囚心 14
久しぶりに実咲のいる研究室まで納品に行ったとき、実咲を見るのが怖くなっていた。声を聞きたい、謝りたい、そう思う気持ち以上に、何を言えばいいのか、よりを戻したいなどと懇願する価値が自分にあるのか、そう思えた。怖くて見つめる勇気さえ持てなかった。
そのくせして、凉子からちくちくと嫌みったらしく聞かされる合コンの話に、気が狂いそうなほどに嫉妬した。
実咲が自分以外の男のいる場所へ行くのかと思うと、居ても立ってもいられないような衝動で、すぐにでも駆けつけて彼女を引き留めたくなった。合コンだという日は、隣に他の男がいるのを想像しただけで焦燥感と不安に押しつぶされそうだった。
けれど、止める権利もなければ、声をかける勇気さえ持てず、ただ焦燥感ばかりが募るだけで、一人、それに耐えるしかなかった。
彼女のいない部屋で、雅貴は何度目とも分からない溜息をつく。
実咲。
自分の知らない誰かと笑い合っている彼女を想像して、心臓が潰れそうになる。自分以外の男が彼女に触れるのではないかと思うだけで、想像の男に憎しみすら覚える。
彼女の隣を、誰よりも望んでいる男がここにいるのに。なのに、彼女はここにいない。
けれど、こんな現状を作ったのは、自分自身だった。
自分の愚かさに気付いてからは眠れない日が続いていた。
雅貴を拒絶し続ける実咲への苛立ちは嘘みたいに消え、後悔と、罪悪感と、彼女を失った苦しみばかりが胸をしめつけた。
浅い眠りばかりが続き、何度も夜中に目を覚ます。
暗闇の中で襲ってくるのは、どうしようもない焦燥感と、喪失感。そして恐怖。
実咲が恋しかった。
暗い寝室で雅貴は、醒めた頭と眠さを訴える体を抱えて思い出す。
このベッドで彼女を抱いた。
クスクスと笑ってふざけて、甘ったるく触れ合って気持ちよさに身をゆだねて、触れ合うだけで満ち足りた、そんな時間が、あの時、ここにはあった。
思い出す過去は苦しいぐらいに鮮明で、その時腕の中に抱いた温もりを思い出せば切ないほどに愛しくて、けれどそれはもうこの腕の中にはないという痛みと喪失感が同時に襲い、それをなくした後悔が胸を占める。
今実咲は何をしているのだろうと考えて、その心の中にもう自分の存在はないのだろうかと思うと絶望が押し寄せる。今、彼女の側に誰か男がいるのではないかと思うと、完全に失うかもしれない恐怖と、嫉妬で頭が沸騰しそうなほどの怒りが襲う。
苦しみと痛み、絶望と恐怖。
体は眠さを訴えるのに、冴えきった意識は、眠りを拒絶する。
眠ってしまえば、考えずにすむのに。彼女のいない苦しさをひととき忘れさせてくれるのに。
けれど眠れない長い夜は何度も何度も訪れる。
苦しい。実咲が恋しくて、苦しい。
仕事をしているときはまだ良い。けれどプライベートの時間になるととたんに彼女のことだけで頭の中がいっぱいになる。眠りから覚めたこんな夜は、特に酷い。
そして、その度に雅貴は考えた。
俺が実咲を裏切っていた間、彼女もこんな痛みを抱えていたのだろうか。
だとしたら。
「……ごめん」
暗闇に向けて、雅貴はこみ上げてくる涙をかみ殺しながらつぶやく。けれど、その声が彼女に届くことはない。
脳裏をよぎるのは、雅貴を拒絶する彼女の背中。決して雅貴を見つめることのない横顔。その視線が雅貴に向けられることはない。
会いたい。会って声を聞きたい。こちらを向かせたい。会いたい、会いたい、会いたい。
けれど、拒絶する彼女の姿を見るのが辛かった。拒絶の言葉を聞くのが怖かった。
彼女に声をかけることさえ、こわくなっていた。
会えない。
暗闇の中、そんな現実は知りたくないとでもいうように、雅貴はその目を閉じて考えるのをやめた。
「佐藤さん、ちょっと良いかな」
久しぶりに凉子に声をかけると、彼女は溜息混じりに了解してくれた。
待ち合わせたのは居酒屋。
