2.己に潜む異質
二章己に潜む異質
馬というものは、痛い。
レジィの駆る馬に乗っているあたしは、激しい揺れと、その衝撃を受ける腰の痛みにひっそり耐えていた。
流れる景色を見る余裕もない。レジィに背中から抱きしめられるように座っているので、振り落とされる心配はないだろうけど、それでも怖くて、跨いでいる鞍の端をぎゅう、と握っていた。その手は力を入れすぎたせいか、感覚がなくなってきたような気がする。
「カサネ! 馬を換える」
どれくらい馬上の人になっていたのだろうか。
痛みがぼんやりとした痺れに変わってきた頃、頭上から声が降ってきた。かと思うと、揺れがゆっくり治まった。
馬の足取りが歩みに変わった。
「う、うん。結構走ったもんね」
ああ、ようやく息がつける。
あまりの速さに息も絶え絶えだったあたしは、深く息を吸い込んだ。
「まだ距離があるからな。無理はさせられない」
馬は、こまめに休ませないとダメになってしまうらしい。レジィは馬を二頭用意していて、何でかと訊くと、交互に乗り換えることで馬を休憩させるのだと教えてくれた。
確かに、二人の人間を乗せて走るんだから、疲れて当たり前か。
あたしは目の前で歩みに合わせて揺れる葦毛のたてがみに手を伸ばし、そっと撫でた。
あなたたちがバテてしまったら、立ち往生してしまう。重いだろうけど、頑張ってください。
「もうちょっと行ったところに湖があるはずなんだ。ついでにそこで俺たちも休憩だ」
「うん」
休憩。地面に座れる。
少しほ、として、あたしは周囲を見渡した。
さっきまでは何もない、草原のような場所を走っていたはずなのに、緑生い茂る木々が増えている。
木々の隙間から、開けた草原の姿を見る。人どころか動物の姿すらないのを確認して、聞いた。
「ここ、大丈夫だよね?」
「ああ。何か来たら確認できるくらいには開けてるしな」
「そっか」
「少し仮眠を取っていくか」
ライラたちに見送られて、一日が過ぎた。
ヤシムスというその土地を抜けると、広がっていたのは地平線が見えそうな位広い、平原だった。
パルルカ平原という名のそこは、国の穀倉地帯であり、この先に、目指すオルガ山脈があるのだという。
その平原は広大なものらしく、今までほとんど寝ずに馬を駆っていたというのに、まだ三分の一も過ぎていないそうだ。
寝ずに、というのはレジィと馬のことで、あたしは激しく揺れている馬上で、たまにうつらうつらとしていた。人間の適応能力というのは恐ろしい。どんな場所であっても脳は睡眠態勢に入れるようだ。
しかし、こんな強行移動をしても、目指すオルガ山脈まではあと三日はかかるらしい。
女子高生の平均体力しか持ち合わせていないあたしとしては、途中でどうにかなってしまわないか、心配なところだったりするのだけど。
レジィに比べたら格段に楽なのだから、そんな甘えたことを言ってもいられない。
彼はあたしを守る為に無理をしてくれているのだ。
とは言え事情はよくわからないままだし、この人があたしを連れてきたせいで、こんな事態に巻き込まれてるんじゃないの? と思わなくもないけど。
その辺りは後できちんと話してもらわないと困るな。
でも、差し当たっては、地面で寝られる、ってことが一番重要だったりする。
揺れない場所で横になれるって、幸せだ。
当たり前のことにささやかな喜びを感じながら、あたしは再び周囲に視線をさ迷わせた。何も変化がないことにほっとして、再び揺れる葦毛に目線を戻した。
『何かいないか、周囲を確認すること』
最初に休憩をとったのは、動物しか来ないような小さな水場だった。木々が数本立っているその裾を、小川がちょろちょろと流れていた。
あたしは初めての乗馬体験に腰砕けになっていて、馬から降りた途端にその場にへたり込んだ。
痛い。キツイ。土埃まみれだし、乗ってるだけで体力も気力も減った気がする。
はああ、と脱力していると、大切なことを教えておく、と先の言葉をレジィが言ったのだった。
『平原は隠れる場所が限られているから、分かりやすいんだけどな。まず、誰かが隠れていそうな場所を見つけて、そこに目を凝らす。動くもの、光るものがあったら、危ない。これから休憩するたびに、一番にそれをすること』
身を守る為だから。その言葉に従って、周囲をじい、と見渡した。
何もない、と思う。風にそよぐ草しか、ない。そう言うと、レジィはにこりと笑って。
『ないと分かったら、大丈夫。ほら、喉渇いてないか?』
『渇いた!』
緊張のあまり、喉はカラカラだった。
並んで川の水を舐めている馬の横へ行き、光を反射している水面に両手を差し入れた。ひんやりとした水が指の間をさらさらと流れていく。
その冷たさを十分堪能してから、掬い上げて喉を潤した。
甘い水に、ため息がこぼれる。
『はー、生き返った』
『そりゃあよかった』
レジィも横に並んで、同じように水を掬い、飲んだ。
その場はすぐに出発し、それからも、所々点在している水場で休憩を繰り返してきた。あたしはそれら全てで、きちんと周囲を確認して、それはちゃんと習慣づいたようだ。
「ほら、ついた」
そこには小さな湖があった。
水鳥が羽を休めている、透き通った水が湛えられた湖。見たことのない、しかしかわいらしい小さな白い花が、脇に咲き乱れていた。
「わ、綺麗」
「ここは人があまり通らない道筋にあるからな。よ、と。ほら」
先に降りたレジィが、あたしの体に手を伸ばした。その手に支えられるようにして馬から降りた。
うう、これ、照れてしまうんだよね。馬上って思っていたよりも高くて、それが怖くて降りるのにもたもたしていたら、レジィが助けてくれたのが始まりだった。
それから乗り降りするたびにレジィの手を借りているわけだけど、両脇を支えられてふわりと体を持ち上げられるのって、どうにも恥ずかしくてならない。
小さなころに読んだ絵本で、お姫様が王子様にこんな風に抱きかかえられて馬を下りるシーンがあって、その挿絵が思い出されるのだ。
まさか自分があの状況を再現することになるなんて!
