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隼人のライブを聴きに行った翌日は土砂降りで、モーニングの時間が過ぎると、店内には私とマスターしかいなくなってしまった。つまり、お客様は一人もいない。
「今日は休業にした方がいいかしら」
マスターが窓の外を見てため息をついた。けれど、お客様がこなくて心底困っているという様子でもない。マスターは「こういう日があっても仕方がないわ」と、朗らかに笑った。
「だけど、せっかくさなちゃんに来てもらったのに、なんだか悪いわねえ」
「いや、私は別に……」
そこまで言ってから、「なんなら今日はお店を閉めて、大掃除しちゃいます?」と提案してみた。どうせ、隼人の家に帰っても暇だ。彼はいま大学に行っているはずだし、今日はバイトもあるから帰りが遅くなると言っていた。
マスターは私の提案を聞いて、ぽんっと手を叩いた。
「それいいわね! そうしましょう。お掃除、一緒にやってくれる?」
「もちろんです」
マスターは「Welcome」と書いてあるプレートを掲げたダルメシアンを店内にひっこめると、「本日臨時休業」の札を扉にひっかけた。
「隼人君にお願いして、今度店でうたってもらおうかしら」
コーヒーメーカーを丹念に掃除しながらマスターがそう言ったので、私は「彼の歌を聴いたことがあるんですか?」と、マスターに尋ねた。マスターはもちろんよと言って、顔をあげた。
「彼の歌、青春って感じよね」
申し訳ないが、青春って感じがどんな感じなのかは分かりかねる。私は煤けたダルメシアンを丁寧に拭きながら、彼の歌声を思い出していた。彼のあの独特の爽やかさが、青春って感じなのだろうか。
「……隼人って、プロになりたいんでしょうか」
本人に直接言えばいい言葉を、私は何故かマスターに向かって投げかけていた。マスターは私の唐突な質問に目を見開き、――つまり、きょとんとした。肌が黒いせいか、白目が目立つ。しばらくしてから、マスターは「ふふっ」と笑った。
「そういう話は、聞いたことないわね。でも多分、彼はプロになろうとは思ってない気がするわ」
「どうして、でしょうか」
私が尋ねると、マスターは頬に手を当て首をかしげた。
「んー。私は音楽に詳しくないからよく分かんないけど、彼の歌は誰か一人だけのためにうたわれてる感じがするのよね。万人向けじゃないというか。常に、誰か一人だけのことを考えてる。そこが、プロとか、プロを目指す人とは違う気がするわ」
そう言われてみれば、彼の音楽は常にメッセージが込められているような感じがする。そしてそれは、彼の周りを取り囲む観客には向けられていない。彼はどこか遠くに向かって、歌をうたっているようだった。――ああ。だから私は、
彼は、プロになれないような気がするんだ。
「さなちゃーん、どうしたの?」
ダルメシアンを拭く手を止めて考え込んでいた私に、マスターが心配そうに声をかけてきた。マスターはコーヒーメーカーの手入れを終えたらしく、オーブンの掃除に取りかかっていた。
「あ、すみません。なんでもないです」
私は慌てて立ち上がるの勢いよく扉が開くのは同時で、私は驚きながらも後ろを振り返った。
「――……今日、休業なの?」
入ってきたのは、ずぶ濡れのかすみちゃんだ。肩の上にある黒髪から、ぽたぽたと水滴が落ちている。けれど彼女はそんなことなんて気にもしていない様子で、マスターの方を睨んでいた。
マスターはちょびヒゲをいじりながら、「今日はお客様がこないから、大掃除することにしたのよ」と説明した。かすみちゃんは黙ったまま、店の奥へと歩き始める。奥には階段があり、店のニ階はかすみちゃんとマスターの住居になっていた。
「かすみ、ちゃんとお風呂に入ってあったまりなさいよ! 風邪引いちゃうわ」
かすみちゃんは聞いているのかいないのか、一言も発することなく店の奥に消えた。
「……あの子、傘持ってなかったのかしら」
マスターは眉毛をハの字にして笑う。それから、床に点々と落ちている水滴を見て「ごめんなさいね」と呟いた。床掃除は、私の役目だからだ。
「気にしないでください。これからモップがけするつもりでしたから、汚れていた方がやりがいあります」
我ながら訳の分からないフォローをすると、マスターが笑った。それから、
「さなちゃんは、反抗期とかあったのかしら? お父さんって、やっぱり煙たかった?」
と、興味深そうに訊いてきた。私は硬直する。
父親の顔も、声も、その影すらも、思い出したくなかった。
「――そうですね。現在も反抗期継続中というか」
マスターと二人で笑ってから、沈黙した。空気が薄いように感じる。マスターはため息をつくと、「こんなこと訊いたらさなちゃんも困ると思うんだけど」と前置きしてから、
「私みたいなお父さんって、やっぱり子供としては恥ずかしいのかしら」
と、ちょびヒゲをいじりながら呟くように言った。