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その歌を  作者: うわの空
第三章
29/33

7

 よく分からない。けれど『あれ』は、気持ち悪い。痛い。怖い。


 笑いながら帰宅する子供たちとは対照的に、私は公園の砂場でうずくまっていた。家に帰りたく、なかった。

 そんな時、だれかが声をかけてきたんだ。


「おうちにかえらないの?」


「かえりたくない」


 私は泣きながら首を振る。近づいてきた人は、私の隣にそっと座った。


「……ね、なかないで」


 彼はそういうと、しばらく何かを考えてから、大きく息を吸い込んだ――






 泣き疲れて眠ってしまったらしい。いや、まどろんでいただけかもしれない。うっすらと目をあけると、私の隣で隼人が歌をうたっていた。寝ている私に気を遣っているらしく、小さな声で呟くように。

 どこかで聞いたことがあると思っていた、その歌。


「――……ああ」


 私が声を出すと、隼人の歌声がぴたりと止まった。


「ごめん、起こした?」


「ううん、大丈夫」


 泣いたせいで瞼が重い。私はうっすらと笑うと、隼人の胸にそっと手を置いた。服の上からでも分かる、彼の体温。


「うたってくれたんだ、私のために。小さな頃。砂場で。……その歌を」


 思い出した記憶の、単語だけを並べていく。それでも隼人は驚いた顔で、こちらを見た。


「思い出した。私が泣いてた時、その歌をうたってくれたんだ。真っ赤な顔で。それから、約束した」



『俺は覚えてるよ。君のことも、約束のことも』



 あの日、彼が言っていた、約束。



「君に笑ってもらえるように、僕はうたうよ。ずっとずっとうたうよ。……そう言ってくれたんだ。あの日」






 砂場でうたい始めた男の子の声はひっくり返っていて、お世辞にも上手いとは言えなかった。

 聞いたことのない曲。でたらめなリズムとメロディ。



「君が笑ってくれるから、ぼくはうたうんだ。君のすがたが見えなくても、ずっと、ずっと。ぼくは今日もうたいつづける」



 私が涙を拭きながら笑うと、彼も笑った。顔が真っ赤で、酷く緊張しているのだと分かった。

 男の子は自分自身でもこの曲が気に入ったのか、何回も何回もうたった。途中からは、私も一緒にうたいはじめた。即興で作られた歌にはサビ以外何もなくて、覚えやすかったから。


「ぼく、うたうよ」


 二人でうたい続けてしばらく経った頃、彼は空を見上げていった。空の色は、彼の頬と同じ赤色で、けれど少しだけ寂しい色をしていた。別れを予期させる、夕方の色。


「ぼく、さなえちゃんに笑ってもらえるように、うたう。どこにいても、うたうよ。さなえちゃんが近くにいなくても、うたう。ぼくの声がとどきますようにって、うたうから。やくそく、する」


 『うたう』という単語を、彼は何度繰り返しただろう。その時から彼にとって、『うたう』のはとても大切なものになった。たとえ、約束した相手がそのことを忘れてしまっていたとしても。






「――約束、守ってくれてたんだ」


 私が言うと隼人は照れ臭そうに笑って、鼻の頭を掻いた。そういえばあの日も、そんな風に笑っていたっけ。


「忘れててごめん」


 素直に謝ると、隼人は若干首を振った。いいんだよ、と笑う。


「あの約束は、俺の自己満足みたいなものだから。だから、さなは気にしないで。俺が勝手にうたってただけ」


 彼はそう言いきると、歌の続きをうたいはじめた。サビしかなかったあの時とは違って、立派な『歌』になっているそれを、私も一緒にうたう。あの日のように、一緒に。ずっと、ずっと。


「プロになろうとか、考えたこともあったんだけど」


 うたうのをやめて、隼人はほほ笑む。


「俺は皆のためにじゃなくて、さなのためにうたいたいだけなんだ。だから、プロには向いてないと思う」



――彼の歌は誰か一人だけのためにうたわれてる感じがするのよね。万人向けじゃないというか。常に、誰か一人だけのことを考えてる。そこが、プロとか、プロを目指す人とは違う気がするわ――……。



「……マスター、当たってるわ」


「え?」


「なんでもない」


 いつかのマスターの言葉を思い出して、私は笑った。

 そして、もう一度うたいはじめた。


 私のために作られた、その歌を。





 何事もなかったかのように、太陽は昇る。

 何事もなかったかのように、空は青色に染まる。


 何事もなかったかのように、隼人は朝食の準備をしていた。



 けだるい身体を起こして、私はのそのそと洗面所に向かう。身体中の痛みは、そのうちなくなるだろう。


「さな」


 スクランブルエッグを作っていた彼が、私を呼びとめる。


「なに?」


 私は寝癖の酷い髪の毛をいじりながら、隼人の方を振り返った。


「――好きだよ」


 おはよう、と変わらない口調だった。けれど、彼の頬は少しだけ赤くなっている。

 ……ずるい。


「反則よ、馬鹿」


 我ながらおかしな反応をして、洗面所に逃げ込んだ。

 ずるい。


「――私が先に言おうと思ってたのに」


 一人ごちてから、まるで中学生みたいだなと笑った。





 そのあと、何かが大きく崩れることはなかった。



 彼と歌をうたって。

 喫茶店で働いて。


 かすみちゃんは無事に志望校に合格した。

 隼人は無事に大学を卒業して、就職して。




――私たちは結婚、して。




 怖いくらいに全てがうまく回って、積み重なった。


 それを崩したのは、いつもと変わらない無機質な電話の呼び出し音と、




「長谷川隼人さんが、交通事故で――」




 よく聞くけれど聞き慣れない。ある意味非現実な、単語だった。



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