しかもレジィは十分王子様役に足る容姿だ。どきどきしても仕方ないと思う。
まあ、あたしはドレスではなく、少年従者な風体で、傍目から見たら愚図な家来の世話をする主、なんて光景なんだろうけどさ。
それに、気になるのは体重だ。全体重を、束の間とは言えレジィに預けてるんだよね? 重いとか思われてたらどうしよう。
「ありがと、う」
「おう」
レジィはあたしの赤面なんて気にもしてないようだから、それは大いに助かるところではある。さっさと馬を湖に誘導する背中に、緊張を解くため息をついた。
「昼飯にして、夕刻頃にここを出よう」
「あ、はーい」
「ごめんな。本当はゆっくり寝させてやりたいんだけどさ」
「ううん、いいよ。大丈夫だから、あたし」
あたしなんかよりレジィの方が疲れているだろうに。あたしは乗っているだけだけど、レジィはずっと手綱を握っているんだから。
レジィたちのそばに行き、埃で汚れた顔を洗った。
冷たい水が心地いい。ぶるぶるっと首を振って水を払ってから、はあ、と息を吐いた。
つい、と見上げた空が青い。少し寝不足の瞳に眩しいくらいだ。
「ライラたち……、大丈夫かな」
見送ってくれたときの姿が甦る。ライラも、ゼフさんも、無事だろうか。
「大丈夫だ。きっと」
そう言って、レジィも同じように空を仰いだ。
「心配すんな。きっとまた会えるからさ」
「ん……」
「さ、飯にしよう。これ、開けておいてくれ。俺はこいつらを繋いでくる」
黒毛の馬に載せていた麻袋を渡される。受け取ると、レジィは二頭の馬を引いて、手近な木に連れていった。
ライラは丸パンや干し肉、皮袋に入れた水を麻袋に詰めてくれていた。あの短時間によく、と感謝するばかりだ。
袋の中身を広げていると、レジィが戻ってきた。
さっそく、パンに手を伸ばす。
「これさ、ライラが焼いたやつなんだ。旨いよな」
「え、そうなの? すごいな。あのスープもおいしかったし、ライラって料理上手だね」
向かい合って、のんびりとパンを咀嚼する。この場面だけ見ていたら、ピクニックにでも来ているみたいだな、と思う。
でも、実際は追われているのだから、気は休まらない。
現に、景色を見るように遠くに視線をやったレジィの瞳の光は鋭いままだ。
「リレト、って人の追っ手、本当に来てるの?」
「ああ。間違いないだろう。結構飛ばしたから追いつかれてはいないと思うけど、油断はできないな」
「そっか」
もぐもぐと口を動かす。ゆっくりと会話ができるのは、あの小屋を出てから初めてのことだった。今までの休憩は慌しく済ませて、話す余裕はなかったし、移動の最中は口を開けば舌を噛んでしまいそうで、無理だったのだ。
今なら、色々聞けるかも。
「ねえ、レジィ。何であたしが狙われてるの?」
「ん? サラの生まれ変わりだから」
「いや、もっと具体的に」
「あー、そか。話さないと、カサネには意味不明なことばかりだよな」
パンと干し肉をあっさり胃に納めたレジィは、喉を鳴らして水を飲んだ。ぺたんこになった皮袋を放って、ごろんと寝転ぶ。
それから空を見上げるようにしながら、ぽつぽつと語りだした。
「最初から話そうか。リレトってのは、禁忌の術を使って不老不死になった、神武官なんだ」
「ふろうふし?」
「ああ。老いない、死なないってやつ。その術はさ、禁忌っていうだけあって、たくさんの命を費やさないと、使えない。
だからリレトは、神武官の立場を利用して、邑を一つ潰した。邑にいた奴らの命を奪って、禁術を己に使った」
不老不死、そんなことが本当にあるの?
淡々と話を続けるレジィの顔からは、感情が窺えない。
「その術を使うと、『命珠』っていう、命を司る珠が出来る。その珠さえあれば、体が壊れても復元できる。命は永遠に潰えない。心臓を貫いたとしても、死なないんだ。
その代わり、命珠を維持するためには、絶えず他の人間の命を捧げなくてはならない。
そんなフザけた代物を、リレトは作り出したんだ」
無意識に、服の下にある赤い珠を握り締めていた。それの持つ色が、レジィの語る珠を連想させたのかもしれない。
「不老不死になった奴を殺すには、一つだけ方法があった。それは命珠を壊すこと。珠が砕けたら、奴は死ぬ。
三年前、俺たちは命珠を破壊しようと、奴がいるヘルベナ大神殿に侵入した」
「おれ、たち?」
「俺と、カインと、サラ。あと、何人かオルガの仲間にも手伝ってもらった。ゼフもいたな。
本当はサラを連れて行きたくはなかったんだけど、珠を破壊するには巫女姫の力がいるってことでさ。だからサラも一緒だった」
レジィの瞳に、懐かしそうな色が浮かんで、次に、切なそうに閉じられた。
「神殿の深く、三大神官しか入れない拝謁の間に、珠はあった。赤黒い、濁った色をした気味の悪い珠だった。それを壊すには手順があって、それはまず巫女の血で浄化し、後に神剣にて貫くこと。
サラは自分の腕を切りつけ、滴る血を命珠に灌いだ。
その途端、命珠は意思があるかのように浮いて、サラの体に、溶けた」
「溶けた?」
「そう、溶け込んでしまった。そしたらサラの様子が急変した。血の気を失って、息苦しそうに体を折って、倒れた。
俺はそのとき、拝謁の間に誰も侵入してこないように、サラから離れた扉の前にいた。サラがゆっくりと倒れていくのを、今でもはっきり覚えてる」
キュルル、と動物の鳴き声がした。小さな音なのに、びくりとなる。
見れば水鳥が二羽、仲よさげに白い体を添わせていた。
「命珠はサラを、喰った。サラの体は末端から色を変え、そこは次に灰に姿を変えた。カインがどんな術を使っても灰化は止まらなくて。抱きかかえたら、綺麗な指が、白い腕が、ぼろぼろと崩れて、舞った。
悪夢を見てるようだった。それなのに、サラはそんな状態になっても、命珠の破壊を望んだ。自分と命珠が同化したと理解した途端、『命珠ごと殺して』って言った。俺たちに何度も、『命珠に喰われる前に、早く殺して』って、何度も。声が掠れて、別人のようになってた。それでも、全てが灰に変わる、その時まで繰り返した。
でも、俺も、カインも、その場にいたもの皆、サラに剣を突きたてるなんてできなかった。躊躇っている間に、サラの命は尽きた」
午後の日差しがぽかぽかと心地いい。頬を柔らかな風が撫でた。
それはあたしの後ろに流れ、木々の葉をさやさやと揺らす。
耳を覆いたくなるようなレジィの話と、今この時間が繋がっているなんて、嘘みたいだ。
「サラの体が、灰に変わり果てた頃、リレトが現れた。『これで禁術を完全なものにできた』そう言って笑ったよ。
『サラの魂はこれから、先の世の記憶を全て失って後、転生する。その魂に僕の命珠を抱えたまま。幾重にも重なって存在する広大な世界から、たった一人を見つけ探さなければ……、僕は殺せない』とな。
リレトは俺たちがサラを連れて侵入してくることが分かっていて、それをわざと受け入れたんだ。サラの魂を命珠の入れ物にし、俺たちの手の届かない場所へ送る為に。
あいつは、俺たちがサラを手にかけられないことすら、承知していたんだ」
多くの人の命を必要とする珠。それを抱えた魂が転生。
「……あたしがサラさんだ、って、言ったよね?」
ずっと、首元の珠を握っていた。その手がじっとりと汗ばんでいた。
「ああ。カサネは、命珠を抱えてる」
あたしの中に、たくさんの命を欲する珠がある?
