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6.先読みの占い師

六章 先読みの占い師


 ぼんやりとしていると、ふつりと室内から灯りが消えた。

 急に真っ暗になったことに驚いて周囲を探る。

 ランプの油が切れたのだろうか。


「えーと、あ」


 廊下へのドアの隙間から灯りが洩れている。

 とりあえず部屋を出て、油を分けてもらいに行こう。

 僅かな灯りを頼りに、そろそろと部屋を出た。

 部屋を出ると、階下の酒場のざわめきが大きく聞こえた。

 

……笑い声、してる。


 こんな状況なのに、笑ってお酒が飲めるって、どれだけ図太い人たちなんだろう。

 あたしなんか、半日ここにいただけで笑い方を忘れてしまった気分なのに。

 野太い男性の笑い声に嫌悪感を覚えながら、周囲を見渡すが、宿の従業員どころか客(他に宿泊客がいるのか定かではないが)の姿もない。みんな下にいるのだろうか。


「すみませーん」


 声をあげてみるが、反応もない。

 酒場になんて行きたくないけど、でも部屋が暗いままだと困るし。

 ため息を一つ零して、階段へと足を向けた。


 驚いたことに、席の大半は人で埋められていた。

 質素なエプロンを身につけた若い女の子が二人、木杯やトレイを手に店内を駆け回っている。

 どれだけ呑んだのか、真っ赤な顔をしてテーブルに伏している人や、酒を一息に呷る人、陽気に歌う人までいた。

 一刻前に絶命の悲鳴が響きわたった後だというのに、この盛り上がりは一体何なの?

 みんな、あれを耳にしても平気なわけ? どうして笑っていられるの?

 唖然として突っ立っているあたしの肩に、ぽんと大きな手の平が置かれた。


「ひっ! だ、誰!?」


「ユーマさま、お加減はいかがですか?」


 いつの間に後ろに来たのか、シルさんが立っていた。唇の端を僅かに持ち上げただけの、ぎこちない笑みを浮かべている。


「ああ、驚かせてしまいましたか。申し訳ありません」


 あたしはひどく怯えた顔をしていたようだ、深く頭を下げられた。


「い、いえ、ちょっとびっくりしただけです。すみません」


「占い師をお探しですか? ご案内しましょうか」


「あ、いや、そうじゃなくて、部屋の灯りが消えてしまって、油をもらおうかと」


「これは、申し訳ない。すぐに替えを用意いたします。あ、いやしかし、今はご覧の通り大忙しの状態でして、手が足りてないのです。少しお時間をいただけないでしょうか」


「え、ああ、構いません、けど。じゃあ、どこにいようかな」


 真っ暗な部屋に一人いるのは嫌だった。落ち込んだ心がますます沈んでいってしまいそうで。

 かといって、この騒乱の中に身を置くのも嫌だ。


「では、占いを。よい時間つぶしになりましょう。油の交換が済みましたら声をおかけしますので」


「あ、でも……」


「ささ、どうぞこちらへ」


 あたしの意思を確認することもなく、シルさんは背中を押すようにして酒場の奥へと連れて行った。

 シルさんってもしかしてこんな大きな風体なのに、占い好きなんだろうか。オススメしすぎじゃない? 占いなんて鼻で笑い飛ばしそうな感じなのに。

 いや、見た目でそういうの判断しちゃいけないんだろうけど。

 しかし、他にすることもないわけだし、断るのも悪い気がするので従ってみようかな。

 シルさんに押されるままに、酒場内を進む。


 うわ。

 ここ、ケイルの煙がすごい。天井が煙で真っ白になっちゃってるじゃん。

 けほけほと咽ながら、テーブルの隙間を縫うようにして歩く。

 通りすがりに、テーブルに並べられた料理をちらと見る。

 あたしに出された食事よりも、ぐんと質が悪いように思う。小魚を炒めたようなものが少し。麦とくず野菜を煮込んだ、リゾットのようなもの。あとは数種類のナッツだけ。

 食べ物を求めるのではなく、お酒がメイン、ということでいいのかな。


 いや、違うか。きっとこういうものしか提供できないんだ。

 しかしお酒だけはあるようで、女の子たちは厨房からどんどんとお酒を出してくるけど。

 と、空になった木杯を片付けていた女の子の一人とすれ違った。あたしと同い年くらいだろうその子の手首には、真横にまっすぐ伸びた生々しい傷跡があった。


 え? あれってもしかして……。


 笑みを浮かべていた女の子はあたしの視線に気付くと、す、と唇を引き結んだ。それから杯で手首を隠すようにして、離れて行った。


「さあ、こちらです」


 厨房へ消えていく背中を目で追っていたあたしの体を、シルさんが止めた。

手で示されたのは、薄汚れた黒いカーテン。多分ケイルの煙で燻されたのだろう、裾に施された白いレースが黄ばんでいた。

 え、個室? こんなところに?

 酒場の隅で揺れるカーテンから、自分が来た場所へ視線を戻した。酒で盛り上がっている客たちは、こちらを認識もしていないんじゃないだろうか。

 ここに何も存在しないかのように、誰の視線も向けられていない。


「い、いいんですか?」


 おずおずとシルさんに訊くと、頷きを返された。

 何だか不安になってきた。


「お入りなさい」


 カーテンの前で足踏みしていると、鈴を鳴らすような綺麗な声がした。


「へ? へ?」


「お入りなさい、お嬢さん」


 再び、耳さわりのいいソプラノがカーテンの向こうから聞こえた。

 その声音は何故だか抗うことができなくて、気付けばふらりとカーテンをくぐってしまっていた。


「はじめまして、かしらね」


 長テーブルの上に、三又の燭台が二つ。小さなろうそくの光が柔らかく揺れて、さほど広くない空間を明るく照らしていた。

 正面には、黒のフードを深く被った人が一人、座していた。

 先ほどの声から察するに女性なのだろうが、体型を隠した、同じく黒のローブのせいで詳しいことは判断できない。

 しかし、この空間は何だかおかしい。

 汚れた布一枚隔てただけなのに、酒場の喧騒は陰を潜め、穏やかにゆったりした時間が流れていた。

 ふわりと香ってくるのは喉を刺すようなケイルのそれではなく、甘やかな、麝香のような匂い。


「お座りなさい」


 流れるような手つきで椅子を示され、自分がようやく突っ立っていたことに気付く。


「ええと、あの……か、帰ります」


 言いようのない怪しさを感じて、後ずさった。


「あら、どうして? 私は貴女の求めているものを、与えてあげられるかもしれないわよ?」


 ローブが微かに揺れて、密やかな笑い声がした。


「求めている、、もの?」 


「そう。今でも、そしてこれからは切実に求めるもの」


 あたしが求めているもの……?


「例えば愛情、例えば自信、巫力。求めているもの、あるでしょう? その中でも、貴女が一番望むであろうもの」


「愛情、自信……。って! そんなの別に!」


 咄嗟にカインの顔を思い出して、慌ててそれを打ち消した。

 きっと数日前のことがあったからだろうけど、だからって愛情とかそんな言葉に反応してしまうなんて。

 つい声が大きくなってしまったあたしに、占い師はまた忍び笑いを洩らした。


「素直な子ね。でも、何かを求めるのは人の性で、別段おかしなことじゃないわ。

 それに、貴女は本来手にしているはずだったものを望んでいるのだから、殊更のこと」


「手にしているはずだった、もの?」


「そう。奪われたもの、といったほうがいいのかしら。さあ、そろそろお座りなさいな。私はずっと貴女を待っていたのよ」


 この人は、何かを知っているのだろうか。

 含みのある言い方が気になって、まじまじと見つめてしまう。しかし、ローブの向こうの人物像は全く掴めなかった。


「私は貴女の助けになれるわ。信じなさい、サラ」


「その名前を何で!?」


 何で知ってるの!? 反射的に声を荒げてしまう。

 あたしがサラだなんて、オルガの人しか知らないはずなのに。じゃあこの人はオルガの関係者? いや、それだったら『カサネ』と呼ぶんじゃないだろうか。


「静かに。あまりに大きな声を出すと、外に洩れてしまうでしょう?」


 綺麗な指を、す、と口元辺りに添えて言う。

 確かに、騒ぎになってしまうのはよくない。ここはリレトの本拠地なのだ。


「座りなさい」


 次は、大人しく従った。背凭れが高く、華奢な猫足の椅子に腰掛け、向かい合った人を窺った。

 深く被ったローブの中に、どんな人がいるのだろう。

 あたしのことを、サラのことを知っているのはなぜ? リレトの手の者だったらどうしよう。いやでもあたしの助けになるって言ったし。

 膝の上に乗せた手をもぞもぞと動かす。

 ああ、カイン帰ってこないかな。セルファも。二人がいたら安心なのに。


「こちらを見て?」


 つい、としなやかな動きで右手が動いた。妙に冷たい指先があたしの顎に微かに触れた。

 ローブの隙間から、ろうそくの炎を映した瞳が見えた。

 ゆらめく瞳と、しばし見つめ合った。

 深い湖の底を窺うような錯覚に陥る。とぷんと沈んでしまいそうな、奇妙な感覚。


「……あ、あの?」


 沈黙は長く、耐え切れずに言葉を発した。

 このままこうしていると、心の奥底まで見透かされてしまうんじゃないだろうか。そんな不安さえ覚えてしまう。

 おずおずと視線を逸らすと、ふ、と息を吐く気配がした。


「できることならどうにかしたかったけど……命珠は、離れそうにないわね」


「え……!?」


「いくつかの術の残滓が見えた。古文書レベルのものまで試したようね。一等神武官の努力は評価したいけど、全て無駄だったようね」


 独りごちるように呟く目前の人を、思わず凝視してしまった。

 体の一部に触れ、視線を合わせるだけでそんなことまで分かるだなんて、それってカインと同じくらいの巫力があるってことなんじゃないだろうか。


 え、でもおかしくない?


