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けれど、それはどこか苦しさを伴って響く。どこか悲しげにも見える雅貴の視線が実咲にそう思わせるのか。
何を今更……。
美咲は、雅貴の言葉、そしてその様子にひどく動揺した。
好きだという言葉を雅貴から向けられたのは、初めてだった。付き合い始めてから最後の瞬間まで、一度も向けられることのなかった言葉。
それを別れて二ヶ月もたった今になって、雅貴の口から聞くことになるとは。
向けられてくるまなざしを探るように見つめ返し、美咲は彼の真意を探ろうとした。
本気のわけがない。
そう思うのに、美咲の瞳に映る雅貴は、どこか憔悴し、まるですがるかのように美咲を見つめているのだ。どうしても、そこに嘘が見つけられない。
「俺は、お前に、最低なことをした。ごめん」
どくん、と実咲の心臓が大きくはねた。
なによ今更。
自分自身に対して半ば虚勢を張って実咲はそう思おうとした。
そうだ、今更だ。ごめんの一言ですむほど軽く済ませられないほど苦しかった。
なぜか泣きたくなるような気持ちがこみ上げて、それに気付きたくなくて、実咲はうなだれる彼をなじろうと、必死に言葉を探す。
出ていって。お願いだから、早く出ていって。
実咲は、許しそうになる感情から逃げるように、それを不快感にすり替えた。
そして口端を意識的に引き上げて雅貴に向かって笑いかける。
「最低なこと? なにが? 雅貴に、何が分かるって言うの? 悪いなんて全く思ってなかったくせに」
言葉にした直後、実咲の胸がズキリと痛む。
自分の言葉の中に真実を見て、傷つく自分が情けない。実咲は自分を嗤う。嗤いながら雅貴を見つめる。
「ひどいことをしたなんて気持ちは、全くなかったくせに。よくそんな事が言えるわね」
この笑顔は、雅貴への嘲笑のように、見えているだろうか。
胸が苦しい。
早く、早く追い出さないと。
実咲は焦りを胸に、雅貴を見つめる目を逸らせた。
雅貴の視線が怖かった。時折まっすぐに見つめてくる視線が、偽りなく実咲をとらえているからだ。
以前のような上っ面で誤魔化そうとする顔ではなかった。
早く雅貴を家から出さないと、きっと、感情に負けてしまう。好きな気持ちに負けてしまう。二ヶ月前の雅貴ならともかく、今、目の前にいる雅貴を振り切るだけの自信がない。
実咲は笑いを納めて、気持ちを強く持とうと、睨むように雅貴を見ることで対峙しようとする。
それを受けて、彼は重く息を吐き、静かにうなずいた。
「実咲に切り捨てられたときに言われたこと、ずっと考えていた」
低い声。どこか疲れたようなその姿。
実咲の視線の先で、雅貴の表情が、苦しげにゆがんでいた。
「実咲の言うとおりだった。俺は女と付き合うことに、特に何も考えていなかったし、おまえと付き合いだしたときも同じだった」
雅貴は言葉を切ると、うつむき、また、ゆっくりと言葉をつなぐ。
「俺は、実咲のことは友達と思っていたし、大切にしたいとは思っていたけど、付き合うことに関しては、おまえと、他の女を分けて考えていたわけでもなかった」
静かな口調で、まるで他人事のように淡々と雅貴が言葉を紡いでゆく。
事実であるが故に、その言葉が、じわりと鈍く実咲の心を斬りつけるように浸透していった。
胸が、苦しい。
未だに、そんな雅貴の何の気もなしに紡がれる言葉で傷ついてしまう自分、未だに泣きたいくらい雅貴を好きな自分を、実咲は自覚する。
たった今、好きって言ったくせに、何よ。
これ以上雅貴の言葉を聞いていたくない、逃げ出したいという思いに駆られた。けれど実咲の気持ちとは裏腹に雅貴は淡々と言葉をつなげる。
「誰と付き合おうが別れようが、俺には姿が変わるだけでたいして違いはなかった。極端な話、女と付き合うことなんてセックスさえできれば後はどうでもいいことだった。……俺は、分かっていなかったんだ」
雅貴の声が、苦しげにゆがんだ。淡々としたその口調が、にじみ出る苦しさを吐き出すように絞り出される物へと変わる。
「俺は、実咲が俺にとって特別だと言うことを、分かっていなかった。当たり前にいてくれたから、それに甘えていることにさえ気付いていなかった。俺は、あんな事までしておいて、おまえと会えなくなるなんて、全然、考えてもいなかったんだ……」
苦しげな告白に、実咲の頭の中は、真っ白になる。けれど、ただ一つだけ、心に残った言葉があった。
私が、雅貴にとって、特別……?
