4.オルガの巫女姫
四章 オルガの巫女姫様
手にしていた桶の中身を、瓶に移し変えた。
今朝の分はこれで終わり、と。なみなみと揺れる水面を見て、ふう、と息をついた。
あたしの朝の仕事は、水汲みから始まる。
この国には水道なんてものはない。水が必要な時は、邑の端にある井戸まで汲みにいかなくてはならないのだ。
「ご苦労さん、カサネ。次は卵を採ってきてくれるかい?」
いい香りのする鍋をかき混ぜていたフーダが言った。
「はあい。あ、今日はミルク煮だ」
「さっきルイが牛乳を分けてくれたんだ。カサネの好物の、レンズ豆も入れたよ。さあ、卵を頼むよ。そしたら朝食にしようじゃないか」
「はーい」
あたしは今、フーダの家で寝泊りしている。
パルルカ平原で野営したあの日から、二日かけてオルガ山脈へ向かい、そこから半日かけて山中を進み、ようやくオルガの邑へ到着した。その日から、もう数週間ほど日を重ねた。
慣れない土地で、慣れない生活に戸惑っていたのは、数日のことだった。今では随分この邑に馴染んできたように思う。順応しすぎて、自分がこんなに適応力があったのかと驚くくらいだ。電気も何もない生活は不便にも感じるけど、でも不便さを体で補う生活は、張りがある。夜、くたくたになって眠るのは、とても気持ちがいいのだとここに来て初めて知った。
でも、こんなに馴染めたのも全て、あたしに親切にしてくれる邑の人たちのお陰だ。サラの記憶もなければ、名残もないあたしを、何の疑いも無く受け入れてくれた人たちには、頭が下がる。皆が気長に、丁寧にここでの暮らし方を教えてくれたから、あたしは不安なく暮らしていられるのだ。
「あれ? カサネちゃん、どうしたの?」
家の裏にある鶏舎に行くと、アイスがいた。アイスは十一歳になるフーダの息子だ。本当は三人兄弟だったけれど、兄二人は父親と共にリレトの放った神武団によって殺された。
父親譲りだという赤毛は少し癖があって、日に焼けた肌にはそばかすが浮いている。利発そうな茶色い瞳をしたかわいらしい子で、あたしのことをお姉ちゃんのように慕ってくれている。
「フーダに卵を採ってきてって言われたんだけど、アイスの方が早かったね」
「そうだね。今日は六個あったよ、はい」
小さな籠に盛られた卵を受け取る。見れば鶏舎の中は既に掃除が終えられていた。
「あ。あたしがやるつもりだったのに」
「カイン様とお勉強があるでしょ? それに、カサネちゃんは鶏たちとすぐ喧嘩するからさ」
う、と言葉に詰まる。ここの鶏はどうも血気盛んで、しかもあたしを敵対視している節がある。足を踏み入れたが最後、襲い掛かってくるのだ。
しかしあたしも、小学校時代生き物係だった意地がある。鶏に気圧されてばかりはいられない。絶対に懐かせてみせる、と誓って毎日飛び掛ってくる白い敵に向かっているのだ。
そのことは誰にも気付かれていないだろうと思っていたのに、バレていたのか。
「あんまり鶏とじゃれたらダメだよ。嘴で怪我でもしたら大変だからね」
「大丈夫。あたし生傷くらいどうってことないし」
「そんなこと言わないの。カイン様も呆れてたよ」
「え!? 何でカインまで知ってるの?」
「この間カサネちゃんが鶏舎にいる時に、カイン様がいらっしゃったんだ。カサネちゃんの声が家にまで響いてきてさ、それで」
カインにまでバレていたとは。呆れ顔が簡単に想像できてしまう。さぞかし冷たい様子だったことだろう。
「そろそろ朝ご飯だよね? 行こう」
肩を落としたあたしをくすりと笑い、アイスは先を歩いた。
朝食後、掃除などの仕事を済ませてからカインの部屋に行くのが、あたしの日課になっている。今日はアイスのお陰で鶏舎の掃除がなくなったので、早めに行くことにした。
とことこと歩いていると、結構な人とすれ違う。邑人のほとんどの名前は覚えたので、挨拶を交わしながら進む。
囲いに放した豚の見張りをしているのは、ジーノさんという白髪のおじいさん。
定位置らしい一番大きな杭に座り、いつも煙管に似たものを手にしている。ケイルという名前の、タバコのような嗜好品の一種らしい。
挨拶をすれば、うむ、と頷いてくれる。気難しい人のようで、それ以上の会話はない。
美味しそうに紫煙をくゆらす姿に今日も挨拶をして、通り過ぎた。
邑の会議所兼、レジィの家が邑の奥にあり、その離れがカインの部屋になっている。
離れに行く前に母屋を覗くと、数人の男の人が地図を見ながら話をしているところだった。
「みなさん、おはようございます」
「あ、おはようございます。カサネ様」
「あの、レジィはまだ戻ってないんですか?」
「はい。そろそろ戻られると思うんですがね」
レジィは数日前から、数人の人たちと旧オルガ邑へ様子見に出かけている。
リレトはそこに見張りの兵を残しているらしく、そのせいで邑の奪取が難しいのだそうだ。リレトを倒したらきっと勝機が見えるはずだから下調べしないと、と言っていたけれど、兵のいるところに行って大丈夫だろうかと心配でならない。オルガ邑の生き残りは、見つけ次第殺害するべし、というお触れがでているのだと聞いた。
ふう、と小さなため息をつくと、トマスさんがくすりと笑った。穏やかなトマスさんは、二歳になる双子の女の子のお父さんだ。
「大丈夫ですよ。長に限ってヘマはないでしょう。他もしぶとい奴ばかりですしね。明日、明後日くらいには帰ってきますよ」
「そう、ですね。あ、会議中に失礼しました」
「いえいえ」
会議を中断させてしまったことを詫びて、母屋を出た。
そのまま離れへと足を向けた。カインの住居となっているそこは、外観は大きく作られているように見えるのだけど、中に入って見ると、異常なほど狭い。沢山の書物が居住スペースの大半を占めているせいだ。ベッドと机、ほんの少しのスペースのみ残して積み上げられた書物の山を見ると、いつかカインは紙の雪崩に巻き込まれるんじゃないかと思う。
本人は全く危機感を抱いていないようで、一番下に埋もれた本を乱暴に抜き取ったりするので、見ているほうが心臓に悪い。
今日は天気がいいし、外で勉強しよう、って言おう。
青空が広がっているのを確認して、木戸を叩いた。返事がないのはいつものことなので、数秒してから開けるとカインは机に向かって書き物をしていた。床に沢山の書き損じがあるところを見ると、数時間はこの調子だったに違いない。
「おはよう、カイン。朝食は?」
「食べてない」
「そう思って持ってきた。鶏の燻製と卵のサンドイッチ。お昼の分もあるよ」
カインは背中を向けたまま、机の空いたスペースをとんとんと叩いた。ここに置けということらしい。
バスケットから朝食分の包みを取り出して、置く。
「はい、どうぞ。茶器使っていい? お茶入れるから」
「ちゃんと洗えよ」
見ればすでに茶器が出ていて、それは昨日あたしが帰り際に淹れてあげた時と同じ位置にあった。昨日と違うのは中身が飲み干されていて、代わりに底に茶色い染みが残っているということだけ。
「もう。せめて桶に浸けときなよ」
返事はなく、包みを開けるがさがさという音がした。
片手でそれを食べながら、ペンを握った手はそのまま、紙の上を滑っている。その姿にため息を一つついて、茶器を洗いに母屋へ向かった。
お茶を淹れて離れに戻ると、多めに作ってきたサンドイッチは全て、カインの胃の中に納まっていた。空の包みを見て、よしよし、と頷く。今日のはなかなかいい出来だったと思っていたんだ。
「美味しかった? カイン」
「お茶」
「……はい、お茶ドウゾ」
カップを机に置くと、す、と手が伸びて、それを口に運んだ。ごくりと飲んで、次にげっほげっほとむせ返った。
「あっつ! カサネ、これ熱いっ」
「あ、やっとこっち見た。食事するときくらい、食事だけに向き合ったほうがいいよ」
カインに渡したお茶は、ぐらぐらと煮立ったお湯で淹れたのだ。不用意に口にできる温度ではない。
目尻に涙を浮かべて、恨めしそうにあたしを見るカインに、ふん、と胸を逸らして見せた。
「せっかく作ったのに、無反応って酷くない? それに、おはよう、とかいただきます、とかもないし」
「だからって熱湯か」
「熱いよ、って言おうとしたらもう口つけてたんだもん」
美味しかったと言ってくれれば、冷ましてから渡すつもりだったし。ぷいと顔を逸らすと、小さな舌打ちが聞こえた。
「おはよう。いただきます、ごちそうさま。旨かった、多分だけど」
不機嫌そうに捲くし立てられた。
「はい、お粗末さまでした。って、多分って何ですかね?」
「いや、味まで把握していなかった」
つら、と言うカインに腹が立つ。美味しくて完食したんじゃないんかい。
「もういい。明日からはパン一切れしか持って来ない。お茶もただの水にする」
「うえ。俺の体を壊す気か」
肩を竦めてカインはカップにふうふうと息を吹きかけ、慎重に口に運んだ。
「舌、火傷したじゃないか。カサネと違って繊細なんだぞ、俺は」
「ねえ、今日は外で勉強しよう」
構わず言ったあたしに、カインがため息をついた。
「了解。机と椅子出しといて。俺、ここ片付けるから」
「はあい」
母屋に机と椅子があるので取りに行く。カインのいる離れの前に、机と椅子を二脚並べたところで、カインがのそのそと出てきた。大きく伸びをして、それから眩しそうに眉を顰めた。
「室内でよくないか?」
「本に潰されそうで嫌。それに、カインはちょっと日の光を浴びたほうがいいよ」
「たまに浴びてるから、それで十分」
とっつきにくさを感じた最初が嘘のように、カインと随分仲良くなれたと思う。
それもこれも、この国についての知識がゼロのあたしに、カインが授業をしてくれると言ってくれたからだろう。
