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いつからだっただろう、こんな雅貴が見えなくなっていたのは。軽薄でダメなところばかり目につくようになってしまっていたのは。
でも、今は見える。実咲が好きになった雅貴が、確かに目の前にいる。
「……私のことが、好き?」
「好きだ」
端的に答えた雅貴の声は真剣で、笑ってしまいそうになるくらいまじめな顔だった。
「浮気はしない?」
「絶対しない」
力を込めて雅貴がうなずく。
もう、ダメだ、と思った。
自分が好きになった雅貴の姿を改めて見つけて、どうして拒絶できるというんだろう。見えなくなっても好きだった。どんなにイヤなところばかり目に付くようになっても、彼じゃないと、駄目だった。
いつから、あんな雅貴しか、見えなくなっていたのだろう。どうして、雅貴のそんな側面ばかりが向けられるようになったのだろう。
それは、雅貴の心の変化にも繋がっている。
雅貴は、女の子を見下したかったのだと言った。
けれど、雅貴は実咲を最初から見下していたわけではなかった。じゃあ、いつから?
実咲は不意に気がついた。
ああ、そうだ。
胸が軋むように、その瞬間を思い出す。
きっと、あの頃からだ。あの頃から、私の好きだった雅貴の姿が曖昧にぼやけていったのかもしれない。
実咲は思い出す。雅貴のことを気にし始めて、ブランド物で身を固め始めた頃を、必死で、雅貴の周りの女の子達に合わせようとしていたあの頃を。
気付いて、実咲は息が詰まるような苦しさを覚えた。
雅貴が自分を友達でなく他の女と同じに扱い始めたのは、自分が雅貴の周りにいる女と同じような振る舞いを始めたから、雅貴がそんな風に扱う女の姿を自分自身が作り出していたからかもしれない。
思い至ったその考えに、実咲はぞくりと震えた。
もしかしたら、私が自分を作ったりせず、私のままで雅貴に思いを寄せていたら、こんな風にちゃんと誠実に思いを返してくれていた……?
だとしたら、雅貴との関係をダメにしたのは、私自身のせいなのかもしれない。
愕然と、そんな考えに思い至る。
実際そうしたところで、本当にそうなったかどうかは分からない。ただ、そう思えた瞬間、胸の中がすっと軽くなった。
よかった。
なぜか、そう思えた。
雅貴だけが、悪かったんじゃない。
その事が、訳も分からず、なぜかうれしかった。こだわっていた、雅貴への不信感がほどけるような気がした。
実咲はどこか晴れ晴れとした気持ちで泣き笑いになりながら、少しからかうような口調で質問を続ける。
「女と話してるだけで『何してたの?』って問いつめるかもしれないのよ。何にも疑われるような事してなくても、疑い続けるかもしれないのよ。そんなのをホントに我慢できるの?」
実咲の変化に気づいたのか、真剣なだけだった雅貴の表情が少し和らいだ。
「……それは、自業自得だから、がんばって前向きに受け止めさせていただきます」
神妙に、けれど少し冗談めかした返事が返ってきた。
実咲はうなずいて、雅貴の瞳をじっと見つめた。
「私と付き合っている間は、絶対に他の女の子に手を出さないで。手をつなぐのも、肩を抱くのもダメ。髪に触れたり、指先に触れたり、女の子がその気になるようなことも、全部ダメ。私以外の子としたいのなら、私と別れてからにして」
「わかった」
もう、実咲の答えに雅貴も気づいていた。
「私を傷つけたくないとか、そんなの、言い訳にもならないから」
念を押すと、神妙な顔をして雅貴が頷く。
「うん」
「絶対ね?」
「うん」
雅貴がほっとしたように微笑んだ。
「約束よ?」
「うん」
雅貴が優しく笑っている。
実咲の好きな、雅貴の笑顔だ。犬達に向けてるときと同じぐらい優しい暖かい笑顔。自分に向けられるのを失ったときから、ずっとずっと求め続けていた笑顔。
ああ、もう、好きだなぁ。
悔しい。悔しいけど幸せでたまらない。
この笑顔をまた向けてもらえるのなら、傷ついても、それでもいいから、一緒にいたい。
そう思った。
「いいわ、付き合ってあげる」
実咲は涙声で高飛車に言ってみせる。
泣きそうになりながら笑って言った実咲を、さっきまで微笑んでいた雅貴がくしゃっと泣きそうに顔をゆがめ「よかった……」と震える声でささやいて、抱きしめた。まるで、すがりつくように、強く。
「……実咲、実咲」
抱きしめられたまま、何度もささやかれる自分の名前。切なげに、大切そうに自分の名前が呼ばれるその幸せ。
それは、もう、何もかもがどうでもよくなるぐらい、幸せな瞬間だった。
信じられないと、そう思ったことさえ遠くに感じる。
結局、自分はこの男から離れられないのだ。
実咲はそんな自分をすっきりした気持ちで笑う。
馬鹿なことをしている、と、心の片隅で訴える声がある。けれど、実咲はそれを笑い飛ばす。
愚かでいい。馬鹿でもいい。
怖くて良い、不安で良い。
自信がなくても。未来が見えなくても。
信じられなくても、もし、未来、また泣くことになっても。
