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大掃除の次の日も、喫茶店は臨時休業となった。私は彼の家の窓から、外を見る。豪雨と暴風で、前がほとんど見えない。そう、昨夜から台風が直撃していたのだ。
「隼人は今日、バイトあるの?」
私が振り向くと、ギターの調律をしていた彼は笑った。
「俺の働いてるところは、二十四時間営業のファミレスだからね。台風じゃ、休みにはならないよ」
「大学は休みだったのに」
ガタガタと音をたてる窓ガラスに、私は手を伸ばした。もちろん、窓を開けるつもりはない。ギターの調律をするのに、窓の音が邪魔なんじゃないかと思ったのだ。
風が向きを変えたのか、大粒の雨が一瞬だけ窓を強く叩いた。
「俺はもうすぐバイトに行くけど、さなはどうする? 一緒に来る?」
「いい。家でコーヒーの勉強するから」
雨に濡れたくない私がそういうと、隼人はため息をついた。
「傘をさしても、ほとんど意味ないだろうなあ」
隼人はバイクも車も自転車も持っていない。どこかに行く時は常に徒歩だ。この雨じゃ、バイト先に辿り着くころにはずぶ濡れになっているだろう。隼人はため息をつきながら立ち上がると、ギターを壁に立てかけた。それからリュックにタオルを入れて、半透明の雨合羽を羽織った。
「てるてる坊主みたい」
私が笑うと、隼人は人差し指で鼻をかいた。照れた時の、彼の癖だ。
「帰りは、晴れたらいいなあ」
隼人は笑いながらドアを開けた。冷たい風が部屋の中に勢い良く入りこんできて、テーブルの上に置いてあったマスターのメモがバサバサと音をたてた。
喫茶店で働き始めてニ週間が経とうとしていた。常連さんの顔は覚え始めたし、「いつもの」という注文にも対応できるようになってきた。特に印象深い常連さんの「いつもの」メニューは、エスプレッソ三杯だ。それを、ミルクも砂糖も入れずに一気飲みする。あんな苦い飲み物をよく三杯も飲めるなと、いつも感心していた。
マスターは店を閉めた後、コーヒーを一杯ご馳走してくれる。それも、毎日違う種類を。
「さなちゃんもせっかく喫茶店で働いてるんだから、いろんな味を覚えないとね!」
と言ってくれるものの、一杯百二十円の缶コーヒーとはわけが違うので、いつも申し訳ないなと思っていた。
「……思ってるだけで、もらえるものはもらうんだけどね」
私はマスターのメモを見ながら、一人で笑った。
隼人が出かけてから三時間後、台風は過ぎ去り、しとしとと降る雨だけが残っていた。風がないとはいえ、雨の中を歩くのは憂鬱だ。なのに私は、近くにあるスーパーに向かって早足で歩いていた。
トイレットペーパーが切れていたのだ。
隼人の性格からしてそういうものは買い置きしているはずなのに、どこを探しても見当たらない。しばらく探して諦めた私は、ビニール傘を手に取った。
透明のビニール傘は、雨粒が流れ落ちていく様子を見れるのが面白い。その代わり、いかにも安物臭かった。
スーパーでトイレットペーパーと、ついでにお菓子を数点買うことにした。この季節になるとさつまいもや栗を使ったお菓子が続々と出てくる。それらに目のない私は、新商品をいくつかカゴに放り込んで、レジへと向かった。
私の前で会計をしているお姉さんは、見切り商品ばかりを買い込んでいた。それも、やたらと甘いものが多い。菓子パン、コーンフレーク、大福、まんじゅう、プリン、チョコレート菓子、シュークリーム……。私はお姉さんの方にちらりと目をやった。人形のように細い脚を露出している彼女は、酷く疲れた顔をしていた。セットされているはずの巻き髪は、なぜか乱れているように見える。
――誰かに似ている、と考えかけて、やめた。
スーパーから出ると、私は安物のビニール傘をさして、隼人のマンションへと歩き出した。遠くの方で、雲の隙間から青空が顔を覗かせている。もうすぐ、雨はやむだろうか。
そんなことを考えていた私は、足を止めた。
高校生くらいの女の子が、道端に座り込んでいたのだ。傘もささずに。
体育座りをして膝に顔を埋めているせいで、表情は見えない。
具合が悪いのかと通りすがりの男の人が声をかけると、女の子はかすかに首を振った。男の人は首をかしげると、そのままどこかへ行ってしまった。
私は彼女に近づく。知らない人だったら、どうしようと思いながら。
「――かすみちゃん? どうしたの」
傘を差し出しながら尋ねると、彼女が顔をあげた。
それはやっぱりかすみちゃんで、彼女は泣いていたのだと、何故か直感的に思った。