1.金眼の使者
――プロローグ
もうすぐ、『あたし』は死んでしまう。
あたしは『奴』に侵食されてしまった。この命は、奴との共有物に成り下がってしまった。
「……!! ……!!」
遠くで、声がする。
しかし誰の声なのか、聞き分けられないくらいに、遠い。
死に支配されてゆく体は五感を次々と失っていった。最後に残された聴力も今、その役目を終えようとしているのだろう。
「……! ……!!」
きっと、声の主はあいつだろう。
早く殺してと言ったのに。
このままじゃ何もかもが無駄になってしまう。こんな機会はもう来ないかもしれないんだから、躊躇わないで早くしてよ。
最後になって、言うことを聞いてくれないなんて酷いじゃない。
「早く、殺して」
あたしはちゃんと喋れているだろうか。自分が発しているはずの音が聞こえない。
「殺しなさい」
言葉は彼らに伝わっているのだろうか。
あたしはあなたたちを死なせたくない。あなたたちが死んでしまえば、この世界は終わってしまう。
だからあたしの命が尽きる前に早く殺して。
「早く」
どうか思いが声に変わっていますように。強ばる口に力を込める。
「……!!」
ああもう。馬鹿なんだから。お願い、早くしないとあたしは死んでしまう。
あいつは一体何をしてるの。こんなときはいつもあんたが仕切るのに。さっくりとやって、逃げてよ。
「早く、してよ……、っ!?」
ああ、ダメだ。もうその時が来てしまったようだ。
もう、あたしは、死ぬ。
口が動かない。何も聞こえない。何も感じない。ゆっくりと『あたし』が消えていく。
これから、どうなるんだろう。あたしの存在はどこへいくのだろう。
なんて、気にしてももう遅いのは分かっているけれど。でも、出来ることなら、彼らに仇なす者に堕ちずにすみますように。
ああ。そうだ。言っておけばよかった。
最後に、あいつに、好きだったよ、って――。
――一章 金眼の使者
帰ろうとしたら、靴箱から靴が消えていた。
空っぽの靴箱をぼんやり眺めていると、遠くから忍びやかな笑い声が聞こえた。多分、あたしをターゲットにしている集団の声。
高校生にもなって、子供じみた嫌がらせをして、本当に楽しいんだろうか。
莉亜が言ってたっけ。
彼女たちは仲間を団結させるツールに、かさねを使ってるんだよ、って。そんなものを使わないと成り立たない友情って、一体何なのだろう。
嫌がらせを受け初めてから、もう一年が過ぎた。
あたしにとって、彼女たちは異国の人よりも理解できない。
ため息を一つついて、昇降口の端に置かれたごみ箱に近づいた。そこには案の定、一足のローファーが突っ込まれていた。
うわ、ジュース飲み残したまま捨てたの誰。靴、汚れちゃってるじゃん。
紙パック入りのコーヒー牛乳がかかった靴を、しぶしぶ取り上げる。捨てたい。けど、これを履かなくちゃ、靴はない。何しろ体育用のランニングシューズは先日彼女たちに捨てられて、行方不明のままなのだ。
そうだ、あれ、返して欲しい。買いなおすのなんて、嫌だし。
ポケットに入れていたティッシュで仕方なく汚れを拭っていると、嫌な笑い声が背中にかかった。
「うわ。きったなーい」
「ごみ箱あさるなんて、絶対無理ぃ」
いじめっこが現れた、か。気付かれないようにそっとため息をついて、あたしは後ろにいる集団を振り返った。
「何の用?」
「森瀬、何やってるの? 汚いなあ」
「ごみなんて、どうするの? もしかして、持って帰るとか」
「やだ、信じらんないし」
集団に個性はない。みんな同じような顔。同じようなセリフ。集団から外れたら、何もしなくなるのも同じ。
あたしは彼女たちの名前も覚えていない。だって、同じクラスということ以外、取り立てて接触がないのだ。
なのにどうして、向こうはあたしを嫌うのだろう。嫌がらせを受けるに足る理由があるのなら、納得もできるのに。
「何こっち見てんの?」
「暗いよねー。ヤな目つきだし」
前回は返事をしなかったら、シカトだと口々に喚かれた。だから今日はきちんと対応してみたというのに、それはないでしょ。結局、何をしてもムカつくんだろうとは思うけど。
「ねえ。ランニングシューズ、返してくれない?」
「はぁ? あんたの靴なんて知らないんですけどー」
「勝手にこっちのせいにすんなっつーの」
「……ふうん、そう」
言っても無駄だろうに、口にしてしまったあたしは学習能力がないのかもしれない。
ランニングシューズは諦めて、再びローファーを拭く作業に戻った。
「学校、辞めたらいいのに。こんな女」
「ホント。顔見ると気分悪くなるし」
頭上から降ってくる雑言。
早く帰ればいいのに、と思う。
かわいい顔作って媚売ってる男のとこにでも行けば? なんて言えばもうひとしきり絡まれるだろうから、言わないけど。
「気分悪い。帰ろー」
「どっか寄って帰んない? 気晴らしにさ」
返事をしなくなったあたしに飽きたらしい。舌打ちを残して集団は去って行った。
嵐がようやく過ぎた。
シミがついたローファーを履いて、あたしはのろのろと校舎を後にした。ゆっくり行かないと、先に行った彼女たちと会わないとも限らない。
これ以上関わりあいたくなかった。
ああ、莉亜がいれば。
そしたら今のことも、『くだらないよね』と言葉にして流してしまえるのに。
風邪で休んだ、あたしの唯一の友達を思い、ため息をついた。
莉亜は、中学の頃からの大切な友達。あたしが辛いとき、ずっと傍で支えてくれた人なのだ。あたしが嫌がらせを受けているとき、いつも誰も助けてくれない。関わらないように視線を逸らしたり、あざ笑う彼女たちに追従の笑いを浮かべたりするだけだ。
そんな時、莉亜だけは声をあげて庇ってくれる。身を挺して攻撃を受けまいと守ってくれる。
そして、あたしと一緒に泣いてくれる。
と、制服のポケットに入れていた携帯が震えた。
莉亜かもしれない。昼休みに具合を伺うメールを送っていたのを思い出した。
しかし慌てて取り出した携帯のディスプレイには、『お母さん』の文字が表示されていた。莉亜だったら、と持ち上がりかけた心が瞬時に沈む。
静かに震えて着信を知られるそれの通話ボタンを、ため息とともに押した。
「はい、もしもし」
『今晩帰らないから』
用件だけを告げる、感情のない声。
「……明日、は?」
『聞いてどうするの? 用事でもあるの』
「ない、けど……」
『なら、どうでもいいでしょう? お金はいつものところに置いてるから。じゃあね』
プツ、と一方的に通話は切れた。
無機質な通話の終了を知らせる音を、ぼんやりと聞いた。
新しい彼氏が出来ると、母は家に帰ってこなくなる。気持ちが盛り上がっているところに、あたしの存在は邪魔なのだと、はっきり言われたのは中学三年のことだっけ。
親にとって子供は無二の存在なのよ、と言った口から零れた言葉は、しばらく信じることができなかった。
だけどその言葉は本当のことだったようで、母は彼氏が変わると、あたしを置いていなくなってしまう。
その期間はまちまちで、数日だったり、数週間だったりした。一番長い時で、二ヶ月。
男に飽きたり、或いは捨てられたりすれば、ひょこりと帰ってくる。
『あんたさえいなかったら、こんなことにはならなかったのに』なんて不平を零しながら。そう言って、疎ましそうな視線をお決まりに寄越すのだけれど、それでもあたしは嬉しかった。
捨てられなかった、と胸を撫で下ろすのだ。
中学二年に進級してまだ日を置かなかったころ、父はあたしと母を捨てて出て行った。ぽつぽつと起こっていた夫婦喧嘩は次第に頻度を増し、耳を塞ぎたくなるような口汚い口論が毎日のように続いた。出て行く数日前からは、父は暴力に訴えるようにもなってきていた。母の顔は腫れ、家族団らんの場はぐしゃぐしゃに荒れていた。
もし、父が出て行かなければ、母の方が逃げ出していたのではないかと思う。
とにかく、父は家庭に嫌気が差したのか、何も言わずに出て行って。その代わりに数日後、判をついた離婚届を持った弁護士がやってきた。
二人の間にどんなやりとりがあったのかは、知らない。ただ、あたしは母と共に、母の旧姓へと苗字を変えた。
それから程なくして、母は『母』を辞め、『女』へと姿を変えた。
親を望む子供を、顧みることもなく。
もし父が出て行かず、母が逃げ出すことになっていたら、母はあたしを連れて行っただろうか。父は母と共にあたしを捨てた。母は……?
