて、金細工の指輪でも掴んでいたらよかったんだ。そうすれば、未来は変わっていた」


 男の子は、全ての記憶を失っていた。満足に口もきけず、表情も乏しい。きっと、母の死を主とした、強いショックを受けたせいで混乱しているのだろうという話になったそうだ。


「仲間として育てるつもりでいたんだが、あいつは喋らず、動かずだし、体つきも貧層極まりない。腑抜けすぎて、海賊としては役に立ちそうもない。とは言え一応オレのお守り様だからな。捨てるわけにもいかないから、陸にいるマユリの父親に託すことにしたんだ」


「名前も何も覚えていないという彼に、母が名をつけた。リレト、と」


 ああやはり、と思う。これはリレトの幼い頃の話なのだ。


「リレトは最初こそ気力がなくて、言葉一つまともに話さなかったけれど、日増しに人間らしさを取り戻していったわ」


 時が経つにつれぽつぽつと喋るようになり、家事の手伝いもし、マユリさん姉妹と共に勉強もしていたらしい。


「記憶は戻らないままだったけれど、読み書きもすぐに出来るようになったし、仕草なんかすごく上品で、元々は良家の子息だったんじゃないかと父は言ってたわ」


 マユリさんたちはリレトを新しい弟のように思って可愛がっていた。邑人たちも新しい子供を、事情を聴かぬままに優しく迎え入れ、物事は穏やかに進んでいく、かに思えた。


「三月ほど過ぎたころ。父が邑の代表でブランカに買い付けに行くことになった。田舎なものだから、どうしても手に入らないものは、王都まで調達に行かないといけなかったの。

 父は、せっかくの機会だから家族で行こうと言った。王都に行けるっていうのは、地方の子供にはすごく興奮することなの。すごくすごく、楽しみだった」


 ブランカまでは陸路より船の方が早い。邑に一艘分だけある入港許可証を携えて、一家はブランカへ向かった。もちろん、リレトも一緒だった。


「父は、リレトを神殿に連れて行くつもりだった。リレトは、母が持っていた水宝珠を見事に固形にしたの。さほど力を加えることもなく、それでも練り上げられたような艶をだした彼の巫力は、目を見張るものがあったわ。あれほどの巫力の主ならばきっと、神殿に行けば身元が分かる、と思ったのね」


 神殿には巫力を現した者のリストのようなものがあるらしい。それで調べてもらえば、リレトは生家に帰れるはずだ。


「父の目的の一番は、それだったんじゃないかしら。母の躯の傍にいたということは、リレトの父親は妻と子を同時に無くしたことになる。その悲しみを少しでも減らしてあげたいといっていたわ」


 しかし、マユリさんのお父さんの思惑は外れ、神殿にはリレトらしき子供の登録は無かった。

 シルヴァさんたち海賊は、王都を出発した船を襲っていた。だから、リレトはアデライダで拘束されたはずなのに、その存在を示すものがない。マユリさん家族はその事実に落胆しながらも、リレトを邑へ連れ帰ることにした。


「リレトはもしかしたら、アデライダに来る前に、どこかの国で攫われたのかもしれない。リレトの生国を辿ることは不可能に近くなってしまった訳だけれど、こんな世の中ですもの。生国なんかに囚われずに己の人生を生きてゆくことも大事だと、両親はリレトをこれからも育ててゆくことを決めたわ」


 一家は、邑から託された仕事を終え、充分な観光をし、村へ帰る期日を迎えた。

 信仰深い一家は、邑へ帰る前にもう一度、神殿を訪れた。その日は偶々、新たに神殿入りすることになった幼子たちの、入殿式が執り行われていた。


「十数人の子供たちが、神官様の言祝ぎ(ことほぎ)を受けていたわ。仕立てたばかりの官服を身に着けた彼らは、たくさんの民衆に見守られていた。それを見ていた私に、生まれて初めての天映が降りたの」


 それは、マユリさんが一人の男の子を認めたときのことだった。

 その場にいる誰よりも美麗な官服を纏った少年が、神官の言祝ぎを受けるところであった。両膝をつき、聖水を浴びている少年の様子がぐにゃりと歪んだかと思えば、ねじ込まれるように『全く違う情景』に切り替わったのだ。