毎日数時間、先生と生徒として過ごしているうちに、自然と会話も増え、今は軽口も交わせるようになった。
カインは相変わらず無愛想だし、そっけないけど、別にこちらを嫌っているわけではないと分かれば怖くない。
「ええと、今日はヘルベナ神殿について説明しようか」
「ヘルベナ神殿って、確かサラやカインがいた神殿、だよね。今もリレトがいるっていう」
「ああ。大神パヴェヌを祭ってる、国内最大の神殿だ。まずは神殿内の官位について説明しようか」
カインは机の上に一枚の紙を広げた。そこには色々書かれているけれど、あたしはそれを理解できない。あたしが身につけているこの珠は言葉の不自由はなくしてくれたけど、文字を読むことまではできないのだ。
それでもカインは、いずれ理解できるようになるだろうと言って、こうして書物を用いることが多い。
「神殿に入るには、『力の発露』が出来なくてはいけない。この国では、生後七日目に、パヴェヌを祭った礼拝所で洗礼を受けることになっている。その際にある『検査』をし、それによって巫力を確認された者だけが、神殿で仕えることを許されるんだ」
「検査って?」
訊くと、カインは小瓶を取り出した。カインの手の平に収まるそれには、きらきらした透明な液体が入っていた。
「カサネ、手を出して」
言われるままに両手を差し出すと、瓶の口を開けたカインは中身をあたしの右手に垂らした。
さらさらとした水のような液体は、手に触れた途端、とろみを帯びた。
「触ってみなよ」
左の人差し指でつついてみると、粘土のようにぐにゃりと指先を包んだ。
「すごい、何これ」
「前に一度説明した、水宝珠ってやつだ。巫力のある人間が触ると、こうして固体になる。力がなければ、指の隙間から流れ落ちていくんだ、水のように」
摘んでみれば、透明な塊になった水宝珠はきちんと持ち上がった。重力にも反応するのか、雫形に形を変え、ぽたんと手の平に落ちた。
「赤ん坊の手に一滴垂らすだけで分かる。便利な判別法だろ」
カインが瓶の口をあたしに向けた。塊をそこに落とすと、それはまたさらりとした液体に姿を変えた。
「まるで手品みたい。そうだ、これが対珠の元でもあるんだよね?」
「ああ、これを力を込めて練り上げていくんだ。上手くやらないと、いつまでたっても完成しない」
小瓶を仕舞って、カインは机の紙に視線を落とした。
「で、話は戻るけど、検査によって認められた者は十歳までに神殿入りしなくてはならない。病を得ている者・家督を継ぐ者以外は例外なく入ることになっている。
神殿入りした者は力の度合いと、生家の身分によって官位が分けられるんだ。その後の昇格度合いも、生家の家格による」
「身分? そんなの関係あるの?」
「ああ。例えば、大貴族の次男が神殿入りすることになったとして、その子が農村出の子供以下の官位になることを良しとする親はいない。
それに、この国での神殿の位置は政治的にも重要なんだ。その神殿の重職に我が子を、という考えは、貴族の中では至極当たり前なんだよ」
「じゃあ力があっても、身分が低かったら官位も低いってこと?」
「ああ。どれだけ力を発露させても、身分によってはずっと下位神官のままだな」
神殿って、神様のために仕えて人々の幸せを祈る、とか純粋な場所なんじゃないの?
カインの話通りだと、利欲の為に本来の順列が乱されているってことになる。
「嫌な話だろ? でもそれがもう数十年も常識としてまかり通ってるんだ」
口の片端を小さく上げて、カインは皮肉に笑った。
「神殿は、大きく三つに分かれる。祭・文・武、だ。
まず、祭っていうのは、祭事だな。洗礼から婚姻、葬儀。収穫祭を始めとした季節の祭もそうだ。巫女は祭事に欠かせない存在だから、主にここに属している。地方にある礼拝堂の神官も、ここ出身だな。それの長を大神祭官という。
次に文。ここは神学の考察から薬学まで、様々な勉学を行っている。薬学なんかは特化していて、優秀な医官を多く輩出している。巫女も薬学や人体学は学び、その中には神殿内にある薬医殿で働く者もいる。長は大神文官だ」
紙は神殿の構成図なのらしい。該当位置を指で指し示しながらカインは丁寧に説明してくれる。
「最後に、武。大神パヴェヌは元々武神でね。信仰と心身の鍛錬、それに付随する武術は切り離せないんだ。
武官は、他と違って身体を鍛えなくてはならない。巫力も大事だけど、身体能力のほうが重要視されるくらいだ。だから、武官は出世しやすいと言われている。武勲を挙げるほうが、巫力の向上より容易いんだ。
現にリレトはオルガ邑を潰したことで出世したし」
「え? どういうこと?」
ふむふむ、と図を眺めていた顔を上げた。邑を襲うことが武勲になる、なんてちょっと理解できない。続きを促すようにカインの瞳を窺った。
「オルガの民ってのはさ、国民の大半には山賊と認識されてたんだ。今でこそ邑を構えているけど、彼らは元々山岳民族で、山々を渡って暮らしてきたんだ。国に属さず、独自のしきたりを持って秩序をとっていた族だ。そのしきたりさえ守れば、犯罪人や逃亡者も受け入れたそうだ。そのことが、『善良』な国民たちからしてみれば、違法集団に感じたんだな。畏怖対象だよ」
返事の代わりに頷いた。犯罪人を受け入れる民族、と聞けばそれは怖いと思うだろう。
「リレトは命珠を作るために大量に人を殺す必要があったと言ったよな? 下手に民の命を奪ったら、反感を買い、動きにくくなる。しかし、アデライダは海に囲まれた孤国で、他国と戦争なんてそうそう起こらないし、その頃は内乱の火種になるような事案もなかった。
そこで、オルガに巣食う山賊だ。山賊討伐という名目があれば、民衆の支持を得られる。多くの命を得た上、責め苦を受けない。格好の的だな」
なるほど、と思う。でも、卑怯だ。あたしの知ってるオルガの人々は恐ろしい山賊なんかじゃない。普通の優しい人たちだ。その人たちを襲っておいて、しかも悪者にするなんて。
「オルガ討伐を成功させたリレトは時の勇者だった。四等神官から一等神官への異例の大昇格。いずれは大神武官にもなるだろう、と言われて、今じゃ大神武官補佐様だ。
リレトの昇格式の盛り上がりようったらなかったよ。これから先、自分たちも一人、また一人とリレトの命の糧にされるっていうのにな。知らないっていうのは、恐ろしい」
命を奪った人を崇める人もまた、奪われる対象。もやもやとした不快感が広がって、それを吐き出すように大きく息をついた。カインも椅子の背もたれに体を預け、ふ、と肩で息を吐く。ほんの少しの沈黙のあと、カインが口を開いた。
「次に、巫女姫だったときのサラについて話そう。と言っても、俺は巫女として仕えていたサラについてよく知らないから、詳しいことは無理なんだけど」
巫女としてのサラを知らない、ということは、カインはいつサラと知り合ったんだろう? 話の流れで教えてくれるだろうか。
神殿側にいたサラとカイン、そしてオルガの民のレジィの出会いはどんなものだったんだろうと疑問に思っていたので、つい身を乗り出してしまう。
「わかった。巫女も、家の身分によって変わってくるの?」
「例に洩れずね。しかも巫女は下位になるほど扱いが悪くなる。最下位になると、上位の神官や巫女の召使いとしてのみ存在するくらいだからな」
「神殿って、神様に仕える場所でしょ? なのに自分が召使いを持っていいの?」
「貴族の奴らは、人がいないと着替えも出来ないって馬鹿もいるからな。召使い、なんてのは第三の手くらいにしか考えていない。
とは言え、カサネの言う通り、神に仕える者が従者を持つなんてことは許されない。だから、下位の巫女を『指導する』という形で使うんだ。これも、汚いやり方だよな」
神殿って神聖なものなのかと漠然と思ってたけど、綺麗な場所なんかじゃないようだ。権力とか身分とか、生臭いもので成り立っているんだ。
何となく裏切られたような気分になって、眉根を寄せた。見れば、カインも不機嫌そうで、多分カインもこのことを良く思っていないのだろうと思う。
「サラは、どっちの立場だったの?」
「サラは名家のヘヴェナ公爵家の娘だったから、使う側だったはずだ。でも、サラはそういうのを一番嫌がっていたから、そんなものはいなかったはずだけどね」
「そっか」
サラは矛盾をちゃんと拒否できる人間だったんだ。少し嬉しくなって、でも次に再び眉を顰めた。
しかし、容姿端麗に加えて、名家のお嬢様ですか。巫力とやらもあるし、非の打ち所の無い完璧人間じゃないですか。『カサネ』の実情と違いすぎて、やっぱり過去の自分だと思えないんですけど。
「身分に加え、力も申し分なかったし、サラは着実に昇格していった。ついには巫女の最高位である『神妃』に昇格も決まっていた。神妃というのは、三大神官よりも力を持つんだ。神に仕える立場から、神に嫁し神の称号を得るんだからな」
「神様の、お嫁さんってこと?」
「そ。まあ、本当にパヴェヌの妻になるわけじゃないけどな。実体の無いモンに嫁ぐなんて、無理な話だし。でも、そういう地位があるんだ」
「ふ、うん」
なんというか、途方もない話だな。神様と結婚だなんて。
「でも、サラは結局その神妃になれなかった。神妃になる為の昇格式の前日に、オルガの山賊に拉致されたから」
「山賊って……ああ、もしかして、レジィのこと?」
「ああ。神殿に侵入した山賊は、儀式のために奥殿に籠もっていた巫女姫を拉致。山中で惨殺した。オルガの民からの復讐として」
「惨、殺……」
どういうこと? サラはリレトの命珠のせいで死んだんじゃなかったの?
