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子供のころ、雨が好きだった。
わざと傘を忘れて出かけて、ずぶ濡れになっていた。
濡れるのが好きだったわけじゃない。
濡れた髪の毛は冷たくて、身体に張り付く服の感触はとても不快だった。
ならどうして、私は傘もささずに外を歩いていたのか。
私はドライヤーのスイッチを入れて、かすみちゃんの髪を乾かし始めた。
彼女は何も言わないし、顔をあげようともしない。
――きっと、声も出したくないのだろう。
「……私ね。子供のころ、雨の日に傘をささずに歩くのが好きだったんだ。なんでだと思う?」
ドライヤーの音に負けないように、私はかすみちゃんに話しかける。かすみちゃんは、やっぱり答えようとしない。彼女にとって、今一番触れてほしくない話題なのかもしれない。
「――濡れてたらさ、泣いててもばれないでしょ? だから」
私は勝手に答えを教えると、ドライヤーのスイッチを切った。洗面所に戻しに行くのが面倒で、床にそのまま放置する。それから、彼女の前にあるさつまいもチップスを手に取って食べた。
「かすみちゃん。なにかあった?」
もしかしたら、普通はこんなに単刀直入に尋ねたりしないのかもしれない。私は、人と付き合うのがうまくなかった。他人と身体を重ねた回数が多いだけで、誰かと寄り添って生きてきたわけでは、ないから。
雨音しか聞こえない時間が続いて、私はようやくそのことに気付いた。
「――あ。答えたくないなら、答えなくても」
「お父さんと喧嘩しました」
答えなくてもいいよと私が言う前に、かすみちゃんが口を開いた。早口で、強気にも聞こえるその口調は、どこか痛々しかった。
「喧嘩したというか、私が一方的に怒鳴って家を出てきました」
かすみちゃんのお父さんと言えばもちろん、マスターのことだ。私は首をかしげる。マスターが、かすみちゃんを怒らせるようなことをしたんだろうか。
「……お父さんは怒らないんです、いつも。だからなんか、無性に腹が立って――」
声が震えているのは、怒っているからじゃないんだろう。私はかすみちゃんの、線の細い背中を見た。
「最低なのは、私の方なんです。……いつからだったのかは分からないけど、私はお父さんのことを恥ずかしいと思うようになってました。授業参観にも来ないでって言いました。なよなよしてて恥ずかしいからって、そこまで言ったんです。なのにお父さん、その時も何も言わなくて、悲しそうに笑ってるだけで」
先ほどまでとは対照的に饒舌になったかすみちゃんは、ぼろぼろと言葉をこぼした。それは明らかに彼女の本音で、
「……本当は知ってるんです。お父さんは、すごくいい人なんだって」
間違いなく、彼女の本心だった。
「人目ばっかり気にして、……なよなよしてるのは、私の方なんです。父の方がよっぽど強い。なのに、どうしても受け入れられなかった。小さいころ、父について少しからかわれて。たたそれだけなのに。父は何も悪くないのに」
「……タイミングいいわね」
「え?」
不思議そうな声を出すかすみちゃんの背中に、私は笑いかける。まさかつい最近、マスターとも似たような話をしたとは言えない。
だけど少し安心した。知ってはいたけれど、確認できたから。
結局、かすみちゃんもマスターも、
「お互いのことが好きなんじゃない」
「え?」
かすみちゃんが怪訝な顔をしてこちらを振りかえる。私は自分の服の袖を引っ張って、かすみちゃんの頬に残っていた涙の跡を拭いた。
「マスターは怒らないって言ったけど、叱るべき時は叱る人でしょ。感情的にならない、っていうのかな。私はマスターのそういうところが好きなんだけど。……かすみちゃん、今日はどうしてマスターに怒ったの?」
「……進路のことです。お父さん、本当に何も言わないから。私のことなんて本当はどうでもいいんでしょって、思わず言っちゃって……」
「思わず言っちゃったってことは、マスターが本当はそんなこと考えてないって、知ってるんだ?」
正直、中卒の私は進路について揉める家族の話はよく分からない。けれど多分、マスターはかすみちゃんのことをどうでもいいとは思っていない。多分というか、絶対。じゃなきゃ、私にあんな話をしてこないはずだから。
「マスターも悩んでるんじゃないかな。かすみちゃん、思春期の女の子だしさ。……進路のことは多分、余計な口出しをして、かすみちゃんが混乱するのを怖がってるんじゃないかな。私はそう思う」
こちらを見ていたかすみちゃんが、ほんの少しだけ笑う。
この日から少しだけ、彼女との間の空気が変わった。