 少年は成人へと姿を変え、言祝ぎを与えた神官よりも豪奢な衣装を纏っていた。神殿を治める三大神官だけに許される紫紺の直垂を身に着け、背後に厳めしい武官を何十人も従えている。恐怖を張り付けた民衆を下司な笑みで見下ろし、彼が勿体ぶって手を一振りすれば武官が駆け出し、人々の命を屠り始める。

 そんな音のない阿鼻叫喚世界に、前触れもなく放り込まれた。


「私は、強制的に始まった殺戮劇に驚きすぎて、身じろぎできず、声一つ出なかった。まあ、そんなことは元々許されていないのだけれど。私はただ、目の前の世界を見つめるしかなかった……」


 マユリさんはどれだけ、それを見つめていたのか。顔を歪ませて逃げ出した一人の女が、マユリさんの方へ向かってきた。それを、神に仕える者とは到底思えない、下劣な笑みを浮かべた武官が追って来る。厳めしい指輪が武官の指根で鈍く光っている。その指先が女に触れたのは、マユリさんの眼前でのことだった。


「触れた瞬間、女性の動きが止まった。見る間に、命が吸い取られてゆく。ふくよかだった頬がこけ、肌は土気色になり、目がぎょろりと落ち窪んでいった。大きく開いた口はきっと絶命の声を上げていた。

 命の泉を瞬く間に干された女性は、私の前で死んでいったわ」


 気が付いた時には、マユリさんは辺り一帯を騒然とさせるほどに泣き狂っていたらしい。


「天映がいつ私の元から去って行ったのかも分からなかった。幼かった私は、目の前で行われた殺戮を必死に語っていたの。『巫力』を使って」


「それ、は……」


「ええ。私は初めてであったと言うのに、間違いなく『先読みの宣言』をしてしまったの」


 娘の突然の力の発露に驚いた両親は、逃げるようにその場を後にし、支度を整えていた自船に戻った。

 マユリさんは目の前で人が惨たらしく殺されたことにショックを受け、そこに『部外者』であるリレトがいたにも関わらず、先読みについての話をしてしまった。


「私の両親は慎重な人たちだったわ。そうせざるを得なかったから、身に滲みついていたのね。でも、無口で大人しかった幼子のリレトの耳までは気が回らなかった。いいえ、あの時は私の語る内容に彼らも動揺していたかもしれない」


 語る未来は、悪夢としか言いようのない内容であった。先読みとは言え、片田舎で平凡な生活を送っていたマユリさんの両親には身震いするほどの『後の世』の欠片であった。


「嘘だと言いたい。けれど、先読みは『偽り』を口にすることは無い。両親はただただ、娘の吐く禍言に怯えていたわ。そして、その先読みから背を向けるように、王都を去った」


 邑に戻ってからは、両親は神妙な顔をしてこそこそと話すことが多くなった。シルヴァさんの父親もそれに混じることもあったらしい。


「オレのオヤジは元々楽天家だからな。なるようにしかならねえ、とかそんなことしか言わなかったようだがな。それと、マユリの精神面を気にしてやれ、とかな」


 子供が目の当たりにしていいものではない。マユリさんの受けたショックは大きく、邑に帰ってしばらくしてからも、双子の姉のナユルさんにべったりくっついて離れないでいた。両親はそんなマユリさんのことを考え、先読みで視た未来の話をすることを禁じた。忘れさせようとしたのだ。


 そんなある日の事だった。


「ナユルが、私を置いて薬草取りに行ってしまったの。私は勉強だとか、親の手伝いだとか、やらなければならないことも満足にこなせない状態だったから、その負担がナユルにかかっていたのね。どうしても必要だった薬草を摘みに、彼女は邑の外へと行ってしまった。両親は、日中は仕事があったし、ナユルがいなくなった不安に駆られて泣いている私の傍には、リレトしかいなかった。

 リレトは私に訊いたわ。王都でのあれは一体何だったの、って」


 もしかしてマユリちゃんは、『先読み』っていう、あの廃神キャスリーの遣いなの? と。


「あの時の事を語ることは禁じられたと言ったでしょう? それがまず、間違いだったのね。あの時、私はきちんと両親やナユルと話をして、己の見た光景を受け入れる作業をしなくてはいけなかった。

