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彼の家は、夕食を食べた回転寿司から歩いて五分ほどのところにある、ワンルームマンションの四階だった。ワンルームといっても部屋はせまくないし、家賃もそこそこ高いはずだ。学生にしてはいい家に住んでるなと思ったら、家賃と生活費を実家から仕送りしてもらっているらしい。
「自分でバイトして稼ぐからいらないって言ったんだけど、親が心配性で」
そう言って苦笑する彼から、顔をそむけた。
親が心配してくれるなんて、私が住んでいた家ではあり得ない。
「どうぞ。あがって」
彼に促されて、私は中へと足を踏み入れた。
今日会ったばかりの男の部屋に入る娘。普通の親なら、心配するんだろうか。……我ながら、どうでもいいことを考えすぎている。私は一人で嗤いながら、彼の部屋を見回した。
彼の部屋は持ち主をそのまま表していると言うか、あまり特徴のない部屋だった。部屋にあるのは折り畳み式のローテーブルとパソコン、小さな木製のたんす、それから彼が壁に立てかけたギターくらいだ。ポスターなどは貼っていない。布団は押し入れの中らしい。
特に散らかっているわけでも、派手なわけでもない。思わず私は苦笑した。
「適当なとこに座って。何か飲む? 水道水か、麦茶か、コーラしかないけど」
「コーラ」
「分かった。ちょっと待ってて」
彼はそう言い残すとキッチンへ向かった……と言っても、部屋の中に備え付けられているキッチンだけれど。
彼は透明なグラスを二つ用意してコーラを注ぎ、
「お待たせー」
言うだろうなと思っていたセリフを言いながら帰ってきた。大して待っていないよと思いつつ、私はコーラを受け取る。グラスの中ではじける泡の音が、かすかに聞こえた。
ベランダに面している窓の近くに座って、外を見る。先ほどの回転寿司の看板が、遠くの方で煌々と光っているのが見えた。
「……さなは、あまり昔のことを話したくはない?」
彼の声を、私は無視した。話すどころか思い出したくもなかった。彼との約束も、もうどうでもいい。どうせ大した約束じゃないはずだ。こいつと会うのは今日で最後。明日になったら他の街に移ろう。住所不定ってこういう時に便利だよなと内心で笑った。
私の沈黙の意味を理解したのか、彼も黙りこんだ。ニ人の男女が同じ部屋にいて、無言。なんてシュールな光景だろう。
そう思っていたら、彼が突然うたいだした。公園で歌っていた、あのメロディーだ。彼の歌声は高くも低くもなく、けれど心地の良い声だった。なんとなく口ずさめそうなその歌を、私は無言で聞く。彼はサビだけうたい終わると、目を細めた。
「俺はさ、さなに会えてよかったって思ってるんだよ。さなが覚えていなくても、俺にとっては大切な思い出なんだ」
「……へえ」
過去の私が、こいつに何かしたのだろうか。けれど思い出したくなくて、私は話をそらした。
「あんた、明日は大学?」
「え、うん。そうだよ」
「じゃ、さっさと寝た方がいいんじゃないの」
私はコーラを飲み干すと、テーブルの上にグラスを置いた。心の中で、仕事の態勢を整える。彼は時刻を確認して、笑った。
「本当だ。明日は一限からだし、早く寝た方がいいかな」
「じゃ、さっさとしてよ」
「? 何を?」
「は?」
つかの間の沈黙。それを破ったのは彼の笑い声だった。私の言葉の意味を、理解したらしい。
「ああ、いやごめん。俺、そういうことをする気はないよ」
「え? じゃあなんで私を部屋に泊めたの」
私の問いに、彼の笑い声がぴたりと止まった。そして、
「――これ以上、自分を痛めつけてほしくなかったから」
彼の目が急に真剣になって、私は困惑する。中身の半分残ったグラスをテーブルの上に置いて、彼はまっすぐこちらを見た。
「何度かさなを目撃したって言っただろ? ……さなはいつも泣きそうな顔してたよ」
「私が?」
家を出てから泣いたことは一度もない。泣きそうになったこともない。なのに、何を言ってるんだこいつは。
「本当は好きじゃないんだろ? ……おじさん達とそういうことするの」
私は黙った。好きじゃないという点は、当たっていると言えば当たっている。彼は「おじさん達というか、」と呟くように付け足した。
「たとえ相手が俺でも、さなは嫌だろ? ――そういう思いはさせたくない」
「…………」
「俺の家に泊まらなかったら、他の男とホテルに行くのかもしれないと思って。俺は、あんな顔をしてるさなを見たくないんだよ」
返す言葉が見つからなくて、私は彼の目を見ることもできずに俯いた。四年間封印していた箱を、彼に少しだけ触れられた感じ。それが何故か悔しくて、
「変な男」
私が呟くと、「よく言われる」と言って、彼は笑った。