 確か、巫力のある人は神殿入りしているはずで、街中にいるものじゃないって話だった。

 なのにどうしてこの人はこんな所にいて、占い師なんてやってるの?

 まじまじと見ていると、指先が顎から離れた。


「ふふ、驚いた? これくらいのことなら、分かるの。もっと驚かせるなら、私は今日、あなたがここに来るのが分かってたのよ」


「分かって、た? それ、どういうことですか?」


「私には先読みの才がある、ということよ」


 先読み? でもそれは……。


「でも、それはできないって聞きました。神しか持たない力だろうって」


「そうね、そう呼ばれる力ね。でも、実際に私は貴女が今日ここに来るということを知っていたわ。命珠を抱えた、転生後の巫女姫がここに訪れることを」


「…………っ!」


 どういうことなのだろう。

 あるはずのない力だと教わったのに、それを持つと言う人がこうしてあたしの目の前にいる。

 あたしがこの宿に泊まるという情報をどこかで手に入れた? でも、どうやって? あたし本人ですら、数時間前に知ったことなのに。

 先読みの力なのかは分からないが、何かしらの力を持っているのは確かなのだろう。

 カインがあたしに施した術には、消失した古代文字で書かれた化石レベルの書物を読み解いたものがあると、カインの口から聞いたことがあった。

 触れただけでそれが分かるなんて、ただの占い師であるはずがない。


「貴女が知りたいことは、次に会えたときに話してあげる。本題に入りましょう。

私は今日、貴女に会うためにここに来たの。貴女がこれから出会うことになる災厄を、ほんの少し逸らすために」


「災厄? あの、それを教えてくれるって言うんですか?」


 全てを信じたわけではない。でも、この人は確かに何かを知っている。

 『災厄』という禍々しい言葉に背中がぞくりとするのを感じながら訊いた。しかし、ローブはゆっくりと左右に頭を振った。


「いいえ。全ては教えられない。そこまで未来に介入することは、先読みには許されていないの」


「じゃあ知っているってだけで、何もできないってことですか?」


 不安を煽るだけってこと? つい声が荒くなってしまう。 


「さっきも言ったでしょう? 私は、ほんの少しだけ、手を加えることしかしかできないの。未来を大きく変えることはできない。

 でも、少し軌道が変わるだけで、結末は変わることもあるわ。

 滝壷に向かってただ流れていくしかない舟でも、櫂一つ与えられたら、岸に辿り着く未来があるかもしれない」


「結末は、変わる……。あの、あなたにはこの先の、結末と呼べる未来を知っているんですか?」


 背筋の寒気は、体中を支配し始めていた。

 この人は、あたしたちのの行く末を知っているのかもしれない。

 しかしそんな途方もない、ありえるはずのないことが、ありえるのだろうか?


「さあ、どうかしら? それは、幻のようなものだもの」


 答える気はないらしい。代わりにローブの胸元から何かを取り出した。

 コトン、と小さな音を立てて置かれたのは、真っ二つに割れた珠の、半分だった。


「さあ、これが貴女に差し出す櫂よ。受け取って」


「これって割れた対珠、ですよね? これが、何かの役に立つんですか?」


「あら? これが対珠だって、よく分かったわね」


 面白そうに言って、教えは誤ってないのね、と続けた。


「魂に刻まれる、なんて嘘かと思ってた」


「え?」


「いいえ、なにも。そう、これは対珠よ。でも、割れているわけではないのだけれど」


「そうなんですか?」


 あたしの胸元にある対珠は綺麗な球形だし、対珠というのは球形なのだと思っていた。

 以前、カインも完全な球体に近いほうがいい、というようなことを言っていたし。

 しかし、実際には色んな形があるものなのかもしれない。


「この対珠に関しては、これが正しい形なのよ。

 いい? これをずっと身につけておきなさい。絶対に手放してはだめ。わかった?」


 す、と対珠を押しやられたので、おずおずと摘み上げた。色合いは、あたしの持っているものとよく似ている。透明感のある鮮やかな赤で、中央にいくにつれて色が濃くなっているところも同じだ。

 ただ、あるべきはずの半分が、ばさりとなくなっている。


「櫂、にこれがなるんですか?」


「信じれば、ね。そしてあなたが岸に辿り着いたときにはきっと、望むものを手に入れられるはずよ」


「……ええ、と。じゃあ、あの、頂きます」


 じ、と見つめられているのを感じながら、ベストの胸ポケットにそれを押し込んだ。布越しにふくらみを確認して目の前の人を見る。


「あの、ええと」


「今日はもう、おしまい。部屋に戻りなさいな」


「え?」


「その石がきっと私たちを再び引合わせるはず。次に会ったときに、色々話しましょう、サラ」


 ゆらりと手が揺れたかと思うと、左側の燭台の火が消えた。室内が一気に薄暗くなり、つい腰を浮かせかけた。


「あ、あの!?」


「血を共有した者を慈しみなさい」


 右側の火も消えた。

 真っ暗になり、ガタンと大きな音を立てて立ち上がると同時に、後ろから腕を掴まれた。


「ひ!?」


「占いはお済みのようですね、ユーマさま」


「シ、シルさん!?」


 酒場の明かりを背にしたシルさんが、カーテンの隙間から身を乗り出すようしていた。


「お部屋のランプに油も足しました。もう戻られますか?」


「あ、えと……、え?」


 振り返ると、さっきまで座っていたはずのローブの人の姿が掻き消えていた。

 いついなくなったの? 動く気配なんてしなかったのに。


「ユーマさま? お部屋までついて行きましょうか?」


「あ、いえ……、平気、ですけど」


「では、こちらへどうぞ。足元にお気をつけて」


 シルさんに引かれるようにして、喧騒の酒場に戻った。

 そこは変わらずケイルの煙とお酒の匂いが充満しており、女の子たちは忙しそうに給仕をしている。

 今まで自分が身を置いていた空間とは全く違う、ごちゃごちゃした空気に一瞬立ち竦んでしまった。

 さっきのあの人との会話は一体何だったんだろう。あの空間とここは本当に一続きだったのだろうか。


「あの? どうかなさいましたか?」


「あ……いえ」


 ここにいても仕方ない。部屋に戻ろう。二人が戻ってきていれば、今のこの話をして、意見を聞いてみよう。

 お部屋まで付き添いましょう、と言うシルさんに従って、部屋に戻ろうとした。


「ん? どうかなさいましたか、ユーマさま」


 二階へ向かう階段の下で、酒場を振り返っていると、不思議そうに訊かれた。


「あ、の……、どうしてみんな笑ってるんでしょうか?」


 どうしても、納得がいかない。こんな状況で、笑ってお酒を飲める心境が分からない。

 見上げたシルさんは、眉を下げて、ふ、と笑った。


「ここに集う者たちは、笑うしか、心を保つ術がないからです。死ねぬ、しかし死ぬためにいるこの街では、皆が恐怖を忘れようと必死なんです」


「え……」


 がやがやと騒がしい酒宴に目をやった。

 ぐいぐいと酒を流し込み、顔を真っ赤にしながら笑う人。肩を叩きあい、杯を合わせながら大きな声で話す人。


「外側だけじゃなく、よく見てごらんなさい。皆、瞳の奥がもう死んでるでしょう?