顔色が変わったあたしを見て、カインはふ、と鼻を鳴らした。
「実際は、神殿のやり方が許せなかった巫女姫が、自分の意思で山賊について行っただけなんだけどな。惨殺なんてされてない。
レジィはリレトを殺るために神殿に忍び込み、失敗してしまった。逃げ道を失って立ち往生していたのをサラが見つけて、助けたんだ。で、そのまま自分も一緒に逃げた、と」
「あ、そ……」
どうしてこういう回りくどい言い方をするかな、この人は。脱力したのを愉快そうに見て、カインは続けた。
「神妃になる巫女が逃げたなんて醜聞、公にできないだろ。だから、山賊に全ての責任を押し付けたんだ。ちなみに、サラが逃げ道に使ったのが、俺」
「?」
「俺のいる部屋にいきなりやって来てさ、神殿から逃げ出すからどこかに転送しろ、ってさ。あの時から無謀だったな、そういや。
俺とサラにはそれまで接点はなかったんだ」
カインの話は、こうだ。
ある時、リレトの発案でオルガの山賊討伐作戦が行われることになった。
神武官で構成されている神武団の団員殆どがこの作戦に参加することになっていたのだけど、それを率いる立場の一等神武官の一人が異を唱えた。これがカイン。カインは作戦に異常な執着心を見せるリレトを疑問に思ったのだそうだ。
「あいつはパッフェル伯爵家の馬鹿息子、えーと、ゼーム、だったかな? そいつに作戦を入れ知恵していたんだ。ゼームは親の権力と馬のような体力のみで二等神武官まで昇格していたけど、自慢できる武勲を欲しがっていた。操るにはちょうどいい人材だったんだろうと思う。
リレトは元々神文官で、いつも蔵書庫の隅っこで埃を被った本ばかり読んでいたんだ。それが急に神武官に席を代え、気付けばゼームの後ろについていた。まさか禁忌をモノにしたとまでは分からなかったけど、何かある、と思わせるには十分の怪しさだった。
オルガの民は実質無害に近い存在だったし、無理に討伐しなくてもいいだろう、と言ったんだ」
神殿内も王宮も、作戦に乗り気だった為、カインの発言は破棄され、士気を下げるとの理由で作戦から除外された。
それでもカインは何度も作戦中止を求めたけど、とうとう神殿内の一室に『修行』と称して押し込まれたらしい。
「中身はただの監禁だったけどな。対珠まで取り上げられたし。でも、まともな食事が出ただけマシだったのかな。
ゼームは俺を嫌っていたから、これ幸いと修行期間をずるずる延ばしてさ、オルガ討伐戦が完了してからもずっと閉じ込められてた」
そんな生活にも飽きてきたある日の夜、カインはリレトの狙いを理解した。
「籠められていた部屋の小窓から、リレトを見つけたんだ。戦果の褒美なのか、召使いだろう巫女を一人連れ歩いていたあいつを見ていて、禍々しいものを感じた。そこには二人しかいないのに、何十人、それ以上の命の火があるように見えた。
禁忌術の構成呪文はさておいても、その性質は知っていた。あいつの目的も、それを完遂させたのも、すぐに分かった」
人の命を喰う禁忌を使ったのならどうにかしなくては、と考えていた矢先、巫女姫の昇格式が近いことに気付いた。
「神妃への昇格式は数十年に一度、あるかないかだ。となると、国を挙げての盛大な式典になる。その日なら抜け出しても簡単には気付かれないだろうと思って、その日を待っていた。
そしたらその前夜、神妃となる巫女が飛び込んできたんだ」
サラは自分の対珠を差し出し、これで逃げ出そう、とカインに迫ったのだそうだ。
「初対面同然の神官に、普通そんなこと言わないだろ。神殿逃亡は重罪。下位の者なら斬首モノだ。賊まで連れての逃亡となれば、公爵家出の巫女姫であっても命の保障はない。分かりました、と簡単に頷く奴はいないだろ。
しかし巫女姫の顔は真剣そのものだ。それに対珠まで寄越してきた。対珠さえあれば、王都の外に三人転送するくらいは出来るからな。
どうせ神殿から逃げ出すつもりだったわけだし、俺はサラの話に乗った」
ふう、とカインは肩で息を吐いた。
カインにしては饒舌に話してくれたから、疲れたのかな、と思う。
でももう少し知りたい。悪いな、とは思いつつ、訊いた。
「ねえ。サラは何でカインを頼って行ったの?」
「オルガ討伐戦に反発した一等神武官が閉じ込められたって、神殿内では有名だったらしいよ。サラは俺のことを、オルガの民の為に己を賭した高潔な人間だと思っていたんだとさ。だから、助けを請えばきっと手を貸してくれると考えたんだろ」
ふ、と鼻で笑って、カインは肩を竦めた。
「実際は、リレトの態度が何となくムカついたのと、偉そうに熱弁を振るうゼームに嫌気が差しただけなんだけどな。あいつ興奮すると声がでかくなってうるさいったらないからな。サラも後で裏切られた気分になったんじゃないか?」
「ふー、ん……」
何となくムカついただけじゃ、監禁されるほど反発するような人じゃないくせに。普段の様子を見ていたら、それくらい分かるってば。
「なんだ。にやにやして」
素直じゃないカインに温かい視線を送っていたつもりだったのに、カインは訝しそうに唇を曲げた。
「にやにやとか言わないでよ。にこにことかに表現変えて」
「細かいことはいい。それより、喋りすぎて喉渇いた。ぬるいお茶飲みたい」
「あ、うん。そろそろ休憩にしよっか。あついのでいい?」
「ぬ・る・い・や・つ」
む、としたように唇を尖らせるカインにふふんと笑って、茶器を取りに席を立った。
母屋に行きながら、さっきの話を思い返す。
結構緊迫した話だったな。
儀式の前の巫女姫と、監禁状態の神官、それに復讐を失敗した山賊の逃亡、か。
「すごい、なあ……」
物語の一節のような出会いだ。その三人が仲良くなって、共に行動していくのか。
ぼんやりと描いているサラ像に、新しい情報を加える。外見はどうにかイメージが固まってきているけど、性格はまだあやふやな状態のままなのだ。
山賊を助けて逃亡を図る行動的な人、か。ううん、同じことをあたしに出来るかどうか怪しいな。侵入してきた山賊という男の人に出会ったら、まず竦みあがってしまいそうだし。ぎゃあ! なんて悲鳴をあげてばったり気絶、なんて情けないことになりそうだ。
でも、その男の人はレジィなわけで、レジィだったら気絶はしなくてすむかもなあ。って、気絶はしなくても、レジィを連れて逃げる、なんてこと出来るわけない、か。
「おーい、カサネ? 喉渇いた!」
カインの声には、とする。
「すぐ行く!」
トレイにお茶の支度をして、カインの元へ向かった。
「あ、そろそろ帰らなきゃ」
太陽が頂点から随分落ちていた。電燈のないここでは、夜の支度が早い。夕食準備もあるし、水汲みに行かないと、と机に広がった地図や紙を片付け始めた。
「今日もありがとう。勉強になりました」
「どういたしまして。それより、こっち」
椅子にもたれて、冷めたお茶を啜るカインが手招きした。
「ん? ああ、はい」
机をぐるりと回って、カインの前に立つ。椅子に座ったままのカインは手を伸ばし、あたしの頬に指先で軽く触れた。頬から顎、喉もとへゆっくり撫で降りていく。指先が鎖骨の窪みに達したころ、目を閉じ、ぶつぶつと呪文のようなものを呟き始めた。
それは子守唄のような緩やかなメロディで、耳ざわりがいい。これ、何だか好きなんだよなあ、とカインの声に耳を傾けた。
しかし、この歌の意味していることは、分からない。対珠の力があるというのに、この呪文はどれも聞き取れないのだ。カイン曰く、呪文は神属語というもので構成されているらしく、これを体得できるのは神殿に仕える人の中でもごく一部の者のみ、という難しいものなのだそうだ。対珠があるからといって、簡単に理解できるものでもないらしい。
あたしは英語が大の苦手だったから、それと似たようなものかな? と思ったけど、口にはしていない。それを言うと、『大多数が使用可能な言語すら理解できないのか』なんて言われるのがオチだ。
ふ、と見下ろす位置にいるカインを何気なしに見た。さらさらの茶色い髪。その下には焦茶の眼帯がある。綺麗な顔を隠してしまっている、二つの壁。
この左目って、一体どうしたんだろう。
怪我、かな。聞いたら失礼だよね。気にしてたらいけないし。
つい見つめてしまっていると、ぷつりと呪文が切れた。
「これもダメか。ったく、時間の無駄だったな」
「随分日にちをかけたのに、無理だった?」
カインの所へ毎日来るのには、勉強以外にも理由がある。というか、そっちが本題なんだけれど、それはあたしの中に存在しているリレトの命珠を取り出す術を探ることだ。
オルガに着いてすぐ、カインは様々な術や薬をあたしに施したけれど、命珠とあたしの魂は分離しなかった。それからは古い文献を漁り、それを元に色々試しているのだけれど、どうやっても命珠はあたしから離れてくれないのだ。
十日前からは、重回法というものを試していた。それは毎日同じ時間帯に同じ術を繰り返しかけるというもので、カインの説明によると、術を時間をかけて上塗りしていくことで、その強度を増すのだという。
「開始した日から、命珠に変化が見られない。これ以上やっても、可能性は低い」
「そっか……」
今度こそ命珠と離れられると思っていたけど、そうはいかないみたいだ。
眉間に深くシワを刻み、肩でため息をついたカインを見て、きっと大丈夫、なんて安易に考えていたことを反省する。
「そんな顔しなくても、取ってやる。俺のこと信用してろ」
反省を、不安そうな顔だと見たのだろう。カインが珍しく、小さく笑った。もしかして、気遣ってくれた?