 力の発露をした以上、幼いからとか傷ついてるからとか、そんな甘えは許されなかったのよ。だって私が、無意識とはいえど、あの未来を保障してしまったんですもの」


 自身が巫力を持って保護した未来は何だったのか。先読みとはどういったものなのか。突き詰めて、真に理解していなければならなかったのだ。


「廃神キャスリーのことは知っていたし、その遣いと呼ばれるのが『先読み』だと、知識として知っていた。先読みはキャスリーとは無関係だけれど、そう呼ばれてしまうと言うことも、ちゃんと分かってた、はずだった。

 けれど、私はリレトの問いに絶望してしまったの。あんな恐ろしい未来を確定させてしまった私は、確かに廃神の遣いなんだわ、と」


 マユリさんは、自身の中ですら整理のついていないままの一連のことを、不安に後押しされるように、リレトに喋ってしまった。


「秘してきた先読みという家系のことも、視た未来も、何もかもを語ったわ。あの時私は、洗いざらい話すことで罪の意識から逃れようとしたのよ。廃神なんて関係なくて、勝手にやって来るものはどうしようもないって、私も被害者のような者なの。それを分かって、って。幼かったとはいえ、愚かすぎたわ」


 カリ、と頬を掻いて、マユリさんは力なく笑った。


「リレトは、言ったわ。絶対に、誰にも言わない。マユリちゃんは悪い神様の遣いなんかじゃないよって」


 それから三年の月日が経った。リレトは八つになり、マユリさん姉妹は十三才になっていた。その間、巫力を磨くための修行は重ねてきたが、家族は元より、リレトも『先読み』について口にすることは無かった。

 マユリさんはあれ以来天映を視ることもなく、心に負った傷も随分癒えていた。もしかしたら、自分の視たものは性質の悪い白昼夢だったのではないかと思うほどだった。


「元々、『先読み』の力は成人しなければ現れないものらしいの。祖母も母もそうだったというし、双子の姉であるナユルも、一度も天映を視たことがないままだった。だから、力が未熟な幼子が視た悪い夢であったと、そう思いたかったのね。

 そんなある日、リレトが姿を消したの」


 ふいに、何の前触れもなくリレトは姿を消した。心優しい邑人も、マユリさん家族も、必死になって少年を探したが、リレトは見つかることは無かった。


「田舎にはそうないことだけど、人攫いに遭ったのかもしれない。あの子は顔立ちが綺麗だったから、目をつけられることもあっただろう。

 ひと月以上探して、それでも足取り一つ掴めないことで、皆はそう考えて捜索を止めたの。私たち家族だけは、諦めることなくリレトを探し続けたけれど。リレトを連れて来たジークも気にかけてくれて、シルヴァを連れて周辺を探してくれた。

 そんなある日の事よ。大きな神武団の船が三艘、邑に現れた」


 小舟しか停まらない小さな港に着いた船からは、物々しい恰好をし、恐ろしい形相をした神武団員が降りてくる。その中で最も官位の高いであろう一人の男が、怯える邑人たちに高らかに宣言した。


『この邑は、廃神キャスリーの遣いである先読み一族を匿った、不浄なる邑である』と。


 そして、その神官の横には、仕立てたばかりであろう、小奇麗な官服を身に纏ったリレトが立っていた。


「私は、邑に来ていたシルヴァと共に、邑外れの森まで薬草を摘みに行っていたせいで、船がやって来たことにも気づいていなかった。だいぶ時を遅くして、ようやく邑の方が騒がしいことに気付いて戻ろうとした私たちの前に、傷だらけのジークが現れて、逃げろと言ったわ」


 ジークさんは、邑で今何が起こっているかを、子供たちに語って聞かせた。

 リレトが、お前たち家族を売った、と。


「……全て後から分かったことだけれど、いなくなったリレトは、幼い足で王都に向かっていたの。そして、神殿に駆け込んだ。『不浄なる先読み一族に不当に拘束され、教育を施されかけた』と言って、保護を求めたんですって」


 母コトリさんは、力のあるリレトにも娘たちと同様に巫力の教育を行っていた。水宝珠から対珠を作らせ、使い方を教えた。だが、先読みとしての教育など一切していなかった。『先読み』としての教育など最初から存在していないのだから、当然だったのだけれど。だのに、リレトはそう言ったのだという。