「冷た……」
ローファーのつま先部分にまで、コーヒー牛乳は染み渡っていたらしい。靴下の先がじんわりと肌に張り付く感覚があった。
ティッシュで丁寧に拭いたつもりだったのに。
握ったままだった携帯をバッグに押し込んで、何回目ともしれないため息をついた。
ため息ばかり。ため息一つ吐くごとに幸せが逃げていくというけど、それならあたしの幸せはとうに尽きているかもしれない。
あたしの幸せは一体いつ、終わってしまったのだろう。いつまでが、幸せだったんだろう。
なんて。馬鹿らしい考え、か。
暗くなったって、悩んだって、状況は変わってはくれない。
「えい、脱いじゃえ」
べたべたして気持ち悪いし、いっそのこと、裸足で帰ろう。あたしのことなんて、誰も見ていないんだし。
沈んだ気持ちを乗せたつもりで、シミの残った靴から踵を抜き、空を蹴上げるようにして放った。黒いローファーは宙を弧を描いて舞った。
「あ」
やりすぎた! と思った時にはすでに遅し。
すう、と予想外に飛んでいく靴。それはごつんという音をたてて、人の頭に落ちた。
ああああああ! やっちゃった!
「す、すみませ……んっ!?」
駆け寄ろうとして、思わず足を止めた。
頭を押さえているのは男性だった。その頭は、光を浴びてキラキラ光る、短めの金髪。
ついさっき、あたしを嘲笑していった集団とよく一緒にいる男たちが、いつもこんな髪の色をしている。もしかして、彼らのうちの一人なんじゃ?
見れば、先に行ったはずの集団が一緒にいた。どうやら間違いない、らしい……。
「うわ、森瀬じゃん」
「信じらんない。あのう、大丈夫ですかぁ?」
あたしに冷ややかな一瞥を寄越して、女たちは男に群がった。
「あの子、ちょっとおかしいんですよ」
「こんなきったない靴をぶつけてくるなんて、どうかしてるんじゃない?」
「あ、あの、ごめんなさい」
言われていることはさておき、この件に関してはあたしが全面的に悪い。駆け寄って、深く頭を下げた。
ああ、今日は厄日、ってやつなのかもしれない。なにもかもが上手くいかない。
頭を上げて、あたしに背中を向けたままの人を窺った。
彼女たちの知り合いならば、そろそろ怒声が飛んでくるはずなんだけど。
ふと、気付いた。
あれ? この人、制服着てない。うちの学校の生徒ではないんだろうか。
というか、この人の服装、何か変わっているような気がする。深緑のゆったりとしたシャツ。同色のこれまたゆったりしたパンツは、裂いたようにしか見えない白布をベルト代わりに巻いている。足元は革の編み上げ靴。
そして、腰の白布と同じ生地をぐるぐると巻いた、平たい棒状のようなものを背負っている。
今、こんな服が流行ってるわけ? いや、こんな服装の人、見たことないけど。ざっと全身を見渡しながらそんなことを考えていると、その背中の主がくるりと振り返った。
とにかく謝るのが先決だ。
「あ、あの、すみませんでした」
「いや、気にしないでいい。それより人を探してる、んだ、けど」
向かい合ったその人は、ひどく整った顔をしていた。大きな二重の瞳に、形のよい鼻。口は少し大きくて、けれど下品じゃない。金髪がよく映える浅黒い肌は、なめらかでつるりとしていた。
一見して、女の子たちが目の色を変えて取り巻いていた理由が分かった。
しかし、あたしが思わず見惚れてしまったのは、彼の持つ瞳だった。
それは金としか形容できない色だった。こんな色を持つ人がいるの?カラコン? いや、この瞳の光は人工的じゃない。
「……見つけた!」
「え?」
顔をまじまじと見つめていると、男は満面の笑みを浮かべて言った。
かわいい笑顔、と思った次の瞬間、あたしは抱きしめられていた。
「見つけた! いた! サラ!!」
「はあ!? あ、あの、え、誰ですかっ」
「レジィ! レジェスだよ!」
腕にこめられた力は強くて、息をするのも苦しい。声音は本当に嬉しそうで、喜んでいるのが伝わるのだけれど、だけどあたしは彼を知らない。
誰? 誰なの?
「ちょっと、あの」
「ずっと探してた! よかった、またサラに会えた」
「サ、サラ? あの! あたし、サラって人じゃないですっ! と、とにかく放してください」
どうなっているのか分からないけど、この人はあたしを『サラ』って人と勘違いしているらしい。
息も絶え絶えに言うと、ようやく腕を解いてくれた。それでもあたしの肩をしっかと掴んで、顔を覗き込むようにして寄せてきた。
「驚いてる? サラ」
はい。ものすごく驚いています。
それに加えて、顔が近い。いやホント、ものすごく近いんですけど。
動揺しつつも、間近で見て確認してしまう。この金の瞳は、やっぱり本物だ。初めてこんな色を持つ人を見たけど、なんて綺麗なんだろう。見ていると引き込まれそうなくらいだ。
って、見惚れている場合じゃない。
「……そ、そうじゃなくてですね! あたし、サラって人じゃないです」
「いや、サラだ。俺はサラを間違えないから」
自信ありげに言って、男はいきなりあたしの頬を、舐めた。
「んな……っ!?」
「うん、君はやっぱりサラだ」
サラとおんなじ味だ、男は満足そうに頷いた。
反射的に真っ赤になるあたしと共に、周りにいた集団が悲鳴を上げた。
「意味わかんない!! 何この人」
「探してる人って森瀬のことだったわけ?」
「でも森瀬は知らないっぽくない? つーか、どうなってんの?」
「ヤバそうなカンジなんだけどー。変なモンしょってるし」
え。あんたたちの知り合いじゃないの? 逃げ腰の集団の様子が横目に入る。
助けて、はくれないだろうか、やっぱり。
「あ、あの……」
舐められた頬に手をあてて、あたしはにこにことしている男を見た。
どう見ても、あたしはこの人を知らない。『サラ』なんて名前に聞き覚えもない。
完全にこの人の勘違いのはずなのに、この自信はどこからくるのだろう。
とにかく話をして、変な誤解を解かなくちゃ。
「じゃあ、行こう?」
「は?」
ずい、と男が手を差し出した。行く、って、どこへ? 目の前の手の平をぽかんと見てしまう。
「お前が存在していた世界。俺たちの世界に、帰ってきてくれ」
「あたしのいた……せかい?」
意味が分からない。あたしのいた世界、ってどういうこと?
