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彼はブレンドコーヒーを飲みながら、マスターと長い時間談笑していた。ちなみに彼の「いつもの」は、ブレンドコーヒーとスコーン、それから大きなカントリークッキーだった。
彼は腕時刻を確認すると、マスターに問いかけた。
「さなは、もうすぐ上がりですか?」
「あ、そうね。今日はもうそろそろ上がる時間だわ」
その答えを聞いた彼が、テーブルを拭いている私に声をかける。
「俺、待ってるから。一緒に帰ろう」
「え、あ、うん……」
「さなちゃん、お疲れ様。今日はもう上がって頂戴。明日もまたお願いできるかしら?」
店長は顔の前で両手を合わせて、片目を閉じた。どうも、『お願い』のポーズらしい。
「……分かりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
私がほほ笑むと、マスターは嬉しそうに小さくとび跳ねた。
仕事を終えた私が店の奥に入ると、かすみちゃんがついてきた。彼女の声が後ろから聞こえてくる。
「お給料なんですけど。日給、週給、月給、どれがいいですか?」
「んー。じゃ、とりあえず週給でもらえる?」
「分かりました」
その後は、無言。振り返ると、腕を組んだまま棒立ちしているかすみちゃんと目があった。彼女が出ていこうとしないので、私はあきらめてその場で着替え始める。私が着替え始めると、彼女は後ろを向いた。けれど、やっぱり出ていこうとしない。
「……私に何か用?」
年下とはいえ職場の先輩なんだから敬語を使った方がいいんだろうけど、私は敬語が酷く苦手だった。
彼女は後ろを向いたまま腕を組んで、上体をゆっくりと前後に揺らしている。着替えながらその様子を見守っていると、彼女の動きがぴたりと止まった。それから、
「……隼人さんのこと、好きなんですか」
ロボットみたいな無機質な声で、そう訊いてきた。
「――いや。そんなことないけど」
「けど?」
揚げ足を取られて、私は黙りこんだ。それを彼女はどう捉えたのか、自嘲気味に笑ってからこちらを向いた。私はもう着替え終わっていて、制服を畳んでいるところだった。
「私は、彼のことが好きです」
私の目を見ながら、かすみちゃんは言い放った。
「彼が誰のことを好きであっても、私は、彼のことが好きです」
誰のこと、を強調されたので、私は言い返す。
「――……彼が誰のことを好きなのかは、彼にしか分からないわよ」
「いいえ」
彼女は自分の腕に爪を立てながら、
「彼は、あなたのことが好きですよ。そういう目をしてる」
こちらを見上げるようにして言いきると、早歩きで外へと出ていった。
――私は、どちらかといえば彼のことが好きだった。
けれどそれは、人間として。
私が知っている男と、彼は、何かが違っていた。そういう意味で、私は彼のことを好きになっている。気にいっているという言い方でもいい。
けれどそれが恋愛感情なのかと訊かれれば、……分からない。
だって私は恋愛感情、知らないから。
マスターとかすみちゃんに見送られて、私は外に出た。程よく疲れていて、気持ちがよかった。
「――で、どうだった? あの喫茶店は」
隣を歩いていた彼が優しく、そして少し心配そうに訊いてきた。
「ん。働きやすかった、かな」
あんたとマスターが、もうちょっと乙女心を分かってたらねと内心で付け足した。もちろんそんな声は届いておらず、安心したよと彼はため息をついた。
流されてるなあ、と思う。私は。
彼の家から逃亡することも、喫茶店で働くのを拒否することも、簡単にできたはずだ。
なのに私は彼に流されて、今までとは少し違う生き方を始めようとしている。
……流されてる、ではなくて。
――流してほしかったのかも、しれない。
「……あのさ」
「ん?」
彼は相変わらず、優しい笑顔をこちらに向ける。私はその顔を直視できなくて、向こうから歩いてくる野良猫を見ながら小さな声で言った。
「ありがとう、隼人」
「おっ」
彼が嬉しそうに、笑った。
「初めて名前、呼んでもらえた」
私はしばらく俯いたまま、早足で歩き続けた。