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過去は消えない。
どれだけ消そうと努力したって、消えることはない。
自分の中から消えてしまっても、その事実は消えない。
未来は消える。
恐ろしいくらい簡単に、消える。
手放すだけでいいんだ。自分を。
それだけで、未来は消える。
隼人との件で、かすみちゃんと仲が悪くなるということはなかった。彼女は今まで通り、私と仲良くしてくれた。といっても、受験生だからあまり遊べないけれど。
隼人と私の関係も変わらなかった。私から何か言うことも、彼から何か言ってくることもない。今までと同じ、――そう思いたかった。
クリスマスについて言いだしたのは隼人の方だった。彼は、スーパーやコンビニから貰ってきたらしいクリスマスケーキのカタログを見ながら、「ケーキの種類はどれがいい?」と訊いてきた。
つまり彼の話は、クリスマスになってもまだ私がこの家にいるのが前提だった。
私は横目で、壁にかかっているカレンダーを確認する。クリスマスまで、まだ一カ月以上あった。
「気が早いんじゃない?」
私が苦笑すると、「おいしいケーキは早く予約しないと売り切れちゃうんだよ」と言って、隼人は笑った。
「隼人の好きなものを注文すればいいよ」
私がそう答えると、彼は腕を組んで考え始めた。……そこまで真剣に考えるようなことなのだろうか。私は、おもちゃを真剣に選ぶ子供のような彼を見ながら、目を細めた。隼人は後でまた考えると言ってカタログを閉じると、
「――あと、さ。正月なんだけど」
頭を掻きながら、ゆっくりと顔をあげた。
「俺、正月は実家に帰るって約束してあるんだけど。……さなも一緒に」
「帰らないわよ」
ぶっきらぼうに答える私を見て、彼は目を伏せた。同級生だったということは、彼の家と私の家は近いのかもしれない。
だったらなおさら、その土地には行きたくない。
「……一人で留守番になるけど、それでもいい?」
この言葉に、私は目を丸くする。つまり彼の話は、正月になってもまだ、私がこの家にいるのが前提だった。
「――私はそれでいいよ。隼人がいいならね」
「留守番してくれるなら、それはそれでありがたいよ」
隼人は困ったように笑ってから、もう一度ケーキのカタログを開いた。
彼はやっぱり知らないんだ。
過去の私を、知らないんだ。
『――……気持ち悪い』
あの人の声が、頭の中に響いた。
「お正月はこの店も休みにするから。さなちゃんもゆっくり休んでね!」
陽気な声でマスターにそう言われて、呆然とした。昨日の今日、このタイミングでまた正月の話が出るとは思ってなかった。けれど十一月にもなれば皆、正月のことを考えるのかもしれない。……帰る家が、あるのなら。
「クリスマスは、どうするんですか?」
正月から話を逸らすために質問してみると、マスターはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「営業はするけど、さなちゃんはお休みよ。イブも休み」
「え、なんで」
「仕事よりもデート優先に決まってるでしょう!?」
そんな、世の中の常識みたいに言われるとは。
残念ながら私は、誰かと『付き合った』ことがない。……恋人同士にとって、クリスマスってそんなに大事なイベントなのか。
なんだか宇宙人になった気分で、私は目を輝かせているマスターのヒゲを眺めた。
子供が、サンタクロースの「正体」に気付くのは、いつなのだろうか。
サンタさんなんていないんだよ。お父さんとかお母さんが、サンタさんなんだよ。
小学校高学年にもなると、ほとんどの子が何故か『自慢げ』にそう語った。……サンタの「正体」に気付いた自分が大人びているような気がして、誇らしかったんだろう。
だけどあの時はまだ、サンタの「本当の正体」に気付けていない。
喫茶店からの帰り道。凍った空気と、冷たい街灯。人気のない道路。
ふいに掴まれた、腕。
後ろにひっぱられ、私はよろけつつも振り返る。背後に立っていたのは、私の腕を掴んでいたのは、
「――……あ」
見覚えのある、顔で。
私が言葉を発する前に、視界がぶれた。力が抜けて、その場にひざまずく。
顔を殴られたのだと理解するまでの数秒間、その人は「どうして約束の日に来なかったんだ」と呟き続けていた。
かつて、肉体だけで結ばれていた関係。
二週間に一度だけ会う、『七三分けの常連客』。
そうだ私は。この人の名前も、知らなかった。
乱暴に腕を掴まれ、立ち上がる。引っ張られる。引きずられるように、ホテルの中に入る。
その一連の流れを、私は他人事のように呆然と見ていた。
サンタクロースの正体は親で。
――けれど、その正体には、親の愛情が詰まってる。
それに気付くのは、いつなんだろう。
私のもとにサンタクロースは来ないんだって気付いたのは、いつだったんだろう。