「サラが死んでから、リレトは神殿を支配した。あいつをどうにかできる力を持つ神官はいないからな。神殿の抱える武力も、神殿の権威も、そして不老不死の体も、全てリレトは手にしている。もう誰にも倒せない存在になってしまったんだ。
だからこの世界にはカサネが必要で、俺が迎えに行ったんだ。カサネの魂を命珠から解放して、今度こそ砕く。そうすれば、リレトは死ぬ。リレトの為に誰も死ななくて済むようになるんだ」
よほど怯えた顔をしていたらしい。目を開けてこちらを見たレジィが慌てたように明るい声を出した。
「大丈夫だって。カサネは絶対にリレトに渡さないし、俺が守るから。それに、命珠はカインがどうにかする。カサネから引っぺがしてやるって」
「う……ん」
胸の奥が、締め付けられるように痛い。少しの息苦しさを感じるくらい。
「ねえ。あたしの魂には目印がついてる、って言ったよね?」
「ん? ああ」
「その目印っていうのが、命珠のこと?」
「ああ。カインはそれを目標に、俺を転送した。その先にカサネがいた」
レジィは、『サラ』を見間違えないと言った。ならば、やはりあたしは『サラ』なのだろうか。
ううん。ここに連れて来られ、そして追われている。共にいる人は、あたしをサラだと言い、あたしを守る為に寝ずに馬を駆っている。もう、人違いだなんて言っていられないのかもしれない。
サラの記憶なんてないし、この世界に別段懐かしさを感じるわけでもない。
けれど、信じてみようと思う。あたしが『サラ』であったのだと。
でも、信じるのだとしたら。
口にするのもおぞましい事実を思い、胸が一際痛んだ。
「レジィ。命珠っていうのは、人の命がないと、維持できないんでしょう?」
「あ、ああ」
笑顔を作ろうとしていたレジィの顔が曇った。
「じゃあ、サラが亡くなってからも、人はずっと殺されてたの?」
「……ああ」
ほんの少し言い躊躇った後の短い答えに、ぞくりとした。
あたしがサラだと言うならば、それは誰かの命を喰い続けているモノが、あたしの深いところにいるということなんだ。
気付かずに生きていたことが、幸せだったのかもしれないと思うくらいに、激しい嫌悪感が襲った。
「う……っ」
吐き気がこみ上げてきて、げほげほとむせる。
寝転んでいたレジィが飛び起きて、丸めた背中に手を添えた。
「大丈夫か、カサネ!?」
「う……、う……ん」
気持ち悪い。
湖に駆け寄って、水で口を濯いだ。気付けのつもりで、顔も洗う。
「カサネ? 平気か?」
湖の縁に座り込んだあたしに、レジィが心配そうに声をかけた。
「ごめん、もう少し考えて話せばよかった。気分、悪いか?」
「ううん、平気。少し、びっくりしたって言うか……」
レジィが差し出してくれた布で、顔を拭う。
眉根を寄せた、ひどく申し訳なさそうな顔に、次はあたしが明るい声音を意識して言った。
「聞かなくちゃいけないことだから。レジィは悪くないよ。
それに、ここに連れてこられた理由も、自分の役割も、分かったし。あたしは、これからどうすればいいの?」
「え? ああ、と。カインたちと合流して、それから命珠とカサネの魂を引き離す術を行う。どんなことをするのかとか、俺、神官じゃないから詳しくわかんねーんだけど。でも、大丈夫だから。カインはリレトなんかよりすげー神官だから」
カインという人に、命珠を取り除いてもらう。
自分の中にあるというそれが無くなるというのなら、願ったり叶ったりじゃないか。
少しほっとして、あたしはまだ眉間にシワを刻んだレジィに、気の抜けた笑みを向けた。
「よかった。じゃあ、早く行かないと、だね」
「おう。じゃあ、少し寝ろ。顔色、あんまりよくないからさ」
さっきの話で、顔色も変わってしまっていたらしい。
でも、あたしなんかよりレジィの方が休まないと。
「いいよ。レジィが休んだほうがいいから。ちょっとでも寝て?」
「俺は平気だって。カサネの方が辛いだろ? 乗りなれてないだろ、馬」
ぽんぽんと頭を撫でられて、レジィは木陰を指差した。
「あっちで寝ろ、な? カサネがバテたら、先進めねーしさ」
「でも」
「いいから」
「よくないよ」
あたしの顔色は一過性のもので、すぐに治まるはずだ。しかし、レジィはあたしと違ってずっと休んでないのだ。どちらが休むべきか、なんて考えなくともわかる。
「いや、俺は大丈夫だって」
「そんなことないでしょ? 寝て!」
むう、と見上げると、うわ、とレジィは頬を染めた。
かーっ、とか呟きながら、自分の額をべちんと叩く。その大きな音にこちらが驚いた。
「な、なに?」
「いや、こんなときに不意打ち。やべえ。つーか最低、俺」
「不意打ち? 誰かいるのっ?」
咄嗟に腰を浮かせたあたしに、違う違う、と手で制して。
「あーと、じゃあ、ちょっとだけ寝ます、ハイ」
レジィは素直に言った。
「うん、そうして。あたし、ちゃんと周り見てるから」
二人とも寝てしまっては、見張りがいなくなっちゃうもんね。
幸いというべきか、話の衝撃のせいであたしの疲れは吹っ飛んでしまっていて。ざわめいた心は睡眠なんてとれるような状態ではない。
レジィに少しでも体を休めて欲しいし、安心してもらおうと思って強く言うと、再び大きな手の平があたしの頭にふわりとのった。
「ありがとな。よろしく、カサネ」
に、と笑われて、その笑顔に赤面してしまう。
今まで、こんな風に男の人に頭を撫でられたことなんてなかったし、優しく笑いかけられることもなかった。
綺麗な金眼があたしに真っ直ぐに向けられていることも、何だかもじもじしてしまう。
「じゃ、じゃああたしあっちにいるね!」
早口で言って、逃げるようにレジィから離れた。
「――ん……。うー……?」
首が痛くて目が覚めた。また、眠ってしまっていたらしい。
どれだけ図太いんだ、と自分に呆れながら、開くのを拒否している両目をどうにか開けた。
「あれ、もう夜?」
さっきまで空は赤く染まっていたはずなのに。あたし、どれだけ寝ていたんだろう。
目を擦りながら、すっかり墨色に塗りつぶされた周囲を見渡した。
「わあ、すごい……!」