「みんながお前を待ってる。カインも」
「カイ、ン?」
「そう。とにかく、行こう」
男は胸元から、銀鎖のネックレスを引っ張りだした。その先には、ほんのりと光を放つ小さな赤い珠。
宝石だろうか。発光する宝石なんて聞いたことないけど。
柔らかな光は、男が手の内に握り締めた途端、まばゆいばかりの光の海へと姿を変えた。
拳の隙間から零れるそれに、思わず悲鳴をあげた。こんな宝石、あるはずがない。一体これは何なの?
「カイン、帰る。サラと共に」
握った球に話しかけるように男が呟いて、
「サラ、行くぞ?」
とあたしの腕を掴んだ。
「ま、待って、あた」
『レジェス、離すなよ』
「死んでも」
これ以上はないと思っていた光が、益々勢いを増した。暴力的なまでの光に、堪らず瞼をぎゅ、と閉じた。
「な、何よう、これは!?」
「まぶしい! 目が痛い」
悲鳴まじりの声がする。彼女たちもあたしと同様、このまぶしさにやられているらしい。
『転送する』
「どうぞ」
「あの行くってどこっ!?」
目の前にいるであろう、腕を掴んだままの男に尋ねたのに、返事の代わりに腕を強く引かれた。いきなりのことにそのままよろめいたあたしは、そのまま男に抱きすくめられた。
包まれるような感覚に、頭が真っ白になる。
何がどうなってるわけ? 反射的に、押し付けられた体から離れようと身をよじろうとした、瞬間。そこにあるはずの、立っていたはずの地面が、消えた。まさかと思う間もなく急落下。叩きつけられる感覚もなく、次に回転。
引っ張られて、落ちて、再び回転。
それらは息もつけないスピードで、目を開けることも適わない。
あたしの体は大きな力によって、いいように弄ばれているようだった。
苦しい、痛い。苦しい。空気欲しい。
あたし、さっきまで通学路にいたよね?
周りにはあたしに嫌がらせばかりするクラスメイトがいて。なんの変哲もない、いつもの憂鬱な一日の終わりだったはずなのに。
落下ばかりだと思っていたら、急上昇を始めた。ぐん、と体に重力がかかって、体が軋む。
もうダメだ。
息が出来ない。
苦しい。
もう、ダメ……。
『お帰り。我らの巫女姫』
意識を手放した瞬間、耳元で小さな呟きを聞いた気がした。
――――キッチンに、お母さんがいる。
ふわりとスープのいい香りがして、起きてきたあたしを見て『おはよう』と笑う。朝食の用意を手伝って、支度が済んだところでお父さんが起きてきた。
いい匂いだ、と笑って、三人で食卓につく。二人ともにこにこ笑っていて、せっかくのいい天気だからお出かけしよう、なんて話して。
ああ、これは夢か。昔の夢。随分前に消えてしまった、幸せな夢――――
「……………ん……」
鼻がむず痒くて目が覚めた。何かがあたしの鼻先をくすぐっている。くしゃみを引き起こしそうな不快感に、無意識に鼻に手をやると、一本の藁が掴めた。
藁? それを掴んだままぼんやりと見渡すと、見慣れないむき出しの木の天井、壁があった。ここは、アパートのあたしの部屋じゃない。
ここは、どこ?
寝ぼけた頭で、記憶を辿って、は、と気付く。
放課後、あたしは見知らぬ金髪頭の男に靴をぶつけて。『帰るよ』なんて言われて、そしたら光の海が広がって。地面がなくなって、振り回された、んだっけ?
「あれ? それも夢だっけ?」
余りにも有り得ない記憶に、首を傾げた。夢にしては苦しかった感覚とか、しっかり覚えてるんだけど。
「よいしょ……、と。あ、れ……?」
とりあえず体を起こしてみて、驚いた。
あたしの知識が正しければ、ここは家畜小屋とかそういう名称で呼ばれるべきところではないだろうか。
豚や牛こそいないけれど、仕切り柵があり、隅には空の餌箱がある。
柵内には一面に藁が敷き詰められており、よく見たらあたしが寝ていたのは藁の山にシーツを被せただけの場所。
「ハ、ハイジ……?」
アルプスに住まう少女を思い出した。って、いやいや。彼女はちゃんとした部屋で寝てた。こんな小屋めいたところじゃなかったはずだ。
「どういう、こと?」
あたし、どうしてこんな場所で寝てたの?
立ち上がり、小屋の中を見渡した。
丸太を組んで作ったらしいこの小屋には、あたし一人しかいないようだ。
窓は二つ。と言ってもあたしの身長じゃどうにも届かない位置に、だけど。灯り取り様なのだろう。そこから日が差し込んで、小屋の中はそれなりに明るい。今が何時なのかまでは分からないけど、昼間だということは確か。
広さは、六畳のあたしの部屋よりもう少し広いくらいだろうか。家畜小屋としては少々狭い気がする。
あたしは柵の内側(豚とか牛がいる側。もしや家畜扱いされているのだろうか)にいて、その向こうには出入り口らしき木戸がある。
とりあえず、出て行ってみようか。ここにいても、状況が全く掴めない。
外には事情を知っている人がいるかもしれないし。
思い切って足を一歩踏み出したところで、木戸が開いた。
「あ、起きた?」
入ってきたのは、金髪のあの男だった。
記憶と同じ、深緑の上下。腰の布切れも、同じ。背に背負ったものも変わらずあった。男はあたしの顔を見て、にこりと笑った。
この人が実在しているということは、じゃあやっぱりあれは夢じゃなくて、現実!?
信じられなかった記憶が甦って、呆然とした。
「起きないから心配してたんだ。転送されるのって体に負担かかるんだよなー。あ、どこか具合が悪いところはないか? 食欲は?」
そう言いながら男が近寄ってくる。
「あああああのっ、あなた誰ですか? ここはどこ?」
思わず後ずさった。すぐに壁にぶつかり、シーツの敷かれた藁の上にへたりこんだ。
「レジェスだよ。自己紹介もしたんだけどな。やっぱり、覚えてねーんだな、サラ」
歩み寄ってきていたレジェスと名乗った男は、あたしの様子を見て足を止めた。それから悲しそうに小さく笑った。
「あの、あのあたし、サラって名前じゃないです。人違いだと思いますっ」
そんな態度をとられても、こちらには覚えがない。大体、こんなに目立つ容姿をしている人と接触したのなら、忘れないと思う。
少しの申し訳なさを感じて言うと、レジェスは納得したように、ああ、そっか、と笑った。
「そっか。名前も変わっていて当たり前だよな。ええと、名前は?」
「変わって? あの、あたしサラなんて名前だったことないですけど」
「名前だったことが、あるんだ。名前、教えてくれないか?」
意味がわからない。あたし本人がないと言ってるのに。
「かさね、です。森瀬かさね」
「カサネ、か。いい名前だな」
名前を言えば、人違いだと分かってもらえるかと思ったのに、レジェスは満足そうに頷いただけだった。
「それで、カサネはいくつ? 幼くみえるけど」
「あ、と、十六です」
「十六? そうか、俺より年下、か」
呟いて、レジェスは何故だか頬を赤らめた。
「そっか、年下か。そうだろうと聞いてはいたけど、そっか。サラが年下、か」
違うと何度も言ったのに、またその名前。
『サラ』って、誰なんだろう? あたしに似てる、とか? でも、そんな単純な人違いとはちょっと違う気がする。
「……あの。レジェス、さん」
「レジィでいい。というか、そう呼んでくれ。さん、もいらないから。 なあ、ちょっと試しに呼んでくれないか」
少し嬉しそうに乞われて、訳がわからないながら頷いた。
「え? あ、はい。あの、じゃあ、レジィ?」
「おう」
おずおずと名前を呼ぶと、レジィは大きな声で答えた。その顔は嬉しそうで、金の瞳がきらきらしている。
「もう一回呼んでくれないか?」
「はあ。レジィ?」
「なんだ!?」
またも良い返事。しかし何だ? って。呼べといったのは貴方の方なのに。
「あ、あの、あたしが名前を呼ぶの、何かおかしいですか?」
「何も? ただ、嬉しいんだ」
訊くと、レジィはへへ、と笑って、
「サラ、じゃないな。えーと、カサネに会えて嬉しいんだ。カサネに名を呼ばれて、ただ嬉しい」
と少し照れたように言った。
あたしが呼ぶと、嬉しい? 首を傾げた。
「あ、さっき何か言いかけてたよな? 何?」
不思議に思っていると、レジィが思い出したように言った。
「あ、そうだ。あの、ここはどこですか? あたしは学校帰りだったはずですよね。それがどうしてこんなところに寝てたんですか? それに、貴方は一体誰?」
あの時、『お前が存在していた世界へ帰ろう』と言った。その『世界』がここ?