ちゃんと話がしたいと言ったのに、このチョイスはどうなんだというと「変にちゃんとした店に行って、変な噂を立てられたくない」と、心底嫌そうに言われた。店内に入りながら、ずいぶんと嫌われた物だと苦笑いする。それでもこうして応じてくれるのは、何か彼女なりの思惑があるのだろうかと、今日は、少し好意的に彼女のことを考える。
凉子に対する苦手意識は強まる一方だったが、彼女は、ただ真摯に、実咲を守ろうとしているのだと思うと、嫌いだとは思えなくなっていた。
自分が実咲にしてきたのがどういう事だったのかに気付いてから、雅貴は自分がどうすべきかをずっと考えていた。
実咲とやり直したい気持ちと、そんなムシのいい話が許されるはずがないという気持ちとで自分がどうしたいのかさえ決められないような状態だった。ただ、会いたい気持ちは募る一方で、せめて誠意を込めて謝るぐらいはさせてもらいたいという気持ちは強かった。もっとも、謝ったところで、謝る側が反省の意を伝えてすっきりするだけで、謝られる側に許したい気持ちがない場合には、謝罪する価値など、ないに等しい。下手すると謝ることがマイナスにすらなり得る。
実咲に冷たい瞳でそう断罪されるのが、簡単に想像されて、雅貴の身がすくむ。
会いたい気持ちに比例するように、会うのが怖くなってゆく。実咲の会社に納品に行くたびに、彼女のいる研究室に続く通路を見るが、いざ研究室まで納品にいくと、決して振り返ることのない彼女の背中を目の端にとらえるのが精一杯で、彼女に視線を向けることにさえ怯えている。
振り返って自分を見つめて欲しいと思う気持ちと同じだけ、振り返って雅貴を拒絶する表情を見せる彼女を見るくらいなら振り返らないで欲しいと願う。
凉子にずっと頼んでいた会えるように機会を作ってくれと頼むことさえ、最近は出来なくなっていた。おかげで彼女からの厳しい嫌味を聞かずにすんでいたが、その代わり、何でもないように話しかけられては、実咲を合コンや飲み会に連れて行った話をいちいち報告してくる。どのくらいの頻度でいっているんだと遠回しに尋ねると、どう聞いても二日に一回ぐらいのペースで参加しているらしいことまで分かって、頭が沸騰しそうだった。
会えない苦しさと、会う事への恐怖と、彼女に似合わない自分とで、さんざん苦しんできたが、凉子からの度重なる合コン報告に、嫉妬と、他の男に実咲を奪われる恐怖に煽られて、雅貴はようやく決断をした。
今のままでは、自分はこの感情を持て余して立ちすくむだけになってしまう。何らかの形での解決をしなければならない。
実咲と別れて、早二ヶ月が経とうとしていた。
「おまたせ」
ボックス席に陣取り、飲み物と料理をいくつか注文すると、凉子はおもむろに雅貴を見つめて「で?」と、静かに話を促した。
雅貴は、息を吐いて呼吸を整えると、凉子をまっすぐに見て覚悟を決める。
「実咲と話がしたい。連絡先も何もいらない。佐藤さんが納得する条件で良いから、会えるようにセッティングしてもらいたい」
「ふぅん? 連絡先、いらないんだ。……で、実咲と何を話したいの?」
「今のところは……そうだな、謝りたいだけかな。もちろん、やり直したい気持ちは変わってないけど、それは実咲が決めることだし、今はもう、言いくるめようとかは、思ってない。ただ、謝る機会が欲しい」
それが雅貴の出した答えだった。例え謝罪が自分の独りよがりであろうとも、他にできる事などないのだから。せめて、気持ちが伝わればいいと願う。実咲からの信頼を失った自分には、それをなくして、その先はないだろうと思うのだ。
「謝らなくても、実咲は、もう、前を向いてるし、謝られても、迷惑なだけだと思うけどね」
いつものように雅貴の頼みは拒否されるが、どこか風向きが違うように感じた。