暗闇には何も見つけられなくて。次に何となしに空を仰ぐと、真っ暗な地面に反し、空には一面の星が瞬いていた。
小さな頃に、プラネタリウムを観に行った。その人工の空と同じ、いや、それ以上の光の粒がある。
「起きたか?」
降ってきたレジィの声に、体を捻って顔を向ける。
「ねえ、星! すごくないっ?」
「あー、今日は雲もないし、確かにな」
見上げるレジィはごく当たり前のものを見るような顔をしている。
「あたし、こんなにたくさんの星見るの初めて」
「へえ。カサネのいた世界は、星は少なかったのか」
「うん。あたしの住んでいたところはね、少なかった」
遠くに小さな小さな粒がちょっぴりしか見えない、寂しい夜空を思い出した。
と、馬の歩みがゆっくりなことに気がついた。頬にあたる夜風はいつものように荒くなくて、優しく撫でていくようだ。
「あ。もしかして、寝させようとしてくれたの?」
乱暴な揺れを経験してからは、のんびり闊歩する馬の振動は、ゆりかごのようなものに感じる。
首は少し痛むけれど、ぐっすり寝られたのは、レジィのお陰だったらしい。
「こいつらも疲れてるだろうから丁度いいんだ。寒くないか?」
「平気。あったかいよ」
夜になると空気がぐんと冷える。けれど凍えるほどではないし、何よりレジィとくっついている分、寒さを感じない。
「レジィは?」
「俺は平気。カサネが野うさぎみたいであったけーし」
「うさぎ……」
どうしてそんな喩えを、とちらりと思ったけど、とにかくレジィもあたしと同じ理由であったかいらしい。
まあいいや、と思っていると、レジィの片手があたしの頭をぐりぐりと撫でた。
「ひゃっ。何?」
「いや、カサネは小動物みたいだよなと思って」
「は? どの辺が」
そんなこと言われたことがない。ちょろちょろと鬱陶しいとか、そういう意味合いでのことなら、まあ、あるけど。
「や、小さいし。ふわふわしたカンジが」
ぐりぐりと撫でる手は止まらなくて、頭が動きに合わせて揺れる。
どうやらこれは小動物を玩ぶそれと同じ行為みたいだ。昼間のも、多分そうだったんだな。あの時は綺麗な笑顔との相乗効果で、気恥ずかしさを感じて逃げてしまったけど、この感触は嫌いじゃないみたいなので、黙って受けておくことにしよう。
が、台詞はひっかかる。それは太ってる、ということなの? お肉みっちりでふわふわ、とか。
もう何回とレジィに抱えられているので、ごまかしがきかないのは分かってるけど、でもここは一応平均体重以下なんだと言っておきたい。
「サラは、見たカンジが大型成獣って雰囲気だったもんなあ」
「あたしは適正体重で……え?」
自分への些細なフォローを口にしかけていたのを、噤んだ。
「カサネのいた世界には、獅子って、いた? 気性の荒いでっかい猛獣なんだけど。サラはそれを思わせたんだよなあ」
「獅子は知ってる、けど。でもそれって、女の人を喩えるときには余り使わないんじゃないの?」
獅子みたい、って。もしかして、サラって女子プロレスラーみたいな人だったんだろうか。
うん、ありえるかも。あのゼフさんを助けたこともあるみたいだし、筋肉隆々の逞しい女性、とか、
……何か、あたしと全く違うタイプだけど。
「サラって、どんな人だったの?」
素直に、好奇心。自分の前世がどんな人間だったのか、気になる。
自分の前世(って言っても実感湧かないままだけど)について知れるのなら、知っておきたいし。
「んー? そうだなあ。獅子の皮を纏ってるうさぎみたいな女」
「は?」
「分かりにくいか。まあ、俺が勝手に感じた雰囲気だしなあ。ヘルベナ大神殿の巫女姫……ってのは言ったか。見た目はええと、長い金髪に、碧眼。肌は白くて、でも血色がよくて、紅いらずだったな。とにかく綺麗。巫女姫に昇格するって決まった時は、肖像画を誰が描くかで、絵師たちに争いが起きたらしいぞ。近代一の美女を描く名誉に与りたい、ってな。
迫力美人って言うのかな。ちょっと、いやだいぶ眼力が強くて、睨まれたら泣きそうになった。凄みがあってさ、マジで怖いんだよ、あれ」
何を思い出したのか身震いして、でも次にくすりと笑った。
「気が強くて、頑固。弱音を上手く吐けない意地っ張り。ちょっと涙もろくて、照れ屋。でもそれを隠すのも上手くて、だからあいつは周囲には完璧人間扱いされてた。巫女姫としてはそれでよかったのかもしれないけどな。崇拝している奴も大勢いたし。
でも中には完璧すぎて気持ち悪い、なんていう奴もいて、それは後で俺が少し言い聞かせてやったかな。でも、それもサラにバレて、ぶっとばされたっけ。
そうそう、サラは手が早くて、何度も蹴倒されたんだよなー」
ぐりぐりが止まって、あたしはレジィの顔を見上げた。幾多の星の淡い光に照らされたその顔は、すごく嬉しそうだった。
ああ、大切な人を語る顔だ、これは。
「レジィって、サラのことが好きなの?」
思ったことが、ぽろりと口から零れた。
うわ、言っちゃった! とこちらが焦ったのに、レジィはそれに何のてらいもなく、あっさり答えた。
「ああ。俺の唯一無二の女だ」
呼吸をするのを、一瞬忘れた。自分の気持ちに嘘をつかないんだ、この人は。
「なんてな。ちょっとかっこいいこと言ったか、俺」
遠く、多分サラの姿を追っていた瞳が、あたしに向けられた。
少し照れたように笑う。
「え? いや、その、そういうの、いいと思うよ?」
想いを恥じることなく口に出来るのって、いいと思う。
レジィのサラへの真っ直ぐな気持ちに対して、素直に答えた。
「そか? ありがと」
ぐりぐり、と手があたしの頭を再び揺らす。
「ほら、首痛いだろ。前向け」
「うん」
大きな手の平で、くり、と前を向かされた。ふ、と見れば、手綱を握る逞しい腕が近い。背中に感じる体は大きくて、あたしをすっぽり包んでしまっている。
こんなレジィを一睨みで竦ませて、蹴倒すサラ。その人に益々興味が湧いてくる。
何より、『唯一無二』なんて言われるくらい想われているなんて、すごいよね。
……あれ? ちょっと待って。
あたし、そのサラらしい、んだっけ?
