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「さなちゃん、これ。少なくて悪いんだけど」
閉店後、マスターがすまなさそうに、けれども笑顔で、私に茶封筒を差し出してきた。モップがけをしていた私が首をかしげると、マスターはにやりと笑った。
「やだ、忘れてたの? さなちゃんがウチに来てから、今日でちょうど一週間なのよ。週給って約束だったでしょ?」
「……あ」
すっかり忘れていた。この一週間、コーヒーの種類を覚えたり、接客をするのが楽しくて、給料という概念が私の頭から抜け落ちていた。
楽しいとは言ったものの、やっぱりまだまだうまく働けていない。それなのに、お金をもらうなんて悪いような気がした。けれどマスターはいつも通りの優しい笑顔で、私に茶封筒を渡してくれた。
「さなちゃんが来てくれて、本当に助かってるのよ! 今まではね、娘のかすみが店を手伝ってくれてたの。でもあの子も気づけば高校三年生で、受験生でしょ? さすがにずっと店の手伝いをしてもらうわけにはいかないわ、って思ってたのよ」
「そうなんですか」
私が初めてこの店に来た時、マスターがかすみちゃんに「受験勉強に専念して」と言っていたのを思い出した。九月にもなれば、受験生は大変、……なんだろう。私は受験なんてしたことないから、知らないけれど。
マスターは少しだけ逡巡してから、片手だけで拝むようなポーズをした。マスターの『お願い』ポーズだ。
「さなちゃん。よかったらまた、かすみとお話してくれないかしら?」
「え?」
「かすみの母親ね、かすみが小学生のころに死んじゃったのよ。で、あの子、同年代のお友達もあんまりいなくてねえ」
ほらあの子、トゲトゲでウニみたいでしょ? マスターは苦笑した。隼人から全く同じ比喩表現を使われた私は、笑うしかない。
マスターと隼人は何かが似ていて、かすみちゃんと私も何かが似ていた。
「だから変な言い方だけど、仲良くしてあげてほしいの。やっぱり女同士じゃないと分からない話って言うのもあるじゃない? 私、こんなだけど一応男だし」
マスターがちょびヒゲをいじりながら笑った。私も思わず笑う。
「恋愛のこととかさ、女の子の同士の方が相談しやすいかと思って」
そんなことを爽やかに言ったマスターに、私は反論したくて仕方がなかった。私が、かすみちゃんから恋愛相談を受けるなんて、おかしいを通り越している。彼女は私のことを恋敵だと、今でも信じ込んでいるのに。
けれどマスターの顔を見ていたら、そんなことは言えなかった。何故かその時のマスターには、悲壮感というか、焦燥感というか、そういうものが漂っていた。
「……分かりました。今度、かすみちゃんに声をかけてみます」
私は出来る限りトゲのない笑顔を、マスターに向けた。
「私のおごりだから、じゃんじゃん食べてよ」
私は一週間前に言われたセリフを、隼人に向けて言った。場所はもちろん、一週間前と同じ回転寿司だ。今回はカウンター席ではなく、テーブル席に座っているけれど。
マスターのくれた茶封筒の中には、二万円入っていた。週給、二万円。つまり月給だと八万円くらいだろうか。それが多いのか少ないのか、まっとうなバイトをしたことのない私には分からない。けれど、常連のおじさんと一度寝れば手に入るはずのその二万円は、私にとっては貴重だった。初めて、まっとうに稼いだお金というか。
そして私はその給料を有意義に使うため、隼人を誘って回転寿司に来たわけである。
目の前の隼人は嬉しそうに笑いながら、私の分までお茶を注いでくれていた。
「初給料入ったんだって? おめでとう! むしろ俺がご馳走するよ。一週間お疲れ様ってことで」
「は? それじゃ意味ないの!! 今日は私が奢るって決めてるんだから、あんたは好きなもんをたらふく食べればいいのよ。あ、二万円の範囲内で」
私がそう言うと、「いくらなんでも二万円分も食べないよ」と、彼は笑った。
寿司の食べ方にも、個性みたいなものが出る。自分の好きなサーモンばかり取っている私とは違い、隼人は一皿ずつ違うネタを食べていた。ただ、マグロにだけは何回か手をつけている。マグロが好きだと言っていたのを思い出して、私は内心で笑った。
「……そういえば、隼人はさ。どうやってマスターと知り合ったの?」
「ん? ああ」
隼人は鉄火巻きを頬張りながら、笑った。
「かすみちゃんがあの店を紹介してくれたんだよ。俺の歌をよく聴きに来てくれててさ、コーヒーをご馳走したいって」
なるほど。
「彼女、俺の歌をよく聴きに来てくれてるんだ。で、その度に喫茶店にお邪魔してたら、マスターとも仲良くなって。かすみちゃん、俺の歌のファンだって言ってくれてさー。そういうのって照れるけど、やっぱり嬉しいんだよね」
キラキラした目で語る隼人を、私は睨んだ。
かすみちゃんは『あんたの歌』のファンじゃなくて、『あんた』のファンなのだ。
どうしてそこに気付かないのだろうか、この鈍感君は。
「? 俺の顔に何かついてる?」
心持ち首をかしげる彼に、「目と鼻と口がついてるわ」とぶっきらぼうに答えた私は、まるで小学生のようだった。