あたしのいた世界って、何?
それに、あたしを連れてきた、あたしが名前を呼ぶだけで笑う貴方は誰?
知りたい事は沢山あって。だけど何から訊いたらいいのか分からない。とりあえず思いつくまま問うたあたしに、レジィはさっきとは打って変わって、寂しそうな笑みを見せた。
「やっぱり、何も覚えてないか?」
「あ、の……?」
その翳った顔に、言葉が詰まった。どうして、そんな表情を浮かべるの。
「なあ、カサネ。その、ここに座ってもいいか?」
どうしていいか分からないでいると、レジィが足元を指差した。それからぎこちなく笑って、
「説明する。話すことは沢山あるんだ。長くなるから、さ」
と続けた。
説明してもらえば、彼のこの表情の理由も分かるだろうか。
あたしは、知らないということで、彼を傷つけているみたいだ。それならその理由を知りたい。何より、自分の置かれた状況を把握しないことにはどうしようもない。
こくこくと頷くと、レジィはその場に腰を下ろした。
「あ」
「ん? どうした? あ、腹減ったか? 先に食事にするか?」
「い、いえ、そうじゃなくて。あの……、よかったらこちら側に、来ませんか?」
レジィが座ったのは柵の外側で、藁は敷かれていない土がむき出しになったところ。
そんなところでの長話は、きついんじゃないだろうか。あたしの座っているところはふかふかだし、というような内容をもぐもぐと言うと、レジィはパッと顔を輝かせた。
「いいのか!?」
「あ、はい」
この人は、悪い人じゃない。
まだそんなに会話したわけではないけど、それは十分分かった。
なにより、この人はあたしに悪意や敵意を持っていない。好意すら感じるし。
「じゃあ、失礼シマス」
あたしの腰ほどの高さの柵を、レジィはひらりと飛び越えた。少し離れた藁の山に、ぽすんと座る。
胡坐をかいて、体を左右に揺らしながらあたしを見る。
「へへ。やっぱ優しいままだな」
「別に、そんなこと」
どうしてだろう。こんな状況なのに、にこにこと笑うレジィの顔を、かわいい、なんて思ってしまった。
あたしって、危機感が薄いのだろうか。
「さて、じゃあどこから話そうか」
レジィが、ふ、と表情を改めた。ぴり、と空気が変わる感覚。
思わず背筋を伸ばした。
「まず、この場所についてだけど。ここはカサネのいた世界とは、違う。この空をずっと辿っても、カサネのいた世界には辿り着けない。別世界なんだ。
そしてここは、ヘルベナ大陸を支配する、アデライダ国。もっと細かく言えば、ファム公爵の領地、ヤシムスだ」
「は……」
聞いたことのない地名の羅列に、呆然とした。
何より、別世界?
別世界って、どういう意味だっけ。異世界とか、そういうのと同じ意味だったよね。で、異世界って、ゲームとかでよくあるアレだよね?
「そしてカサネは、元々この国の人間だった。名前はサラ。ヘルベナ大神殿の、巫女姫だった。サラは亡くなって……そのサラが転生したのが、カサネなんだ」
「ちょ、ちょっと待って!」
先の内容にフリーズしてしまっていたのだけれど、慌ててレジィの言葉を遮った。
「サラって、あたしの『前世』ってことですか!?」
「ああ、そうだ。カサネは、サラの魂が転生した姿なんだ」
事も無げに言ったレジィの顔をまじまじと見た。
本気で言ってる、わけ? 魂とか、転生とか、そんな言葉は創作物の中でしか縁のないものでしょう?
「この国は三年前のサラの死以来、荒れ放題だ。このままでは民は死に絶え、国は滅びてしまう。
カサネの力が必要なんだ。サラが亡くなって、俺たちはサラの転生先を探した。俺は神官じゃないからよくわかんないんだけど、カサネの魂にはでかい目印がついているようなものらしい。
それでも、見つけるまでに三年かかった」
「待って! 待って下さいっ」
ダメだ。ついていけない。
こんな話を理解しろって言われても、無理。だいたいどうしてあたしが絡んでいるのかが分からない。
「サラ、って三年前に亡くなったんでしょう? あたしは十六ですよ? 計算が合いません」
突っ込むところは多々あれど、とりあえず分かりやすい矛盾から指摘していこう。
三年前に亡くなった人が、今十六歳な訳がない。
「そういうの、カインの方が説明すんのが上手いんだよなあ。まあいいや。世界ってのは、それぞれ時の流れが違うんだとさ。カサネが生まれた世界と、この世界とじゃ、時間の流れ方が違う。こっちの三年が、カサネのいた所だと十六年に相当するんだろうな」
あっさりと答えられた。と言っても、時間の流れなんて言われてもピンとこないけど。
「まあ、俺たちにとって、この差は都合がよかったけどな。赤ん坊だったら連れて来るのは難しいし、ましてやバアちゃんになってたら転送の衝撃で死にかねないもんな」
あはは、と声を上げて笑うレジィ。あの、笑いごとじゃないんですけど。
「と、悪い。すぐ脱線するんだよな。それでよくサラにも怒られた」
険しい顔のあたしに気付いたのか、へへ、と笑ってから、レジィは顔を引き締めた。
「本当によかったんだ。この国はサラがいないと救えないんだから」
「あ、あの。あたしが本当に、その、サラさんの生まれ変わり、だって言うんですか? 人違いの可能性はないんですか?」
あたしに『サラ』なんて女性の記憶はない。転生だの何だの言われても、引っかかるものすらない。
なにより、ごく普通の女子高生なあたしが、国を救うだなんて無理にも程がある。
「人違いはないって。俺、確認したじゃん」
「確認って! な、舐めただけですよね?」
出会った時に頬を舐められたのを思い出した。ざらりとした感触が甦って顔が赤らむ。
「だけ、って。それだけでわかるもん、俺」
きょとんとした様子でレジィは言った。
「匂い、っつーか、味っつーか。カサネからはサラと同じもんを感じる」
「なに、ソレ」
唖然としてしまう。そんな不確かなもので言ってるの? 勘違いの可能性たっぷりな気がするんですけど。
「あ、そんな顔して、疑ってるだろ? でも間違えないよ、俺。まあ、どうしてもって言うなら、後でカインに視てもらえよ」
「カイン、さん?」
そういえば、その名前は何回か聞いた。
「うん、カイン。俺たちの仲間で、元一等神武官サマ。サラの同僚だったんだけど、カインも覚えてない?」
覚えてない。こくんと頷くと、レジィはそっか、と独り言のように呟いた。
「そうだよな。俺、諦め悪いな」
「あの?」
「いや、いいんだ。でさ、カサネがサラだってことは、間違いないんだ。記憶がないのは、仕方がないというか、当たり前。転生するときって、先の世での記憶は消されるらしいんだ」
急に話を戻して、レジィはあの寂しそうな笑みを浮かべた。
「前世の記憶は、次の世に不要だから、ってさ。だからカサネが何も覚えていないのは当たり前のことなんだ。
ごめんな、何回も聞いて。もしかしたら、何か覚えてたりするんじゃないかなー、なんて勝手に期待してたんだ」
本当に、あたしは『サラ』という人間だったのだろうか。