「そうだな、謝りたいのは、俺の自己満足だ。謝ったら許されるわけでもないし、過去も消せないし、やり直せるわけでもない。懺悔して、気分良くなるのは俺だけだろうな。その代わり、というか、謝って、やっぱり実咲が俺を許せないのなら、それ以上はもう実咲には関わらない。ちゃんと諦めて、身を引く」
どうかな? と、凉子を見た。
本当は、嫌がられても何度でも縋りたいとも考えた。きっと未練は残るし、引きずるだろう。けれど、それを実咲に押しつける事は、きっと彼女の傷口をえぐる事になるかもしれない。そんな事をするのは、もう、一度で良い。謝らせてもらう、この機会、一回だけで良い。実咲を苦しめることは、もう、したくない。
凉子は眉をひそめて、探るように雅貴を見つめていた。
「諦めるなんて、ずいぶんと殊勝なことを言うじゃない」
「これでも、本当に反省しているんだけど。佐藤さんの作戦がちだよ、おめでとう。……こんなに苦しいとは、知らなかったんだ」
苦く笑って、冗談めかしていった雅貴に、凉子が楽しげに笑った。今までのどこか嘲るような笑い方とは違う、楽しげな笑い方だった。
「ざまあみろ、だわ」
クスクスと笑いながら、心底楽しげに運ばれてきたビールを飲む。
「……実咲は、それの何倍も苦しんで、何倍の期間もそれに耐えてきたんだからね」
その言葉に、雅貴の胸がズキリと痛んだ。
後悔することで過ちを取り返せたのなら、どれだけ良いだろう。けれど、実咲を傷つけたという事実は、決して消すことは出来ないのだ。
過去の自分を殴り殺せる物ならば、そうしたいぐらいだった。
「今は、佐藤さんが、どうして俺を嫌ったか分かるよ。もし、他の誰かが実咲にこんな思いさせたのなら、きっと、俺も、許せない」
「よく言うわ」
凉子が雅貴の言葉を鼻で笑った。
雅貴は苦くつぶやいた。
「今更、とか思ってるだろ?」
いかにも苛立っている顔をしている凉子を見て、雅貴は苦笑した。いや、彼女の嘲るような目は、むしろ、くたばれというレベルかもしれない。非常に、心情がよく表れた表情をしている。今、雅貴自身が過去を思い出したように、凉子もまた思い出しているのかもしれない。
「よく分かってるじゃない。まだ、謝って許してもらいたいとか思っている、その根性もむかつくし、許せないわね」
凉子が吐き捨てるように言うのを、雅貴はその言葉がまさしく自分に向けられているというのに、ただ納得して、苦笑いを浮かべるしかできない。
「あれだけのことをしておいて、やり直したいとか、片腹痛いわね。私はね、ほんとに、近づけるのも嫌なの。わかってる? 私はね、井上くんを実咲の視界にも入れたくないの。井上くんの姿を見るだけで、実咲の傷はえぐられるの。まだ、ね。井上くんの口のうまさなら、きっと、さぞ簡単にその傷につけこめるでしょうね」
「……やろうと思ったら、できる自信がある。実咲は、お人好しだからな。でも、それじゃ、傷つけて同じ事を繰り返すって言う、佐藤さんの言葉、覚えているよ。もちろん、繰り返す気はないけど、丸め込んでも、実咲の意志を無視してのやり方じゃ、実咲の不信感は、ぬぐえないだろうし。今までの自分勝手なやり方を、実咲に押しつける気はないから。謝って、説明して、やり直したいことを伝えたら、後は、実咲にゆだねる」
「……当然ね」
さも当たり前と言わんばかりに凉子が頷く。
「でも、よ。言い訳するのは、男らしくないわね。何よ、説明って」
「言い訳がましいのは分かってるけど、多少の言い訳ぐらいは許してくれないか?」
雅貴は苦笑いしながら、これ以上ないぐらい下手に出て凉子を見た。
結局、その日は「考えて置くわ」と言っただけで、実咲に関して何も教えてはもらえなかった。
けれど、凉子の今までの態度を考えると、十分すぎるほどの進展にも思えた。
ほっとした。
実咲と話をしたいと焦る気持ちを抑える。寝不足の頭では感情を抑えるのが難しくなる。仕事の間は何とか取り繕っているが、家に帰るとどっと疲れが襲う。しかしそれでも眠れない夜が訪れるのだ。