29
実咲は言葉を失っていた。雅貴の言葉はどれも思いがけない物でどういう風にとらえていいのかさえ判断がつかなかった。ただ、分かったこともある。
恐らく、語られた事は雅貴の本心であるだろうと言う事。そして、弱みをさらけ出しているのだろうと言う事だ。
けれど、それでも答えを出せなかった。
だからといって何が変わるというのだろう、という気持ちがある。変わるはずがないという気持ちを維持したかった、と言った方が正しいのかも知れない。
結局のところ、失った信頼という物は、これほどまでに大きいということなのだ。
もう一度雅貴を信じたいと心は揺らいでいるのに、信用できるのか? とストッパーが働く。
雅貴の言葉は、ほぼ間違いなく本心だと実咲は思っていた。それは、分かる、分かってしまう。女として雅貴と一緒にいた時間より、友達としてそばにいた時間の方が長いから。
けれど、今は本心でも、それはいつまでも続く気持ちなのか。
信じたらダメだ、と実咲は自戒する。
信じて馬鹿を見るのは、私なのだから、と。
黙り込んだまま、何も言わない実咲に、耐えかねたように雅貴が話し始める。
「今更、こんな事を言っても信じてもらえるとは思ってない。でも、信じれなくても、許すことができなくても、それでも少しは俺のことを好きだと思ってくれるなら、頼むからもう一度俺と……付き合って欲しい。信頼できるわけないのはわかっている。でも俺は実咲の側にいたい。実咲が好きだ。頼む。もう一度だけでいい。もう一度だけでいいから、やり直させて欲しい。前のことがそれで取り返せるとは思わない。でも、実咲の信頼を取り戻せるようにがんばるから。実咲の信頼を裏切るようなことはしないと約束するから」
懇願にもとれるその言葉。
信じられる筈がない。事実だとしても、それを受け入れるいわれなんてない。あんな事をしておいて、どの面下げて……。
心の中で、実咲は何度も何度も目の前の苦しげな雅貴を罵る。
なのに。
……どうして、私はこんなに嬉しいんだろう。
考えることとは裏腹に、心の奥底からこみ上げてくるのは歓喜だった。
実咲は込み上げてくる涙を必死でこらえた。
どうして私はこの男がこんなに好きなんだろう。
実咲はこみ上げてくる気持ちに翻弄される。
私だけを好きだと言って、私だけを大切だというその言葉が嬉しくてたまらない。私はこの言葉が欲しかったのだと、喜びに胸が詰まるほどに。
信じられないのに、許したくないのに、再び雅貴を受け入れようとする自分がいた。信じたらダメだと実咲の理性は思っているのに、信じたくてたまらない。
たまらない幸福感が実咲の胸を覆い尽くそうとしていた。
私の知っている雅貴は女にこんな風に執着をしない。だから、これは信じていいはずだ。そんな言い訳を自分にして、信じていい理由をつくってしまう。そうしてまで受け入れたい自分を自覚する。
実咲は大きく息を吸った。
私は、決断しなければいけない。
「……イヤって言ったら……」
実咲は彼を見つめながら、震えそうになるのを堪えて言葉を絞り出す。
実咲の言葉に、雅貴がびくりと震えた。
「もう、顔を見せないでって言ったら、その通りにするのよね……?」
実咲のつぶやきに、雅貴が震えた。握りしめた拳が、白くなるほど強く力が入り、その手がわずかに震えている。
「……ああ」
目を閉じた雅貴が、絞り出すようにつぶやいた。
胸が苦しい。
私のたった一言で、この人は離れていく。
そう思うと何かに突き刺されるような痛みが襲う。
この人を失える?
実咲は自分自身に問う。
これほど私を失ったと苦しんでくれるぐらい、好きだと言ってくれる、彼を失える?
こんなに、好きで好きでたまらないのに、彼を失って、私は後悔しない?