「い、いや、信用してないわけじゃないよ。むしろ、信じすぎかなってくらい信じてる」
ぶんぶんと首を横に振る。
「ふうん。それならまあ、光栄だと礼を言わなくちゃいけないか? しかし、どうしたものかな。リレトの奴、離れないな」
「うん、そうだよね……。しつこいというか、なんというか。なにより、気持ち悪い」
リレトについて知ることが増えると、嫌悪感も増す。はあ、とため息をついたあたしを見て、カインがふむ、と頷いた。
「確かに、気持ち悪いだろうな。あんな奴の一部がべったり、張り付いてるんだもんな」
「ちょ、そういう言い方鳥肌たつから止めて」
どうしてそういうことを言うかな。ざわ、と肌が粟立ったあたしを見て、意地悪そうにくつりと笑う。
「どんなに引っ張ってもびくともしない。気に入られてるようだな、カサネ」
「ほんっとにや」
「やっぱり、内面からも力を加えないといけないか」
「めて。って、は?」
急に話題を変えられた。そういう自分勝手な会話運び、止めてくれないかな。
不満を込めた視線をやれば、からかいめいた表情はかき消えていた。
どうやら真面目な話のようだ。
「取ってやる、とは言ったものの、外から働きかけるだけじゃどうにも難しい。外と内から同時に力を与える必要がある」
「ええと、内って、あたし?」
「ああ。カサネからも、命珠を切り離す為に力をかけるんだ」
机に残っていた紙とペンを引き寄せ、カインは大きな円と、その中に小さな円を書いた。
「これ、カサネの魂と、その中の命珠な。で、今はこの大きな円の外側から、小さいのを引っ張り出そうとしてるわけだ。でも、これが張り付いて離れない。だから、こっちの大きい円からも、小さな円を押し出す力が欲しい、と」
力の流れを示す矢印が書き込まれていくのを、ふむふむと眺めていて、聞いた。
「つまりはあたしが押し出すってことだよね。出てけ! とか念じればいいの?」
ふ、と鼻であざ笑ったカインは、ペンを放った。
「それで済むのであれば、俺はいらないな? 話はそんなに単純明快じゃない。巫女としての力、巫力が必要なんだ」
あ、馬鹿にされた。文句の一つでも、と口を開きかけて、閉じる。
巫力?
「巫力って、あたしがどうにかできるものなの?」
さっき水宝珠を固体にできたから、あたしにはそういう名の力がある、のかもしれない。だけど、使い方なんてわかるはずがない。
「ああ。できるもののはず、なんだ。だから、カサネに知識が欲しい。サラの持っていた、巫力の知識が」
机の上の二重の円が目に入る。いくつか書きこまれた矢印を実現させるには、サラが必要なんだ。
「知識っていっても あたし、本当に何も覚えてないんだよ」
「分かってるさ。そこで、だ。サラの両親に、会いに行かないか?」
「サラの両親?」
思いもよらなかったことを言われて、ぽかんとする。
「サラに血を分け与えた、一番近しい者たちだから、魂の奥底に眠るサラの記憶と引き合うんじゃないか、と思う。彼らに会えば何か変わるはずだ」
「引き合うって、サラだったときの記憶が戻るの?」
「完全に戻る、なんてことはないけどね。ただ、欠片であっても、サラの記憶が戻ればそれが呼び水となって、巫力を扱えるようになるだろうと俺は考えてる。
神学では、修行で得たものは魂に積まれている、と言われている。それが真実であれば、カサネは気付いていないだけで、サラと同じだけの知識と力を持っていることになるんだ」
「きっかけさえ掴めたらいい、ってことだよね。でもそれで本当に、あたしがサラのように巫女の力を使えるようになるの?」
「俺の予測だし、今は多分としか言えないな。何しろ前例がないから、考察のしようがない。
もしかしたら、下級巫女並みにしか力が発露しないかもしれない。しかしそうであっても、全く使えないよりはいい」
ゼロよりはマシ、ってところか。それでも日常生活の手伝いしかできない今よりは、役立つ存在になれるかもしれないよね。それに、
「多少でも巫力が使えるようになれば、命珠をはがせるかもしれない?」
と訊けば、カインは頷いた。
「かも、としか言えなくて悪いけど。で、どう? 会いに行かないか」
少し、躊躇った。サラの両親に、サラの生まれ変わりです、なんて言って会わなくちゃいけないの? まるで違う人間なのに、ショックを与えてしまうんじゃないだろうか。
「あ、のさ。あたしのこと、サラの転生後です、なんて説明しなくちゃいけない?」
「ん? ああ、いや、しないさ。神殿関係者ならまだしも、普通の人間に転生だ何だと説明しても、理解を求められないだろ。無駄に混乱させるだけだ」
「あ、そうなんだ。じゃあ……行くよ」
多少気が楽になって、こくんと頷いた。
とは言え、サラの記憶が多少なりとも戻るということに、少しの不安を覚える。
自分の中の奥深くに、もう一人分の記憶がある。欠片だとしても、それが現れた時、あたしの心にどんな変化をもたらすのだろう。
自分が変わるかもしれないというのは、怖い。
でも、そんな感傷めいたこと、言ってはいられない、よね。
「それなら、助かる。じゃあレジェスが帰ってきたら行くことにしよう。あいつにも言っておかないとな」
「うん。で、サラの両親って、どこに住んでるの?」
「ブランカ」
カインは事も無げに言った。ブランカって確か王都ってところで、リレトの本拠地的なところじゃなかったっけ?