「神殿に記録されていない、しかし確かな力を持った少年。それだけでもおかしなことなのに、少年はこう付け加えた。『あそこにいる神官さまを、殺戮者の長だと巫力を以て宣言したのを見ました』と。指差したのは、ゼーム=パッフェル。そう、今の大神武官サマよ。もう分かるかしら? 武官がつけていた指輪は、魂食いの指輪。私の初めての天映は、今のこの世の状況だったのね」


 リレトは、コトリさんの指導によって己が創りあげた対珠も差し出したらしい。

 一般人が持っているはずのない、練り上げられた質の良い対珠が、言葉の信憑性を高めた。神武団は少年の言を信じ、団員を小さな邑に向かわせた。不浄の者を匿う邑を浄化するために。


「カサネ、浄化って、何だと思う?」


「え……、あ、あの。分かりません」


 マユリさんは、視線をふっとあたしから逸らし、瞼を下ろした。


「殲滅することよ。人々は殺され、田畑、屋敷、全ては火にかけられ、灰に帰された。何も知らなかった心優しい私の家族たちは、何の抵抗も出来ずに皆殺しにされたわ」


 ぞくりとした。それは余りにも、残虐だ。


「女子供、関係なかった。ジークに無理やり抱えられ、邑から遠ざかってゆく私の耳に、子供の命を懇願する母親の絶叫が聞こえたわ。今も忘れられない。ジークの腕の中で、私はようやく知った。私が、どれだけの失態を犯してしまったのかを」


 リレトがある程度の情報を伝えていたのだろう。邑内にいた両親、姉のナユルさんは逃げる間もなく、かと言って殺められることもなく、捕らえられた。そして、廃神キャスリーの遣いかどうかの詮議を神殿で受け、それ如何で処刑されるのだと、船に無理やり乗せられていた。

 家族の誰も助けられなかったジークさんは、せめてマユリさんだけでも、と神武官たちの攻撃を掻い潜り、助けに向かったのだそうだ。


「詮議なんて言っても、私たち家族の処刑は決定事項だった。でなくちゃ、罪無き邑人たちが殺められるはずがない。私たちは、見世物のように殺されるよう、もう決められていたのね」


 ジークさんは邑を見下ろせる小高い丘の上まで逃げた。

 マユリさんが見たのは、質素ながらも自然に囲まれた美しい邑が、黒煙と炎に染められていた様子だったと言う。


「恐ろしい光景だった。私の家が、友達の家が、機織り小屋が、炎に舐められて消えてゆく。逃げ惑う人々が次々に殺されてゆく。あんなの……神の徒がすることじゃないわ……」


 その光景を思い出したのだろう。マユリさんがぶるりと体を震わせた。シルヴァさんは、肩で大きく息をつき、ケイルの煙を吐いた。

 神武団は、捕らえられずにいたマユリさんを長い時間捜索していたらしいが、諦めて引き揚げて行った。混乱の合間に誤って殺してしまったと思ったようだった。

 船影が海の向こうに消え去るのを確認して、三人は姿を変えた邑へ戻った。


「死臭と煙に満ちた、地獄のような光景だったわ。私は満足に口もきけず、泣いてばかりだった」


 ジークさんの海賊団を率いても、神殿に刃向うには無謀と言えたが、ジークさんは少数精鋭で奪還に行くことにした。友人を見殺しには出来なかったのだ。

 ジークさんは、子供であるシルヴァさんとマユリさんには拠点にしている島で待機しておくよう命じた。が、マユリさんはそれに素直に従えなかった。


「私のせいで、家族が命の危険にあるのよ。自分だけ安全圏にいるなんて、そんな勝手な話はないわ。私はシルヴァが止めるのも聞かずに、王都に向かうジークの船に忍び込んだ。シルヴァは私の決意が固いのを知ると、付いてきてくれたわ」


 ジークさんが、子供二人が隠れているのに気付いた時には、既に王都を眼前に見据えていた。ジークさんは子供二人を船に残し、数名の部下を連れて神殿へ向かった。マユリさんは、彼らがいなくなると同時に、見張りの目を盗んで後を追った。