彼の話を完全には信じられない、のだけど、でも。
「ごめんなさい……」
忘れているというのなら、思い出したい。
あたしが忘れていることで、悲しい思いをしているこの人のためにも。
「カサネは悪くない。悪いのは、記憶がないっていうのは何回もカインから聞いてたのに、それを信じなかった俺の方だ」
首を横に振って、レジィは強く言った。顔を見れば小さく笑って、肩を竦めた。
「こうしてまた出会えて、話ができる。名前を呼んでもらえる。それだけでもう十分なのにな? あのさ、俺とサラって、結構仲がよかったんだ。だから、これからまた仲良くなろう。覚えてなくて、いいんだ。また一から始めたらいいだけだもんな」
「う、あー……」
台詞の締めににっこりと笑いかけられて、その顔に赤面した。
この人の笑顔、やっぱりかわいいい。
髪と同じ金色の眉が下がって、きらきらした瞳がす、と細くなる。大きな口は口角がきゅーっと上がって。綺麗な顔立ちをくしゃりと崩した顔は、愛嬌がある。
「どうした、カサネ?」
「え? いやその。あ、あの、レジィって、いくつなんですか?」
可愛いなんて思ってしまったけれど、レジィは見たところ、あたしよりいくつか上に見える。さっき、あたしのことを年下と言っていたけど、どれくらい年の差があるんだろう。
「二十二だよ」
「はー、若くみえますね」
「マジ!?」
何気なく言った言葉に、レジィは過剰に反応した。
「え、それってガキっぽいってこと? 俺、幼い? 頼りなく見えるかな?」
「あ、いや、そこまでは、ない、ですけど」
見た目は確かに年相応。でも、笑顔の邪気のなさが若く見せてるな、と思っただけだったんだけど。
しかしそれはレジィにとって気にするところだったらしい。
肩で大きくため息までついている。
「え、ええと、あの、あたしから見たら十分大人の男性ですよ? ただ、その、老けてないですね、とかそういう意味で」
「オトナ!? そう思う?」
きらきらっ☆ と文字表記できそうなくらい、レジィの顔が輝いた。
焦って口からついて出たフォローが、成功したらしい。
「カサネ! 俺を頼っていいからな。オルガまで絶対に、いや、ずっとお前を守るから安心してろ」
「へ? おるが?」
胸を張って言うレジィから、新しい単語が飛び出した。問い返したあたしに、レジィが頭を掻いた。
「あー、と。また逸れたな。オルガってのは、ここから北にある山脈の名なんだ。その山中に、オルガの民の邑がある。邑は俺たちの、言わば拠点だな。カインを始めとした仲間の多くは、今そこにいる」
「は、あ」
「本当は、向こうから転送されたらオルガに着くことになってたんだ。なのにどうしてだかズレててさ。
だから、これからオルガに向かわなくちゃ行けない訳だ」
「さんみゃく。なかま」
思わずオウム返ししてしまう。
「ここは王都に近いから、長居はできない。あ、王都って国王のいるトコで、ブランカって名前の結構デカい街なんだけど。そのブランカに俺たちの敵、リレトって野郎がいるんだ。
リレトにカサネの存在を知られるとヤバイ。追っ手をかけてでもカサネを奪いにくる」
「おうと、りれと。おって。追っ手!? 奪う!?」
危険な単語が混じっていませんでしたか? は、と腰を浮かせたあたしに、レジィはまだ大丈夫だ、と笑ってみせた。
「カサネを迎えに行く前に、窺見をブランカに放ってる。あいつら、特にムスクは手練れだから捕まるなんてヘマはしないだろう。
ムスクは鷹を使うんだけど、ここは幸い、その鷹の中継地なんだ。何かあれば、鷹がここに帰ってくる。それからでも、十分間に合う」
聞きなれない言葉ばかり。けれどそれが、ここが別世界なのだと教えてくれているような気がする。
「で、でもここは危険、ってことなんでしょう?」
「まあ、安全ではないな。敵の懐に近いし。それで、カサネは体調はどうだ? お前さえよかったら、明日にでもここを発ちたい」
レジィ曰く、あたしはこの世界に『転送』されてきて、丸一日眠りっぱなしだったらしい。
『転送』というのはあたしの知識から判断するに、『ワープ』みたいなもので、それは『神官』と呼ばれる人たちの、その中でもごく僅かな人しか仕えない技なのだそうだ。
これは術を使う側ももちろん、転送される側もすごく負担が大きく、体の弱い人間には耐えられない、とのこと。
まあ、それは納得した。命をかけたジェットコースターに乗せられた気分だったし。
おばあちゃんだったら死んでた、なんてレジィが言っていたのも、当然だと思う。
レジィは常日頃から鍛えているらしく、『転送』されても、少し疲れるくらいなのだと言う。
「オルガまでは馬で四日。いや、五日かな。カサネは乗馬は?」
「無理、というか馬に乗ったことなんてありません」
「そうか。それなら五日はかかるな。転送の疲れが残っているようなら、なるべく気をつけるから、明日出発してもいいか」
ここにいて危険だと言うのなら、安全な場所へ行くというのに不満なんてない。疲れというのも、特にないように思う。
けど、馬? この世界の移動手段は、馬が常識なのだろうか。
今まで馬なんて、動物園でしか見たことなかったんだけど。ちゃんと乗れるのかどうか不安になりながらも、とにかく頷いた。
「そっか。じゃあ明日の夜明け前に出発しよう。なるべく人目につかないほうが……誰だ?」
レジィが木戸に視線をやって、低く問うた。すばやく背中のものに手をかける。
何? とあたしが聞こうとしたとき、木戸の向こうから声がした。
しかし、その言葉が上手く聞き取れなくて、あたしは首を傾げた。
「ライラか」
レジィは誰なのか分かったらしい。声音が和らいだ。背に回していた手を離す。
「入っていいぞ」
そっと入って来たのは、あたしと同年代の女の子だった。
頭を下げて、何事か喋る。でも、あたしは彼女の口にしている言語が全く理解できなかった。
何語だろう? 英語ではないことくらいは分かるけど。
訝しい顔をしているあたしに気付いたレジィが、思い出したように首にかけていた首飾りを取り出した。あたしを連れてくるときに使っていた、赤い球のついたもの。
「カサネ、これ、持ってろ」
「え?」
光の海を思い出して、たじろぐ。またあんな光が溢れたりするのだろうか。
「カインから預かった珠。これを持ってたら、言葉が分かるようになると思う」
「分かる、って、だってあたしはレジィと会話出来てるよ?」
「それは、俺がこれを持ってたから」
銀鎖のそれを外して、レジィはあたしに突き出した。
これを持っていないと、言語が理解できない、どうやらそういうことらしい。
言葉が分からないことには、不便極まりない。
あたしは恐る恐る、それを受け取った。今はごく普通の赤い珠に見える。中心部にいくにつれ色が濃くなっているだけの、ただの珠。
大丈夫、だよね? いくばくかの不安はあったけれど、首にかけた。
「あの、私、お邪魔致しましたでしょうか?」
女の子の話していることが、聞き取れた。
さっきまでは分からなかったのに!
