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「昼過ぎに戻ってくるから待ってて。さっき話してた店に、一度行ってみようよ。働くかどうかは、君が決めればいいし」
じゃあ行ってくるねと言い残して、彼は大学へと向かった。大学に行ってもやることのない私は、彼の家にいることにしたのだ。……馬鹿正直に。
彼がいない間に、逃げ出せばいいじゃないか。失踪は、得意でしょう?
そう思っている反面、私は彼の何かにすがりつこうとしていた。
例えば私は、女としての何かを捨てた。
けれど私は、女としての何かにすがりついて生きている。
結局、捨てたはずの何かに頼っているんだ。――彼に対しても、そう。
他人のことなんて、信用してなかったくせに。
「――馬っ鹿みたい」
私は大きな独り言を言うと、彼の部屋の押し入れを開けた。押入れの上の段には服が、下の段には布団が入っている。上の段のあいているスペースに、大学で使っているのだろう資料が積み重なっていた。――と思ったら、それはすべて手書きの楽譜だった。一番上にあった楽譜を一枚、手に取ってみる。楽譜を読めない私には、そこに綴られている曲がどんなものなのかは分からない。けれど日本語はある程度読めるので、音符の下に書かれている歌詞は、理解することができた。
「……君が笑ってくれるから、僕はうたうんだ。君の姿が見えなくても、ずっと、ずっと。僕は今日もうたい続ける。この声が、いつか君に届けば、それでいい」
口に出して読んでみて、そのリズムに気付く。私は唯一知っている彼のオリジナル曲に合わせて、その詞をうたってみた。――ぴったりだった。
「これ、あの曲の楽譜か」
一人で納得して、もう一度うたってみた。サビだけは、何故かしっかりとうたえた。
君が笑ってくれるから、僕はうたうんだ。
「……この曲、なんでこんなに懐かしい感じがするんだろ」
私は楽譜を元の位置に戻すと、敷きっぱなしだった布団の上に寝転がり、目を閉じた。
よく分からない。けれど、気持ち悪い。痛い。怖い。
家に帰りたくなくて、砂場でうずくまっている私に、誰かが声をかけてきた。
「おうちにかえらないの?」
「かえりたくない」
私は泣きながら首を振った。近づいてきた人は、私の隣に座って――
「……な。さな」
ぼんやりとした視界の中に、彼の顔が見えた。気づけば眠っていたらしい。それに何か、変な夢を見た。
彼が心配そうに、私の顔を覗き込む。
「大丈夫? 具合悪いの?」
「……ううん。昼寝してただけ」
私は彼の腕時計にちらりと目をやる。現在、午後二時過ぎ。どうやら三時間近く眠っていたらしい。私はため息をついて、上体を起こした。彼が気を利かせて持ってきた麦茶を一気に飲み干して、もう一度ため息をつく。
「大丈夫?」
「平気だってば」
私は彼に空になったグラスを返すと、立ち上がった。シンクにグラスを置いている彼に、後ろから声をかける。
「で、なんかの店に連れて行ってくれるんでしょ?」
さっさと連れて行けと促すつもりでそう言うと、彼はこちらを振り返って苦笑した。そして自分の頭を指差しながら、
「その前に、寝癖直した方がいいと思うよ」
茶化すような笑顔でそう言った。
「……ドライヤー貸して」
「どうぞ」
私は右に向かってはねている自分の髪の毛をいじりながら、何度目か分からないため息をついた。