 死人の宴なんですよ、これは」


 言われて、注意深く見て、初めて気がついた。

 みんな、どこか虚ろだ。騒がしさがどこか空周りしているような感じなのだ。


「分かりましたか? 本当は誰も、笑っていないんです」 


「は……い……」


 さっきまでただの騒乱だと思っていた風景が、急に物悲しいものに思えてきた。


「一つ、教えておきましょう、ユーマさま」


「え?」


 あたしと同じように酒場に視線をやったまま、シルさんは続けた。


「外観に惑わされないように。相手の瞳の奥を覗くことを心がけなさい」


「は、い……?」


 シルさんを見上げた。背の高いシルさんは、見上げても表情が窺えない。

 この様子を、ただの宴会だと思ってしまったあたしを諌めてくれているのだろうか。


「貴女はそれができる。これも、力の使い方の一つです」


「ち、から?」


「そうです。さ、そろそろお部屋へ戻りましょうか」


 シルさんはついと視線を階段に向けた。


「あ、えと、もう大丈夫です。一人で戻れます」


「ふ、む。そうですか。では、私はこれで失礼します」


 言い置いて、シルさんは『死人の宴』と自ら呼んだ場所へ去って行った。

 その後ろ姿を、呼び止める言葉が見当たらず、見送った。

 さっきの言葉、どういう意味合いで口にしたんだろう。占い師の言葉といい、分からないことだらけだ。

 呆然としていると、背中にどん、と衝撃があった。


「おう、あぶねえぞ、坊主」


 ぶつかったのは、足取りも覚束ない、深酔いした男の人だった。

 無精ひげで覆われた頬はこけていて、目だけがぎょろぎょろと浮き出ていた。

 瞳を覗き込まなくとも、輝きはなく、生気と呼べるものがないのがわかった。


「じろじろとなんだ、坊主。喧嘩でもやりたいのか? ああ?」


「あ! いえ、すみません!」


 無意識にまじまじと見てしまっていたらしい。男が急に気色ばんで、だん、と足を踏み鳴らした。謝ってすぐにこの場を離れようと、慌てて頭を下げた。

 しかし、ぐいと胸元を掴まれ、酒臭い男の顔の近くに引き寄せられた。


「……か、はっ、く、苦し……」


「んん? 坊主、てめえ女みてえなツラしてんな。身なりは悪くねえが、男娼か?」


「ち、ちが……」


「こんな場所じゃ客もつかねえだろ。なんならわしがカリム酒一杯で買ってやろうか、んん?」


 ぐいぐいと胸元が締め付けられる。息苦しさに咳きこむあたしに構わず、男は見た目から想像もつかないほどの力であたしを引き上げた。つま先が地を離れ、体が宙に浮いた。


 ど、どうしよう。誰か助けて!


「なにしてくれてんだい、あんた」


 と、鋭い声がした。その声の主に濁った視線をやった男が、しまった、というように目を見開いた。と同時に、掴んでいた手をぱっと離す。

 吊られていた体が急に自由になって、あたしはどすんと尻餅をついて落ちた。


「マ、マダム。いや、あのわしはその、この坊主を」


「買うとか何とか、言ってたねえ? でもねえ、その子はアタシの大事な客なんだ。止めてもらえるかい」


 けほけほと咽ながら見上げると、腕組みをして、男をじろりと睨みあげるシルヴェーヌさんがいた。

 男は蛇に見つめられたカエルのように身を竦ませ、言い訳のようなことをもぐもぐと言っていたが、


「す、すまねえ。知らなかったんだ」


 と頭を垂れた。


「酔うのはアンタの好きにしていいけどね、こんな坊やに絡むような真似は止めな」


「あ、ああ。そうする。すまねえな、坊主」


 言い置いて、男は逃げるようにしてその場を去った。その背中が酒場の奥へと消えていくのを目で追っていたシルヴェーヌさんが、あたしを見下ろした。


「大丈夫だったかい? すまないね、ウチの客はみんな躾けがなってなくてね。ほら、立てるかい?」


「あ、すみません」


 指輪がたくさん嵌められた手を差し出され、握り返した。手を借りて立ち上がる。


「助けてくれてありがとうございました」


 ぺこんと頭を下げて、存外背の高いシルヴェーヌさんを見上げた。と、シルヴェーヌさんは握った手をまだ離してくれない。


「あ、あの?」


「あんた、女なのかい?」


「は」


 ぎゅうとあたしの手を握ったかと思うと、今度は二の腕をがっしと掴んだ。肉付きをみるかのようにべたべたと触られる。


「うん、女だね。一体どうしてまた男の格好なんかして、こんなところに来たんだか」


 確信したのか、ぽいと腕を放るよう離し、ため息をついた。


「あ、あの……」


「セルファもどうしてこんな子を……」


 ちらりとあたしに視線をやり、分からない、というように頭を振った。


「あ、あの、あたしの性別、言わないでくれると、その」


「言いやしないさ。しかしアンタ、この街の事情はちゃんと聞いたんだろうね?」


「は、はい、聞きました」


 頷くと、再びため息。


「坊や……じゃないか、ええと、ユーマだったね。

 アンタの保護者の野郎どもは何してんだい。こんなところを一人でうろうろさせちまってさ」


「あ、あの、外に、行ってます」


「ふうん、外、ね。そうかい」


 少し考え込むように口を閉じたシルヴェーヌさんだったが、ひょいとあたしの手首を掴んだ。


「それならアンタ、暇なんだろう? 少しアタシに付き合いなよ」


「え? え?」


「さあ、こっちだよ」


 断る余地など一切なく、ぐいぐいと店の奥に引かれていった。


「さあ、入んな」


 空の酒樽が積み重なった店の裏口を抜けたところに、小屋があった。

 周囲には枠が外れてバラけた樽や、足が折れたテーブルなどが無造作に置かれている、倉庫のような古びた小さな建物だ。

 店にあったランプを持ってきていたシルヴェーヌさんが、ぼろぼろのドアを引いて、中を差し示した。


 こ、ここに何かあるの? 真っ暗だし、よく見えないんだけど。


「さあ、早く入んな」


「は、はい」


 押されるようにして、中に入った。シルヴェーヌさんが後に続き、ガタンとドアを閉めた。

 ランプの灯りで、室内がようやく見渡せた。


「あ、あれ?」


 そこは外観からは想像できないような、奇麗に整えられた部屋だった。

 ベッドに、テーブル。カウチもあり、それらはあたしたちが泊まっている部屋のものよりも質が高いように感じる。

 部屋の隅にある金のランプ掛けなどは細かい彫細工が施してあり、シルヴェーヌさんが手にしていたランプを掛けると、キラキラと光った。


「そこにでもお座りな」


「は、はい」


 艶やかな赤い花が刺繍された布貼りの椅子を勧められ、腰掛けた。ふんわりと柔らかく、体が微かに沈んだ。


「アンタ、山の子だろ」


 キャビネットのような棚から小瓶とグラスを取り出しながら、あたしに聞いた。

 この世界に来てからは器と言えば木製か焼き物しか見ていなかったので、透明なガラス製のグラスが珍しく感じる。切子細工のようなものが施されているそれはきっと、この世界では高価なものだろう。

 グラスを眺めていたあたしは、シルヴェーヌさんの問いを満足に聞いておらす、間抜けな返事を返した。


「え、あ、へ?」


「へ? じゃないよ。山だよ。北の山脈の子だろって訊いたのさ」


「山脈……? あ! ああ、はい。オルガから来ました」


 回りくどい質問の意図をようやく察して、こくこくと頷くあたしに、シルヴェーヌさんはため息をこぼした。小瓶の中身をグラスに注ぎながら、ちらりと視線を寄越す。


「その名前は、この街では禁句だよ。ここに人の耳はないとは思うけど、それでも用心するに越したことはない。

 この街は、敵の本拠地の膝元なんだよ。自分の素性はしっかりと隠しておきな。あの土地のモンだってバレたら、殺されちまうよ」


「……っ! は、はい!」


 恐ろしい言葉に、背筋を伸ばした。そうだ、ここはリレトのいる街なんだ。いくら安全だと言われたからって、気を抜いちゃダメだ。


「こんな普通の子をどうしてまあ、セルファたちは連れてきたんだろうねえ」


 あたしが緊張したのを見てとったらしい、シルヴェーヌさんがくすりと笑い、続けて不思議そうに呟いた。


「連れてこなくちゃいけなかった、っていうけど、さてどういうことなんだか」


 小瓶の液体は、お酒らしい。甘い香りが、あたしの鼻先まで漂ってきた。


「え、ええと、その」


 あたしのことを話したほうがいいのだろうか。いや、黙っておいたほうが?

 言葉を捜していると、言わなくっていいんだよ、と答えをくれた。


「アタシが敵だったらどうすんだい? その話がもし重要だったら大変なことになるよ? 味方だと見極めきれてない者においそれと情報を漏らすもんじゃないのさ。

 今のはアタシの独り言だったんだから、気にしないでおくれな」


「で、でもセルファがシルヴェーヌさんはいい人だ、って……」


「それは有難いねえ。でも、あいつとは三年ぶりに再会したんだ。長い時間だから、敵に変わってることもあるかもしれないだろう?」


 悪戯っぽく笑ってから、グラスに半分ほど満たしたお酒を綺麗な喉を露にしてぐい、と呷った。飲むかい、と訊かれて首を振って断ると、残念そうに肩を竦めた。


「ああ、でも」


 継ぎ足したお酒をちろりと舐め、ふふ、と笑った。


「でも、あいつの話だけは、少し聞かせてもらいたいのさ。いや、ちょっとしたことでいいんだけどね」


「あいつっていうと?」


「金眼の犬っころさ。酷い怪我だったのにまあ、生きてるなんてずぶといねえ。今はどんな調子だい?」


 昼間の、セルファとの会話のことだろうか。確か手負いの獣、とかそういう話をしてたよね。

 でも、金眼の犬なんて知らないし……って、金の瞳?