すごい、コレ、と首元の小さな赤い珠を握り締めた。
「いや、邪魔じゃないさ」
「それならよいのですが」
改めて、小屋に入ってきた女の子を見た。
かわいらしい子だった。ふわふわした金髪に、そばかすの浮いた小麦色の肌。瞳は大きな青い瞳。緊張しているのか頬は紅潮している。
けれど、あたしが真っ先に気になったのは、彼女の服装だった。
シンプルなえんじ色のロングワンピースは、腰に大きめのリボンがゆったりと結ばれていて。裾からはちらりと白のペティコートが見えている。それに、編み上げの革靴。
映画か何かでこんな服装見たことある。中世ヨーロッパとか、そんな時代が舞台のやつ。
そんな服が彼女にはよく似合っていて、そしてしっくりと着こなしているから、これが普段着なのだろうと分かった。
ここは別世界なのだとレジィは言っていたけれど、なるほど、こんなことで実感してしまう。
「あの……サラ様、でございますか?」
「え? は、あ、あの」
彼女の瞳があたしに向けられた。問いにどう答えていいのかとうろたえていると、レジィがあっさり肯定してしまった。
「ああ、そうだ。今は名をカサネという」
「カサネ様、でございますか。そうですか。お目覚めに……」
ほう、と全身でため息をついたかと思うと、ライラという女の子はいきなり膝をついて頭を下げた。
「カサネ様、お戻りを心からお待ち致しておりました。どうか、どうかこの国を、私たちをお救い下さいませ」
「ちょ、ちょっと!?」
熱のこもった、潤んだ声で言われ、慌てて立ち上がった。
どうしてこの子はあたしに頭なんて下げるわけ?
「あ、あの、頭上げてくれませんか? あたしまだよくわかんなくてそんなこと言われても」
「弟が神武団に殺されました。その骸すら返してもらえませんでした。
何も、何も罪を犯していないのに……っ」
叫んでいるわけではなかった。彼女の声は落ち着いているといってもよかった。けれど、泣いていた。肩を震わせて、ライラさんは静かに泣いていた。
「もう多くの民が殺められました。皆、不当に裁かれ、理不尽に命を奪われました。
お願いでございます。わたしのような者を、これ以上増やさないで下さいませ」
「……ライラ。カサネは目覚めたばかりだぞ。気遣ってやれ」
必死の様子に何も言えずにいると、空気を変えるようにレジィが明るく声をかけた。
「カサネは丸一日食事してないんだ。ライラがさっき俺に出してくれたスープ、持ってきてくれないか?」
「も、申し訳ございませんっ。そうですよね、私ったら自分勝手なことを……。直ぐにご用意いたします!」
がば、と面をあげたライラさんの目は、涙が残っていた。それを服の袖で乱暴に拭う。
「気にするな。お前の気持ちはよく分かる」
な? とレジィは言って、あたしに笑いかけた。
「腹、減ってるだろ。ライラは料理が上手いんだ」
「え? あ、ああ」
お腹に手をやると、タイミング悪く、ぐうう、と大きな音が鳴った。こんな状況なのに、暢気すぎる自分の体が恥ずかしくなる。
「あちゃ。やっぱり話より先に食事にすればよかったかなー」
「え、いや、話を聞きたがったのはあたしですから」
赤面するあたしに、ライラさんがすまなさそうに頭を下げた。
「すぐにお持ちいたします。カサネ様にお召し上がり頂くには粗末なものなのですが、お許し下さいませ。
あの、レジェス様。本当にこちらにお持ちしても?」
最後の台詞はレジィに向けられていて、レジィはそれに頷いてみせた。
「俺たちがここにいることを、誰にも知られたくない。人目を避けるためには仕方ないさ」
「そうですか。かしこまりました。カサネ様、少々お待ち下さいませ」
少し赤みの残る瞳でにこりと笑い、ライラさんは小屋を出て行った。
「レジィ、どういうことなんですか?」
コトン、と木戸が閉じた音を聞いてから、レジィに訊ねた。
「ライラの家は元々オルガの民なんだ。それが今は、里を隠してこのヤシムスで暮らしてる。
普段はその土地に馴染んで生活して、有事の際にはオルガの為に働く者たち。忍人っていうんだけどな。結構色んなところにいるんだぜ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「え? じゃあ、ここで食事するってことについて? それは、さっきも言ったとおり、人目につかない為。忍人以外は俺たちのこと知らないからさー。『誰?』とか聞かれたら面倒なことになりかねないだろ」
「そうじゃないですってば。その、殺されたとか、それを救ってくれ、とか」
「……ああ、それか。そうだよ。この国は今、リレトと頂点とした一部の人間の為だけに、多くの命が消されている。ライラみたいに家族を失った奴は多いし、一族郎党絶やされた、なんて話も聞く。中には……邑が一つ、潰された、とかな」
「そんな……」
あんな風に泣く人が、たくさん? ライラさんの頬を伝い落ちた涙が思い出された。
「このままだと、人はもっと殺されていく。大切な人を失って悲しむ者も、もっと増えていく。
早く、こんな馬鹿げたことをする奴らを止めなきゃいけない。そのために、俺たちはカサネを探したんだから」
「あた、し? あたしが何ができるって言うの?」
あたしに何の力もないことは、あたしが一番よく知っている。取り立てて優れたところなんて、何もない。
あの縋るような瞳に、答えられるような力なんて、ないのに。
「できるさ。だってお前は、サラだったんだから」
にこ、と笑って、レジィは立ち上がった。
「まずは食事にするか。明日からはちょっとキツイ道のりになるから、いっぱい食っとけ」
「レジ……」
「失礼致します。お食事のご用意ができました」
こつこつと遠慮がちに木戸が叩かれ、ライラさんの声がした。
「あ、扉開けるから待ってな」
柵をひょいと越えて、レジィは木戸を開けた。
「あ、申し訳ありません」
大きなトレイを抱えたライラさんが、恐縮しながら入ってきた。と同時にふわりと温かな香りが鼻をくすぐる。さっきから空気を読まないお腹が、またもやぐう、と声を上げた。
「えーと、あ、これをテーブル代わりにするか」
小屋の中を見渡したレジィが、隅にあった木箱を持ってきた。あたしの目の前にそれを置き、ライラさんからトレイを受け取る。
「あ。俺の分もあるの?」
「はい。先程お気に召されたようでしたから」
「やった。これ、旨かったからさー」
ありがと、と嬉しそうに言って、レジィは木箱にトレイを載せた。
「わ、おいしそう……」
木製のお椀に、湯気をあげるスープが並々と注がれていた。食欲をそそる香りに鼻がひくひくと動いてしまう。
それに、丸いパンが盛られた木皿と、陶器の水差し。木杯も添えてあった。
「お口に合えばよろしいのですが……」
「いただきます」
両手を合わせて、頭を下げる。それから、ほかほかのお椀を手にとり、口をつけた。