数週間前、必死に逃げたことまで思い出してしまい、ぶるっと震えた。
「あ、危なくないの? それに、王都ってここから遠いでしょ? 馬で行くの?」
「カサネと一緒に自分を転送する。ブランカ程度の距離なら、どうということはないだろ」
この世界でのワープって、あたしの持っているイメージほど難しいものではないのかな? そういえばリレトも使えたし、ここでは案外ポピュラーなものなのかも。
「自慢じゃないけど、転送が出来るのは神官でもごく少数、数えるほどしかいない。皆ができるものでもないし、仮にサラの記憶が全て戻ったとしても、カサネにはどだい、無理な技だからな」
考えていることを見抜かれた。って、何もあたしを小馬鹿にした台詞を付け足さなくてもいいじゃないか。
「じゃあ、レジェスが戻り次第、ということで」
むか、とした表情のあたしに気付いていないのか、さっさと話を纏めたカインが、つい、と視線を流した。
「どうかしましたかねえ? 天才神官カイン様」
「なんだか騒がしい。邑の入口の方からだな。レジェスたちか?」
え、と耳を澄ますと、確かに遠くが騒がしい。
「行ってみるか」
立ち上がったカインについて行く。レジィかな、よかった、無事に帰ってこれたんだ。
あたしにはお構いなしにすたすた歩いていくカインを小走りで追うと、邑の入口の門扉の前に人だかりが出来ていた。その中に、セルファの姿を見つけた。駆け寄って肩を叩く。
「あ、カサネ。来たね」
「騒がしかったから来たんだけど、どうかしたの?」
「ゼフたちがさ、帰ってきたんだって」
「本当!? じゃあ、ライラも一緒だよね?」
ぱ、と心が明るくなる。ライラたちはずっと戻って来なくて、心配していたのだ。身代わりなんて恐ろしい真似をさせてしまったのに、あたしだけ先に安全な場所に来てしまったことが申し訳なくて、居た堪れなかった。早く無事な姿を確認したい。そして謝らなくちゃ。
「ごめんなさい、ちょっと通して下さい。ごめんなさい」
人の隙間を通って、中心にいる人たちの元へ出た。数人の男の人たちに混じって、少年の姿に身をやつしたライラがそこにいた。
「ライラ!」
「カサネ様!」
無事でいたことが嬉しくて、気付けばライラに抱きついていた。ぎゅう、と腕に力を込めて、次にライラに怪我がないか、体を見回した。
「怪我はない? 何ともなかった?」
「はい! 父が少し負傷しまして、傷が落ち着くのを待っていたら遅れました。ご心配おかけしまして申し訳ありません」
ライラは別れた時より幾分痩せたような気がするけど、血色のいい顔や生気のある様子を見てほっとする。
でも、ゼフさんの方を見れば、ライラの言葉通り右腕に包帯が巻かれていた。
「ゼフさん。大丈夫なんですか? 動いても平気ですか?」
「いや、お恥ずかしい。ほんのかすり傷です。カサネ様のお元気なご様子を拝見しましたので、すぐに治りますでしょうよ」
はは、と笑うゼフさんも元気そうには見えるけれど、と思えばカインが近寄ってゼフさんの右腕に触れた。具合を確認するかのようにゆっくりと撫でる。
「後で俺の部屋に来て。塗り薬と飲み薬、用意しとく。それと、話も聞きたい」
「おお、それはありがたい。怪我人は他にも二人ほどおるのですが、よろしいですかな?」
「構わないよ。その代わり、全員身奇麗にしてから来て。部屋が土埃まみれになるだろ」
あの部屋、土埃が多少舞っても問題ないくらい汚れていますけど。
なんてことをちらりと思ってしまったあたしに気がついたのやらどうやら。カインがあたしに視線を寄越した。後ろめたさがあるせいか、つい身構えてしまったあたしに、唇の端を微かに上げた。
「カサネはその子をフーダの家へ連れて行って、湯浴みさせてやって。よろしく、麗しのカサネ様」
頭の中、読めるんですか。それともお見通しってやつですか。
あからさまな嫌味にむう、とする。しかし今はライラを休ませることが先決だ。
「分かった。ライラもカインの部屋に行かなくちゃいけないの?」
「いや、話はゼフたちから聞くから、いい。ゆっくりさせてやるといい」
そう言って、カインはゼフさんたちに向き直った。そのまま話を進めているので、もう行ってもいいらしい。ライラの手を取って、フーダの家へと向かった。
湯浴みを手伝うと言ったあたしを、ライラは全力で拒否した。
「カサネ様にそのようなことさせられません!」
「何で? ライラはあたしの為に怖い思いをしたんだよ? あたし、何にもお礼できないし、背中を流すくらいのこと、させてよ」
「ダメです! 絶対にいけませんっ」
どう言ってもライラは頷いてくれず、次第にあたしがライラにセクハラしているのではないかという気がしてきたので、しぶしぶ諦めた。
仕方がないので、ライラの為に夕食作りに精を出した。と言っても簡単な料理しかできないあたしは、フーダの手伝いが主だったけれど。
お湯を使ってすっきりとしたライラはそれに対しても申し訳ないと言い、それでも美味しそうに食べてくれた。
「あれから、やっぱり追っ手が来たんです。カサネ様が出発された日の、夜中のことでした。ぎりぎりまで引き付けてから、父と逃げました」
食後のお茶を飲みながら、ライラがぽつぽつと今までのことを語りだした。
「オルガの者は、他に三名いました。二手に別れ、レジェス様とは違う道筋を通り、オルガへ向かうことにしたのですが、途中で追いつかれ、切り合いになりました。その時、父が切りつけられてしまったんです」
「あのゼフを切りつけるとは、結構な腕の持ち主がいたもんだね。それとも、大勢に囲まれたのかい?」
お茶を啜ったフーダが訊いて、ライラはこくんと頷いた。
「神武団の者が十数余。私たち父子の他にもう一人仲間が、レルフがいたのですけど、父とレルフでどうにか切り抜けられました。けれど父は私を庇いながらでしたから、傷を。レルフも無傷ではすみませんでした」
「一緒にいたのがレルフでよかったねえ」
フーダはレルフという人も知っているらしい。
「レルフさんって人も、強いの?」
「ああ。レルフは忍人じゃなくて、窺見なんだけどね。剣の腕は騎士団の連中にも劣らないよ。しかも体術の心得もある、オルガの逞しい男さ」
「だけど、数が数だったので、苦戦しました。どうにか逃げ切ったものの、二人ともすぐに動ける状態じゃなくて。近くに町がありましたので、そこに潜み、二人が落ち着くのを待ってから、出発したんです」
「レルフも傷は酷いのかい?」
「利き腕が使えない状態です。傷の具合でいうと、父の方が酷いですが。背中に大きく一太刀受けたのが重く、数日は起き上がれませんでした」
思い出したのか、ライラはぎゅう、と手を握り締めた。。
「ごめんなさい。あたしのせいで、怖い思いをさせたよね。ごめんね」
あたしの身代わりなんてことをしなければ、ゼフさんもレルフさんも怪我しなくて済んだんだ。
「そんなこと。追っ手の目を欺けなかったのが残念ですが、父もレルフも、私も皆こうして無事にここに辿りついたのですから」
「そうさ。ライラたちがいたからこそ、カサネと長は無事だったんだよ。とにかく、よかったと思おうじゃないか」
「はい。あ、そうだ。私たち、カレズという町に潜んでいたんですけど、妙な話を聞いたんです」
フーダに背を撫でられていたライラが、思い出したように言った。
「王都から来たっていう商人が酒場にいまして、情報を探る為にレルフが近づいたんです。そしたら、つい最近異国の服を着た少女が神武団に捕らえられたのを見た、と言うのです。商人の言うその異国の服装が、カサネ様のお衣装とどうも似ているようでしたので、私の持っていたものを見せ、このような物かと訊いたんです。そしたら『似ている』って。どういうことだろう、と思いました」
「あたしの制服に、似ている……?」
この世界と、あたしのいた世界では、服装が全く違う。あたしの着ていた制服は濃紺のブレザーに、深緑のチェック柄のミニスカート。女性はロング丈のワンピースやドレスが主流の服飾文化であるここでは、ありえない服装なのだ。
ということは、あたし以外の人間がこの世界に来ているということ?
レジィに連れて来られた時、周囲には意地悪なクラスメイトたちがいた。考えたくはないけれど、彼女たちの誰かがあの時、転送の巻き添えにあったのではないだろうか。
「ライラ、ごめん。あたしカインのところに行ってくる」
とにかくカインに話を聞こう。あたしとレジィをこちらに転送したのはカインなのだから、何か分かるかもしれない。
「カサネー。レルフに聞いたんだけど、カサネの世界の服、オレにも見せてよー」
あたしが立ち上がると同時にガタンと木戸が開き、セルファがひょこりと顔を出した。
「そうだ。ライラ、あたしの服ってどこにあるの?」
「父が持っています」
「分かった。じゃあちょっと行ってくる。セルファ、丁度いいや。あたしと一緒にカインのところに行こう」
きょとんとしたセルファの背中を押すようにして、家を出た。
離れの木戸をノックしてすぐに開けると、ゼフさんがいた。傷を診ていたところらしく、上半身をむき出しにしていた。
「あ、ごめんなさいっ。外にいますね」
「いえいえ。むさくるしい姿をお見せして申し訳ないが、ここにいらしてください」
カインに包帯を巻いてもらいながら、ゼフさんはにこやかに言った。
「あの、傷、酷いんでしょう? 本当に大丈夫なんですか?」
「どうということはありません。もう平気ですよ」
「ゼフさんたちのお陰で、助かったんです。本当にありがとうございました」
深く頭を下げた。ゼフさんがはは、と笑う。
「そのようなことなさいますな。大して役に立ちませんでしたから」
「で? どうしたんだ、カサネ。セルファまで」
包帯に鋏をいれたカインが、ちらりとあたしたちを見た。
「カサネの服、見せてー」
セルファには、異世界の服というのはすごく惹かれるものらしい。玩具を待つ子供のような顔をしている。