 それならば、一人だけ連想する人がいる。それに、犬っぽい人、だとすれば尚更その人しかいないように思う。

 名前を口にしかけて、慌てて噤んだ。


「ええーと、あの、大型で、金眼に金の毛並みの、ええと、犬の話ですか?」


 言葉を選びながら訊くと、そうそう、あのえらく綺麗な奴、と頷かれた。

 間違いない、レジィだ。


「すごく元気です。ええーと、山の中を走り回ってます」


「それはなにより。じゃあ、心も生きてんだね?」


 え、心? 首を傾げて、けれど頷いた。


「心も元気、です。いつもにこにこ笑ってるし、溌剌としてるし。生き生きしていますけど」


「そうかい! それはいい」


 シルヴェーヌさんは嬉しそうに言って、お酒を並々とグラスに満たした。それをく、っと一息に飲み下す。


「あ、あの。その犬ですけど、いつ怪我なんてしたんですか!?」


 シルヴェーヌさんの話からすると、レジィは命に関わるような怪我を負っていたことがあるってことだ。

 訊くと、シルヴェーヌさんは、知らなかったのかい、と言って、眉間にシワを寄せた。


「言っちゃまずいことなのかねえ。山の子だからって安心してたんだけど、間違いだったかね」


「あ、あの、教えてもらえませんか? 怪我のことと、その、心のことも」


 心も生きてるか、なんて、以前は死にかけていたかのような質問だ。

 あのレジィを、体だけでなく心まで傷つけるだなんて、一体何があったの? 


「さて。言っていいものかねえ。あいつがわざと隠してるってんなら、アタシがべらべら喋るのもうまくないしねえ」


「お、お願いします! あたし、あの人のこと知りたいんです!」


 ブランカに出発するあたしたちを、わざわざ見送ってくれたレジィの笑顔を思い出していた。気をつけてな、と頭を撫でてくれた、手の平の温もりも。

 あの温かさは、この世界に来てからずっと、あたしを支えてくれている。

 そんなレジィのことを、もっと知りたい。それが辛い過去だとしても、知っておきたい。

 知っていれば、いつかあたしだってレジィの助けになれるときが来るかもしれない。

 ふむ、と腕を組んであたしを見下ろすシルヴェーヌさんに、深く頭を下げた。少しの間を置いて、頭上でふん、と笑う声が聞こえた。


「まあいいか。アタシが知ってることなんて、ほんの少しだしね。

 だからさ、あんたの望む話はしてやれないかもしれないよ?」


「それでもいいです。些細なことでも!」


 顔を上げて、瞳を真っ直ぐにみると、シルヴェーヌさんは思い出すように、視線を遠くに彷徨わせた。


「もう三年前、になるかねえ。大神武官とその補佐官の命を狙った賊が、夜中にヘルベナ神殿に侵入したのさ。

 あの日はそりゃあもう、すごい騒ぎだったよ。神殿から火柱は上がるわ、街の中は神武団から国家騎士団まで駆け回ってるわでね。

 アタシはいつものようにここで酔客の相手をしてたんだけど、酷くなる一方の騒ぎに野次馬根性が湧いちまってさ。店の屋上に出て、様子を眺めてたんだ」


 三年前というと、サラが命珠を抱えて死んだ年だ、とすぐに気付いた。

 補佐官―リレト―を狙った賊、というのは、それは命珠の破壊を試みたサラたちということでいいのだろうか。

 その際に怪我を負った、そういうことなの?

 サラは神殿の奥で命珠に喰われて死んだのだったっけ。その場にはレジィやカインたちもいて、リレトも現れたと。


 ここに来た当初にレジィから聞いた話を思い出す。

 そういえばその時、サラの死後、彼らがどうやって神殿から脱出したのかは聞いていなかったんだ。

敵の本拠地の、しかも深層部から、一体どうやって逃げ出したのだろう。


「その一年前にも、似たような騒ぎがあってさ。その時は巫女姫サラ様が賊に拉致されて、惨殺されるっていう恐ろしい結末を迎えたんだよ。

 今回はどうなっちまうんだろうってヒヤヒヤしたね」


 邑を潰されたレジィが、一番最初にリレトの命を狙ったときだ。そこでサラに出会い、助けられて、カインの術で逃げ出したという。


「しかしまあ、大神武官や補佐官が殺されるってんなら、よかったんだけどねえ。あの時には既に民衆狩りは始まってたし、奴等をどうにかしてくれるってんなら、是非ともお願いしたいところだったよ」


 皮肉に言い捨て、くつりと笑った。


「しかしそう上手くはいかないもんさね。賊は捕らえられ、その場で殺されたそうだ。

 騒ぎも数刻ほどで落ち着いたんだよ。

 屋上にいたアタシも、見物は止めて店に戻ろうとした。その時にね、裏手、この小屋の前でごそごそやってる影をみつけたのさ。

 すぐさま下に降りて、様子を窺ったんだけど、そこにいたのは深傷を負った犬を抱えたセルファだった」


「セルファ、ですか……?」


「そう。あいつはウチの常連だったからね。この小屋のことも、アタシの性格もよく知っていたし、隠れるには打って付けだと思ったんだろうねえ。お陰で大変だったよ」


 シルヴェーヌさんが見つけたときにはレジィは血まみれで、意識もなかったそうだ。

 抱えたセルファも全身に血を浴びており、それはレジィの血だけではなかった。

 シルヴェーヌさんは知り合いだという闇医者を呼び、二人を診てもらった。


「二人とも傷だらけだったけど、あいつのほうが酷かった。命を奪う傷だって医者でもないアタシにもよくわかったよ。中でも、背中に大きな太刀傷が一つあって、あれが致命傷になりかねなかった。

ばくりと割れてるもんだから縫わなきゃならなかったんだけど、麻酔薬もなけりゃ、術が使える巫女も神官もいない。

 だからさ、アンタの後ろのそのベッドで、何の処置もないまま傷を縫合したのさ。アタシとセルファで手足を押さえつけて、口には布を咬ませてねえ。

 声を上げたら、外でうろうろしてる神武団たちに見つかっちまいかねないだろう? だけどあいつは強くてね、低い唸り声を一つ漏らしただけだったよ。まあ、噛み締めすぎて、布が真っ赤に染まったけどね」