「どういう巡り合わせなのかしらね。その日は、私の家族の処刑日だった。神殿の広場には処刑台が設けられ、両親とナユルが既に磔られていた。執行人の姿も見えて、もう一刻の猶予もないことがわかったわ。

 みんな、死んでしまう。シルヴァの制止を振り切って、私は人ごみをかき分けて、処刑台に向かって行った。泣き叫ぶ私に気付いた場は騒然とし始め、処刑台にいる家族も、私の存在に気付いた。泣きはらして、目を真っ赤にしたナユルと目が合ったとき、私は叫んだわ、一緒に死ぬ、と」


 こんな事態を引き起こしたのは、自分なのだ。大切な邑の家族を死なせたのも、家族を処刑台に登らせたのも、全部私のせい。

 ごめんなさい、ごめんなさい。赦してなんて言えない。かといって、助ける術も持たない。それなら、せめて一緒に死なせて。マユリさんは必死に、夢中でそう叫んだ。


「胸元には、ナユルと呼び合う双子の対珠の片割れを仕舞っていた。この対珠さえあれば、

ナユルの元へ行ける。私は対珠を取りだし、祈ったわ。ナユルの元に行かせて、と。

 その時、わたしははっきりと見たわ。ナユルがにっこりと笑うのを」


 対珠は、引きあう珠に向かって跳んだ。ぐん、と体が異空間の穴に飛び込むのを感じたマユリさんは、瞳を閉じた。次に目を開ければ、きっとナユルさんの前にいるはず、だった。


「……瞳を開けた私がいたのは、焼け落ちた邑の、瓦礫となった自宅の前だった。足元にはナユルの大切にしていたぬいぐるみが転がっていて、そのおなかの部分に、隠すようにナユルの対珠が押し込まれていた。

 ナユルは、何かあれば私だけでも助けられるように、自分の対珠を隠していたの。これがあれば、自分が助かる道があったかもしれないのに」


 ぎゅっと二つの珠をにぎりしめて、マユリさんは強く瞳を閉じた。


「ナユルは聡明で優しくて、自慢の姉だった。きっと、私よりも優秀な巫女に、先読みになったはずだわ。ナユルが助かればよかったのよ。私なんかじゃなく……」


「またそれかよ。何遍繰り返せば気が済むんだ」


 歯の隙間から絞り出すようなマユリさんの懺悔を、シルヴァさんが舌打ちをして止めた。煙管の灰を乱暴に床に落として、足で踏み潰す。


「お前がナユルと同じ立場だったらきっと、同じようにあいつを助けていたはずだ。それでいいだろう」


 マユリさんは、シルヴァさんにそっと視線をやって困ったように笑った。それから再び語り始める。


「私は結局、邑に残っていたジークの仲間たちに保護されて、命を繋ぎとめた。けれど、そんなこと、あってはならないことだわ。己は許せなかった私は、たくさんの家族の命を奪った罪として、これを」


 引き攣った頬に手を添える。


「これを焼いた。いつでも覚えていられるように、そして、罪人であることを明かすために」


「勝手にしやがったんだ、こいつは。そんなこと誰が喜ぶってんだ」


「喜んでもらうためにするわけじゃないもの。あら? 頬、赤いわ」


 マユリさんが、あたしの頬に手をあてた。ひんやりした手の平が心地よくて、目を細めた。


「熱が出てるみたい。ごめんなさい、長話だったわね」


「あ……大丈夫、です」


 夢中で聞いていたせいで、自分の体調なんて気付かなかった。しかし、言われてみれば体が沼に引きずり込まれるように重たく、視界は潤んでいた。


「少し、眠ったほうがいいわ。安心して、ここは旧キルケ邑。何も、貴方たちを脅かさないから」


「ああ、マユリさんの邑ですね……」


「そう。もう地図にも載っていない、誰も足を向けない朽ちた邑痕よ。だからリレトだって、来ないわ」


「そっか……」


 それなら、安心だ。ほっとして瞬きをした、つもりだった。しかし、あたしはそのまま眠りに落ちてしまったらしい。

 瞼を持ち上げて見れば、煌々と日が差し込んでいたはずの窓から、月明かりが差し込んでいた。部屋は薄暗く、しんとした空気が湛えられている。


「え……?」


 意識を失っていた? そうとしか思えない位、眠った感覚がない。


「あ、でも、少し楽になってる」


 ふらつく体を何とか起こしてみる。熱はすっかり引いてしまったようだった。少し頭痛の残る頭を押さえつつ、周囲を窺う。脇に置かれたテーブルに、水差しと木杯、干しルドゥイ、それに新鮮そうなペッグの実(オルガでも採れた果物。林檎のようなもので、さっぱりと甘く、爽やかな香りがする)が籠に盛られていた。


