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どうして私は、この訳のわからない男と、回転寿司に来ているんだろうか。
晩御飯食べた? と訊かれたので素直に首を振ると、じゃあどこかに食べに行こうと言われた。その結果が、一皿百円の回転寿司だ。テーブル席が混んでいたので、カウンターに二人で並んで座った。
誰かと食事をするのも、回転寿司も久しぶりだった。
「俺のおごりだから、じゃんじゃん食べてよ」
彼は笑顔を張り付けたまま、目の前を通り過ぎていく寿司を次々と取りはじめた。もちろんそれは私のためではなくて、彼の分だ。私はとりあえずサーモンを取ると、割り箸を割った。
「……よく来るの? ここ」
タッチパネルを難なく使いこなしている彼を見ながら、私は尋ねた。回転寿司なんて滅多と利用しない私は、タッチパネルの使い方を知らなかった。
「うん。バイト代が入った時とか、嬉しいことがあった時とかに一人で」
「……ふーん」
訊いてみたものの、大して興味はなかった。私は明らかに興味のなさそうな返事をして、サーモンを口に放り込む。……脂がのってておいしい。回転寿司って、こんなにおいしかったっけ?
サーモンばかり取っている私を見て、彼は笑った。
「サーモン好きなんだ?」
「……別に」
「ちなみに俺は、マグロが好きだよ」
「あっそう」
ものすごくどうでもいい情報を提供されて、私は苦笑した。自分の『客』について詮索をするつもりのない私は、彼の名前も住所も年齢も尋ねる気はなかった。が、
「俺、長谷川隼人。隼人でいいよ」
彼の方から個人情報を言ってきて、私はまたもや苦笑した。まあ、彼が言っているのが本名なのかどうかは知らないが。
「……長谷川隼人、って名前を聞いても思い出せない?」
彼は割り箸を右手に持ったまま、深刻な顔でそう言ってきた。――記憶喪失になった人間って、こんな気分なんだろうか。「覚えてない」と、私は正直に首を振った。申し訳ないけれど、どう頑張っても思い出せそうになかった。
「そっかあ」
彼はがっくりしながら、目の前にあった醤油入れを箸でつつく。
「俺は、君の名前まで覚えているのに」
そう言われてぎょっとした。たまに『客』に名前を訊かれることがあったが、いつも偽名を使っていた。しかも毎回、違う名前を。私は彼に、なんて名乗ったのだろう。さくら、あい、しょうこ、れいな……他にもいっぱいあったはずだ。彼に名前を訊かれた時、どれを使ったんだろう。
「……私の名前、言ってみてくれる? 私はあんたのことを思い出せそうにないし、もしかしたら人違いかも」
回転寿司まで奢ってもらっておいてこんなことを言うのは失礼だけど、本当に思い出せないんだからしょうがない。
彼は割り箸を皿の上に置くと、私の目を見て言った。
「早苗。……塚本、早苗」
彼の言葉を聞いた私は、目を見開いて凝り固まった。その名前は、
もう何年も使っていない、私の本名だった。
――客じゃない。客相手に、本名を言ったことは絶対にない。……彼は客じゃなかったんだ。だとすれば、
「中学まで同じ学校に通ってたんだけど」
彼に言われて、私は目を閉じる。そう。つまり、同級生だったということだ。中学卒業と同時に、私が家を出るまで。
どおりで思い出せないはずだ。私はその頃の記憶を完全に封じ込めて忘れようとしていた。そもそも子供のころに友達なんて作らなかったし、休み時間も一人で本を読んでるような影の薄い生徒だった。他の生徒に興味もなかったので、クラスメートの顔ですらほとんど覚えていない。そんな私が、……特徴らしい特徴のない彼の顔を、覚えているはずがなかった。
「学校を卒業してから、塚本が失踪したって聞いて――」
「名字で呼ばないで」
思わずきつい口調で言ってしまい、彼がきょとんとした顔でこちらを見てくる。けれど名字は、どうしても嫌だった。
「その名前はもう捨てたの。だから、呼ばないで」
「じゃ、なんて呼べばいい? ……さな、とか?」
それも本名をもじっているけれど、名字で呼ばれるよりはマシだ。私は頷く。
彼は「じゃ、さなって呼ぶから」と一人で宣言してから、
「さなが失踪したって噂になってたよ。俺も探したけど、見つからなかった。俺、今年から……大学生になってから、一人暮らしを始めたんだ。自宅から学校まで結構距離があったしさ。そしたら、さなそっくりの人を見かけてびっくりした」
「……よく、私だって分かったわね」
「だって顔、変わってないじゃん」
彼は私の顔を見ながらくつくつと笑った。私は無言でサーモンを食べる。自分の顔が昔とほとんど変わっていないことは、自覚していた。しかしまさか、同級生に声をかけられるとは思っていなかった。私の住んでいた街からこの街までは、割と距離がある。……だからこそ彼も家を出て、一人暮らしを始めたんだろうけど。
「……さなはさ、家に帰らないの?」
そう言われて、私は彼の顔を睨んだ。あの家に帰れって?
「あの家は、私の家じゃない」
私はそう吐き捨てると、割り箸を置いた。昔の話をするのは、もう懲り懲りだ。
「私はもう、あんたの知ってる人間じゃないんだよ。失踪してから、私がどんな風に生きてきたかなんて知らないでしょう? 塚本早苗は死んだの。とっくの昔にね」
私が席を立とうとすると、彼が腕を掴んできた。思ったよりも力が強くて、一瞬だけひるむ。けれどそれを悟られないように、私は彼の顔を真正面から睨んだ。
「……はなしてよ」
「君がいま、何をしてるのかは大体知ってるんだ。実は何回か、さなを目撃したことがある。……おじさんと一緒に歩いてるところとか」
最後の方を小さな声で、彼が言う。私はそれを聞いて、思わず吹き出した。
「だったら、もういいよね? おっさんと寝てばっかの女なんて、興味ないでしょ」
その言葉を聞いて、彼の顔がゆがんだ。……客と歩く私の姿を何度か目撃したものの、本当に『やっている』のかどうか、確認したかったらしい。馬鹿な奴。私は嗤った。
「分かったらその手、はなしてくれる?」
「…………」
「なんなら、あんたのお相手もしましょうか? 一晩、家に泊めてくれるだけでいいわ。それとも、ホテルにでも行く?」
私の言葉に、周りの客が数人振り向いた。私はわざと、こちらを見ている人間と視線を合わせる。みんな、私と目があった途端、気まずそうに視線を泳がせた。
ほら見ろ。こんな女と一緒にいるなんて、恥ずかしいことなんだよ。
「……家に泊めるだけで、いいのか」
予想外の答えに、私は眉をひそめた。彼は私の腕を掴んだまま、はなそうとしない。
「――そうよ。眠る場所と、ご飯代をくれればいいの。それが私の値段。あんたの場合、回転寿司はごちそうになったから、あとは寝床だけでいいわ」
私が笑いながらそう言うと、彼はしばらく考え込んでから頷いた。彼の目は、とても力強かった。
「分かった。俺の家に来て」
「え?」
「毛布もあるし、どうにかなるよ」
彼は自分自身に確認するかのようにそう言って、柔らかく笑った。




