10
小さな子どもが、こちらに向かって走ってくるのが見える。よたよたとした、おぼつかない足取り。ニ歳くらいだろうか。屈託のない笑顔をこちらに向けている。
ああ。あれ、昔の私だ。
『現在の私』は、『過去の私』がこちらに向かって走ってくるのを見つめる。彼女の後ろで、大きな影がゆっくりと動くのが見えた。
「早苗」
大きな影が私の名前を呼んで、小さな私は振り返る。笑顔で、手を振る。
彼女はまだ、人を疑うということを知らない。
彼女はまだ、壊されてはいない。
彼女はまだ、汚れて、いない。
小さな私が、こちらにやってくる。その笑顔には、影も迷いも嘘もなかった。
――今なら、まだ。
私は笑って、彼女に手を差し伸べる。そして、何の疑いもなく近寄ってきた彼女の細い首に、ゆっくりと手をかけた。
小さな首を絞めるのに、両手は必要なかった。温かな彼女の首に自分の冷たい手を、指を、喰い込ませる。少しだけ漏れる、苦しそうなうめき声。けれど。
――今ならまだ、幸せだから。
壊れる前に。
汚れる前に。
苦しむ前に。
ちゃんと笑えている今のうちに死ねたら。
その方が、幸せ、だから。
「……さな」
滲んだ世界が、徐々に輪郭を取り戻す。それと並行して、私の頭が動き始めた。
真っ先に見えたのは隼人の心配そうな顔と、無機質な感じのする白い天井だった。朝の陽ざしと、鳥のさえずり。澄んだ空気。冷たい頬。パンの焼ける匂い。
私が掴んでいたのは、小さな自分の首ではなくて、隼人の手首だった。
「――……おは」
よう、と言い切る前に、隼人があいている手で私の頬をぬぐった。
頬が冷たいのは乾燥した空気のせいではなくて、私が泣いていたからだった。
――最悪だ。
私は掴んでいた手首をさっとはなすと、枕に顔を押しあてた。空は嫌がらせのように晴れ渡っていて、雨が降る兆しもない。私が枕から顔を上げられるのはもう少し先になりそうで、だから隼人には早く向こうに行って欲しかった。
隼人はしばらく無言で私の隣に座っていたものの、
「朝ごはん、食べる?」
いつもよりも少しだけ小さな声で、そう訊いてきた。
「…………あとで」
枕に声を吸収されながらも私が答えると、隼人は私の頭をくしゃりと撫でてから、キッチンへと向かった。気配がした。
遊園地に行ったせいか、子供のころの夢を見た。
大きな影。大きな手。笑い声。あの人の、目つき。
小さな、私。
あの夢が本当なら、――もしも本当に過去に行けるのなら、
私は躊躇わずに、自分を絞め殺すだろう。あの夢のように。
二度寝してしまったらしい。気づけばもう昼前で、隼人は大学に行ったらしかった。
洗面所に向かって、自分の顔を確認する。腫れた瞼を見て、今日はバイトが休みであったことに感謝した。
外に出かける用事はないけれど、寝癖は直しておくことにする。ドライヤーからの温かい風を受けながら、私の頭を撫でた隼人の手の温かさを思い出した。
彼は、優しい。
だから、辛い。
寝癖を直すと、テーブルの上に置かれている朝食をもそもそと食べ始めた。温めるのすら億劫で、冷たい目玉焼きを頬張る。
きつね色のパン。カリカリに焼いたベーコン。半熟の目玉焼き。
どこにでもありそうなこの朝食は、ここにしかない。
ここにしかない朝食を、私はあと何回食べられるのだろうかとぼんやり思った。




