囚心 10
この苦しみは、実咲が感じていた苦しみだ。
そのことに気付いた雅貴は立ち尽くした。
俺は、この程度のことも考えていなかったのか。
深く息を吐く。そして頭を振るとまた歩き始めた。
言葉で言えばいい物を、わざわざ実演して。結局は嫌がらせだろ。
そう雅貴は心の中で悪態をつく。
凉子に罪悪感の矛先を向け、悪態をつくことで、雅貴は見たくない感情から目をそらせようとした。
俺は、浮気のつもりもなかった。実咲を傷つけるつもりもなかったんだ……。
誰にともつかぬ言い訳を心の中で繰り返しながら、雅貴は息をつく。
最後にキスをした女も、実咲と付き合っている間に関係を持った女性たちも、全部……。
言い訳が、次から次へとあふれてくる。
実咲と付き合っている間、どうしようもない苛立ちが常につきまとっていた。それを実咲にぶつけたくなかった。彼女たちはその苛立ちを紛らわせる相手にすぎなかったのだ。実咲に苛立ちをぶつけないためだった。浮気をしたつもりはなかった。二股をかけたつもりも。付き合っていたのは、大切にしていたのは実咲だけだった。
苛立ちをぶつけて実咲を傷つけないためだった。
『自分はずっとしてたくせに』
違う。
頭の中で響く凉子の声を拒絶する。
……違うんだ。
必死に言い訳を繰り返しても、脳裏をよぎるのは自分以外の男と笑う実咲の姿で。それを思うだけで苦しくなる自分を、付き合っていた当時の実咲の気持ちを思って重ねて泣きたくなる。
けれど、実咲は、ずっと、こんな気持ちになっていたのだろうか。こんなにも……いや、自分のやったことを考えると、おそらくそれ以上に苦しんでいたのかもしれない。
雅貴の胸をどうしようもない苦しさが、重い、重い固まりとなって落ちてきた。血の気が引いたように、頭がくらくらする。
実咲は、この苦しさを我慢していたのか。俺が、そんな思いをさせていたのか。
謝りたいと思った。すがりついてでも、ごめんと、ひどいことをしたと。できる事ならば、今すぐにでも。
自分のしたことが、重くのしかかってくる。実咲にした仕打ちが、じわりじわりと、ひどい罪悪感となって、心を浸食する。
ずっと、分かっていたつもりだった。何が悪くて、何が実咲を傷つけたのか。けれど、それは雅貴自身の都合と、雅貴の目から見たものでしかなかったことに気付いた。実咲のことを考えているつもりで、自分の都合の良いフィルターだけを通して見ていた。実咲が、本当はどういう気持ちだったのか、考えているつもりだけで、全く目を向けていなかった。
気付いた事実に、息苦しさを覚える。
実咲がどれだけ苦しんでいたのか、彼女にどれだけひどいことをしたのかようやく見えてきた。
みさき。
声になることなく、彼女の名を呼ぶ口元から、音にならない吐息が漏れる。
けれど、それを、なんと言って伝えればいい。
ようやく目が覚めたとでも? 嫌な思いをさせた、もう二度としないから許して欲しいとでも?
散々彼女を傷つけてきた男の言葉としては最低だと言うことが、今なら分かる。
自分の言葉には、どこにも、信用できるだけの物がない。
言葉で丸め込んでも、きっと、彼女の信用は取り戻せない。彼女の目から見た自分の姿が、今は分かるような気がした。
付き合っている間に、何度も他の女性と関係を持ち、いたずらで浮気をほのめかすような人間を、どうして今更信用できるというのか。
会って話をすればやり直せると、今までは思っていた。それがとんだ思い上がりだったのだと、ようやく気付く。いや、確かに、うまくやれば実咲と、もう一度関係を始めることは可能だったかもしれない。
けれど、おそらくは涼子の言うとおりなのだろう。きっと、雅貴の都合で、口先と感情を逆手に丸め込んで無理矢理修復しても、関係はすぐに破綻する。
やり直したいと思っていた。何がなんでもと。
気付く直前の自分を思い出して、その愚かさが刃となって雅貴の胸を切り裂く。
やり直すためなら、どのくらい時間がかかっても良いと、何度でも謝ると、そう考えていた。
けれど、そんな事を考えることさえ愚かだったのだと思えた。今は、もう、やり直せる気がしなかった。
自分のした仕打ちは、謝って取り繕えるものではなかったのだ。
失ったのは愛情ではないのだ。信頼なのだ。
一度裏切られた信頼は、誠意を尽くすだけでは取り返せない。どんなに誠意を尽くしても「信頼を裏切った過去」があれば、必ず疑念の種が残る。
仕事柄、雅貴はその感情には人一倍思うところがあった。
ふと、涼子に以前言われた事を思い出す。
『ホント、井上くんって、自分の事しか考えてないよね。実咲がどう思うかを考えるときは、自分の思い通りに動かそうとするときだけ』
その言葉を聞いたとき、何を訳の分からないことをと思って、気にもかけていなかった。あのときは、自分なりに実咲の気持ちを考えているつもりだったから。
今思うと涼子の指摘が的を射すぎていて、溜息が出た。
確かに、今まで実咲を思い通りに動かそうとしていたのだ。
実咲の気持ちを考えているつもりになって、けれど考えている実咲の気持ちとは、最終的に、自分の思い通りの結果に持って行くためだった。彼女の心や想いを無視した物だった。