 思わず背後のベッドを振り返った。

 揺れるランプの灯りの下での、淡々としたシルヴェーヌさんの語り口はその時の光景を再現するかのようだった。今まさにレジィが苦しんでいるような気がして、身震いした。


「外の騒ぎとあいつらが関係しているのかどうかは、知らないよ。でも、神武団たちに見つかっちまったらどう考えてもしょっぴかれる怪しさだよねえ。

 仕方ないから、ここでしばらく、面倒みてやるって言っちまったんだよ」


 多分、というか絶対気付いていただろうに、シルヴェーヌさんは『知らない』と殊更強く言った。

 この人は分かっていてレジィたちを助けたんだ。

 しかし、そんなあたしの考えが分かったのか、シルヴェーヌさんはふん、と鼻を鳴らした。


「まあ、あいつらが神殿を襲った賊だってんなら、二・三回ぶん殴っておけばよかったと思ってるんだけどね。

 あいつらが成功していたら、今ほどにはここも荒れてなかっただろうからねえ」


 言って、すぐに肩を竦めた。


「ああ、いや、それでもやっぱりできなかったかねえ。あの時のあいつに、そんなこと。

 セルファはともかくとして、犬っころの方なんて生きてるだけの人形のようだったからね。

 息はしてるけど、食べ物を受け付けず、喋らず。顔は無表情で、目は開いてるけどなーんにも見ちゃいないんだから」


 耳を疑うような内容で、言葉が出ない。


 本当にあのレジィの話なの? だってあの人は生命力に満ち溢れてる。

 でも、シルヴェーヌさんは嘘を言っているそぶりなんてない。苦々しい思い出なのか、唇を歪めていた。 


「無理やり水やスープを流し込んでみたけど、食べたとは言えない量でね。薬だって飲もうとしてくれない。

 そんなことじゃあ怪我が治るはずもないだろう? せっかく助けた命なのに死なせちまうって、あの時は本当に焦ったねえ」


「…………そう、ですか」


 信じられない、と言いたいのだが、当然なのかもしれない、と思う。

『唯一無二の女』と評したサラの、凄惨な死を目の当たりにした後なのだ。心が死にかけてもおかしくない。

 レジィはそれほどまでにサラが大切だった、そういうことなのだ。


「それから半月ほどここにいたけど、目を離した隙にいなくなっちまった。

 二人ともまだ治ってないし、あいつなんか自力で立てない状態でさ、こりゃ死んだな、と思ったねえ。

 でも、あんたの話だと、あいつは元気に生きてるみたいだ。アタシの知っている奴とは別人のようだよ」


 確かに、あたしの知っているレジィはいつも笑っていて、明るくて、シルヴェーヌさんの話のレジィとはまるで別人だ。

 そんな、心が死んでいたという酷い状態から、レジィはどうやって回復したのだろう。レジィにとっての三年間って、どんなものだったんだろう。

 想像もつかなくて、無性にレジィの笑顔が見たくなる。あたしを迎えに来てくれた時の、曇りのない温かい笑顔を、今。


「セルファも昔みたいに笑顔を見せてたし、正直ほっとしたよ。

 こんなご時世だ。関わった人間が息災だって聞けるのが、一番嬉しいよ。と、しゃべりすぎちまったかねえ。さあ、アタシの知ってる話はもうおしまい」


 いけないいけない、とシルヴェーヌさんはバツが悪そうに口を噤んだ。


「あ、あの。教えてくれてありがとうごさいました」


 ぺこんと頭を下げると、シルヴェーヌさんは返事をせず、グラスに注ぎ足したお酒を半分ほど一息に飲んだ。

 ちらりとあたしを見る。


「アンタ、あの犬っころのこと……」


「はい?」


「ああ、いや何でもない。ババアは詮索好きでよくないねえ」


「ババアってそんな、凄く若いじゃないですか」


「あら、ありがとね。でも、どうだろうねえ?」


 ふふ、と笑う。弧を描いた唇は艶やかで、流す視線も色っぽい。

 果たしていくつなんだろうか。聞きたいけど、年を訊くのって失礼すぎるし。 

 躊躇ったあたしに意味ありげに笑って見せて、シルヴェーヌさんは残りを飲み干した。


「話に付き合ってもらって悪かったね。さて、そろそろ部屋まで送ろうかね。もう夜も深いし、早く寝ないと肌に悪い」


 カタンとグラスを置いて、ランプ掛けから灯りをとる。


「さあ、行こうか」


「は、はあ」


 先を行く背中を追おうと椅子から立ち上がった。

 と、ドアに手をかけたシルヴェーヌさんの動きが止まった。背中を向けたまま、「ねえ」と呼びかけられる。


「頼みを一つ、きいておくれでないかい?」


「頼み、ですか? できることなら、しますけど」


「なあに、簡単な伝言さ。あの犬にね。まだ動くつもりでいるというのなら、奥通りのシルヴェーヌが、いや奥通りの民が手を貸したい、と」


「え……、あ……っ!」


 どういう意味? 犬……レジィが動くつもりって? 頭で言葉を反芻して、ようやく分かった。

 レジィが、オルガがリレト討伐に再び動き出すのならば手を貸してくれる、そういうこと?


「生死の境から戻ってきたってことは、活路を見いだせたということかもしれない。あいつは、この街が、国が助かる可能性を、知っているのかもしれない」


 自らに言い聞かせるように呟いた、振り返らない背中を見つめる。

 もし、あたしがサラの持っていた何かを手に入れることができたら、それがリレトを倒す可能性となる、と言えるはずだ。


「可能性は、あります」


 断言したあたしに、シルヴェーヌさんの肩が揺れた。


「そのために今、セルファやゼフが動いています。可能性はあります」


 リレトのいる神殿は、神武団を抱える大きな敵だ。オルガ邑に賛同してくれる人たちがいるというのなら、願ってもないことではないだろうか。しかも、ここは神殿のすぐ近くだ。遠く離れたオルガにはできないことも、できるのでは。

 でも、どうしてそんなことを急に?


「四年前に山賊討伐の話が出たとき、反対した者は少なかった。というより、山中の族のことなんて、誰も気に留めちゃいなかったんだ。

 でも、それがいけなかった。人の命を軽んずれば、己の命も軽くなる。彼らが許してくれるのなら、手を貸したいのさ」


 あたしの沈黙を察したのか、シルヴェーヌさんが言葉を重ねた。


「いや、これはもうアタシたちが動くべき問題なんだ。だから、そうさね、手を組んでくれないか、と言ったほうがいいね」


「手を組む、ですか」


「そう。命を搾取されているアタシたちと共に、神殿を……討たないかと」


 シルヴェーヌさんの言葉に嘘はない。


「はい。必ず伝えます」


 はっきり答えると、頼むよ、と安堵したような声が返ってきた。




「――なんだ。二人とも帰ってきてないようだね」


 灯りのついた部屋は人気がなくて、中を覗きこんだシルヴェーヌさんがため息をついた。


「大丈夫、でしょうか」


「大丈夫だろ。二人ともしぶとそうな顔してるし。じゃあ、おやすみ」


 顔つきの問題なのかな、と思うようなことを言って、シルヴェーヌさんは立ち去った。

 誰もいない部屋に入り、カウチにごろんと体を転がした。

 ふうー、と大きなため息を一つついた。


「部屋を出ただけで、色々ありすぎ……」


 不可解なことや、驚愕したことが続けざまに起きたような気がする。まずはそれを整理しなくては。

ふと、壁に掛けられたランプを仰ぎ見た。ほんわりと部屋を照らしてくれているのは、油をさしてくれたお陰だけれど、これさえ切れなければ、部屋から出なかったのに。

 そしたら、何事もなく一晩を過ごしたのだろうし、あの不思議な占い師とも出会わなかったのだろう。


「あれ? もしかして油は故意に切れた、とか?」


 余りにも熱心に占いを勧めてきたシルさんを思い出した。シルさんとあの占い師は無関係なのだろうか?

 実は二人は仲間のようなもので、あたしが部屋から出てくるように仕向けたのでは?

 部屋の手入れはシルさんの仕事のようだし、油の切れる時間を見計らって調節することも可能だろう。


「ありえなくもない、かな……」


 思えば、シルさんが去り際に残した台詞も気になる。あれも、占い師の言葉とどこか重なるような気がするし。

 じゃあ、シルさんって一体何者? あの謎だらけの占い師とどんな関係なの?

 大体、あの占い師自体、何者なの? どうして対珠を持ってたの?

 疑問符ばかりで、頭が混乱してくる。答えは一つとしてでないのに、疑問ばかりが増えていく。

 次第に、くたびれたカーテンの向こうの空間で起きたことは、現実だったのだろうか、とすら思えてきた。


「あ……、いや、現実だよね」


 胸元のポケットから、半球体の対珠を取り出した。

 灯りを反射して輝く珠。間違いなく、あの占い師から貰ったものだ。


「これが、何になるんだろう……」


 対珠はもうサラのものを持ってるしなあ。いや、もしかしたら数があった方がいいのかな。数の分だけ力が増す、とか。でもそうだとしたら、リレトは対珠狩りなんてことをやりそうだけど。


「カインが戻ってきたら、聞いてみよう」


 角度を変えて、対珠を眺める。ああ、不思議な色だよなあ、これって。

吸い込まれてしまいそうな、深みのある赤は、さっきのシルヴェーヌさんの口紅の色を思い起こさせた。

 ああ、そうだ。さっきのシルヴェーヌさんとの話もしておかなくちゃいけないんだ。重要なことだし、できたらこの街にいる間にカインとシルヴェーヌさんで話をしてもらっていたほうがいいように思う

 それに、セルファに三年前の話を聞きたい。レジィのことや、ここから消えたあとのことも。いやでも、セルファにとって苦しい思い出だったら、簡単に訊けないか。


 何にせよ、早く二人とも帰ってこないかな。話すことがいっぱいあるのに。

ぼんやりと対球を見つめていたあたしだったが、そのまま眠りに落ちてしまっていた――。



「起きなよ、カサネ。もう朝だよ」


「ふ、へ? 朝……」


 ぽすぽすと頭を叩かれる感覚で、目が覚めた。

 寝ぼけたまま瞬きを繰り返す。ランプの灯りではない、日の光に照らされた顔があたしを見下ろしていた。


「あ、れ? セルファ、だよね?」


 それは、セルファによく似た男の人だった。

 同じ顔なのだが、セルファと違って金髪が真っ直ぐに伸ばされているし、何より目尻の花がない。


「そうだよ。やだな、少し見た目を変えただけで間違えちゃうの?」


 ふふ、と笑う目元に少し物足りなさを感じるが、それはやはりセルファだった。


「そ、そんなことないけど……。ってあれ? いつ帰ってきたの?」


「夜中だよ。奥で寝ろって言ったのに、カサネってばカウチで寝てるんだもんな」


「え? あ、そうだっけ。でも」


 辺りを見渡せば、そこはあたしに割り当てられた奥の部屋だった。


「カインが運んでくれたんだよ。ぐっすり寝てたから、全然起きなかったみたいだね」


「ええ!?」


 一気に目が覚めた。

 ああ、あの時さっさとベッドに入っていればよかった。間抜けな寝顔を見られた上に抱きかかえられてしまうなんて、恥ずかしすぎる。

 と、あることに気付いて慌てて体を起こした。


「ど、どうしたの? その格好……」


 容姿の変化に加えて、いつもと服装が全く違ったのだ。

 セルファは普段はシャツを重ね着し、幅広のゆったりしたパンツを履いている。それに、ブレスレットやネックレスなど様々なアクセサリーを身につけている。

 しかし今は、かっちりとした深緑の制服のようなものを着ていた。

 長い丈の上着は、襟元と袖口が黒糸で刺繍が施されている。胸元は刺繍と同じく黒いボタンが二列、規則正しく並んでいた。右肩には、金糸で紋章のようなものが縫取られている。よくよく見れば、二匹の蛇が絡まりあっている意匠だとわかった。腰には細身の鞘が一差し。

 制服というよりは、軍服や隊服に近いような……。


「国家騎士団の団服だ。セルファのそれは騎馬を許された二等騎士のものだ」


「へえ、そうなんだ、なんだかかっこいいね……って、わあ!」


 セルファの後ろから、カインが顔を覗かせて、説明してくれた。それに相槌をうとうとして、驚いた。

 そのカインも、いつもと全く服装が違ったのだ。

 セルファと似たような服なのだが、カインの場合は一目で分かるほどの上質な漆黒の布で仕立てられており、刺繍などといった飾り気が一切ない。

 肩から胸ポケットにかけて、細い銀鎖が幾重にも重なるように流れている、それのみが唯一の細工で、しかしそれが衣装を引き立てていた。

 腰の差し物も、セルファのそれと違い細かい彫細工が施されており、宝石まで嵌められている。

この世界の騎士団の団服の知識などは一切ないあたしだが、カインの方が身分が上だろうと見当がついた。

 そして何よりも大きな変化が、カインがあの長い前髪をオールバックに流していることだった。

 いつもは半分以上隠れた顔が露になっており、顔の造りを隠すのは焦茶色の眼帯のみ。


「声がしたから起きてると判断して中に入ったんだけど、悪かったのか」


 頭から足先までまじまじと見ていると、カインが不服そうに顔を背けた。綺麗な顔が歪むのが、いつも以上に見て取れた。


「ち、違。そういうことじゃなくて! ええと、あの、二人ともそのいでたちはどういうこと?」


「今日はヘヴェナ家に行くんだっただろう。その為の支度だ」


 それは分かっているけど、だからってどうしてそんな格好を?


