3
ベッドの上で身体が軽くバウンドし、それから沈んだ。
シーツの冷たい触感と、熱のこもった男の手。
怖い目。怖い声。怖い顔。
そのすべてが過去と重なって、力が抜ける。
抵抗することすら、忘れていた。
ブラウスのボタンが、はじけ飛ぶのが見えた。
痛みで意識がはっきりしてきた頃には、全てが終わっていた。おじさんは着々と自分の服を身につけいる。相変わらずの背広姿。私はその後ろ姿を、呆然と眺めていた。
「……君に会うことは、もうない」
こちらを振り向きもせずに、おじさんは言った。感情のこもっていない声で。
「転勤が決まった。もう、ここには来ない」
それから小さな声で「今まですまなかった」と付け足して、おじさんは出ていった。
頭に血が昇っていたんだろう。
ただ、避妊だけはしてくれていた。
失うのは怖い。
崩れるのも、怖い。
例えばあの人の場合、築きあげた地位がある。きっと、家族も。
私が妊娠でもすれば、それは崩れる。だから。
――私には失うものなんて、なかったはずだったのに。
ベッドサイドに置かれているお金には手をつけずに立ちあがる。それから、身体中の痛みに顔をしかめながら、散乱した衣類をかき集めた。ブラウスのボタンは、見つかりそうにない。しばらく探したものの結局諦めて、シャワーを浴びるために脱衣所へと向かった。鏡で顔を確認すると、右頬が酷く腫れていた。多分、最初に殴られた時のものだろう。
鏡を見つめながら、腫れた頬をどうやって隠そうかと考えた。
シチューのいい匂いが、マンションの廊下にまで漂っていた。彼はもう帰ってきてるんだと思った途端、気が重くなる。私の方が早かったのなら、布団を被って眠ってしまおうと思っていたのに。
頬を隠す方法も思いつかず、私は右手で頬を押さえたまま、左手で扉を開けた。この家に帰ってくるのも気が引けたが、あのホテルで一晩過ごすのはどうしても嫌だった。
「あ、おかえりー」
鍋の中を覗きこんだまま、隼人がいつも通りの明るい声を出す。私は、彼の顔を見ることができない。「ただいま」と、返すことすら。
「…………さな?」
不審に思った彼が、鍋から顔をあげてこちらを見る。そして、眉をひそめた。
どうしたのって訊かれたら、転んだと答えよう。ずいぶん派手に転んだんだね、と笑って終われば、それでいいのに。
彼は無言でコンロの火を止めると、こちらに近づいてきた。私は靴も脱げずに、玄関で棒立ちになっている。それが不自然なのは、知っていた。けれど、声を出すことも顔をあげることも、できない。
知られて、崩れるのが、怖かったから。
私の前に立った隼人の影が、
「……さな」
私の名前を呼ぶ声が、揺れる。
やだなあ、真剣な顔しちゃって。私、大丈夫だよ?
そのくらいの軽い言葉が、口先からさらりと出ればいいのに。そんな思考とは裏腹に、私は声を出せずに俯いていた。隼人が私の顔を覗き込んできたので、私は思わず右を向いた。腫れた頬を、見られたくなかったから。
「さな」
彼の腕が伸びてくるのを感じて、私はそれを振り払った。私のせいで、彼を汚したく、なかった。
「……私に触らないで」
馬鹿みたいに声が震える。どうしてもっと、うまく突き放すことができないのだろう。一気に目頭が熱くなって、私は両手で顔を覆った。
やめて。止まって。
今日、雨は降っていないから。
彼にふいに腕を掴まれて、身体が震えた。けれど、隼人の手はさっきのおじさんのように強引でも、欲の塊でもなかった。無理やりではなく、そっと。彼は私を引き寄せて、それから抱きしめた。
「――……はなしてよ」
私はあいている手で、隼人の胸を叩いて抵抗した。けれど彼は、私を抱きしめたまま動こうとしない。
くしゃりと頭を撫でられる感覚。彼の匂い。呼吸のリズム。あたたかさ。
そのすべてに安心してしまって、抵抗する力がなくなっていく。
その代わりに、あふれ出したものは。
「さな」
私の名前を呼ぶその声はどこまでも優しくて、私は彼の優しさにしがみついた。