胸の奥が、焼け付くように痛む。取り返すことの出来ない過去を前に、後悔がわき上がってくるのを歯を食いしばりながら受け止める。
苦しい。
雅貴は実咲との時間を思い返した。
大切だった。大切にしたかった。大切にしているつもりだった。彼女は最初から特別な存在だった。分かっていたのに、俺はそのための術を間違えた。
そして今までずっと間違え続けている。
大切にしたいのに。
けれど、その存在はもう既に自分の腕の中をすり抜けていってしまった。
自分がしていることが、どういう事かさえ分からずにいたが為に。
ようやく、涼子の言いたかったことが見えてきた気がした。
そっから先は、地獄のような日々だった。
納品に行って見かけた実咲の姿に、話しかけたくて心臓が異常なほどに打ち付けた。けれど完全な拒絶を思い知らされただけで、帰る頃には心臓が握りつぶされているのではないかと思うほどに痛んだ。
声をかけたい。謝りたい。
実咲の後ろ姿に、どうしようもない後悔が雅貴の胸を占める。
彼女の声を聞きたかった。
離れて見る実咲の姿はとても遠くて、決して向けられることのない視線と雅貴を拒絶する後ろ姿に、自分の愚かさを思い知る。そして帰り際にちらりと見つめる横顔は、以前より綺麗になっているようにも見えて、自分の存在が彼女には不要だと言われているようにも思えた。
顔を合わせることさえ、許してもらえないのだ。
実咲に会えなくなって、どのくらいがたっただろう。
カレンダーをじっと見つめる。
今が何日で、実咲に振られたのがいつだったか。そんな事を考えるのさえ面倒で、結局カレンダーを見たのみで、何も考えられずにため息だけをつく。
頭が働かない。
実咲に会いたかった。謝りたかった。謝って、本当に希望はもうないのかと問いたかった。
そう考えて、雅貴は大きく息を吐く。
けれど、それをするだけの権利がどれだけあるというのか。
ようやくじわり、じわりと、自分のしたことがどういう事だったのか分かってきて、それを正面から受け止めると、どうしようもなく救いようのない自分の姿が見えていた。
涼子の言うとおり、自分は分かっていなかったのだと、雅貴は思うようになっていた。
分かっていたつもりだった。浮気を許せない実咲が、約束を破った雅貴に愛想を尽かせただけだと思っていた。
違うのだとようやく気付いた。つきあい始めてから、じわりじわりと自分は実咲の信頼をそぎ落としてきていたのだ。雅貴の持ちかけた賭は、実咲にとっても賭だったのかもしれない。雅貴にとって、あの賭は、決して負けてはいけない賭だったのだ。あれは、実咲と雅貴をつなぐ、最後の、切れかけた糸だったのだ。
ちょっとしたいたずらで済ませられるような内容ではなかったのだ。
どこで自分は間違えたのかと、ずっと思っていた。うまくいっていたと思っていた。
違っていたのだ。最初から自分は間違えていたのだ。最初から何一つ上手くいってなどいなかった。少なくとも、自分の考えがあの時の自分勝手な状態であった時点で、うまくいっていないも同然だった。
実咲とつきあい始めたあの瞬間から、自分は実咲と違う方向を見ていた。
あの瞬間から、きっと、こうなるしかなかったのだ。
実咲は他の女とは違うのに、同じ扱いをしてしまっていた時点で、自分は間違っていたのだ。
雅貴にとって、実咲は特別な存在だった。だから、とても大切にしていた。他の女と違って、別れる前提でいたことなどなかったし、二股をかけたこともなかった。実咲と付き合い始めて以来、他の女と「付き合う」事はしなかった。
だから、他の女と同じに扱っていたつもりはなかった。彼女たちにとって、自分が換えのきく存在だったように、雅貴にとっても彼女たちはただ通り過ぎて行くだけの存在だった。そんな他の女性達と実咲を同列に考えるなどあり得なかった。比べることさえばからしいほどに、実咲は特別な存在だった。
けれど、それはあくまでも自分の中でのことだった、という事にようやく気付いた。実咲から見て、それがそうと思われなければ意味がないことに。
実咲からすると、付き合っている間他の女性を抱けば浮気なのだ。いくら大切にしていても別れる気がなくても、他の女に手を出す雅貴の態度は、実咲にとってはただのキープ同然に見えたかもしれないし、大切にしているという意味にはならないのだ。むしろ都合のいい女としか見えなかったかもしれない。
気付けば、当然と思えるほど当たり前のことで、なぜ今まで自分がそんな事にさえ気が付かなかったのかさえ分からない。
自分の感覚が、いかにおかしかったかを、実咲を失った事で初めて知った。
結局は、涼子の言ったとおり、自分勝手だったのだろう。全て、自分の事だけを考えていたのだ。実咲のことは、自分に都合の良いようにしか考えていなかったのだ。
情けなさに、自己嫌悪がつのる。
本当に実咲のことが大切だったのに。なぜ当たり前のことが出来なかった。
なぜ、自分はこうなったんだ。
なぜ、他の女が必要だった。
なぜ、実咲を傷つけなければいけなかったんだ。
自分のやったことが、考えれば考えるほど理解できなかった。
疑問だけが渦巻き、考えがまとまらない。