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その歌を  作者: うわの空
第三章
25/33

3

 ベッドの上で身体が軽くバウンドし、それから沈んだ。

 シーツの冷たい触感と、熱のこもった男の手。


 怖い目。怖い声。怖い顔。

 そのすべてが過去と重なって、力が抜ける。



 抵抗することすら、忘れていた。

 ブラウスのボタンが、はじけ飛ぶのが見えた。





 痛みで意識がはっきりしてきた頃には、全てが終わっていた。おじさんは着々と自分の服を身につけいる。相変わらずの背広姿。私はその後ろ姿を、呆然と眺めていた。


「……君に会うことは、もうない」


 こちらを振り向きもせずに、おじさんは言った。感情のこもっていない声で。


「転勤が決まった。もう、ここには来ない」


 それから小さな声で「今まですまなかった」と付け足して、おじさんは出ていった。



 頭に血が昇っていたんだろう。

 ただ、避妊だけはしてくれていた。





 失うのは怖い。

 崩れるのも、怖い。



 例えばあの人の場合、築きあげた地位がある。きっと、家族も。

 私が妊娠でもすれば、それは崩れる。だから。



――私には失うものなんて、なかったはずだったのに。





 ベッドサイドに置かれているお金には手をつけずに立ちあがる。それから、身体中の痛みに顔をしかめながら、散乱した衣類をかき集めた。ブラウスのボタンは、見つかりそうにない。しばらく探したものの結局諦めて、シャワーを浴びるために脱衣所へと向かった。鏡で顔を確認すると、右頬が酷く腫れていた。多分、最初に殴られた時のものだろう。


 鏡を見つめながら、腫れた頬をどうやって隠そうかと考えた。





 シチューのいい匂いが、マンションの廊下にまで漂っていた。彼はもう帰ってきてるんだと思った途端、気が重くなる。私の方が早かったのなら、布団を被って眠ってしまおうと思っていたのに。

 頬を隠す方法も思いつかず、私は右手で頬を押さえたまま、左手で扉を開けた。この家に帰ってくるのも気が引けたが、あのホテルで一晩過ごすのはどうしても嫌だった。


「あ、おかえりー」


 鍋の中を覗きこんだまま、隼人がいつも通りの明るい声を出す。私は、彼の顔を見ることができない。「ただいま」と、返すことすら。


「…………さな?」


 不審に思った彼が、鍋から顔をあげてこちらを見る。そして、眉をひそめた。



 どうしたのって訊かれたら、転んだと答えよう。ずいぶん派手に転んだんだね、と笑って終われば、それでいいのに。



 彼は無言でコンロの火を止めると、こちらに近づいてきた。私は靴も脱げずに、玄関で棒立ちになっている。それが不自然なのは、知っていた。けれど、声を出すことも顔をあげることも、できない。


 知られて、崩れるのが、怖かったから。




 私の前に立った隼人の影が、


「……さな」


 私の名前を呼ぶ声が、揺れる。



 やだなあ、真剣な顔しちゃって。私、大丈夫だよ?



 そのくらいの軽い言葉が、口先からさらりと出ればいいのに。そんな思考とは裏腹に、私は声を出せずに俯いていた。隼人が私の顔を覗き込んできたので、私は思わず右を向いた。腫れた頬を、見られたくなかったから。


「さな」


 彼の腕が伸びてくるのを感じて、私はそれを振り払った。私のせいで、彼を汚したく、なかった。


「……私に触らないで」


 馬鹿みたいに声が震える。どうしてもっと、うまく突き放すことができないのだろう。一気に目頭が熱くなって、私は両手で顔を覆った。



 やめて。止まって。

 今日、雨は降っていないから。



 彼にふいに腕を掴まれて、身体が震えた。けれど、隼人の手はさっきのおじさんのように強引でも、欲の塊でもなかった。無理やりではなく、そっと。彼は私を引き寄せて、それから抱きしめた。


「――……はなしてよ」


 私はあいている手で、隼人の胸を叩いて抵抗した。けれど彼は、私を抱きしめたまま動こうとしない。


 くしゃりと頭を撫でられる感覚。彼の匂い。呼吸のリズム。あたたかさ。

 そのすべてに安心してしまって、抵抗する力がなくなっていく。

 その代わりに、あふれ出したものは。


「さな」


 私の名前を呼ぶその声はどこまでも優しくて、私は彼の優しさにしがみついた。



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