6
深く、息をついた。
雅貴がシャワーをすませて生乾きの髪のまま服をつけている姿をベッドに体を埋めたまま、ぼんやりと眺める。
最後なんだ。これが、最後。
「……雅貴」
「なに?」
声をかけると振り向きもしないで返ってくる雅貴の声。
こんなもんかな。これ以上、何も変わりはしない。
実咲はあきらめて呟いた。
「別れようっか」
実咲に目も向けずに服を着ていた雅貴が一瞬止まって振り返った。
「え?」
「……だから、別れよう」
「なんで」
ワケがわからないと言うように首をかしげる雅貴を見て、実咲の胸にどうしようもない悲しみがこみ上げた。悲しそうでも、つらそうでもない。突然言われて怒っているわけでもない。別れる理由が思い浮かばないから、訝しんでるだけ、そんな表情。
「……別れたいから」
「だから、何で別れたいわけ?」
その問いかけに思わず笑った。
「わかんないんだ」
「思いあたらないし」
「だろうね、雅貴は思い当たらないかもね」
言いながら自嘲する。雅貴がわかるなんて、初めから思っていなかったけれど。
泣きそうだった。同時に、どうでもよくなった。
「雅貴さ、昨日何してた?」
「……」
雅貴は答えない。実咲は息を吐いた。
「言わないだけの良識はあるんだ。まあ、一応、彼女だもんね、私。……名目だけだけどね」
軽く笑ってベッドの上から雅貴を見上げる。
「私さ、やっぱり理解できないし。わかってたつもりだったけど、ああゆうことやられるのはやっぱりイヤだし」
何を思っているかわからない雅貴の表情に不安を感じ、目をそらせてそのまま一気に言いたいことをはき出した。
「みんながみんなさ、雅貴と一緒じゃないんだよ。挨拶程度の気分でキスしたりとか、遊ぶ程度の気持ちでセックスしたりとか、……理解できないよ。雅貴からしたら何でもないことでしょ。そんな価値観の違う人に私がごちゃごちゃ言ったところで、理解できないでしょ。私の価値観を雅貴に押しつける気はないよ。でも私も雅貴の価値観は理解できないし理解しようとも思わない。だから、そんな雅貴についていけないから別れようって言ってるの。これ以上つきあってると、干渉しそうだし。雅貴、うっとうしいの、嫌いでしょ?」
言い終わると、小さく息を吐いて、横目に雅貴の表情を伺う。雅貴は、まっすぐに実咲を見ていた。
「……実咲なら、それでもいいけど?」
どこまで本気かわからない声だった。
けれど、それは思いがけない返事でもあった。
実咲の視線の先で雅貴は笑っている。
何故、こんな状況で笑えるんだろう。
実咲には理解できなかった。
雅貴の言葉は、その内容も口調も冗談にしか聞こえなかった。けれど悔しいことに、そんな言葉でたまらなくうれしくなっている自分がいた。
簡単に終わるはずだった。
実咲の想像では「わかった」と一言返事が返ってきて、それで終わるはずだった。雅貴の今までの女性関係は、全てそうだったから。そのことを知っていたから。
どうして。
実咲は泣きたくなった。
どうして私にはそんな言葉をかけるの。
からかわれているのか、遊ばれているのか。
ああ、もしかしたら笑いのネタにでもされているんだろうか。
ほんの一秒にも満たないわずかな時間、実咲の脳裏にいろんな考えがよぎった。
けれど、それらの不安を全て払拭するほどうれしい言葉だった。
信じられないのに、信じたくてたまらない自分。
「なあ、別れることないだろ?」
歩み寄ってきた雅貴が実咲の顔をのぞき込んだ。
また、私はこのまま流されてしまうんだろうか。
実咲は目の前にある雅貴の顔をぼんやりと見る。
ダメなのに、絶対ダメだと思っているのに。
「干渉してもいいって言われてもね。信用できない人とはつきあえないって言う意味だったんだけど、わかんなかった?」
涙で声が震えそうになるのをギリギリで押さえながら強がることができた。
「じゃあ、実咲とつきあう間は、他の女に手を出さない、それなら別れない?」
やっぱり本気とは思えない口調だった。
馬鹿にして……っ
「……そうね、それだったら考えてもいいわね。雅貴に、それができるならね」
自分を押さえながら、必死で演技をする。馬鹿にしたように雅貴に笑いかける自分の口元が、わずかに引きつっているのがわかった。
「じゃあ、賭けるか?」
「賭け?」
実咲が眉をひそめると、何でもないように雅貴が笑った。
「そう、俺が浮気をするか、しないか」
「それが、何の意味があるわけ? 賭けたらなんかくれるの?」
ばかばかしくてつきあっていられない。
心の中で実咲は叫ぶ。何とか平常を装っているが、今すぐ泣いてしまいたかった。出て行ってと叫び散らしたかった。
何でこんな男が好きなんだろう。馬鹿を見るのはわかっているのに、別れようとしないだけで、別れたくないと言われたわけでもないのに、どうしてこんなにうれしいんだろう。
おそらくこのまま流されてしまうだろう自分が、たまらなく情けなかった。
「賭け対象は、そうだな。こんなんでどう? 俺が浮気をしたら、実咲の言うことを何でも一つ聞く。俺が浮気をしなかったら実咲は俺と別れない」
バカバカしい。
実咲は心の中だけで笑った。
バカバカしいと思っているのに、それでも言うのだ。バカバカしいことを口にする雅貴より、もっとバカな自分は。
「何でも言うこと聞くって、ほんとに何でも?」
「そう、何でも」
気づかれないように唾液を飲み、思い切って言った。
「じゃあ、ずっと私だけ見てって言ったら、私だけとつきあうの?」
「もちろん」
笑いながらうなずく雅貴。
なんて、この男の言葉は軽いんだろう。
欠片ほどの期待が裏切られただけなのに、ひどく動揺した。先の言葉が本気じゃないことぐらい、バカでも分かるだろう。なのに落胆した自身に、実咲は本気が少しでも感じられることを無意識に期待していたのを自覚してしまう。
「ふざけてるわね」
「……かもね。でも、かなり本気」
そう言って雅貴が再び実咲に被さってくる。元々ベッドの上にいた実咲を押し倒すような体勢になって、キスをしてきた。
うそつき。
それでも、実咲は言う。ひきとめられたうれしさと、あふれるほどの幸福感に負けて。
「そう、その約束、忘れないでね」
仕方なくつきあう、そんなニュアンスを含ませることだけが最後の強がりだった。
「なあ、も一回しようか?」
雅貴が囁きながらベルトの留め具をはずす。
実咲は言葉を返さずに、腕を絡ませることでそれに応えた。
決別さえできない自分の情けなさにやりきれなくなりながら、そんなイヤな気持ちを一瞬だけでも忘れさせてくれるセックスの誘惑に負けて。