「あ、おいしー……」
スパイスの効いたスープは、初めての味だったけれど、すごくおいしい。具沢山で、柔らかく煮込まれたお肉がほろほろと口の中で溶けていく。
最初の一口で、食欲に拍車がかかってしまったらしい。気付けば椀の半分以上を食べてしまっていた。
「よかった。たくさんありますので、どんどん召し上がって下さいませ」
ライラさんが頬を染めてにっこり笑った。
「すごくおいしいですっ。ええと、これは何のスープなんですか?」
「干し肉とレンズ豆のスープです。この辺りの牛は質がよいので、干し肉にしても味がいいんですよ」
「旨いよなー、これ。ライラ、おかわりってある?」
いつの間にかレジィはお椀を空にしていて、丸パンを齧っていた。
「はいっ。あの、カサネ様もいかがですか?」
「あ、ありがとう。是非お願いします、ライラさん」
急いでお椀を空にして、手渡した。
と、受け取ったライラさんがくすくすと笑って、
「ライラで結構でございます。カサネ様って、親しみやすいお方なんですね。私のような下々の者にまでお優しくして下さって」
勿体無いことです、と続けた。
「え? 普通、ですけど」
少しがっつきすぎてたかな、と恥ずかしさを感じていたあたしは、予想外の言葉にきょとんとした。
「そんなことございません。サラ様はお優しい方だとお聞きしておりましたが、噂通りですわ。では、少々お待ち下さいませ」
嬉しそうに言って、ライラは小屋を出て行った。
「カサネ。このパンも旨いぞ、食え」
ライラの消えた木戸を見つめていると、目の前に丸パンが差し出された。
「あ、ありがとう……」
それを受け取って、一口齧る。
「あの、レジィ? サラさんって、偉い人だったんですか?」
「んむ?」
あたしのこぶしほどの大きさの丸パンを、レジィは一口で食べた。もぐもぐと忙しく口を動かしながら、『待て』というように手の平をかざす。
と、むせた。顔を真っ赤にして胸元をどんどん叩くレジィに、慌てて木杯を渡した。水差しの水をそれに注ぐと、喉を鳴らして飲む。
「……っ、はーっ! やべ、苦しかったぁ」
ふう、と肩で大きく息をついて、レジィはあはは、と笑った。
「一気に食べようとするからですよ。急がなくてもなくならないから、ゆっくり食べたらいいと思います」
「へへ。気をつける」
そう言いながら、レジィは再び大口を開けてパンに向かおうとする。
「ほら、また」
「とと、悪い。ゆっくり、だな」
ぱく。今度は小さくちぎって口に入れたレジィに、よしよし、と頷いていると、
「それよりさ、その口調、止めて欲しいなあ」
と言われた。
「え?」
「その口調、よそよそしいじゃん。普通にできない?」
「普通、ですか」
「うん。友達みたいなカンジでさ」
にこりと笑う。きゅ、と上がった唇の端には、パンくずがついていて。
その子供っぽい笑顔に、ついくすくすと笑ってしまった。
「え? 何?」
「う、ううん。あの、じゃあ止める」
「そか」
満足そうに頷いたレジィに、自分の口元を指差してみせた。
「何?」
「パンくず、ついてる」
「マジ!?」
袖でごしごしと口を拭うレジィに益々笑ってしまう。
「笑った」
「え?」
「やっと笑ってくれた」
笑いすぎて目の端に滲んだ涙を拭ってレジィを見ると、心なしか身を乗り出したようにしていた。
そんなに、あたしが笑ったことに驚かなくても。と思う反面、こんなに笑ったのって久しぶりかも、と思う。
いつも眉間にシワを寄せて、唇を引き結んでいたから。
「あ、顔背けるなよ」
あまりにもじ、と見るので、耐えられずに顔を背けた。
「だってなんか恥ずかしいもん」
「何で。見てるだけじゃん。こっち向けよ」
「いや、それが恥ずかしいんだってば」
こっち向け、いやだの問答を繰り返していると、木戸が鳴った。
「はいはい、開けるから待てよー」
「失礼致します」
レジィが開けるのを待たずに中に入ってきたのは、ライラではなく、大きな体の男の人だった。
四十代位のおじさんで、毛のない頭はじゃがいもみたいにでこぼこしていて、顔はどこまでも厳めしい。
半そでのシャツから出た腕は丸太みたいに太くて、毛がもじゃもじゃくっついている。
その姿の威圧感はなかなかのもので、小屋内が一気に息苦しくなったような気がする。
のそりと入ってきた強面の男の人は、あたしを見てとると、いきなり膝をついた。額を地面につけんばかりに平伏する。
「え? ちょ、あの」
「よくぞお戻り遊ばされました。貴女様よりお命頂きました、ゼフにございます。覚えておいででしょうか?」
「え? は?」
「これより起こる大乱に、この命捧げる所存でおります。貴女様の命があればどこへなりと馳せ参じます」
野太い声で言われた内容が、上手く整理できない。
あたしがこの人の命を救った、って、ええと?
あ、サラのことか。って、こんな人に頭を下げられて、命捧げます、なんて言われてるサラって、本当に一体どんな人なんだろうか。
って、とにかく、サラはどうあれ、あたしは頭を下げられるような人間じゃない。
「あ、あの、もう顔上げて下さいっ!」
「は。では、失礼致します」
顔を上げたゼフさんは、あたしを見て、ほんの少し眉を下げた。
「おや、何やら愛らしくなられましたな。以前は美女、というようなお姿でしたが」
びじょ。それはあたしには縁遠い言葉ですが。
地味な顔立ちなのは、毎日鏡で確認してるし。
しかしレジィはにこにこと、
「はは、可愛いだろ」
などと恥ずかしいことをいう。それを聞いたゼフさんはうんうん、と納得するかのように頷いて。
「そうですな。しかし、話に聞いていても、目の当たりにすると驚くものですな。転生などとは。
ええと、今のお名前はカサネ様、とおっしゃるのでしたな」
「え? あ、はい」
あれ、この人にまだ自己紹介してないのに。そう思ったのに気付いたのか、
「ゼフはライラの父親なんだよ」
とレジィが教えてくれた。
「え」
この厳めしい人が? 何というか、似てない。
ライラはかわいらしかったけど、目の前にいる人は何というか、怖い。
見た目は申し訳ないけど、熊みたいだし、声は低くてドスがきいてるし。
「ライラは母ちゃん似なんだよ。顔が凶器のゼフに似てなくてよかったよな」
「長、酷い言い様ですな」
ゼフさんは太い眉を下げて、拗ねたように言った。
と、は、と表情を改めて言った。
「無駄口を失礼しました。長、手負いの鷹が戻りました」
「なんだと」
レジィの顔色が変わった。
「鷹に書簡は?」
「何も。片目を射られており、先ほど絶命しました」
「ムスクの鷹か」
「間違いないかと」
がらりと雰囲気の変わった二人に驚く。
鷹って、さっきレジィが言っていたよね。確か、危ないときには鷹が先に来る、とか。
その鷹が傷を負ってきたってことは……、危ない、の?