「オルガからサラの生まれ変わりを連れてきましたー、なんて言えないだろ。オレたちは、異国の巫女姫の観光に付き従う国家騎士団員ってわけさ」 


 首を傾げていたあたしの疑問が分かったのか、セルファが教えてくれた。

 それに続いて、カインが説明してくれた。


 今日の設定は、こういうことらしい。

 あたしは南に位置する小国、ゼユーダの新しい巫女姫で、親交のあるアデライダ国の国王に、就任の挨拶に来た。

 ヘルベナ神殿なども訪れたあたしは、名を馳せた巫女姫サラにいたく興味を持ち、サラの生家を訪問したいと熱望。それを叶えるため、今日ヘヴェナ家に非公式に伺う運びとなった、と。

 そして、カインとセルファは、国の賓客扱いであるあたしに護衛として付けられた国家騎士団員、なのだそうだ。


「な、なんか大掛かり、っていうか……」


 国の賓客だとか、国家騎士団だとか、縁のなかった言葉にたじろいでしまう。

 もっと簡単に会えるものなのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。


「相手は公爵家だからな。それくらいのことをしないと接見できない」


「そうなんだ……」


「それに、神殿から滅多に出ることのない巫女が、俗世の家を訪問することは非常に稀な話で、それ故に巫女を迎えた家は神の加護を得られるといわれている。異国の巫女姫だって無論、例外ではない。

となれば、いくら信仰に篤くないヘヴェナ家でも、巫女姫を歓待するだろう。

 相手が友好的なほうが、記憶の断片が引き寄せられ易いんじゃないかと考えた」


 なるほど、と感心する反面、だからって容易につける嘘じゃないよねとも思う。

 まず、二人の着ている団服って一体どうやって手に入れたんだろう。

 セルファが似せて作った贋物? でも、カインの着ているものを見ると、本物に間違いないように感じる。しかし、どんな国であっても、公職の制服なんてものはそう簡単に手に入らないんじゃないだろうか。

 それに、国賓だとか異国の巫女姫だとか、そんな大きな身分詐称をして、見破られないだろうか。

 思いつくままに訊くと、カインは大丈夫だ、と平然と答えた。


「手は回している。団服も本物だし、王族の紋章印の入った書状も準備しているから、易々見抜けるものでもないだろう」


「お、王族!?」


 王族の書状ってそれは間違いなく文書偽造だよね? バレたらそれこそ問題なのでは?


「ともかく、接見に問題はない。カサネはそんなことは気にせず、ただ血が呼び合うように相手の心に触れようとしてくれ」


「え? 心に、触れる?」


「心を近しくする、と言ったらわかるか?

 正直なところ俺も、血縁というものがどこまで個人の魂に作用するのか分からん。もしかしたら、体が触れるだけで何か起こるかもしれないし、感情を重ねて魂を共鳴させるレベルまで持っていかなければ、変化はないかもしれない。これだ、ということは言えない。

 だからなるべく、相手の心に、感情に触れるように努めて欲しい」


 今回の最大の目的は、サラの記憶や力を引き出すこと。

 手の込んだ嘘をついてでも、それを成し遂げなくてはいけない。

 それがあたしから命珠を切り離し、破壊するきっかけになるのだから。


「……や、やってみる。少しでも、何か得られるように努力する」


 カインとセルファがじっとあたしを見ていることに気付き、深く頷いてみせた。


「頼む。じゃあ、俺はまだ支度が残ってるので、行く。セルファはカサネを頼む」


 小さく頭を下げてから、カインは隣室に戻ってしまった。次いで、部屋を出て行ったのか、ドアが開閉する音がした。


「さーて。じゃあカサネも巫女姫の衣装に着替えてもらうよー。

 あ、その前に、向こうの部屋に食事の用意がしてあるから、さくさくっと食べちゃって」


「あ、う、うん」


 セルファに促されて、ベッドから降りた。ぼやぼやしている暇はない。

 これから大変な一日が待っているんだ、気を張っていないと。


「まだ緊張しなくても大丈夫だよ。ほら、そんな顔しない」


 無意識に唇を強く引き結んでいたらしい。セルファに片頬を摘まれた。


「ぶひゃ。ひゃ、ひゃい。あ、あのひゃ」


 頬を摘む人の顔を見上げて、気になっていたことを思い出した。

 セルファは指を離し、ん? と目を開く。


「なに? カサネ」


「目尻の花……」


 呟くと、ああ、と花が咲いていた辺りを指でなぞった。


「ちゃんと消えてるよね? 肌地を濃く塗って隠してるんだ。あれ、気に入ってるんだけどさ、騎士団は墨入れは厳禁なんだって」


 不満げな口ぶりに、やっぱり入れ墨だったのか、と思う。


 カサネはあれ好き? と訊かれて、頷いた。


「あれがないと、セルファって感じがしない。すごく綺麗で、似合ってるし」


「はは、そっかー。じゃあ訪問が済んだらすぐに元に戻すとするかな。

 さ、ゼユーダの巫女姫に化けてもらわなくちゃいけないんだから、さっさと食事してきて」


「あ、はい」


 手早くパンとスープの朝食を終え、セルファに手渡された衣装に袖を通した。

のだったが、


「う、え……は?」


 姿見の前で、しばし固まった。


「カサネ? ちゃんと着替えたー?」


「あ、あの、セルファ? これ、あのなんだかあたしには派手っていうか……」


 ドアの向こうに待機している人に、うろたえながら答えた。


「ああ、ゼユーダ国の巫女装束は少し個性的なんだよねー」


 個性的といえば確かにそうなんだけど、あたしが気にしているのは、体のラインがめちゃくちゃ明確化されているってところなんですけど……。

 目の前の己の姿をまじまじと見つめる。

光沢のある、羽のように軽い布で作られたドレスは、さらりとした質感でとても肌触りがいい。

しかし、厚みがないせいか透過性があり、着ている人の体つきを浮き彫りにしてしまっているのだ。限りなく平原に近い胸元だとか、肉付きのよくないお尻だとか、あたしの貧弱な体つきが見事に晒されてしまっている。


「こ、これって、恥ずかしい、かも、しんないんだけど」


「大丈夫だって。オレがこれから手を加えるんだしさー。ねえ、もう着たんだよね? 入るよー」


「ちょ、待っ」


 止める間もなく、セルファはドアを開けて入ってきてしまった。


「うん、全然アリ。この衣装は黒髪に合うんだよねー」


 抱えていた、化粧品などが入った小箱をあたしの近くに置く。

 観察するようにじろじろ見られて、できることなら消え入ってしまいたい、と思う。


「は、はずかしいって。こんな服、着たことないし」


「馴れてしまえば大丈夫だって。ほら、いいからきちんと立って。うん、ここを少し詰めるか」


 以前のように、手際よく整えていくセルファ。

 それから、ゼユーダの慣習だという金細工のブレスレットを両腕に幾重にもつけ、首にも様々な石のついたネックレスを重ね付けした。耳にはちぎれそうなくらい重たい金環のイヤリング。編み上げのサンダルを履いたところで、衣装は終了。

 続けて念入りなメイクを施された。キャンバスにでもなったのかというくらい、様々なものを顔にのせた。

 髪にも香りのいいオイルをなじませ、櫛を通す。


「あ、そうだ。セルファ、あたしの髪、短いけどいいの?」


「ああ、ゼユーダは巫女姫昇格の際に一旦髪を切る風習があるんだってさ。世俗と切り離れるって意味合いらしいよ。カインからの受け売りだけど」


「ふうん。あ、痛い!」


「絡まってるからなー。カサネ、髪の手入れが甘いよ。毛先がぱさぱさじゃん」


「す、すみません……」


 これでもかというくらい櫛削られ、最後に額にかかるように石の嵌った金のサークルをのせられた頃には軽い疲労感を覚えており、、もうどうにでもして、といった心境になっていた。


「おしまい、っと。ふむ、なかなかいいよ、カサネ」 


 硬い木の椅子に深く座りこんだあたしを見下ろして、セルファが満足そうに頷いた。


「お褒めに預かり光栄です……」


「あとは、もう少しキリっとした表情でいてくれる? そんな腑抜けな顔つきはダメだよ」


「善処します……」


「ほらー、そんな風にだらけてないでさ、向こうの姿見で自分を確認してみなって。そしてオレの腕に驚けよー」


 ほらほら、とセルファに促されて姿見の前に移動する。


「う……わ……」


 目の前に、まるで猫、ロシアンブルーのような子がいた。

 つんとした、近寄りがたい空気を纏った、猫だ。

 目尻に鮮やかな緑のシャドウを差した瞳を大きく見開き、紅をさした唇も物言いたげに開いている。


 え? これって、本当にあたし?


