5
耳元で聞こえる吐息。唸るような、声。
私は痛みに耐えながら、その行為が早く終わることを祈っていた。吐き出された欲望を受け止めて、自分の中から父親が出ていくその時まで。
「誰にも言うなよ」
いつもいつも、父親は釘を刺す。私は無言で頷く。
――やめて、と言えなかった。
私の告白に、隼人は目を見開いた。室内が暗いせいで顔色は分からないけれど、もしかしたら蒼白になっているのかもしれない。……そりゃそうだろう、と思う。
自分が好意を寄せていた人間が、実の父親と肉体関係を持っていたなんて。
「……父親とのこと、誰にも言えなかった。怖かった。嫌われるんじゃないかって、思った。話すのすら怖くなって、いつも下を向いて過ごしてた」
隼人の顔を直視できなくなった私は仰向けになって、右腕で両目を隠した。隼人が何も言ってこないので、話を続ける。
「母親にはね、途中でばれたの。現場を目撃されたんだ」
あの日のことを、今でも鮮明に覚えている。パートから帰ってきた母が、ショックのあまり持っていた荷物を落とした。バサリと音をたてたスーパーのビニール袋。そこから転がり落ちた林檎は、酷く歪な形をしていた。
私はすがる思いで、母の方を見上げた。青白い顔、疲れきった目。玄関で震えている母は、私たちの方に近づいてくる様子もなくて。
――気持ち悪い。どうして、親子で。
化け物を見るような目でそう言って、あの人はどこかに行ってしまった。
「……私さ、お母さんならもしかして助けてくれるんじゃないかって、心のどこかで期待してたのかもしれない。実際、そんなことはなかった。むしろ、私と父親のことが引き金になって、両親は離婚した。親権は、父に。それから中学を卒業するまで、……ずっと」
ずっとの続きは言わなくても分かるだろうと思い、私は押し黙った。隼人は身じろぎひとつしない。もしかしたら、寝てしまったんじゃないか。そんな都合のいいことを考えた。
「中学を卒業して、私は家を出た。けど、お金なんてそんなに持ってないし、行ける場所だって限られてた。頼れる親戚はいないし、ドラマみたいに都合よく住み込みのバイトが見つかるわけでもない。……考えたよ。どうやってお金を稼いで生きてくか。それで選んだのが『あの方法』なんだから、滑稽よね。女を捨てようと思ってたのに、それを仕事にしたんだから」
私は嗤う。過去の私を。今の私を。
隼人は、黙ったままだ。
私はしばらく小さな声で笑ってから、ため息をついた。そして、
「……他の男とセックスすれば、父親のことは忘れられるかもしれないって、思ってた」
きっと誰にも理解されない話を、わざと話し始めた。どこまでも歪んでいて、おかしくて、自分にしか伝わらないようなおとぎ話。
「父親の影が、ずっと頭に残ってた。家を出てからもずっと、まるで呪縛みたいに。あの人の声が、体温が、痛みが。馬鹿みたいに体中に残ってた。――……他の男とも『そういうこと』をしたら。記憶をどんどん上書きすれば、父親のことはいつか忘れられるかもしれないなんて、……馬鹿な夢を見た」
間抜けな話だ。そんな都合のいいこと、あるはずがなかった。
身体を、回数を。重ねれば重ねるほど、父親の影に引きずられていくだけだと気付いた時には、もう戻れなくなっていた。
「優しい人はいる。けどね、怖い顔をする男も、怖い声を出す男も、いっぱいいる。その度に影が重なって、思い出して。……中には痛いことをするのが好きな人もいたりして、ね」
私は痛む右頬を押さえながら、七三分けのおじさんを思い出していた。
あの人は、『行為中に暴力をふるうこと』が好きだった。恐らく、あまり受け入れてもらえない趣味だろう。殴る蹴るは当たり前だったし、特殊な道具を用意してくることもあった。もちろん、私の身体には痣や傷が残る。……羽振りが良かったのは、きっとそのせいだ。
あの人に対して愛着があったわけでも、愛情があったわけでもない。
ただ、「すまなかった」という最後の言葉が、耳に残っていた。
「……塚本早苗、は、人間じゃなかったのよ。生きてなかったの。はじめから」
侮蔑するような母親の視線を思い出して、私は笑った。
「汚れてる人形なの。ただの。何の価値もない――」
「ごめん」
隼人が不意に口を開いて、私は息をのんだ。恐る恐る、彼の方に目をやる。彼もまた、私の方を見ていなかった。私の向こう側を、見ていた。
「ごめん」
彼は向こう側を見ながら、先ほどと同じ言葉を繰り返した。