ぞわ、と不安が襲ってきて、どうしていいのかわからないまま立ち上がった。
「ブランカからここまで、どれくらいかかる?」
「鷹でしたら半日です。しかし傷を負った上ですので……、一日、といったところでしょうか」
「カサネを連れてきてすぐ、か。兵、向けてるだろうな」
「はい。しかし、場所が特定されているとは限りません。多少の猶予はあるかと」
「いや、こうなれば転送術が完全じゃなかったことが気になる。それがリレトの仕業だとしたら、おおよそは把握していると考えていい。今頃この辺りを目指して追っ手が向かってきているはずだ」
レジィは口元に手をあてて、考えこむように視線を彷徨わせた。
けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに指示を飛ばした。
「すぐにここを発つ。馬を二頭。それと、ユーマの服を一揃え頼む」
「は。しかし、ユーマのもの、とは?」
「カサネに着せる」
「は……、いや、なるほど。すぐにライラに用意させます」
「頼む。カサネ!」
緊迫した二人の様子をただ見ているしかなかったあたしは、いきなり名前を呼ばれたことにびくりとなった。
「は、はいっ」
「ここを発つことになった。ライラが持ってくる衣服に着替えておいてくれ。すぐ戻る。行くぞ、ゼフ」
「はっ」
厳しい表情のレジィはゼフさんを従えるようにして小屋を出て行った。
「え、えと……」
一人きりになった小屋で、あたしはうろうろと歩き回った。
すごく危ない状況になっているらしい。
会話から判断するに、ムスクという人が殺されているようだし。
「ど、どうなってんの、これ?」
目覚めてからそんなに時間は経っていない。
きちんと理解できているのは、別世界に連れてこられた、それくらい。落ち着いて自分の置かれた状況を知ることもできないなんて。
でも、とにかくここから逃げないようだ。
「失礼致します!」
駆け込むようにして、ライラが入ってきた。
「これにお着替え下さいませ」
差し出されたのは、地味な茶色の服だった。
「レジェス様は出発のお仕度をされています。お早く」
「は、はいっ」
恥ずかしい、なんて考える余裕もなく、あたしはライラの前で豪快に着ていた制服を脱いだ。
ブレザーもスカートも放って、代わりにライラが持ってきた服に袖を通す。
白いシャツに、茶色のパンツ。毛皮のベストに革靴。
最後にベルトを締めてから自分の体を見下ろして、首を傾げた。
これ、男性用じゃないの?
「ねえ、ライ、ラ?」
訊ねようとして、目を見張った。
ライラが下着姿になって、あたしの脱ぎ捨てた制服を着ようとしていたのだ。
「ど、どうしたの!?」
「時間稼ぎです」
ブラウスのボタンを留め、濃紺のブレザーに腕を通して、ライラはにっこり笑った。
「幸い、カサネ様は以前とお姿が変わっていらっしゃいます。追っ手はカサネ様と私の区別がつかないでしょう。
この世界と違う衣服を着ている者がいたら、カサネ様だと勘違いするかもしれません」
「それって、危ないじゃない!」
命を失った人もいるこの時に、そんなことをしていたらライラが危険じゃないの。
危ないから、だからここから離れるとレジィは言って、そのために今支度をしているんでしょ?
「ライラも一緒に行けばいいじゃない。そんな危険なことしなくても」
「私は剣を使えません」
スカートを履きながら、ライラは言った。
「共に行っても、カサネ様をお守りする術を持ちません。ですが、ここにカサネ様としていることで、私はカサネ様をお助けできるかもしれません。
ライラはここに残ります」
強い意志の宿る瞳で真っ直ぐに見つめられ、言葉に詰まった。
「カサネ様には生きて頂かないといけません。私たちの、希望なんです」
「ライラ……」
どうして? そう聞きかけた言葉を飲み込んだ。
サラという人は、命を賭けてまで助けなくてはいけない、重要な人だったんだ。
その人があたしだと、どうしても思えないけど、ライラはそう信じている。
「私なら大丈夫です。父がおります。あの父が、敵兵にひけを取るとお思いですか?」
「それは……」
あんなに大きくて逞しくても、万が一があるかもしれない。だって、殺された人のことだって、レジィは『大丈夫だ』って言ってたのに。
けれどそんなこと、この状況で言えない。言いよどんだあたしに、ライラは笑ってみせた。
「父だけではございません。ここには他にも数名、オルガの者がおります。ご安心下さいませ」
「で、でも……」
「支度は出来たか?」
レジィが入ってきた。さっきとは違い、革で作られた胸当てのようなものを身につけている。腕にも、脛にも、革製の覆いをつけていた。
それに、背には一振りの剣。艶のない銀鼠色の鞘に納まったそれは、布を巻いて背負っていたものと同じ大きさだった。
物々しいいでたちのレジィはあたしの服装をざっと見て取って、不敵に笑う。
「上出来。これならいいとこ俺の従者だな。巫女姫だと簡単に分からないだろ」
「レジィ! あの、ライラが」
もしかして、レジィならライラのしようとしていることを止めてくれるかもしれない。
そう思って言ったのに、レジィはライラの姿に黙って頷いた。
「言おうと思っていた。すまない」
「いえ。私にはこのようなことしかできません」
そんな。このままだと、ライラの身が危うくなってしまうのに。
呆然と二人を見ていると、レジィはライラの頭をくしゃりと撫でて、
「リレトの手の者が来たら、逃げろ。捕まるな。お前が逃げ切れなければ、カサネが危うくなるんだと思え。そして絶対、死ぬな」
厳しい口調で告げた。
「はい……ありがとうございます」
その命令は、『生き残れ』、そう言っていた。それは、あたしの安全とかじゃなく、ライラ本人の安全を命じたのだと、あたしにも分かった。
ライラは目の端に涙を滲ませて、深くレジィに頭を下げた。
「オルガまでの道のりに、障害がありませんように。パヴェヌのご加護がお二人の頭上にありますように」
「心配するな。俺には巫女姫がついてるんだ。それに、ユーマもきっと助けてくれるさ」
レジィの言葉に息を飲んだライラが、あたしの方に体を向けた。
「カサネ様、きっと私の弟がカサネ様の盾となり、御身をお守り致します。レジェス様もいらっしゃいます。ご心配、いりません」
は、と自分の着ている服を見下ろした。そうか、これは、殺されたというライラの弟のものだったんだ。
「ライラ……ありがとう」
「ご無事をお祈りしております」
「長、出発の支度整いました」
ゼフさんが飛び込むようにして入ってきた。
「お早く願います」
「おう。行くぞ、カサネ」
「あ、は、はいっ」
言うなり出て行ったレジィを急いで追う。と、振り返って、見送ってくれているライラを見た。
あたしの制服を着た、あたしの身代わりになる初対面の女の子が、泣きそうな顔をしていた。
「ご無事で……」
自分ではなく、あたしを心から心配してくれているのが伝わってきて、目頭が熱くなる。
「ライラも」
「え?」
「ライラも、絶対無事でいてね!? そして、今度会ったときには、友達になってね?」
高ぶった感情を上手くセーブできなくて、叫ぶように言ったあたしに、ライラは何度も頷いてみせた。
ぼろぼろと涙を溢して頷く肩を、父親がそっと抱いた。
「お急ぎください、カサネ様」
「はい。ゼフさんも、また、会いましょうね」
「必ず。オルガにて、会いましょう」
「カサネ!」
レジィの声が飛ぶ。
それに短く答えて、あたしの異世界への入り口であった小屋を出た。