 おずおずとその場で一回転してみると、目の前の子もふわりと衣装の裾を揺らして回ってみせた。


「あ、あたし……?」


 ぽかんと口を開ける。と、目の前の子も、馴染み深い間抜けな表情を浮かべた。

 それを見て、ああ、本当にあたしなんだと思う。

 だけど、やっぱりどこか信じられない。


「すごいだろ、オレ」


 角度を変えながら己を確認しているあたしに、セルファが自慢げに笑った。


「すごい! セルファって本当にすごいよ! 天才なんじゃない!?」


「知ってるって、そんなこと」


 最初は恥ずかしくて仕方なかった衣装も、不思議と気にならない。

 体のラインは相も変わらず露なのだが、全身につけた大振りな装身具のお陰か、さっきほど目立たなく感じるのだ。

 横に並んで立ち、しばし眺めたセルファが言った。


「カサネって体に凹凸がないからさー、中性的な感じだよね。少年神官でも通るよ」


「エエ、ソウデショウトモ」


 真っ直ぐに突いてきますね、セルファさん。

 でも確かに、自分でも感じてはいた。男のフリをしても通用するってことは、元々女性らしさに欠けてるんだな、と。

 多少なりとも女らしさがあれば、あたしはただ髪が短いだけなのだから、男のフリなんて難しい話だと思うのだ。


「あ。卑屈にとったね? 誉め言葉だったのに」


「ええー。誉めてなかったよ、今のはどう捉えても」


 頬を膨らませ、つん、と顔を逸らしてみせた。


「そうかなあ。性別を感じさせないって神秘さが増していいと思うんだけど」


 頭を掴まれ、くり、と強制的に正面に顔を戻される。確認するように、セルファの視線が動く。


「うん、やっぱりいいよ。今の君は間違いなく、誰がどう見ても、ゼユーダの新しい巫女姫だ。

 いいかい? 堂々と胸を張っているんだよ。ボロを出したらどんな事態になるか分からない。自分を巫力のある巫女姫だって信じるんだ」


 鏡越しに、セルファが言い聞かせるように優しく言う。


「あ、は、はい」


 そうだ。あたしはこれからゼユーダなんて知らない国の巫女姫として振舞わなくちゃいけないんだ。 それも、かつて自分の親だったという人たちの前で。

 そのことに記憶も思い出もないけれど、でも、それを思い出すために。


「ち、ちょっと震える、かも」


 胸元でぎゅ、と握った両手。重なったブレスレットがシャラシャラと小刻みに鳴った。


「そこまで気負うことないよ。オレもカインも一緒にいるしさ」


「う、うん……」


 ぎゅ、と唇を結んだ。と、ドアをノックする音がした。


「こちらの手配は全て済んだ。こっちはどうだ」


「ああ、終わったよ。どう? いいだろ」


 顔を覗かせたカインに見せるように、セルファがあたしを押し出した。


「うわ、セルファ! 恥ずかしいって」


 自分でもびっくりするくらいのいい仕上がりだけど、気恥ずかしい。


「…………。ああ、いいんじゃないか」


 しかしあたしの照れなど微塵も意味がなく。カインはちろりと視線を流しただけで、ぶっきらぼうに答えた。


 ……まあね。誉めてくれるなんて思ってませんでしたよ。

 

「支度ができたのなら、行くか。ああ、セルファ、帯刀を忘れるな」


「了解。さ、行こう、カサネ」


「あ、はい」


 先を行くカインを追うようにして部屋を出た。


「行ってらっしゃいませ」


 長い裾を踏まないように恐々歩いていると、低い声がかかった。

 見れば、リネン類を抱えたシルさんが立っていた。


「あ……、どう、も」


「昨日はごゆっくりお休みいただけましたか、ユーマさま」


 じ、と目の奥を探るような眼差しを向けられて、はっとする。

 ばたばたしていたせいで、昨日のことをすっかり忘れてしまっていた!


 それに、あの半球の対珠!