「カサネ様の服? ああ、そこの荷袋の中にあるが」
ゼフさんが言い終わるのを待たずに、セルファは袋を開けていた。多少汚れているものの、丁寧に折りたたまれた制服を取り出して感嘆の声を上げる。
「すごい! こんな意匠は初めて見た。これ、こんなに短くてどうするの? 下に何を着るわけ?」
「着ない。靴下を履くだけだよ。靴下の長さは様々だけど、大体膝くらいかな」
本当かよ! とスカートを様々な角度から眺めるセルファから、カインに向き直った。
「カイン。ゼフさんたちから、聞いた?」
「ああ。その服のこと?」
包帯や薬壜を片付けながら、セルファの掲げるスカートを顎で指した。
「うん。あたしがここに転送されたとき、これと同じ服装をした女の子が数人、周りにいたの。彼女たちが巻き添え的にここに転送された可能性は、ない?」
「ないね」
大興奮のセルファに呆れた一瞥を向けて、カインは断言した。
「本当? うっかりやっちゃったかも、とかないの?」
「ない。うっかり人間一人を転送できるほどの力は、俺にはない」
今度はあたしに冷ややかな視線を向けた。
「大人を二人どうにか背負ったら、ついうっかりもう一人余計に背負ってました、なんて馬鹿げたことがある? ないだろ」
「う……」
なんて分かりやすい説明。確かに、そんな間違いするわけない。
言葉に詰まったあたしに、カインはため息を一つついた。それから顔を引き締める。
「レルフが言うには、その商人は『よく似ている』って驚いたらしい。しかし、さっきセルファが言った通り、そんな意匠の服はこの世界には存在しない。
ということは、考えられるのは一つ。俺ではない誰かが、カサネのいた世界から少女を一人引っ張ってきている、ということだ」
「そ、んな……」
「そして、そんなことが出来る人間を、俺は一人しか知らない」
言われなくても、誰だか分かった。艶やかな黒髪の、冷たい笑みを浮かべるあの男。
「リレト……、だね?」
口にしたくもない名前。カインは苦い顔をして頷いた。
「あいつならそれくらい容易いだろうな。俺も聞くけど、向こうの世界でカサネの大切な者は誰? 少女というからには、友人かもしれないな」
大切な者。そう言われて思い描くのは、あたしにはたった一人しかいない。
あたしと同じ制服を着ていた少女というのなら、尚のことだ。
「大事な友達がいる。彼女ならあたしと同じ制服を着てるはず。名前は、莉亜」
莉亜の顔が鮮明に蘇る。笑顔の綺麗な、唯一の友達。まさか、莉亜がリレトの手に落ちているというのだろうか。足ががくがくと震える。あんな恐ろしい人に莉亜が囚われたなんて、信じたくない。信じられない。
「リア、か。そのリアという子が、こちらに連れて来られた可能性が高いな。リレトの目的は、カサネに対して最大の威力を持つ人質、かな」
考えを纏めるように、カインが言った。その呟きに衝撃を受ける。
「最大の威力って、何!? そんなことで莉亜が連れて来られたかもしれないの?」
ふざけないで、と叫びそうだった。何の関係もない莉亜が、どうして。
今すぐにでも莉亜のところに行かなくちゃ。リレトのところにいるというのなら、一秒でも早く。
「王都にリレトはいるんでしょ? じゃあすぐにそこに行く。莉亜を助けに行く!」
「落ち着けよ。まだそのリア、って子だとは限らないんじゃないの?」
カインに詰め寄るあたしの背中に、セルファの穏やかな声がかかった。
「リレトの策略かもしれないじゃん。現にカサネはこんなに興奮してる」
「策略!? だってリレトはあたしの制服のことなんて知らないはずだよ?」
振り返ると、セルファはスカートを机に置いて、縫製を指で辿りながら言った。
「神官の中には遠見の術が使える奴がいる、って聞いたことがある。人間一人を無理やり転送するより、カサネのいた世界を遠見する方が絶対に簡単だよ。そこで目にした服を模写するなんて、尚のこと容易。複製を作るくらいならオレだって出来るしね。
その可能性はあるよね? カイン」
最後の言葉はカインに向けられていて、カインはそれに頷いた。
「そういうことも、ありえる。適当な人間にそれを着せて、一芝居打ったのかもしれない。何にせよ、ここでうろたえても仕方ない。どうせ数日後には王都に行くんだ。その時に情報収集しよう」
「でも……、本当に莉亜が連れて来られてたら!? 悠長なこと言ってられないよっ」
「大丈夫だ。もしそうだとしても、リアって子はまだ安全だ。今危害を加えても、効果的じゃない」
「効果的って! 本当にそんなことで判断していいの?」
「いい。リレトはそんな奴だ。もしカサネがリレトを信じられないと言うのなら、俺を信じろ。それにもし本当にカサネの友人がリレトの手中にあるというのなら、俺が助けてやる」
強く言い切られて、それ以上何も言えなかった。情報が不確かな今は、それしかないのだろう。カインの言うことを信じるしか、ない。
「だーいじょうぶだって。カインがこんなに偉そうに断言するときは、ホントだからさ」
セルファが背中をばんばん叩いた。ゼフさんもそれに言葉を添える。
「そうですよ、カサネ様。長だっていらっしゃるんです。きっと、ご友人を奪い返してくださいますとも」
「う、ん……」
頷きながらも、不安は取り除かれない。莉亜は今、どこにいるんだろう。もしここに連れて来られているとしたら、それはあたしのせいだ。あたしの友達だったから、危ない目にあってるんだ。
ずっとあたしの側にいてくれて、あたしを支えてくれた大切な人なのに、あたしは莉亜に何もしてあげられないどころか、危険を与えてるなんて。
「カサネ、送るから今日はもう帰れ」
気持ちの整理のつかないあたしにイライラしたのだろうか。カインが命令するように言った。
「セルファとゼフはちょっと待ってて。ほら、行くぞ」
とん、と背中を押されて、のろのろと歩き出す。
「おやすみ。あんまり考えこむなよ」
「おやすみなさいませ。ゆっくりお休みください」
気遣うような二人の声に頭だけ下げて、離れを後にした。
月明かりがほんのりと道筋を照らしてくれていた。すでに夜は更けていて、周囲は灯りが消えている家が多かった。そんな中、足取りの重たいあたしに付き合っていたカインが立ち止まって、大きなため息をついた。
「今カサネが悩んでもどうしようもない。笑えとは言わないけど、せめてその亀のような歩みは止めろ」
「ごめん……。あたし一人で帰れるし、もういいよ。二人が待ってるんだし、カインは帰って」
ぺこんと頭を下げる。カインは再び盛大にため息を零した。
「一人で帰せるわけないだろ。もう夜中だし、しかもカサネは泣きそうな顔してるし。ちゃんとフーダに引き渡さないと、こっちが安心できない」
「ごめん……」
「謝れとか言ってない」
「ごめん……」
嫌だ、あたし。自分の中がぐちゃぐちゃだからって、カインを困らせるようなことをしてる。でも、頭の中は莉亜のことでいっぱいで、どうしても不安ばかりが膨らんでしまう。
じんわりと滲んだ涙をぐい、と手の甲で拭った。困らせてる上に泣くなんて、迷惑極まりない。
カインが額に手をあてて考え込むのが分かった。きっと、面倒くさいことになったと思っているんだろう。まだ仮の話だというのに、心を乱されているあたしに呆れているかもしれない。
泣くのは、せめて一人になってからにしよう。目元をごしごし拭い、カインにもう一度謝ろうとした、その時。
乱暴に抱き寄せられた。
「……不確かな話をして、無駄に不安がらせた。悪かった」
黒い上着の胸元に顔を押し付けられ、状況が分からないでいると、声が降ってきた。
「カ、カイン……?」
「あんまり気丈に過ごしているから、この話も受け入れられると思い込んでいた。俺の勘違いだった」
ふわりとカインの香りがした。古い書物と、薬草の香りだ。それはどこか懐かしい匂い。
ぴたりと添った耳から、触れた頬から、カインの鼓動を感じる。とくとくと正確に刻まれる命の音だ。
どうしたんだろう。あたしはこの状況に驚きすぎて、心がどうにかなったのかもしれない。荒れ狂っていた不安が、不思議と勢いを潜めていく。
「お前の友人は、この世界と関係がない。この世界の問題には関わらなくていい人間なんだ。カサネの友人だからといって巻き込むわけにはいかない。だから、絶対に助ける。信じてくれ」
凛とした声音は、カインの想いを真っ直ぐ受け入れさせてくれた。さっきまで素通りしていった言葉が心に残る。
今度は、素直に頷けた。
「ごめん……。信じる」
「ああ」
莉亜がこの世界に連れて来られているとしても、きっと無事でいる。そしてきっと、莉亜を助けることができる。今はそう信じよう。
カインの手が、ゆっくりと背中を撫でてくれる。波立ったあたしの心を鎮めようとしてくれてるみたいだ。
これ、すごく落ち着く……。
その温もりが何度往復した頃だったのか。カインが口を開いた。
「もう、平気か?」
気持ちはすっかり落ち着いていて。それどころか、心地よさに少しぼんやりしてしまっていた。
「……うん。あの、ありが、と、う」
お礼を言おうと顔を上げると、吐息がかかるくらい近くにカインの顔があった。いつもは前髪に隠れてるはずの右目が露になっていて、ダイレクトに視線が絡む。
その瞬間、顔が爆発しそうなくらい熱くなった。
近い。近すぎる。
どうしてこんな超至近距離に? ああそう、そうだ、この状態、カインに抱きしめられてたんだっけ?
え。カインに抱きしめ? 抱き合って、る?
「何だ? カサネ」
あたしを見下ろすカインの唇が、前髪を掠めた。
「う……あ、あ。ああああああっ! ご、ごめんなさいっ」
何をどうしてこんなに体を預けてるか、あたし! 両手を突っ張って、カインから自分を引き離した。
いや、カインはあたしを落ち着かせようとしてくれたんだろう。それは分かるし、十分助かった。だけど、それに安心してしまったからって、いつまでもくっつきすぎじゃないか。
あたしの馬鹿!