「喉、乾いた」


 有難く水差しの水を頂く。柑橘系の果汁を混ぜているらしく、するりとした喉越しで美味しい。気付けば半分以上を飲み干してしまっていた。

 一息つき、窓の向こうの、満ちた月を見つめる。


 この世界の月は、あたしのいた世界の月と同じような姿をしている。クリーム色の淡い光を放ち、時の流れに沿って満ち欠けを繰り返す。しかし、この世界の月は全部で二つあるらしい。レジィと湖に散策に行った時に教えてもらったことなのだが、紅月と呼ばれる、天を不規則に巡る赤い月があって、それはいつどこに姿を現すか分からないのだとか。

 禍月とも呼ばれるこの月は、現れると災いをもたらすらしい。オルガ邑がリレトの手によって襲われた夜も、サラが死んだ夜にもこの月が天にあって、レジィはあの輝きは二度と見たくないと言っていたっけ。

 あたしも、見たくない。そんな縁起でもないモノ、一生見なくていい、


「よかった。そんな月、ないや」


 独りごちて、ふと、マユリさんたちは紅月を見たことがあるだろうか、と思う。いやきっと、ある。マユリさんの家族が殺されたその日に、この世界のどこかで紅月は光を湛えていたに違いない。


 月は中天にいた。もう夜更けであるらしい。誰の気配もない。物音一つしない。この建屋は広いようだけれど、マユリさんやシルヴァさんはこのどこかにいるのだろうか。


「あ、と。セルファ」


 セルファの具合が気になる。熱は引いただろうか。昼に見た時は、驚くくらいに熱かった。

 まだ満足にいうことをきかない体をゆっくりと動かし、寝台を降りる。ふらりと大きく傾ぎ、倒れ込みそうになるのを必死に踏ん張って、時間こそかかったが、どうにか立ち上がった。


 病気の後でも、こんなに体にダメージを負った記憶がない。信じられないけど、転送に自分の力を使ったのは本当なのだろう。お腹の底あたりが空っぽになった感覚があるのだ。芯が消え失せたとか、そういう感じだ。

 真っ直ぐ歩けそうにないので、壁つたいにそろそろと歩く。


 うん、どうにか行けそう。


 物音を立てないように極力注意して、部屋を出る。

 セルファの部屋は、あたしの部屋の隣。そんなに遠くなくてよかったと感謝しつつ向かう。

 寝台の上で、セルファは昼間と同じように俯せで眠っていた。月明かりが血の気のない青白い顔を照らし、長い金の睫毛をきらめかせている。


 まだ、キツそう……。


 眉間には変わらず苦悶の皺が刻まれており、呼吸も荒い。セルファの額に手を添えてみれば、熱はまだ変わらず高いのが分かった。

 セルファの眠る寝台の脇には、あたしのところにもあったように、水差しや果物が置かれていたが、水差しは中身が減った様子がない。セルファはどれくらい眠りつづけているのだろうか。もしかして、あたしが様子を見に来て以来、起きていないとか?


