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『自営業』しかしたことのない私は、誰かの店で働くのは初体験だった。
彼に喫茶店を紹介してもらった翌日、私一人で店を訪れると、マスターが爽やかスマイルで待ち構えていた。
「おはよう、さなちゃん! 今日は土曜日でしょう? だから、モーニングの時間帯もそんなに混まないと思うの。リラックスして働いてね!」
「はい」
「あと今日は、娘のかすみが、さなちゃんの教育係になったから! 仲良くしてあげてね」
「えっ」
マスターの横を見ると、かすみちゃんが恐ろしい剣幕でこちらを見ていた。
おいおい、マスターはかすみちゃんの気持ちに気付いていないのだろうか。
「……制服をお貸しします。こちらへどうぞ」
透き通るような凛とした声でそう言うと、かすみちゃんは店の奥へと向かった。私はマスターに浅くお辞儀をしてから、かすみちゃんの後に続いた。
店の奥は、段ボールが積み重なった倉庫のような状態で、その中に制服も紛れ込んでいた。かすみちゃんは私の体型を見て、適当なサイズの制服を引っ張りだす。私は後ろから、かすみちゃんの横顔を眺めた。少しつり上がっている切れ長の目と、薄い唇。頬が白いせいで、そばかすが目だっている。
彼女は私よりも年下のはずだけれど、年上だと言われても納得してしまいそうだった。
「これ、着てみてください。あと、髪は後ろで一つくくりに」
「あ、はい」
彼女があまりにも事務的に話すので、世間話をする暇もない。私はとりあえず、かすみちゃんが渡してくれた制服に袖を通した。制服は白いポロシャツに黒のスラックス、その上に丈の長い黒エプロンという、ごくごく普通の地味なものだった。彼女に言われた通り、髪もきちんとまとめる。
着替え終わった私は、後ろで見ていたかすみちゃんに、「どう?」と訊いてみた。
「……やっぱりかわいいですね」
無表情でそう言い放った彼女は、私ではなく、私の後ろを見ているように見えた。そこには、誰も立っていないのに。
彼女が唇を噛んでいるのを見て、私は苦笑した。
はっきり言って、私は「かわいい」部類の人間なんだろうと思う。目が大きかったり、唇の形が良かったり、肌がきれいだったり。スカウトされたことも、何度かあった。
けれど私の中身はぐちゃぐちゃで、誰にも見せられないくらい悲惨なものだ。
きっと、目の前にいる彼女の方が純粋で、綺麗なんじゃないかと思う。
彼とお似合いなのも、彼女の方だろう。
「――それじゃ、店に出ましょう。もうすぐ開店しますから。今日は基本的なことをお教えしたいと思っているので、よろしくお願いします」
「あ……よろしく」
彼女の言葉があまりにも硬すぎて、うまく返事ができなかった。
私の主な仕事は注文を聞くこと、マスターの作った料理やコーヒーを運ぶこと、時間が空いたら掃除。それくらいだった。レジはもう少し経ったら教えるわねとマスターに言われたので、今日はお冷や飲み物を持っていくことに専念した。
「いらっしゃいませ」
営業スマイルを振りまきつつ、私はお冷をテーブルに置く。私の隣のかすみちゃんは、険しい目つきでそれを見ていた。険しい目つきというよりも、彼女のスタンダードがその目なのだろうと思う。
コーヒーの種類に関してはチンプンカンプンで、ブルマンやらキリマンジャロやら、山の名前としか思えないような注文を続々と受けた私は混乱した。それを見ていたマスターは、「ちょっとずつ覚えればいいのよー」とウインクしてくれた。
常連客も気さくな人が多くて、新入りの私をすんなりと受け入れてくれた。
「お姉ちゃん。何なら後で俺とデートでも」
「おーきゃーくーさーまっ!」
マスターが止めて、全員で笑う。……一瞬でも『仕事』の態勢に入りかけた私は、苦笑いするしかない。そんな時でも、かすみちゃんは無表情だ。――敵対視されてるみたいでやりにくい。私と彼は、そんな関係でもないのに。
少しだけ仕事に慣れ始めた午後、彼が店にやってきた。黒の長袖シャツに迷彩柄のズボンという、ラフな格好で。
「いらっしゃいませ、お客様」
私はわざと硬い口調でそう言って、頬が攣りそうなくらいの営業スマイルを振りまいた。それを見た彼が笑う。
「制服、似合ってるよ」
それを聞いたかすみちゃんが、私と彼の顔を交互に見てくる。……この男はどれだけ鈍感なのだろうか。私はいらいらしながら、「お好きなお席へどうぞ」と仏頂面で言った。
彼はマスターの前、カウンター席に座ると、
「じゃ、いつもの」
「え、いつもの!?」
彼の注文に思わず反応してしまった私に、マスターが笑う。
「そうねえ。常連さんはいつもの、って言うことがあるから。でも、さなちゃんもじきに覚えちゃうわよ! ね、彼女、仕事の呑み込みが早いわね。さっすが隼人君のかーのじょーっ!」
「ちょ……」
後ろから射抜くような視線を感じて、私は振りかえる。後ろにいたのはやはりかすみちゃんだ。
――マスターといい彼といい、鈍感すぎる。
「あの。私と彼はそういう関係じゃないですから」
ここら辺できっぱりと言っておかねばなるまいと思い、私は声を出した。
「あら。じゃ、どういう関係なの?」
マスターは興味津々、かすみちゃんは疑念たっぷり、彼は面白そうな目をして、こちらを見てきた。私は沈黙する。
「…………と、友達というか」
やっとのことで言ったそれは、私が持っていないものだった。
これからもずっと、持つことはないであろう『友達』。
けれどそれを聞いた彼は、嬉しそうにうなずいた。
「そうそう、友達なんですよ。俺たち」
「え?」
目を丸くした私に、彼は歯を見せて笑った。
かすみちゃんの目だけは、まだ疑っているようだった。