『絶対に手放してはダメ。分かった?』


 何故か逆らえない、不思議な声を思い出し、部屋にきびすを返した。


「ユーマ? 急にどうしたのさー?」


「わ、わすれもの!」


 驚いた様子のセルファの声を背に、部屋に飛び込んだ。

 ええと、確か眺めながら眠りに落ちたんだよね。で、起きたときには持っていなかった。

 カウチの周りを這い蹲って調べると、壁との隙間に紅い光の反射を見た。


「あ、あった……」


 拾い上げて、ため息。うーん、これ、どこにしまっておこう。


「あ。ここでいっか」


 腰元の、布の合わせ目の部分に小さなポケットのような隙間があった。そこに対球を押し込んだ。上から押して、ふくらみで存在を確認する。


「急にどうしたんだよ、ユーマ?」


 廊下へ繋がるドアからひょいとセルファが顔をだした。


「い、いやちょっと忘れ物っていうか。でももういいの」


「ふうん? まあいいけど、行こうよ。カインはもう下に行っちゃったよ」


「うん、行こう」


 セルファと並んで下へ降りていく。もうシルさんの姿はなかった。


「忘れ物って、何だったのさ?」


 セルファの質問に、ええと、と言い躊躇う。昨晩のことをどう説明したらいいのだろう。というか、何から話せばいいんだろう。

 長くなる話だし、帰ってきてからゆっくりと説明したほうがいいだろうか。


「あの、あとで話すね」


「ん? うん、わかった」


「おやおや、うちは騎士団の入店はお断りしてるんだけどねえ、セルファ?」


 人気のない酒場へ入ると、端の椅子に腰掛けたシルヴェーヌさんがいた。愉快そうにケイルの煙を吐いている。


「かっこいいだろ? マダム」


 おどけてくるりと回ってみせるセルファ。


「まあ、サマになってんじゃないかい? でも、ゼフの方がアタシの好みだね」


「な。ここはオレって言うところだろー」


 ぷ、と顔を膨らませたセルファが、顔つきを改めた。


「マダム。何するんだ、とか訊かないの?」


「訊いて欲しいのなら、言いな」


「やらしい言い方するねー」


 肩を竦めたセルファに、シルヴェーヌさんがちらりと視線を流す。


「こっちの意向はそこの子に伝えといたよ。後はそっちで決めとくれ」


「意向?」


 後ろにいたあたしをセルファが振り返る。頷いてみせると、ふうんと小さく呟いた。


「じゃあ、ユーマから聞いておくよ。とにかく、行ってくる。帰ってくる時間は分からない」


「あいよ。おや、あんた、今日はえらく綺麗にしてるじゃない、か……」


 あたしを見たシルヴェーヌさんが息を飲んだ。


「オレの腕、すごいだろー」


「ああ、こりゃあ見違えたねえ……。しかし、何だろうね。どこかで見た雰囲気なんだけどね」


「ふうん? とにかく、行ってくるよ。じゃあね、マダム」


「い、行ってきます」


 遠い視線を投げかけてくるシルヴェーヌさんに頭を下げて、表へ出た。


「うわ、あ……」


 そこには豪華な設えの馬車が一両と、整った毛並みの馬が二頭並んでいた。

 御者台に腰掛けていた男の人が一人と、馬を引いた、セルファと同じ騎士の格好をした人が二人、こちらに顔を向けている。

 誰だろう。本物の騎士さん、のはずないよね。


「三人とも忍人だよ」


 あたしの疑問がわかったのか、耳元でセルファがそっと教えてくれた。

 ああ、オルガの人たちなのか。慌てて頭を下げると、三人とも丁寧すぎるお辞儀を返してくれた。


「二人とも、乗れ」


 馬車の中からカインが顔を覗かせた。


「は、はい」


 セルファの手を借りて、馬車に乗った。カインと向かい合わせに座り、横にはセルファが腰掛ける。

 珍しさに、内部をまじまじと見渡した。初めて乗ったけど、案外広いんだ。天井も高いし、椅子もゆったりしてて柔らかい。

 窓は重厚なビロードのカーテンが縁取っており、今は外の景色を見せていた。

 と、ガタンと揺れたかと思うと、馬車がゆるりと動き出した。二頭の騎馬が馬車を挟むように横につく。


 荒れた町並みを、絢爛な一団が進行する。人々が半分怯えたような顔をこちらに向けてるのがちらりと見えた。


「これからヘヴェナ家に向かう。道行には一刻ほどかかるかな」


 カインの言葉に、車内に視線を戻した。


「一刻(約二時間)もかかるの? あの辺りだよね、行くのって」


 窓の向こうに微かに見える王城。その少し下辺りを指差した。

 昨日のセルファの説明だと、城のすぐ下に貴族の居住区があるってことだったもんね。


「ああ、今日は貴族郭にある屋敷に行くんじゃないんだ。ブランカ郊外にある、別宅の方だ」


「べったく?」


「そう。サラはそちらで幼少を過ごしたらしいからな。そちらの方がいいだろうと判断した。まあ、幼少の記憶だから、大した意味はないかもしれないけど」


 確か、サラは三つか四つの頃には神殿入りしたんだったよね。

 自分の三歳の頃の記憶ですらあやふやなのに、サラの子供の頃なんて思い出せる気がしない。


「それと、今日は父親のヘヴェナ公爵は不在だ。半月ほど前から遠方の領地に見回りに出ているそうで、戻ってこられない、と」


「急な話だったもんねー。じゃあ誰がいるのさ?」


「母親、公爵夫人と、妹のフィーナ姫と聞いてる。が、兄のヘラルド子爵も、もしかしたらいるかもしれないな」


「お兄さんがいるの?」


 思わず大きな声を上げてしまった。妹がいるというのは以前フーダから聞いていたけど、他にも兄弟がいたなんて。


「ああ、確かサラの一つ上で、二十四歳。ヘヴェナ家の跡取りだ」


「オレ、見かけたことあるよ。結構な色男でさ、浮名は数知れずって感じだったな。実際、何人もの姫を泣かせてたよ」


「へ、え」


 美しいと名高かったというサラの兄ならば、当然と言う気もする。さぞかし綺麗な顔立ちなのだろう。


「まあ、兄であれ母親であれ、きっかけになる人物が多いのは都合がいい。

 さて、カサネは、ゼユーダの巫女姫だということはセルファに聞いたな?」


 カインがあたしに視線を向けた。


「う、うん。聞いた。巫女姫に昇格したばかりの、だよね。でもあたし、ゼユーダなんて国のこと何も知らないし、しかも巫女姫だなんて大丈夫かな……」


 セルファのお蔭で恰好だけはそれなりになったけど、あたしは巫女としての知識すら、全くと言っていいほどないのだ。ボロがでて、偽物だってバレるようなことになったらどうしよう。

 向こうに警戒心を持たせてしまったら、心を近しくなんてできるはずもない。

 失敗したらどうしよう。不安がため息になって零れた。


「そんなに思い悩まなくていい。向こうだって、異国の巫女姫の知識なんてそんなに持ち合わせていないんだから。

 カサネが意識するのは、狼狽えず、堂々と微笑んでいることくらいだな。もし理解できない話題を振られても、動揺せずに笑ってろ」


「へ? それって、笑ってごまかせってこと?」


 それって、どうなの? すぐばれちゃいそうなんだけど。

 しかし、カインは首を横に振り、


「俺が横についている。全て補佐するから、カサネはただ笑っていればいいってことだ。万に一つも、向こうに疑いの余地など与えない」


 あっさりと言いのけた。その自信に溢れる口調に、安心感を覚える。


「そ、っか。横にカインがいてくれるのか。それなら……平気、かも」


 へへ、と笑った。不思議と、カインがいれば大丈夫だって気がしてくる。

 と、カインがぷいと顔を逸らした。


「……とは言え、邑にいる時みたいに鶏と喧嘩なんて始められたら、俺でも取り繕えないがな。それなりに巫女姫っぽくしてくれ」


「む……、分かってるよ! それくらい」


 ぷう、と膨れて顔を背けた。

 どこまでも嫌味を忘れない人なんだから、もう。

 でも、軽口を叩いてくれて、ほんの少し嬉しいと思ったあたしがいる。いつまでもぎこちないままでいたくない。

 早くカインに謝ろう、と再び誓った。


「で、カサネ。昨晩の話をしておきたいんだが」


「昨晩……」


 改まった口ぶりから、カインが言わんとしていることが分かった。どくんと胸がうつ。


「莉亜の、こと?」


 顔を向けて訊けば、カインは頷いた。


「ああ。ひと月ほど前、カサネのものと同じ服装をした少女が一人、神武団に捕えられたそうだ」


 視界がくらりと揺れた。心臓が止まってしまいそうな衝撃。


「年は十六、七。背の半ば程の長さの黒髪。瞳は黒。外見の特徴はそれくらいしか分からなかった。

どうだ? リアという子に類似点はあるか?」


 ぎゅう、と目を閉じ、莉亜の綺麗な立ち姿を思い出す。艶やかな長い髪も瞳も、深みのある黒だ。

 潰れてしまいそうな胸元を押えながら、どうにか言葉を吐き出した。


「おなじ……。ぜんぶ」


「そうか」


 ふう、とカインが息をついた。


「少女は神殿内、リレトの元に連れて行かれたそうだ。今は神殿の奥深く幽閉されている、という話だ」


「…………っ!」


 やっぱり莉亜はリレトの手に落ちたんだ。血の気が引いたあたしに、カインが首を横に振った。


「偽物の可能性が残っていることを忘れるな。それに、俺は偽物だろうと判断した」


「……え?」


「その少女は、大通りのど真ん中、多くの人間の見ている中で派手に引っ立てられたんだと。リレトが連れて来たのだとしたら、神武団がわざわざ捕獲劇なんてしなくていいはずなのに、おかしいよな?

 その上、秘密ごとの多い神殿内部のことなのに、少女の行方はあっさりと調べがついた。

情報をさらけ出しすぎなんだ。俺なら、せっかく連れてきた駒ならそんな風にあからさまに使わない。ここぞという時にしか出さない」


 ふふ、とセルファが鼻で笑った。


「誘ってるんだろうね。カサネが飛び込んでくるのを」


 二人の顔を交互に見つめた。


「ほ、ほんと? 莉亜じゃない、の?」


「違うと考えていていいだろう」


 しっかりと頷いて見せるカインにほっと胸を撫で下す。

 よかった……。莉亜は危険に晒されていないんだ。


「いやー、安心したね。カサネ」


 セルファが笑って言った。それに何度も頷いて答える。


「本当によかった。ありがとう、カイン」


「約束しただろ」


「でも、ありがとう」


 ほっとしたせいか、涙が滲む。深々と頭を下げた。


「そういや、さっきマダムが言ってたことって何さ、カサネ」


 思い出したようなセルファの言葉にはっとする。

 そうだ、大事な話があったんだった!


「あ、あのね。昨日の夜、シルヴェーヌさんと話す機会があって……」


 二人に、シルヴェーヌさんと過ごした時間について、話した。



「――手を組む、ね」


 話を聞き終わった後、カインはセルファと顔を見合わせて肩を竦めた。


「マダムにはオレたちから話を持ちかけるつもりだったのに、拍子抜けだねー」


「へ? そうなの?」


「そうなの。彼女はあの辺りの実力者で、動かせる人数もたいしたものなんだ。そんな人が敵地のほど近くにいるんだ。仲良くできたらしめたものでしょ」


 聞けば、シルヴェーヌさんはブランカでも名の知れた女傑で、大通りの影の支配者のような存在なのらしい。

 今でこそ息を潜めているが、大昔(一体シルヴェーヌさんはいくつなんだろう?)は一家を従えた女親分だったとか。

 確かに異様な迫力はあったけど、そんな過去があったなんて。ただ驚くばかりだ。


「すんなりいきすぎてることが多少気になるが、彼女の人品についてはセルファが保証してるしな。信じるとしよう」


「あの人は大丈夫だよ。なにより、敵だっていうなら、オレとレジェスは三年前にもう死んでるよ」


「あ。シルヴェーヌさんに助けられた、って聞いた。二人とも大怪我してたんでしょう?」


 思い出して訊けば、セルファは眉間にシワを刻んで皮肉に笑った。


「レジェスが特に、ね。オレもそれなりの怪我人だったのにさー、あんなでっかい半死人を抱えるハメになるとは、思わなかったよ」


 思い出したくもないね、と付け加える。シルヴェーヌさんの言葉通り、酷い状態だったのだろう。

 と、セルファが柔らかないつもの笑顔に変わった。


「まあでも、カサネのお蔭ですっかり元気になったわけだけどね」


「あたし? 何もしてないけど?」


 あたしと出会った時には、既に元気だったしな、と首を傾げる。


「何でってそりゃ、ねえ、カイン?」


 セルファがカインに視線をやると、カインは小さく鼻を鳴らした。


「あいつが単純だってことだ。

 それより、オルガに帰る前にマダムと話をしておかないとな。情報交換をしておきたい」


「そうだね。トリスたちとも顔合わせしておいたほうがいいよね。今晩残ってもらう?」


「やり取りはトリスを介すことになるだろうから、それがいいだろう。マダムには情報屋の伝手があると訊いたが、彼らにも会えるといいな」


「ああ、それってマダムの子飼いだから大丈夫だと思うよ」


 いつの間にか話題が変わり、二人とも難しい顔をして打ち合わせを始めてしまった。

 シルヴェーヌさんと手を組むというのは、あたしが思っていたよりも重要なことだったらしい。

 よかった、と思いながら窓の向こうに視線をやった。

 後は、あたしがどれだけサラの持っていた『何か』を引っ張り出せるかだ。

 記憶でも、巫力でも、とにかく何か、サラの持っていたものを。


 ガラスに映る、少し見慣れない自分の顔が、強張っていた。




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