体温も一気に上昇する。暗いとはいえ、顔が赤くなったことがバレるだろうか。嫌だ、それは困る。
「なんだ、そんなに俺が嫌なのか」
顔色を隠そうと後ずさるあたしを見て、カインはカリカリと頭をかいた。
「嫌とかじゃなくて! そうじゃなくってっ」
「じゃあ、何で離れていったんだ?」
「え」
心底不思議そうに聞かれて、口ごもった。
何で、って。それは、間近で顔を見た途端、カインを意識してしまった、んです。
でもそんなこと口が裂けても言えない。『異性』として見てしまった、とかバレたら消滅してしまいそうなくらいだ。
今までこの世界について覚えるのに必死だったし、命珠のことだってあるし、そんな方面にまで頭が回らなかった。そりゃあ、かっこいいなー、綺麗だなー、程度のことは思ったりはしてたけど、あまりにも相手のレベルが高すぎて、そういう対象に見られなかった。年上の、大人ということもあるし、自分の相手として、なんて考えも至らなかったのだ。
対象外のままでいたほうよかったのに、どうして余計なことをする! 気付いてしまった以上、あたしの内面に弊害が起きてしまうかもしれないじゃないか。
このことは、絶対にカインに気付かれたくない。カインだって、あたしなんて対象外のはずだ。それなのにあたしが変な目で見てるなんて分かったら、何て思う? 困る、これ一択しかないだろう。
結果、カインとの間に変な空気が生まれてしまうかもしれないし、避けられたりなんてことにもなりかねない。そんなの、嫌だ。できることなら、数刻前までの関係を続けたい。
「ええと、ほら、我に返ったら気恥ずかしかったと言うか、その」
えへへ、と曖昧に笑ってみた。恥ずかしかったのは本当だし、嘘は言ってない。
なのに、何でそんなに不愉快そうな顔をするわけ!?
カインの眉間にはくっきりとシワが刻まれていた。
「嫌じゃないなら、そんなに勢いよく逃げなくてもよかったよな? 結構傷つく。というか、傷ついた」
声も不機嫌そうに低い。ああ、完全にお怒りのようだ。あたし、そんなに酷い逃げ方をしただろうか。
「えと、だって、ほら、あの」
「カサネは本当は俺が嫌いなのか?」
ずい、とカインが歩み寄ってきた。と、のけぞる猶予もなく腕を掴まれて、強く引き寄せられる。
室内で本ばかり読んでいるから、デスクワーク派なのかと勝手に思っていた。けれどやっぱりカインは男の人で、あたしは至極あっさりと、カインの胸の中に再び納まってしまった。
意外に、と言ったら失礼なのだろうけど、カインの腕は逞しかった。それは苦しいくらいにあたしを抱きしめて、お陰で衣服の下にも締まった体があるのが分かった。
ああそういえば、あたしとレジィを助けに来てくれた時、追っ手のリーダーを矢で射た人がいたっけ。あれが誰だったのか今まで考えもしなかったけど、カインだったのかもしれない。この体つきに加え、術も使うカインなら、遠く離れた相手に弓を引くことくらい、造作もないのでは。
って! そんなこと考えてる状況じゃない!
「あの? あの、カインさんっ?」
「嫌いなのかと聞いてるんだけど」
耳元にそっと声を寄せられ、ぞくりとした。耳に息が。耳に息が!
「いやだから嫌いとかそういうんじゃなくて! と、とりあえずからかうの、止めてっ」
これ以上されたら心臓発作を起こしかねない。わたわたとカインの腕の中でもがくと、きゅう、と益々腕に力が込められる。
「からかってない。俺にこうされるの、嫌?」
カインのことが嫌いなはずがない。嫌だったら毎日あんなに時間を共にしていない。
それくらい、言わなくてもわかりそうなもんじゃないか。
「嫌なんてことな……」
言いかけて、はた、と気付く。
でも、今は『こうされるの』が、嫌じゃないかと聞かれなかった?
ここでの回答は、間違った方向に行ってしまう。
慌てて口を噤んだ瞬間、はぷ、と音を立てて、カインはあたしの耳輪に柔らかく噛み付いた。
「…………っ!?」
驚きを通り越したら何という感情になるんだろう。耳から産まれた感情は全身に電気のように走って、音のない悲鳴となって溢れた。
通電した神経の全てが、カインの口中にちょっぴり取り込まれた耳の端に集中する。
カインの歯列すら、感じ取れそうだ。
「……返事しろ。嫌? カサネ」
囁きがあたしの鼓膜を揺らす。吐息までも聞き取れて、それは新たな電気に変わって体を走った。耳、敏感すぎる。神経が外に飛び出してるんじゃ……って、もしかして耳、噛み切られてるんじゃ? 痛くはないけど、じんじん痺れて、痺れ過ぎたせいか感覚がなくなってきた。そうだ、なくなってるから感覚がないのか。
食べられたんだ、あたしの耳。
自分の耳の上部が、カインの歯型に沿って千切れているイメージが頭の中をぐるぐる回った。
「みみ! みみ!」
「何?」
「あたしの耳、ある!?」
自分の許容範囲外のことが起こると、あたしは誤作動を起こしてしまう性質なのらしい。
口をついて出た言葉は、後から考えても間抜けとしか言いようがないくらい、意味不明なことだった。
しかしそれはカインの何かを壊してくれたらしい。
「何、それ。俺が噛み千切ったってこと? 俺ってそんなに危ない奴?」
くすくすと笑いだしたカインは、腕を解いてあたしを解放してくれた。というよりあたしの必死の台詞がツボを突いたらしく、体を折って笑っている。
「耳、あるよ。だ、大丈夫」
目尻に涙を浮かべて言うカインの背中を、怒りを込めてばしんと叩いた。
カインが笑い出したことでさっきまでの雰囲気が一掃されて、それに安心したら怒りが沸々と湧いてきたのだ。これくらいしても許される、絶対。
「『だ、大丈夫』じゃないし! びっくりしたんだよっ?」
「わ、悪かった。だからちょっと待って……、くっ、あはは」
そんなにウケなくてもいいと思う。と言うか、笑いすぎだし。
漠然と、カインは人をいじって喜ぶタイプだろうなと思っていたけど、完全に確定。あたしで遊んでたんだ。
仏頂面のあたしにお構いなしに、カインはひとしきり笑い続けた。しかもようやく収まったかと思いきや、「耳の確認は、した?」などとのたまった。
「した! あった!」
一番最初に言うのはそれでいいわけ? むか、としながらも答えると、また笑いの波が襲ってきたらしい。唇を歪めて肩を震わせた。
あたしはすごく動揺したのに、心臓壊れそうだったのに。
カインだけ楽しそうにしてるのが腹立だしい。性格歪んでるって、前にレジィが言ってたけど、まるっと同意だ。
ぷい、と顔を背けようとして、カインの手に拒まれた。頬に手を当てられ、ぐい、とカインへ顔を向けられる。
その唇は可笑しそうに歪められていて、普段表情の乏しいカインの笑顔を見られたのはよかったかも、とちらと考えた。
しかし、貴重な笑顔であっても、この怒りは治められそうにない。
「何!? まだからかうの?」
「いや、違う。さっきはカサネが逃げるから、ちょっと意地悪したくなっただけなんだ」
「ちょっとぉ!? すっごく慌てたんだよ、あたしっ」
「分かってるって。悪かった」
ぶう、と膨れたあたしの頬に手を添えたまま、カインは言った。きり、と顔つきを改める。
「カサネに拒否されたのが、なんとなく嫌だったんだ。俺を嫌ってないことくらいは、理解してる」
存外、素直。だけど、それならあんなことしなくてもいいじゃないか。意地悪にしても程がある。
「それより、カサネ。ちゃんと飯食ってる?」
「は? 食べてるけど、何で?」
「いや、何というか、凹凸がなかったから。平野?」
「…………っ!?」
ぶん殴ってもいいだろうか、こいつ。
つらっとしているカインを睨んだ。視線で人を燃やせるとしたら、今ならいける。
「いや別に悪いとは言ってないからそんな目で見るなよ。サラにはそういう脂肪があったな、と思ったまでで」
本人は良かれと思って言い足したつもりらしい。が、火にガソリンを撒いたようなものだ。
そうですか、サラは肉感的で、あたしは貧相ですか。これで何人目だ。あたしを残念そうに扱ったのは。
ぱしん、とカインの手を払った。数歩後ずさって、距離を取る。
「……カインは、サラの方がよかったんでしょ? でも、あたしは『こう』なんだから仕方ないじゃない」
ふつふつと湧いた感情から発した声は、少し震えていた。
「いや、そんなこと」
「そんなこと、あるでしょ? だって話に聞くサラとあたしは大違いだもんね? カインもあたしを見て、がっかりしたんでしょう?」
みんな、サラとあたしの違いに落胆しているんじゃないか?
日を追うごとに大きく育っていった、隠した思いがあった。
それが今、カインの言葉に反応し、表面にむっくりと姿を現した。
あたしは、崇められる美しい巫女姫になんてなれない。盗賊を助けて逃げのびるような行動力のある女性でもない。ただの、普通の役立たずの子だ。
オルガで暮らし、みんなが優しくしてくれる度に、申し訳なさを感じていた。
サラに遠く及ばないあたしを大切にすることを、誰も疑問に思っていないのだろうか。カインやレジィが『カサネはサラだ』と言ったから、信じてくれているのかもしれないけど、でも本心は……?
しかし、そんなこと口には出来なかった。皆を困らせるのも嫌だったし、何よりそれを肯定されるのが怖かった。
自分の存在を否定されるのは、もうこりごりだったから。
それなのに、あたしは口火を切ってしまった。
「別に、がっかりなんてしていない。サラという人間は、もういない。代わりにカサネがいる、それだけだ」
あたしの問いかけに、カインはぽつんと言葉を落とした。
そこにいつもの自信家はいなくて、あたしが言ったことを認めているかのように聞こえた。
そのことにまた、腹が立ってしまう。
「だからっ、その『サラ』の代わりがこんなのだから、がっかりだよねって言ってるの! あたしはサラの記憶も面影も、何にも持ってないもん!