「大丈夫、かな」


 少し気になって、あたしはしばらくセルファの様子をみることにした。テーブルの近くに置かれていた椅子を引き寄せ、座る。

 背もたれに身を預ければ、少しくらいならここにいられそうだと思う。


「ん……。う……っ」


 セルファが身じろぎしたと思うと、顔を顰めた。苦しそうな声を漏らす。動いた拍子に傷が痛んだのかもしれない。


「セルファ、大丈夫!?」


「ん、あ……? カサネ……?」


 声をかけると、セルファがうっすらと目を開けた。微睡んだ瞳があたしを捉えると、少し大きく開かれる。


「うん。心配になって、見に来たの。痛い?」


「ちょっと、ね。普段うつ伏せ寝なんて、しないからさ、寝にくくて……敵わない、や……」


 力なく笑う声が掠れている。と、けほけほと咳込んだ。傷に響くのだろう、咳をするたびに短く呻く声が漏れた。


「え、ええと、セルファ、水飲める?」


「ん、いる……」


「ちょっと待って!」


 慌てて、木杯に水を満たす。セルファに差し出すと、両腕をつき、身を起こそうとしたセルファはどさりと寝台に倒れ込んだ。


「あはは、動け、ないや。ごめ……、カサネ。それ、口元まで持ってきてくれる?」


「う、うん」


 僅かに身を起こしたセルファの口元に木杯を持って行く。ゆっくり傾けたけれど、無理に体を起こしているセルファは微かに震えていて、水は上手く口に流れ込んでいかない。よくみれば、あたしの手も震えていた。自分の体を支えるだけで精一杯なのが情けない。

 何度繰り返しても、枕代わりのクッションに水の染みができるばかりで、セルファの喉を潤すには足りなかった。


「げ……っほ……げほっ」


 がくんとあたしの手が揺れた拍子に、水がばしゃりとセルファにかかった。セルファが咽返り、クッションに顔を埋める。


「ご、ごめん! セルファ」


 背後の出入り口に視線をやる。誰か、起きて来てくれないだろうか。そうしたらきっとすんなりとセルファに水を与えてあげられるだろうに。


「カサネ、も、いいよ。ごめん……カサネもキツイだろ」


 ふ、ふ、と肩で息をして、セルファが言う。


「部屋、戻りな? オレは平気だから」


「そんな……。そんなことないじゃない」


 熱が高い上、満足に水分がとれないとなると、脱水を起こしかねない。セルファはただでさえ、大量の血液を失っているのだ。


「平気だって。カサネだってキツイんだから、早く戻りな」


 にこ、とセルファが笑った。しかしその笑顔に力はなく、苦しさからの涙が目じりに残っていた。


「こんな時にまで、あたしの心配しないでよ。人呼んでくる」


 立ち上がりかけたあたしの腕を、セルファが掴んだ。


「止めて、カサネ。あいつらに余り借りを作っちゃだめだ」


「大丈夫だよ。あたしたちを助けてくれたし、それにリレトを倒すって言ってたもん」


「簡単に信用しちゃ……だめだよ。オレは、レジェスたちに君を守るって誓って付いてきた。それが、こんな事態になっちゃっただけでも、失態、なんだよ……」


「何言ってるの? セルファはあたしを助けてくれたんだよ?」


「そんなこと、な……よ……」


 ふ、とあたしを掴んでいたセルファの手が緩まる。かと思えば、力なくだらりと落ちた。

 セルファの呼吸が次第に荒くなる。やっぱり、キツイんだ。

 出入口とセルファを交互に見る。どうすればいい? どうすれば……?


「……セルファ、ごめん」


「……え?」


 木杯の中身をぐいと傾け、口中に水を含む。そのままあたしは、セルファの唇に自分の唇を重ねた。

 薄く開いた口に、そっと水を流し込む。コクン、とセルファの喉が鳴った。


「カ、サネ……?」


 口の端から一筋、水の道を作ったセルファがあたしの名を呼ぶ。熱にうかされた瞳を覗き込んで、訊く。


「これくらいしか、方法を思いつかないの。もう少し飲んでくれる? 水分摂ったほうがいい」


 こく、と微かに頷くのを確認して、再び水を含み、セルファに口移しで与える。

 セルファが早く回復しますように。そう願いながら、ゆっくりと何度も水を送る。水差しの三分の一ほどを飲ませ終わった頃、セルファが「もういいよ」と小さく呟いた。


「不思議……。カサネから貰うたびに、元気になってく気が、した……。何か、した?」


「わかんない。でも、なんか、すごく眠い……」


 何かしたつもりはなかったのだけれど、「巫力」を使ったかもしれないと思う。お腹の底の「何か」が、浚ってしまったように、きれいさっぱり無くなったように感じられるのだ。

 セルファに送った水に、巫力のようなものが混じりこんでいたとしてもおかしくない。


「まあ、早く元気になってくれるなら、それでいいよ……」


 ふあ、と大きな欠伸が出る。もう、体が機能停止してしまいそうだ。重くなった瞼を下ろして、あたしはセルファの足元に覆いかぶさるようにして眠り込んでしまったのだった。




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