7
よく分からない。けれど『あれ』は、気持ち悪い。痛い。怖い。
笑いながら帰宅する子供たちとは対照的に、私は公園の砂場でうずくまっていた。家に帰りたく、なかった。
そんな時、だれかが声をかけてきたんだ。
「おうちにかえらないの?」
「かえりたくない」
私は泣きながら首を振る。近づいてきた人は、私の隣にそっと座った。
「……ね、なかないで」
彼はそういうと、しばらく何かを考えてから、大きく息を吸い込んだ――
泣き疲れて眠ってしまったらしい。いや、まどろんでいただけかもしれない。うっすらと目をあけると、私の隣で隼人が歌をうたっていた。寝ている私に気を遣っているらしく、小さな声で呟くように。
どこかで聞いたことがあると思っていた、その歌。
「――……ああ」
私が声を出すと、隼人の歌声がぴたりと止まった。
「ごめん、起こした?」
「ううん、大丈夫」
泣いたせいで瞼が重い。私はうっすらと笑うと、隼人の胸にそっと手を置いた。服の上からでも分かる、彼の体温。
「うたってくれたんだ、私のために。小さな頃。砂場で。……その歌を」
思い出した記憶の、単語だけを並べていく。それでも隼人は驚いた顔で、こちらを見た。
「思い出した。私が泣いてた時、その歌をうたってくれたんだ。真っ赤な顔で。それから、約束した」
『俺は覚えてるよ。君のことも、約束のことも』
あの日、彼が言っていた、約束。
「君に笑ってもらえるように、僕はうたうよ。ずっとずっとうたうよ。……そう言ってくれたんだ。あの日」
砂場でうたい始めた男の子の声はひっくり返っていて、お世辞にも上手いとは言えなかった。
聞いたことのない曲。でたらめなリズムとメロディ。
「君が笑ってくれるから、ぼくはうたうんだ。君のすがたが見えなくても、ずっと、ずっと。ぼくは今日もうたいつづける」
私が涙を拭きながら笑うと、彼も笑った。顔が真っ赤で、酷く緊張しているのだと分かった。
男の子は自分自身でもこの曲が気に入ったのか、何回も何回もうたった。途中からは、私も一緒にうたいはじめた。即興で作られた歌にはサビ以外何もなくて、覚えやすかったから。
「ぼく、うたうよ」
二人でうたい続けてしばらく経った頃、彼は空を見上げていった。空の色は、彼の頬と同じ赤色で、けれど少しだけ寂しい色をしていた。別れを予期させる、夕方の色。
「ぼく、さなえちゃんに笑ってもらえるように、うたう。どこにいても、うたうよ。さなえちゃんが近くにいなくても、うたう。ぼくの声がとどきますようにって、うたうから。やくそく、する」
『うたう』という単語を、彼は何度繰り返しただろう。その時から彼にとって、『うたう』のはとても大切なものになった。たとえ、約束した相手がそのことを忘れてしまっていたとしても。
「――約束、守ってくれてたんだ」
私が言うと隼人は照れ臭そうに笑って、鼻の頭を掻いた。そういえばあの日も、そんな風に笑っていたっけ。
「忘れててごめん」
素直に謝ると、隼人は若干首を振った。いいんだよ、と笑う。
「あの約束は、俺の自己満足みたいなものだから。だから、さなは気にしないで。俺が勝手にうたってただけ」
彼はそう言いきると、歌の続きをうたいはじめた。サビしかなかったあの時とは違って、立派な『歌』になっているそれを、私も一緒にうたう。あの日のように、一緒に。ずっと、ずっと。
「プロになろうとか、考えたこともあったんだけど」
うたうのをやめて、隼人はほほ笑む。
「俺は皆のためにじゃなくて、さなのためにうたいたいだけなんだ。だから、プロには向いてないと思う」
――彼の歌は誰か一人だけのためにうたわれてる感じがするのよね。万人向けじゃないというか。常に、誰か一人だけのことを考えてる。そこが、プロとか、プロを目指す人とは違う気がするわ――……。
「……マスター、当たってるわ」
「え?」
「なんでもない」
いつかのマスターの言葉を思い出して、私は笑った。
そして、もう一度うたいはじめた。
私のために作られた、その歌を。
何事もなかったかのように、太陽は昇る。
何事もなかったかのように、空は青色に染まる。
何事もなかったかのように、隼人は朝食の準備をしていた。
けだるい身体を起こして、私はのそのそと洗面所に向かう。身体中の痛みは、そのうちなくなるだろう。
「さな」
スクランブルエッグを作っていた彼が、私を呼びとめる。
「なに?」
私は寝癖の酷い髪の毛をいじりながら、隼人の方を振り返った。
「――好きだよ」
おはよう、と変わらない口調だった。けれど、彼の頬は少しだけ赤くなっている。
……ずるい。
「反則よ、馬鹿」
我ながらおかしな反応をして、洗面所に逃げ込んだ。
ずるい。
「――私が先に言おうと思ってたのに」
一人ごちてから、まるで中学生みたいだなと笑った。
そのあと、何かが大きく崩れることはなかった。
彼と歌をうたって。
喫茶店で働いて。
かすみちゃんは無事に志望校に合格した。
隼人は無事に大学を卒業して、就職して。
――私たちは結婚、して。
怖いくらいに全てがうまく回って、積み重なった。
それを崩したのは、いつもと変わらない無機質な電話の呼び出し音と、
「長谷川隼人さんが、交通事故で――」
よく聞くけれど聞き慣れない。ある意味非現実な、単語だった。