命珠を抱えてるってだけで……それだけであたしには何の価値もない!」
目尻に涙が滲む。
感情のコントロールができない。こんなこと、これ以上言いたくないのに。
ああ、あたしはただの駄々っ子だ。思い通りにいかなくて、わめき散らす子供。
サラのようになりたい。
そうすれば、みんなの好意を堂々と受け取れるようになる、そう思った。
だから、自分なりに頑張ってきたつもりだった。この世界を知れば、何かが変わるかもしれないと期待もしていた。
なのに、あたしはどこまでいっても『カサネ』で、『サラ』にはなれない。近づくことさえ出来なくてただ、己の無力さを実感していくだけだった。
どうしてなれないの? どうしてサラのように役に立てないの?
このままじゃ、またいらない子になってしまう!
「そんなこと、思っていない」
カインの言葉が耳を通り過ぎる。
「嘘。嘘だよ、そんなの」
首を振って、俯いた。ぱたぱた、と頬を伝った涙が顎先から落ちていった。
――サラじゃなく、カサネに愛情をください。
サラにはなれないけど、でもカサネを受け入れてください。
あたしから命珠が消えた後も――
そう願っている自分がいた。
束の間といえど、この世界で心地よい温もりを与えられた。もう手に入らないかもしれないと思っていた、人の温かさ。
失いたくない。無くしたくないよ。
でも命珠があたしから無くなれば、この世界は『カサネ』を必要としないだろう。
命珠さえなくなったら、あたしは元の世界に戻されることになる。
元々その為に呼ばれたのだし、何よりあたしは彼らが待ち望んでいた『サラ』ではないのだ。
馬鹿ね、あんたに命珠以外の価値がどこにあるというの、カサネ。ちょっと優しくされたからって、甘えちゃダメでしょう。
「も……やだ……」
どの世界においても、あたしは不要なんだろうか。どこにいけば、カサネを求めてもらえるんだろうか。
「泣くな、よ。困る」
手を差し出そうとしたカインが、それを引っ込めた。再び差し出して、引く。あたしの扱いに悩んでいるのだろう。
こういう風に迷惑になるから、言うまいと思っていたのに。感情に任せて口走ってしまった。情けなさに、涙が止まらない。
「カサネ」
「ごめ、ん。帰るね。もう、一人にして。おやすみなさい」
俯いたまま言って、その場を離れた。
せめて泣き声は漏らすまいと唇をぎゅ、と噛んだまま、振り返らずに家まで歩いた。
ほとんど眠れない夜を越すことになった。
乱れた心は眠りにつけるはずも無く、あたしはただ横になって、何度も寝返りを打っていた。
時間が経てば、思うことは反省ばかり。
何であんなこと言ってしまったんだろう。カインはきっと軽口のつもりで言っただけだったんだろうに。それを真正面から受け止めて、興奮して泣いて。
きっとカインに呆れられたに違いない。
いや、呆れた、なんてものじゃないか。
サラはもういない、と小さく呟いた表情は悲しそうだった。あたしはカインを傷つけてしまったんだ。
あんなこと言うつもりはなかったのに。
カインに嫌われたかな。あたしが嫌になっちゃったかな。
あの少し前に見せてくれた笑顔は、もう見ることができないかもしれない。
あの時は怒りが全面に出てしまったけど、でもちょっと嬉しかったのに。
そっと耳に触れてみる。そこに当たり前にある耳綸をなぞり、目を閉じた。カインと少し近づいたと思えば、こんなことになってしまった。 あたしはどうしていつもこうなんだろう。
「ホント、嫌になる……」
ため息まじりに呟くと、隣のベッドで眠っていたライラが寝返りを打った。起こしてしまったかもしれないと窺えば、気持ちよさそうな寝息が聞こえてほっとする。
布団を頭までかぶって、今度は小さくため息をついた。
今日のことは、あたしが悪い。
カインがサラを望むのは当たり前のこと。それを、サラのようになれないからって喚くなんて、その感情をカインにぶつけるなんて、間違っている。
謝らなくちゃ。
許してくれないとしても、きちんと謝ろう。
嫌われたままでいるのは、辛すぎる。
それに、カインとはこれからブランカに行かなくてはいけない。
リレトのいるブランカで、莉亜のことを調べなくてはいけないのだ。この世界の知識がまだ乏しいあたしは、カインの手助けがなければ情報収集すらできない。
それなのに、ぎこちないままでいていいはずがない。
カイン、許してくれるだろうか。
怖い。でも。いや、謝ることが何より先決でしょ。
気持ちの落ち着け方が分からないまま、うたた寝のような僅かな眠りに落ちて、あっという間に夜明けを迎えた。
顔色がよくないと心配するフーダとライラに笑顔を向け、朝の仕事を終えた。それからしょぼしょぼした目を擦りながら、カインのいる離れへ向かった。
いつものように木戸を叩こうとして、手が止まる。
どんな態度でここに入ればいいんだろうか。数時間前のことを思うと、気まずすぎる。
しばらく立ち尽くしていたものの、このまま突っ立っていても始まらない、と気合を入れて木戸を叩いた。
相変わらず、返事はない。いつも通り、とも言えるけど、もしかしたら怒っていて返事をしたくないだけかも。あ、ダメだ。そんなこと考えたら逃げ出したくなってしまう。
「あの、おはよー……うひゃ!?」
とりあえず入らないことには始まらない。俯きながらそっと中に入ると、がばっと抱き締められた。
「は? ちょ、何!? 昨日の続き!?」
どういう意図があってこんなことを? もがもがと暴れていると、明るい声がした。
「ただいまー、カサネ!」
「え、あ! レジィ!?」
わしゃわしゃと大きな手の平で頭を撫でられて、誰だか気付く。
顔を上げれば、金眼を三日月のように細めたレジィが笑っていた。
「うわ! お帰りなさい! いつ帰って来たの?」
「夜中。いい子にしてたか?」
「うん! 何ともなかった? 怪我とかしてない?」
「してないしてない。一緒に行った奴らもみんな元気」
「そっか、よかった」
「心配してくれたんだ? ありがとなー」
「……外に出られないんだけど」
手の平に頭を揺らされていると、ふいに不機嫌そうなカインの声がした。
通常時より段違いに低い声にびくりとなる。
「っと、悪い」
レジィがあたしを離して、体をずらした。目の前に本を数冊抱えたカインの姿が現れる。その眉間にはシワが刻まれていて、唇もへの字に曲げられている。
やっぱり、怒ってる……。ぎゅう、と心臓を掴まれたような痛みが走る。
「あ、お、おはよう、カイン」
「オハヨ」
挨拶を即座に済ませて、レジィとあたしの横を素通りして部屋を出て行った。
「ね、ねえレジィ。カイン、機嫌悪い、よね?」
「そうか? いっつもあんなモンだろ」
「ええ? そうかなあ」
出していた机に本を広げだしたカインの姿を窺う。やっぱり機嫌悪そうな雰囲気纏ってる。
どうしよう。まずは、昨日はごめんなさいと言うことから始めようか。
ああ、でも声をかけにくいよ。
「それより、カサネ。サラの両親のところに行くって?」
躊躇っていると、木戸に寄りかかったレジィが口を開いた。
「……え、あ、うん。何か思い出すかもしれないっていうなら、行こうと思って。それに、気になることもある、し」
「ああ、カインから聞いた。友だちかもしれない、って?」
「う、ん……」
「そっか……」
小さく頷くと、レジィはきゅ、と唇を引き結んだ。それから、少し考えるように視線を彷徨わせてから、カインに向かって声をかけた。
「カイン。今日はちょっとカサネを借りていいか? 勉強、お休みってことで」
「……ん? ああ、いいけど」
ぴたりと手を止めたカインがあたしに顔を向けた。
「じゃあ、今日は休みってことにする。あと、ブランカには明後日行くことにした。その為の仕度があるから、明日も勉強はなしだ。いいか?」
「あ、は、はい」
「明後日の朝、ここに来て」
本を開いて、そこに目を落としたカインは、もうこちらに用はない、といった様子。ちらりとも視線を寄越してくれない。
「じゃあ、カイン先生から許可ももらったし、行こう」
「あ、あの。行こうって、どこに?」
「気分転換に行こう。本ばっか見てたら沈んじまうだろ。邑から少し行ったところに小さい湖があるんだ。そこまで行こうぜ」
「で、でも……」
「カサネ、目の下真っ黒なんだぞ。今日は何も考えずにぼけっとした方がいいって」
そんなに酷い顔をしてるのだろうか。
フーダたちは別に大げさじゃなかったのかな。
「そんなに、酷い?」
「ああ。てな訳で、行くぞ」
深く頷いたレジィがあたしの手を取った。
酷い見た目になっているようだし、今日はレジィに甘えようか。
それなら、行く前にカインに謝っておこう、って、ついでのように言うのも違うか、と一人おろおろしていると、ぐい、と手を引かれた。
「あ、ちょ。レジィ」
「ほらほら、行くぞー」
引きずられるようにしながらカインのほうを見る。振り返らない背中があった。