囚心 9
雅貴はぐっと言葉に詰まった。
涼子がそんな雅貴をじっと見つめる。
「井上くんは、実咲と会って、どうしたいの?」
話題を変えてきた彼女に、雅貴はたった今言い返せなかった動揺を隠すように、彼女の口車に乗らないように、返事を切り返した。
「……俺がそれを佐藤さんに言う必要があるの?」
「必要はないわよ、もちろん。ただ、私は納得しないと、出来る限り実咲に近づくのを邪魔するだけだから」
飄々とした様子で当たり前のように言った凉子を見ながら、雅貴はそれを、彼女の牽制と受け取った。
実咲に近づくな、と。
さんざんそうやって傷つけてきたくせに、今更実咲に近づくなと。
バカを言うな。
雅貴はわき上がる怒りをこらえる。
こんなに実咲に会いたくてたまらないのに、そのためにここまで我慢しているのに、誰があんたの思惑通り、諦めるかよ。
実咲ともう一度やり直す為だったら、実咲に許してもらえるのなら、土下座だってしていい。何度でも謝るし、何度断られても諦める気はない。これは、俺と実咲の問題だ。俺は、実咲を諦めたりは絶対しない。
雅貴は譲るつもりのない感情を胸に、凉子を見た。
「佐藤さんには関係ないだろう。俺と実咲の問題だ」
何とか冷静な口調で言い返した雅貴に、凉子が嘲るように笑った。
「そうね、井上くんと実咲の問題だけど、傷ついてる実咲に私が何かをしたいと思うのは、私と実咲の問題で井上くんは関係ないもの。それに、住所を教えるとか、電話番号を教えるとか、実咲が傷つくのが分かっていてするわけないでしょ。自分がなにしたかも分かってないような男に」
あからさまな嘲笑に、雅貴はむっとして言い返す。
「自分が何をしたかぐらいは、分かっている。だから謝ろうと……」
「謝る? 謝ってどうするの」
雅貴の言葉を、いかにもおかしそうに笑いながら凉子が遮った。
「それは井上くんの自己満足でしょ。それとも謝ってよりを戻したい? 図々しいにもほどがあるわね」
謝ってよりを戻したいことの、何がおかしい?
雅貴は凉子の言葉に眉をひそめる。
雅貴は自分の行動が実咲を傷つけたことは理解していた。あまり褒められた行動ではないことも分かっている。それを実咲が理解していると思っていたのは甘えだった。だから、謝りたいと思うことの、何がおかしいというのか、凉子の言葉が理解できなかった。
実咲のことが、誰よりも大切だという事も分かっていたことだ。けれどその為の手段を間違えたことは言い訳のしようもない。だからその為に、他の女性とは当然関係を全て切った。他の女性との関係を切るつもりがないというのならともかく、全てを清算してやり直したいというのが、何故図々しいという事になるのだ。
そんな雅貴の思いを知ってか知らずか、凉子は冷めた目で雅貴に目を向けることなく、言い捨てる。
「その程度の心構えなら、問題外よ。実咲に会いたかったら、もっとその性根をなおしてから来る事ね。今の井上くんじゃ、どう考えても同じ事を繰り返して、実咲を傷つけ続けるのがオチだもの」
全く相手にもしてないその様子に、雅貴の表情がわずかに引きつった。
「俺のことをよく知らないのに、そこまで言う?」
「知らないから見えることもあるかもしれないでしょ。井上くんさぁ、もっと考えた方が良いよ。何が実咲を傷つけたか、全然分かってないような気がする。なんか、絶対、無理って思うわ」
呆れた物言いをする彼女に、雅貴は彼女の言わんとすることが全く分からず、とうとう理解するのは諦めて、投げやりになって言った。
「……佐藤さんさ、そこまで言うなら、何がダメか教えてくれない?」
凉子の言葉は所詮は嫌がらせの範疇だと感じた雅貴は、尋ねはした物の本当に聞きたいわけでもない。当然、凉子がその質問に答えるはずもなかった。
「教えたら意味ないでしょ。自分で気が付かないことを他人が教えたって上っ面しか理解できないわよ。自分で気付かないと意味がないもの。それに、私が見えるのは、井上くんのそれこそ上っ面なのよ。でも、その他人にも見える上っ面が出来るには、根本的に、別の問題がある物だわ。そして、その根本的なのは、私には分かりっこない。実咲が何に傷ついたかも分からないような人に、いくら上っ面の問題を教えても無駄ね。とにかく、井上くんは、考えが足りないのよ。頭使って」
思いがけない言葉に、雅貴は呆然とする。まさか、そう言う方向でなじられるとは思いもしなかった。
これは、もう、人格的に否定されたと言うことで良いのだろうか。実咲のことは真剣に考えている。それを、考えが足りないだの、頭を使えだの。
雅貴は、凉子を見つめながら、溜息をついた。彼女と顔を合わせるのは、前々から気分の良い物ではなかった。もはや、理解も出来そうにない。
とにかく、よほど嫌われていることだけは理解できた。そして、今更というか、ずっと分かっていたことだが、とても怒っていることも理解できた。
そして、息継ぐ暇もなく、まともに口を挟む間も置かない非難の嵐のマシンガントーク。
営業として口先と心理戦には慣れているはずの雅貴が太刀打ちできないとはどれだけ強心臓なのだと、雅貴は内心うなだれた。
涼子と話した帰り道、雅貴はぼんやりと実咲を思い浮かべた。
凉子との会話は神経を削られてばかりだ。
溜息が出る。
実咲に会いたい。早く実咲に会って、謝って、やり直したい。その為なら、何度だって謝る。もう二度と傷つけないと約束する。今度こそ、大切にする。
だから。
「実咲」
会う事さえ許してくれない彼女を思った。
実咲は今頃、誰か男と笑ったり、話したりしているのだろうか。
想像しただけで苦しくなった。
実咲が他の男に取られるかもしれないと思うと今すぐにでもそこに乗り込みたいような衝動に駆られる。
『自分はずっとしてたくせに』
涼子の言葉が思い出されて、雅貴はぐっと奥歯を噛み締めた。
『……それとも嫉妬?』
そうだ、彼女は嫉妬させたかったのだ。ずいぶんと手の込んだ嫌がらせだ。
実咲が嫉妬したように、俺にも……。
そこまで考えて、雅貴は呆然とした。
以前、彼女は「ヒント」だと言った。突然その意味が飲み込めた。
彼女は、確かに雅貴に嫉妬をさせたかったのだと、呆然と理解する。ただし、その意図はまさしくヒントだった。
彼女は、実咲がどんな気持ちで雅貴を見ていたのか、それを思い知らせたかったのだろう。
ようやく分かった。
この苦しみは、実咲が感じていた苦しみだ。