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その歌を  作者: うわの空
第二章
22/33

10

 小さな子どもが、こちらに向かって走ってくるのが見える。よたよたとした、おぼつかない足取り。ニ歳くらいだろうか。屈託のない笑顔をこちらに向けている。


 ああ。あれ、昔の私だ。


 『現在いまの私』は、『過去の私』がこちらに向かって走ってくるのを見つめる。彼女の後ろで、大きな影がゆっくりと動くのが見えた。


「早苗」


 大きな影が私の名前を呼んで、小さな私は振り返る。笑顔で、手を振る。




 彼女はまだ、人を疑うということを知らない。

 彼女はまだ、壊されてはいない。


 彼女はまだ、汚れて、いない。




 小さな私が、こちらにやってくる。その笑顔には、影も迷いも嘘もなかった。


――今なら、まだ。


 私は笑って、彼女に手を差し伸べる。そして、何の疑いもなく近寄ってきた彼女の細い首に、ゆっくりと手をかけた。

 小さな首を絞めるのに、両手は必要なかった。温かな彼女の首に自分の冷たい手を、指を、喰い込ませる。少しだけ漏れる、苦しそうなうめき声。けれど。



――今ならまだ、幸せだから。



 壊れる前に。

 汚れる前に。

 苦しむ前に。



 ちゃんと笑えている今のうちに死ねたら。




 その方が、幸せ、だから。







「……さな」


 滲んだ世界が、徐々に輪郭を取り戻す。それと並行して、私の頭が動き始めた。

 真っ先に見えたのは隼人の心配そうな顔と、無機質な感じのする白い天井だった。朝の陽ざしと、鳥のさえずり。澄んだ空気。冷たい頬。パンの焼ける匂い。



 私が掴んでいたのは、小さな自分わたしの首ではなくて、隼人の手首だった。



「――……おは」


 よう、と言い切る前に、隼人があいている手で私の頬をぬぐった。

 頬が冷たいのは乾燥した空気のせいではなくて、私が泣いていたからだった。


――最悪だ。


 私は掴んでいた手首をさっとはなすと、枕に顔を押しあてた。空は嫌がらせのように晴れ渡っていて、雨が降る兆しもない。私が枕から顔を上げられるのはもう少し先になりそうで、だから隼人には早く向こうに行って欲しかった。



 隼人はしばらく無言で私の隣に座っていたものの、


「朝ごはん、食べる?」


 いつもよりも少しだけ小さな声で、そう訊いてきた。


「…………あとで」


 枕に声を吸収されながらも私が答えると、隼人は私の頭をくしゃりと撫でてから、キッチンへと向かった。気配がした。





 遊園地に行ったせいか、子供のころの夢を見た。


 大きな影。大きな手。笑い声。あの人の、目つき。

 小さな、私。

 


 あの夢が本当なら、――もしも本当に過去に行けるのなら、



 私は躊躇ためらわずに、自分を絞め殺すだろう。あの夢のように。





 二度寝してしまったらしい。気づけばもう昼前で、隼人は大学に行ったらしかった。

 洗面所に向かって、自分の顔を確認する。腫れた瞼を見て、今日はバイトが休みであったことに感謝した。

 外に出かける用事はないけれど、寝癖は直しておくことにする。ドライヤーからの温かい風を受けながら、私の頭を撫でた隼人の手の温かさを思い出した。



 彼は、優しい。

 だから、辛い。



 寝癖を直すと、テーブルの上に置かれている朝食をもそもそと食べ始めた。温めるのすら億劫で、冷たい目玉焼きを頬張る。



 きつね色のパン。カリカリに焼いたベーコン。半熟の目玉焼き。



 どこにでもありそうなこの朝食は、ここにしかない。


 ここにしかない朝食を、私はあと何回食べられるのだろうかとぼんやり思った。




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