まるで最後通牒を突きつけられるのを待つ体の雅貴を見ながら、実咲は自分に問いかける。
失いたくなんか、ない。彼の手を、取りたい。
分かっていた。本当に分かっていた。雅貴が本気で言っていることを。雅貴が本当に自分のことを好きだと言ってくれていることを実咲は分かっていた。
雅貴の言葉がすんなりと自分に届く。今の雅貴の言葉にこの前のような軽さはいっさいない。今の雅貴の言葉には確かに真実がこもっていた。
けれど、実咲はその雅貴のさしのべられた手をすぐに握り返すことができなかった。また傷つくのが怖かった。信じたからといって、不安が消えるわけでもなければ、一度知った恐怖をぬぐえるわけでもない。一度知ってしまった感情は、もう、取り返しがつかないほどに、傷となって残っている。
かといって、彼の気持ちを知って、別れる決意も出来ない。
もしかしたらホントにずっと浮気はしないかもしれない。
けれどそれ以外にも問題がある。彼の言葉が仮に本当だとしても。けれど「いつか自分以外を好きになるのかもしれない」そんな考えがよぎる。雅貴を拒絶する為の言い訳が、最後の砦のようにそびえる。それは、今問い詰めたとしても、決して解決することのない不安だった。
雅貴の言葉が本当ならば、今はいいかもしれない。けれどいつ現れるかもしれない雅貴が自分以上に好きになる女性。いもしない女性の陰に自分はおびえながら過ごさなければならない。
希望と不安に心が揺らいで、たった一つの決断さえ出来なかった。
言葉を返せずにいる実咲を見て、苦しさを耐えるように目を背けていた雅貴が息をのんだ。
今、私はどんな顔をしているのだろう。
どこか驚いた様子の雅貴を見て、実咲は逃げるように目をそらす。
分かっている。たぶん、泣きそうな顔になっている。
だって、表情が、隠せない。どうしたらいいか分からない。
「……何でよ、信頼なんて、出来るはずがないじゃない」
声に涙がにじんだ。震える声は、涙に濡れてか弱く響く。
「何で、今頃、そんな……」
それは、雅貴を受け入れたい気持ちを滲ませて、弱く、弱く響く。
雅貴がその実咲の弱さにすがるようにつぶやいた。
「疑い続けてくれたらいい。俺はそうされるだけのことをした。疑わしいと思ったら俺を問いつめてほしい。そしたらちゃんと説明する」
雅貴はそこで言葉を切ると、苦しげに声を潜めた。
「……人から信頼を得るのは大変だよな。けど、失うのはほんの一瞬なんだよな。一度信頼を失ったら、取り返すのは最初の何十倍もかかる。だから実咲が俺をいつまでも疑うのは仕方のないことだと思っている。だから何回でも疑ってくれてかまわない。不安になったら、疑わしいと感じただけでも問い詰めて欲しい。俺はおまえがもう一回信頼してくれるまで、何回でも説明するから。だから、頼む……!! もう一度、考え直して欲しい」
苦しげに懇願してくる声、切なげに訴えてくる瞳。
雅貴が今まで見せたことのないそれらが、全て、実咲に向けられている。
胸が詰まる。苦しくて、泣きそうなぐらい嬉しかった。
雅貴の言葉が、実咲の心に染み渡っていく。言葉の一つ一つが、ひとしずくとなって、ゆっくり、ゆっくりと、実咲の心に浸透してゆく。
目の前にいるのは実咲が好きになった雅貴だった。案外思いやりがあって、人の気持ちを大切にする、大切な人には本当に誠実な人。
好き。やっぱり、大好き。もう、いい。もう、どうでも良い。
実咲はこみ上げてくる涙を、手の甲で乱暴にぬぐった。
「雅貴が、私以外の女の人を好きにならないとも限らないじゃない」
涙声になりながら自分にとっての最後の砦を掲げた。もう、雅貴の手を取ろうとしているのに、最後にあがいてみせる。
「……そうだな。そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。それは分からない。ただ、今は実咲以外には興味ないよ。俺にはそうとしか答えようがないから。でも、もしそんな女ができたら、浮気をせずに、おまえにはっきり言う。気持ちはどうにもならないけど、裏切るような行動は、絶対にしない。もし、そんな日が来たのなら、その先のことは、二人で決めよう」
盲目的に否定の言葉を言うのではなく、肯定するところに誠実さをかいま見る。雅貴は実咲の望む受け止め方を知っている。