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十一月にもなると、さすがに薄着では寒い。私は喫茶店のバイト代で安い冬服を買い揃えつつ、隼人の家に居座っていた。
彼の家に住み始めて、かれこれ二カ月が経つ。彼は出ていけとも言わないし、かといって恋人になったというわけでもなく、『何故か同居している元同級生』という、おかしな関係が出来上がっていた。
喫茶店の売り上げも相変わらずで、特別忙しくなることもなく、のんびりとした時間を過ごすことも多かった。そんな時はマスターとたわいもない話をしたり、ひたすら店内を掃除した。
休日には隼人と出かけたり、彼と一緒に歌をうたってみたりした。私はうたうのが得意というわけでもないので、彼の歌声に合わせてぼそぼそと呟く程度だったけれど、それでも楽しかった。
たまに、かすみちゃんと二人で遊びに行ったりもした。
平和だった。
何もかもがうまくいっているような、そんな気さえした。
居心地の良い、安定した場所。
私はきっと、それが崩れるのが怖かった。
その日のバイトも無事に終わり、マスターにあいさつしてから外に出た私は、かすみちゃんが電柱にもたれかかっているのを見つけた。見つけられた、と言い換えてもいい。彼女は、私のことを待っていたんだ。
赤く充血した、目で。
「……どうしたの?」
いろんな意味を込めて、彼女に尋ねた。
なぜ私を待っていたのか。
なぜ泣き腫らした目をしているのか。
なにが、あったのか。
「――隼人さんに告白して、ふられました」
彼女はその中から、一番重要な答えを選びだして、口にした。
夏ならまだ薄暗かったはずの十八時。けれど今はもう、あたりはすっかり暗くなっていた。冷たい風が通り過ぎて、かすみちゃんの短い髪を揺らす。彼女は片手で前髪を押さえながら、――目を隠しながら、笑った。
「告白して、ふられて。なんていうか、ようやく落ち着きました」
「……どういうこと?」
「私、家から離れようと思ってるんです。遠くの大学に行こうと思って」
彼女はそう言うと、鼻をすすった。寒いのか、泣いているのか、私には分からない。
「それで遠くに行く前に、私の気持ちを伝えておきたかったんです。案の定、ふられちゃいましたけど。いいんです。……最初に言いましたよね。彼が誰のことを好きであっても、私はあの人のことが好きなんだって。それでいいんです。――彼が幸せなら、それでいい」
彼女は早口でまくしたてるようにそう言うと、ため息をついた。ため息とともに、透明な雫が零れおちる。
『彼が誰のことを好きであっても、私は、彼のことが好きです』
あの言葉を初めて聞いた時、私はてっきり、彼女は気の強い子なのだと思っていた。私のことを敵対視して、そう言っているのだと。けれど実際はそうじゃなくて、ただ本当に、隼人のことが好きだと言っていただけだったんだ。
――彼女のことを敵対視していたのは、私の方だ。
「……隼人は、なんて?」
思わず訊いてしまってから、しまったと思う。どんな風にふられたの、と訊いたようなものだ。無神経にもほどがある。
なのにかすみちゃんは、私に向かって笑いかけた。
その笑顔に、悪意なんてものは微塵もなくて、
「それは、さなさんが隼人さんから直接聞いてください」
彼女のこの言葉は、答えを言ったようなものだった。
私が一番恐れているのは、現在が崩れてしまうことだった。
喫茶店でのんびりと働いて。
かすみちゃんと遊びに行って。
隼人と、歌をうたって。
そんな生活がいつまでも続くはずがないなんてこと、初めから、知ってた。
たとえば、『塚本早苗』のことを、マスターが知ってしまったら。
かすみちゃんが知ってしまったら。
隼人が、知ってしまったら。
きっと、もう二度と。
この温かな場所には戻れないんだって、知ってた。
帰宅すると、ぼんやりと天井を見ている隼人の姿が見えた。その様子は明らかに元気がなくて、……何も知らなければ、「どうしたの?」と訊いていただろう。
「――ただいま」
私が声をかけると、隼人はこちらに目を向けた。その目は、泣いていなかった。
「……おかえり」
いつものように笑えていない。けれど、その理由は訊きたくなかった。
後悔するときがある。
これまでの自分に。
隼人と出会ったことに。
イライラする。
胸を張って、彼の側にいることができない自分自身に。