気付いた瞬間、体中の血液が沸騰した気がした。
前世のあたしが好き、そういうことなんだよね?
うわ、あの告白は過去のあたしに向けられていたんだ。
耳まで熱い。顔が真っ赤になっているのが分かる。
落ち着け、落ち着け自分。レジィは『サラ』が好きなんであって、『カサネ』が好きなわけじゃないんだよ。
サラの記憶も何も持ってないあたしが、サラと同等のはずがないじゃない。
うんうん、と一人納得しながら、過剰にレジィを意識し始めた自分を諫める。
さっきの言葉にじんわりと感動してしまっていた分、過去であるとはいえ、それが自分に向けられていたことに、うろたえてしまったのだ。あの告白の先にいたのが一応自分だったなんて、動揺するに決まってる。
でも、冷静になれ、あたし。ほら、レジィが語った『サラ』を思い出してみて?
金髪、碧眼、近代一の美女で、完璧扱いされるほどの巫女姫。
次に自分を返りみて?
黒髪ボブヘア。二重なだけが取柄の黒い瞳。低い鼻。美女なんて背伸びをしても無理な、おとなしい顔立ち。
性格だって、完璧なんてものとは程遠い。頑固や意地っ張り、なんていうのは同じだけど、それを上手く隠すなんて真似、できない。
ね? レジィが好きな『サラ』と、あんたは違うでしょ。
「そうだよ、違うよね」
「ん? 何が」
自分に小さく言い聞かせた言葉は、レジィの耳にまで届いていたらしい。
「イエ、ベツニ」
こんなこと考えてるなんて知られたら、この馬から飛び降りるしかない。って言っても、怪我するだけなんだろうけど。さすがに意味のない行為すぎるか、あたし。
ぷるぷると首を横に振ると、ふうん、とさして気にした様子でもない返事が返ってきた。
しかし。サラと自分を比較してみてはっきりしたけど、どうにもタイプが違いすぎる。今更勘違いだとか人違いだとか言うつもりはないけど、でもやっぱり納得いかない。
見た目はこの際さておいたとして、人々に敬われるような素晴らしい人間が、どうしてあたしみたいな鈍詰まりの子になるというの。劣化にも程があるというものだろうに。
もしかして命珠って気持ち悪いやつの影響、とか? だとしたら、リレトって人益々許せない。サラを殺しておいて尚、来世にまで不幸を与えるか。
なんて、あたしのことはいいや。
ちらり、とレジィを窺い見た。レジィは、どう思ってるんだろう。綺麗で強いサラが、あたしみたいな冴えない子になってしまったことを。
とても大切に思っている人が、別人になっていることを。
ショック、だろうな。やっぱり。出会った当初、レジィは寂しそうな表情を浮かべることがあったけど、あれはあたしの中に『サラ』としての記憶だけでなく、『サラ』自身を見つけ出せないことへの悲しみだったんじゃないだろうか。
命珠を壊す為には、あたしが必要だという。だからこうして共にいて、レジィは守ってくれると言うけど。
そんな目的がなければ、レジィはあたしと一緒にいたくないかもしれない。極端に言えば、あたしの姿すら見たくないかもしれない。あたしはサラだったのかもしれないけど、もうレジィの求めるサラじゃないんだから。
考えがそこに至ると、急に心が重たくなった。
自分の存在が、誰かを悲しませている。苦しませている。もうそんなの、十分経験してきたのに。異世界という新しい場所であっても、あたしはやっぱり誰かの重荷になってしまうのだろうか。
じわりと涙が滲みそうになるのを、慌てて拭った。一人で盛り上がって、沈んで、あたしってなんでこんなに面倒くさい子なんだろう。自己嫌悪に苛まれながら、意識して、声を張った。
「う、馬を換えなくても大丈夫? それに、十分寝られたから飛ばしていいよ」
「お? ああ、そうだな。換えるか」
ぽんぽん、と柔らかく頭が揺らされる。
どうやらあたしは、この手を気に入ってしまったらしい。温かなそれは、気持ちを静めてくれて、今も沈んでしまった心を引きあげてくれた。
あたしってこんなに簡単に感情が左右されたっけ。さっきまで泣きそうだったのに、手の温もりだけで笑みが浮かんだ。嫌だな、これじゃ全くの子供みたいじゃないの。
自分でも現金だと思うけれど、この手から感じる優しさに、嘘や偽りはない気がする。
レジィは『サラ』の名残のない『カサネ』に失望したかもしれないけど、でも、『カサネ』という子に対して、そんなに悪い印象を持っていない、のかもしれない。
レジィは嘘をつくような人じゃない。それはこれまで過ごした時間で分かった。疎んじている相手に、優しくなんてできないと思う。だから、きっとあたしの勝手な思い込みなんかじゃない。
それにどうせ、命珠が無くなればあたしには用がなくなるだろうし、その時はきっと向こうに送り返されるんだろう。
ということは、これは期間限定のものなんだから、その間だけでもこの気持ちのいい手を享受していてもいい、よね?