頭の片隅では先の分からない未来を思って不安を感じている。
けれど、これから模索していくしかないのだと実咲は思う。
何度も傷つけられた。だから二の足を踏んでしまうのは仕方のないこと。ただ、彼から逃れると幸せになれる保証があるわけでもない。彼のそばにいると再び傷つくかもしれない。けれど雅貴は言葉通り本当に実咲だけを思い続けるかもしれない。
未来は、何を選んだとしても、保証なんてないのだから。
だとすれば、実咲は雅貴のそばにいることを選ぶ方が幸せなのかもしれない。
いくら考えたところで、どの選択肢を選んでも結局どれも確証のあるものなどないのだ。ならば、もう一度傷つく覚悟で、今幸せと感じられる道を選ぶのもまた一つの選択肢だと思う。
言い訳じみてる。
実咲は頭の片隅で自嘲した。
けれど、それでいい。
言い訳でいい。雅貴と一緒にいられるだけの理由になるのなら。それで自分が納得がいくのなら。
実咲にしがみつくように抱きしめていた雅貴の腕がふとゆるむ。顔を上げた実咲の目に雅貴の顔が映る。躊躇ったように実咲を見つめている。
「……キスしていい? 今、実咲に、すごくキスしたい」
実咲は笑って雅貴の背中に腕をまわした。キスひとつに躊躇う雅貴が見えただけでも、この選択は正解だったかも知れないと思うくらいに、貴重な言葉だと思った。
雅貴がコツンと、実咲の額に額を合わせる。
近すぎて顔がぼやけるのを、実咲はじっと見つめた。
「実咲が、好きだ」
囁く吐息が、実咲をそっとくすぐる。
「……会いたかった。ずっと、会いたかった。実咲と、言葉を交わしたかった。実咲に、触れたかった」
震える声が吐息と共に漏れて、唇と唇が、かするように触れる。
「実咲」
切望するような声が聞こえる。それは歓喜となって実咲の背筋を駆け上るようにゾクゾクと体を震わせた。
「俺は、実咲が、好きだ」
絞り出すような囁きの後、深く、深く唇が重なる。
泣きたいほど幸せな雅貴とのキスが繰り返される。
幸せだった。
重なる唇の感触が、懐かしく、愛おしく、実咲の心を幸せで満たす。
キスを交わしながら実咲は何もかもどうでもいい気分で思う。今は、少しの不安も未来も何も考えず、雅貴の側にいようと。この幸せに流されてしまおうと。
長いキスの後、離れた唇から溜息のような吐息が漏れる。息の上がった浅い呼吸をする実咲の体から、不意に雅貴の温もりが離れた。
雅貴はそのまま腕をほどく。
「ありがとう」
雅貴はぎこちなく笑うと更に体を離した。
「え……?」
思いがけない言葉と行動に、実咲は首をかしげた。
「その、今日は、帰るよ」
実咲は、後ずさるように離れていく雅貴の顔をのぞき見る。貼り付けたようなその笑顔と離れた意味を考える。
雅貴らしくない。
平たく言うと、いたせるときにいたすのが彼らしさだ。今の行動の違和感は、その辺りにある。
逃げているように見えるのだが、まさかね、と実咲は雅貴を探るように見つめた。
「どうしたの?」
ぼそっと呟くと、雅貴がえっと顔を上げる。
「雅貴、なんか変」
歯切れの悪い雅貴に、実咲はからかうように雅貴に詰め寄った。
「……何が?」
雅貴がぎこちなく目をそらす。
「しないの?」
「……していいの?」
うなるような低い声で雅貴が確認してくる。
お預けをくらった犬みたいだと実咲は思った。そうなると、おかしくて笑いがこみ上げてくる。
まさかとは思ったけど、やっぱり、そうかも知れない。
雅貴が、私に、遠慮してる。恋愛を関係に持ち込んでから、ずっと実咲は雅貴のすることに引っ張られっぱなしだった。慣れていない実咲からすると、最初の頃それはありがたかったけれど、今思えば、対等ではなかったのかもしれない。
なんだか、くすぐったいようなうれしさがこみ上げる。
これからは、これまでとは違う関係を築くのだと、信じられる気がした。
「そんな事、確認したことないくせに」
「……実咲に嫌われたくない」
雅貴がまるですねたように目を背けたまま低い声で呟く。
「今更」
実咲は笑いをこらえながらつっこんだ。
以前はずっと主導権は雅貴にあったような気がするが、少なくとも現時点では、主導権は自分にあるのかも知れないと、実咲は気付く。
これは、面白いかも。
たじろいでいる雅貴を見ながら、実咲はほくそ笑んだ。
「これでも、反省しているんだ。その、俺の都合ばかり実咲に押しつけてきたのを」
「ようやく自覚したの?」
体を引きながらもごもごと言い訳する雅貴を、実咲はにやにや笑いながら見つめると、雅貴が少し開き直ったように実咲をみた。
「はい、すみませんでした」
「心がこもってない」
実咲は笑って雅貴の顔をのぞき込んで、そのままキスをした。
「……いいよ」
実咲は呟いた。
「え?」
躊躇う雅貴の表情は見えない。けれど、実咲は雅貴の首に腕を絡めてもう一度キスをする。
「……いただきます」
耳元で囁いた雅貴の声が妙に神妙で、実咲は笑いながら雅貴を抱きしめる腕に力を込めた。
これなら意外と、やって行けそうな気がした。