「ほら、来い。カサネ」
頭と背中のぬくもりが消えたかと思うと、すぐに手が差し出された。その先には、翳りのない瞳がある。
あたしという存在に彼がどんな想いを抱いているのか分からないけど、でも否定はしていない。それがすごく、嬉しいと思う。
「うん。ありがとう」
その手を掴んで、笑った。
空が白がり始めた。右手側が薄墨色に変わっていくのを、がくがくと揺れる馬上から眺めていた。
痛みに近いこの衝撃にも、ずいぶん慣れてきたように思う。何しろ景色を把握できているのだから。ヤシムスを出た時よりも幾分ゆっくりとした勢いだとはいえ、あたしにも余裕がでてきたようだ。
レジィは人目を避けるために、集落から大きく外れたところを走っていると言っていた。確かに、今まで誰にも会わず、人の住んでいる気配すら感じられなかった。追っ手の姿ももちろんないし、それはいいことだと思っている。
しかし、向かっているという山脈の頂すら確認できず、同じような風景ばかりを見ていると、ほんの少し不安になったりするのは何故だろう。
この先に本当に人がいるのかな、そんなことを考えてしまう。
こういうの、中弛みっていうんだろうか。緊張感のない自分に呆れてしまう。何もないのならそれが一番いいだろうに。
そんな不謹慎なことを考えていたのが、いけなかったのだろうか。
夜空が変色していくのをぼんやり眺めていると、駆けていた馬がいきなり高く嘶いた。と同時に前脚を大きく浮かせて、体の勢いを削ごうとした。急に止まろうとしたようだ。
油断しきっていたあたしはそれに反応できるはずもなく、振り落とされそうになる。
「な……っ!」
視界がぐん、と変わる。天地がぐるんと入れ代わり、頭上に地面が広がった。落ちる、そう思った瞬間、レジィの片腕があたしを抱えるように抱き留めてくれた。
「リレト!!」
革篭手が巻かれている逞しい腕にしがみついた。この腕を離したら、体を激しく揺らしながら足並みを整えようとしている馬から、今にも落ちるんじゃないかという気がした。
「おや、男に転生したとは思わなかったな」
必死になっていると、レジィのものではない、涼やかな声がした。
今まで誰もいなかったのに? というか、さっき、レジィは誰かの名前を口にしなかった?
未だ荒れる馬上に怯えつつも、声のした方を見た。
あたしたちの正面、数メートルほどの距離のところに、一人の男の人が浮いていた。
ゆったりとした白のローブを纏い、その裾はゆらゆらと蠢いている。
腰に届きそうな艶やかな黒髪に、白い肌。切れ長の黒い瞳に、す、と通った鼻筋。薄い唇は血色が悪くて、でも愉快そうに口角を上げていた。綺麗だといえる顔立ちだけど、でも底冷えのするような笑みを浮かべるこの人は。
「リレト、お前どうやってここに」
「自分を転送したのさ。そんなことより、その貧相な坊やが、あのサラなのかい?」
あたしを指さして、くすくす笑う。それは、楽しそうに。
この人が、リレト……? レジィの腕にしがみついたまま、あたしは真向っている男を見た。
「いいねえ。あの無駄な脂肪が無くなってすっきりしたじゃないか。まあ、いささかすっきりしすぎだけれどね。しかし、そうか。パヴェヌも粋なことをするね。面白くなりそうな年頃じゃないか」
「て、めぇ。わざわざ俺に切られにきたのか」
耳慣れない、金属が擦れ合う音がした。すらりと視界に現れたのは、一振りの、剣。
レジィが背負っていた剣を抜いたのだ。鈍い銀色の刀身は細く、その切っ先は差し始めた朝日を浴びてちかりと光った。
背中に感じる気配が、さっきまでと違う。びりびりと、空気を震わせているかのようだ。
「馬鹿だなあ。そんなものじゃ僕は殺せないって、知ってるだろう?」
殺気立ったレジィに反し、歌っているかのように軽やかに話すリレトは、きょろりとあたしを見た。眼球だけを動かして、全身を見つめる。
そして、おや、と片眉を上げた。
「もしかして、女なのかい? かわいそうに、女ならばあの見てくれを失うのはさぞかし残念だろうね。そうだ、僕が元の姿に戻してあげようか?」
言いながら、手を伸ばす仕草をした。それから庇うように、レジィがあたしとリレトの間に入るように馬の位置をずらした。あたしを抱く腕に力が篭もる。
「お前にこいつは触れさせねえ」
「おやおや、怖いねえ。でも、君だって、サラの姿の方がいいんじゃないかい? 惚れていたんだろう?」
レジィの陰からリレトを見た。
この人には、嫌悪感を覚える。その姿を見ているだけで、肌が粟立つ。この感覚は、あたしがサラだったことの証明になるのだろうか。いや、レジィの話を聞いていたから、それだけなのだろうか。
どちらにしても、嫌だ。この人から離れたい。
「お前に関係ない。死なないといったが、それでも傷はつくんだろう? どれだけ切り刻めば動けなくなるか、試してやろうか」
「荒っぽいねえ、山賊の長は。痛いのはお断りだから、さっさと退散しようかな。僕はただ、お戻りになった巫女姫に一言挨拶に来ただけだからさ。
お帰り、サラ。帰ってくるだろうと、思ってたよ」
会話をのんびり楽しんでいるかのようなリレトに、レジィが舌打ちした。
「怖い顔だなあ。もう帰りますよ。ただ、土産だけ置いて行こうかな」
「土産、だと?」
「そう。君だって、何事もなくオルガに帰るのも面白くないだろう? あっさり戻っても、感慨深くない。わざわざオルガから離れた場所に落としてあげたんだから、帰路をもう少し盛り上げてあげるよ」
ば、とレジィが周囲を見渡した。何かに気付いたその顔が歪められる。
その視線の先を見れば、遠くに土埃が舞っていた。遠目に見ても、その中で揺れる影は十を越している。
「ふふ、君のその顔、結構好きなんだよね。さて、サラを庇いながらあいつらから逃げ出せるかな? 名を馳せた山賊の腕はいかほどか、といったところだね」
「お前、一体何がしたい?」
低く問うた声には怒りが満ちていた。あたしさえいなかったら、レジィは切りかかっていたに違いない。レジィの体はその衝動を抑えて震えていた。
それに気付いているのだろうか。リレトは大げさにため息をついてみせた。
「僕はね、この三年間退屈だったんだよ。本当に、本当に退屈だった。永遠の体も、権力も、名声も、簡単に僕のものになっちゃったんだよね。人の命だって、指先を動かすより簡単に潰せる。そんなことにもう飽きてしまったんだよ。
でも、それがようやく楽しくなりそうだから、わくわくしてる。
まずは、生き残って見せてね。これくらいで死んだりしたらつまらないからさ。そして僕の命を狙ってみてよ。約束だよ?」
怖い、と心底思った。穏やかな声で語りかけるように、理解できないことを言う。こんな人の命を守るものが、あたしの中にあるというの?
「さあ、そろそろ逃げないと。その馬たちは随分疲れているようだよ。ここまで馬を何頭も換えてきたあいつらに、追いつかれちゃうんじゃないの?」
後ろから向かってくる一群を振り返る。確かに、その勢いはすぐにでもあたしたちに追い付いてしまいそうだ。
「行くぞ」
言うなり、レジィは鐙を蹴り上げた。
嘶いた馬は、真っ直ぐにリレトに向かって行く。すぐ目の前にその姿を捉え、ぶつかる、と思わず目を閉じた。
けれど衝突の衝撃はなかった。土を蹴る足音だけが耳に入ってくる。恐る恐る見ると、開けた草原を、馬は全力で駆けていた。
「じゃあ、またね」
どこかから声が聞こえた気がした。さっきまで目の前にいたはずなのに。転送だなんて人外の力を持っているのだから、避けることなど簡単なんだろうか。
「カサネ! どこでもいいからしっかりつかまってろ!」
厳しい声に頷いて答える。そんなことより今は後ろから追ってくる人たちから逃げることが先決だ。
しかし、リレトの言った通り、あたしたちを乗せた馬は疲労が溜まっていて、その走りはすぐに後続に追い付かれることになった。
横に並んだのは、鉄鎧を身につけた人だった。表情のない顔、そしてその手に剣を握っているのを確認できたときには、それをこちらに振るってきた。
「カサネ! 目つぶってろっ」
言われずとも、恐怖がすでに堅く閉じさせていた。
切りつけられる、そう思ったのに、耳にしたのは鈍い音と、低い唸り声だった。
馬が地を蹴る足は止まらず、どさりと重たいものが落ちるのを、後ろに聞いた。
どうなったのか分からない。怖くて目は開けられない。あたしは身を硬くして、レジィの動きを全身で探ろうとした。
左手はあたしを支えながら、手綱を握っている。右は剣。それは追っ手に向けられているようだ。近いところで金属がぶつかり合う音が絶えず聞こえてくる。数回、斬りつけた様な音と、低い悲鳴がした。あれは誰かが傷ついた音、声。
怖い。怖いよ。こんな命のやり取りの場所、嫌だ。
「く……っ」
レジィの声に、は、とする。もしかして、斬られたの?
「レジィ!?」
「見なくていい! 閉じてろっ」
鋭い声にびくりとなる。咄嗟に開けた目を再び強く閉じた。大丈夫なのだろうか。ううん、大丈夫なんかじゃない。だって、さっき沢山の人影を見た。あれだけの人数を、レジィ一人がどうにかできるはずがない。
どうしよう、どうしたらいいの? 鞍を握っていた手がぶるぶると震える。何も出来なくて、怖さにただ震えることしかできない。レジィが傷ついていくのに、その姿を見ることすら、できない。
レジィはこのままだと、あたしを守って死んでしまうだろうに。
「やだ! 嫌だ!」
自分の中の怯えを押しやるように叫んだ。両瞼をこじ開けるように意識して持ち上げた。そうして目にしたのは、篭手をはめた左腕。斬りつけられたのだろう、革は裂け、そこから血が流れていた。
咄嗟に手で傷口を押さえようとして、けれどそれは激しい動きにぶれ、いたずらに血を塗り広げただけになってしまった。
どうしよう。目を開けたくらいじゃ何も出来ない。
あたしは情けないくらいに無力だ。あたしの存在を認めてくれた人を助けられない。あの心地よい手に、何も返してあげられない。
左側から、馬首が見えた。次いで、構えているのであろう、剣の切っ先が現れた。レジィの持っているものより遥かに大きなそれに、びくりとなる。
右にも、一人いる。レジィはそちらに意識を向けていた。
「レジィ、左も!」
対峙していた相手の腕を斬りつけたレジィが、声に反応して剣を振るった。
けれど大剣が、細身の剣を下からなぎ払うように振り上げられ、それはレジィの剣を真ん中から、折った。
もう、ダメだ。
太陽はその姿を全て現し、朝日が辺りを照らしていた。その光を浴びて、折れた剣先が空を舞うのを見た。
レジィの手には、小太刀ほどの長さの、刃のこぼれた剣が残るのみだ。
「カイン!」
絶望したあたしとは裏腹に、レジィが歓喜の声をあげた。
カイン、って……?
レジィの視線の先を追おうとしたその前に、大剣を構えなおした男の姿が塞がる。
馬の勢いまで乗せた剣の切っ先が、横殴りに振られる。
ああ、斬られる。
レジィの血に染まった腕にしがみついた。
次の瞬間に聞いたのは、あたしの断末魔の悲鳴でも、レジィのそれでもなく。
どさり、という何かが落下した音だった。
見れば、そこには乗り手を失って戸惑う馬の姿しかない。え、さっきの人はどこに?
あたしが目を閉じたのは、ほんの一瞬だったはずなのに。
「ここにオルガの一族参る。我が長への剣を引き、立ち去るがいい」
凛とした声が、辺りに響いた。それは乱れていたこの場の空気を、すう、と潮が引くように鎮めた。
「カサネ。援軍だ」
声の主を探して、きょろきょろとしているあたしに、レジィが指をさしてみせた。
なだらかに登り坂になっていた高みに、沢山の人影があった。朝日を背にしているせいか、こちらを見下ろしているその顔までは判別できない。
援軍ということは、助かったのだろうか。
「ふざけるな。逆賊どもが我等神武団に何を言うか!」
呆然として、レジィが援軍と呼んだ人たちの姿を見ていると、怒声がした。その声の主が思いの外近くにいて、たじろいだ。
周囲を窺えば、十数人の鉄鎧姿の男たちがいた。皆、手に大剣を携えている。
ほ、本当に大丈夫なの? びくびくしながら、援軍に向かって声を荒げた人を窺った。
鉄仮面に覆われていてその表情は分からないけど、現れた集団に臆してないのは明らかだ。他の人と違い、深紅のマントまで纏っているところを見ると、この追っ手たちのリーダーなのかもしれない。
馬を数歩進ませて、鉄仮面は続けた。
「カイン殿だとお見受けする。貴殿は一等神武官の名を一度でも冠したというのに、そのような下賤な者どもと同じ、山賊風情に身をやつすとはお笑い……っ」
ひゅ、と風を切って向かってきた矢が、仮面と鎧との僅かな隙間を狙うかのようにして、刺さった。
とす、と乾いた音がして、鉄仮面は最後まで話すこともできずに静かに崩れ落ちた。ずるりと馬の背から落ちる姿に、小さな悲鳴がこぼれた。
「見るな、カサネ」
手の平があたしの視界を塞いだ。初めて人が殺される瞬間を見た。そのことに、体がおかしいくらいに震えた。
電池が切れたおもちゃのように、ぷつりと命の糸が切れた。数秒前まで生きて、喋っていたのに、あっさりと物のように落ちていった。
目を閉じているときに何度も聞いたあの音は、人が物に変わった音だったんだ。
そうなのだろうと思ってはいたけど、あたしはそれをちゃんと『理解』していなかった。
「他の者も、動けば射る」
反論を許さない、短い命令が響く。反論する者はもういなかった。
「こちらには貴様たちを一掃できる数がいる。このまま去れば、命は取らない。武器を捨て、行け」
数秒の後、金属を放る音が、そこかしこから聞こえた。ぽつぽつと馬の足音が遠ざかっていく。しばらくして、足音は聞こえなくなった。
皆、去っていったのだろうか。
「……よし。ちょっとここを離れるから、このままでいろ。な?」
どうやら、誰もいなくなったらしい。
レジィの声音がぐんと優しくなり、あたしたちを乗せた馬が前進するのが分かった。あの場が凄惨なことになっているのだろうと、容易に想像がつく。震えの止まらないあたしを気遣って、見ないで済むところまで移動してくれているのだ。けれど、視界が暗く遮られることによって、あたしの眼裏にはさっきの光景がまざまざと再生されていた。
あの人の仲間は去って行ったようだけど、遺体は連れて行ってあげているのだろうか。詳しく把握していないけど、鉄仮面の人だけじゃなく、他にも数人は亡くなっているはずだ。彼らの遺体も。いや、でもあの状況では連れて行けなかっただろうか。
彼らにもきっと大切な人や家族がいるはずで、その人たちは彼らがこんな所で命を落としたなんて知らないはず。その死を知って、骸すら帰ってこないことを、どれだけ悲しむだろう。
いきなりの死を、どう受け入れるだろう。
「死に囚われすぎたら駄目だ、カサネ」
レジィには、あたしの考えていることがわかったのだろうか。ふいに、子供に言い聞かせるような口調で言われた。
「剣を持つというのは、命のやり取りを了承したということ。刃を人に向けるときは、相手のみならず己の死までも覚悟することだ。
奴らは剣を持ち、俺たちに向けた。俺たちは死んでやるわけにはいかない。だからこれは、仕方ないことなんだ」
レジィの言っていることは、分かる。あのとき助けが来なければ、あたしたちの方が死んでいた。
鉄仮面の人には去る意思はなかったし、あのままだとあたしたちどころか助けに来た人たちにまで攻撃をしてきただろう。
そうなれば、もっと多くの死人がでたかもしれない。
「死は尊い。それがいくら自分の身を狙った者であっても、死を迎えた者を尊ぶのはいいことだと、俺は思う。
だけど、それが過剰になったらいけない。命の取り合いの上の死は、摂理だ」
この世界は、死がこんなにも近いのだろうか。あたしの十六年間の人生では、『死』はどこか遠くに感じられるものだった。それは著名人の死であったり、ドラマや漫画の創作の上での死であったり、目の当たりにするものではなかったからだろうか。
死と直面することのなかったあたしの十六年間は、平穏、といえたのだ。
だけど、ここは、違う。
命を奪う人がいる。その人たちから身を守らなくてはいけないし、その結果として相手の命が潰えたとしても、それは仕方がないのだと、自分の中で消化しなくてはいけない。
そうしなくてはきっと、ここでは生きられない。
命を狙われているのは、他でもない自分自身なのだから。
「わかった」
どう答えていいか分からなくて、でもそれを自分なりに理解したことを伝える為に、短く答えた。
「よし。ほら、もういいぞ」
目の前の覆いが無くなった。と、正面から数十人の馬群が向かってきているのが見えた。中央にいる、白馬に乗った人の姿が真っ先に目に入る。
レジィと同じ金髪、だろうか。陽を浴びてきらきらと輝いている。その顔は、左目を覆い隠すように眼帯のようなものがある。
なんとなく、さっきの声の主があの人だと確信した。
にしても、その後ろの人数、多いんだけど……。
土煙を巻き上げて迫ってくる一群に、失礼ながらのけぞってしまう。助けてもらったとはいえ、地響きまでしてるし迫力ありすぎなんですけど。
「レジェス!」
「助かった、カイン」
眼帯の男の人がいち早く駆けてきて、あたしたちの前で馬を止めた。
金髪だと思ったのは、どうやら茶髪のようだ。少し長めの髪を後ろで一つに緩く縛っている。前髪も長く、焦茶色の眼帯の半分を覆い隠していた。
そのせいで、顔がよくわからない。
服装はと言えば、体つきがわかるような、ぴたりとした黒の上下。それに、右肩からふわりと鳶色の長方形の布を掛け、それをベルトのようなもので留めている。年は、レジィとあまり変わらないように見えるから、二十をいくつか越してるくらいだろうか。
この人が、レジィから何度も名前を聞いた、カインさん?
「すまない。居場所を特定できなかったから、お前たちに辿り着くのに時間がかかった。とにかく無事なようでなにより。それで、その子がサラ、か」
「ああ。今は『カサネ』という」
「そうか」
レジィから、あたしへ視線が動いた。
柔らかそうな茶髪の隙間から、髪より少し濃い茶色の瞳が見えた。その瞳がじ、とあたしを見つめる。
「あ、えと。初めまして。助けてくれて、ありがとうございます」
「……ああ、初めまして。カインだ」
小さく頭を下げて、カインさんはすい、とあたしから視線を外した。
「お帰りなさいませ! サラ様!」
逸らdsれた横顔を見ていると、怒号のような声が響いた。
びくりとなって辺りを見ると、あたしたちの乗っている馬を囲むようにして集まった人たちが皆、頭を下げていた。
「お帰りを心よりお待ち致しておりましたぁっ!」
その勢いに、馬がぶるる、と小さく唸った。あたしはというと、レジィにしがみついて、とりあえずぺこぺこと頭を下げた。
レジィと同じような、革の胸当てや、使い込んだ様子の鎧姿の人。鎖を編んだ前掛けを着ている人もいた。頭には布を巻いている人もいれば、スキンヘッドもいる。手にした武器も、大きな斧や、剣。弓矢を携えている姿も多い。さっきの追っ手の人たちと違い、統一感のない一団だ。
それに加え、無精ひげを生やした人や、頬に大きな向こう傷のある人もいて、全体的に厳つい雰囲気の人たちばかり。
失礼ながら、ゼフさんが集団でやってきたような感じで、その迫力たるや、猛獣の群れに十分匹敵するだろう。
だけれど、彼らはみんな満面の笑顔をあたしに向けて、『お帰りなさい』と何度も声をかけてくれる。ものすごい歓迎ムードだ。外見は怖い人ばかりだけど、その表情はすべからく優しい。
これは初対面のあたしにではなく、全てサラへ向けられたものなのだろう。それは十分知っているけれど、それでもその好意的な様子は、あたしの中にある恐怖心を拭ってくれた。
ああ、本当に、もう安心なんだ。危険はとりあえず、去ったんだ。
ふ、と肩の力が抜けた。安堵のため息が、思わず知らずこぼれた。肺が空気を吐き出したのを何となく感じて、それを最後に、あたしは人生二回目となる気絶を経験した。