どくんと、強く心臓が音を立てる。
「……なに、それ」
心の中を渦巻く疑問が、口をついて出た。
激しく打ち鳴らされる鼓動は雅貴にまで聞こえそうなほど大きな音を立てている。
その先の言葉を聞きたくて見つめた雅貴の顔は、先ほどまでの苦しげな様子はなりを潜め、代わりに静かに、どこか悲しげに沈んでいる。それは実咲の目に、憎たらしいほど落ち着いていて見えた。
「……まともに付き合いだしたの、半年ぐらい前だったよな。それまでずっとおまえのことは友達だと思っていた。付き合うと言っても、それまでのつきあいにセックスが入ってくるかどうかぐらいの差にしか思ってなかった」
抑揚のない声で話す雅貴の眉間に小さくしわが入る。ややあって今度は息を大きく吸い込む。辛そうな表情だった。
「それまでみたいに二股かけてるの見て怒りながらも笑って小突いてた感じで、女のことで俺が何しても、笑って許されると思っていた」
そう言って見せた苦い笑いは、雅貴自身に向けられ、自分を嘲るように言葉を続ける。
「そんなわけないのにな。おまえが俺のこと好きって言ってくれてたのに、たぶん、俺はその意味がよく分かってなかったんだ。あんな事したら、おまえがどれだけ傷つくかなんて、考えてもなかった」
腹立たしいほど率直な言葉だった。特別だと言われた言葉への期待をたたき落とす程度には。
未だに雅貴の言葉に一喜一憂している自分に実咲は泣きたくなる。苦しさから逃げようと雅貴をなじる。
「だから? それが何だって言うの。分かっていなかったから、仕方がないって?」
雅貴が言葉を見つけられないのか、息苦しそうに見つめて来た。
「……実咲……」
苦しげな雅貴の表情に反比例するように、実咲の中に沸々と怒りが込み上げてきていた。
意味が分かってなかった? 笑って許されると思っていた? 男友達と同等とでも言うのだろうか? 体以外、女として認めてもくれてなかったということなのか。
ああ、と、実咲は思い至る。
そっか。そういうことか。
ようやく、納得がいく。確かに、それならば好かれているのだろうと、実咲は出会い頭の告白の意味に気付く。傷つけて反省もしただろう。落ち込んだ様子の雅貴の姿も当然だ。
なぜなら、私は、彼が最も大切にする「友達」という存在なのだから。
腹立たしさと、あきらめと、悲しさと。渦巻いた感情が揶揄となって雅貴に向かう。
「女だけど、特別に友達として好き? そんなこと言われて何を喜べって?」
怒りを通り越して、滑稽すぎて笑ってしまいそうだった。
分かっている。雅貴は女は大切にしないが、友達は大切にしている。実咲は他の女のようにどうでもいい存在ではないと、雅貴はそう言っているのだ。だから実咲は友達でいられたらよかったと、一時期は願っていたはずだった。
けれど、どうして今更それを喜べるのだろう。大切だと言われても女として見てくれないのなら同じではないか。
友達でしかいられないことと、女と見られれば大切にされないこと。立場は違っても、雅貴を好きな実咲にとって辛さに変わりはないではないか。
その思いが実咲を苦しめる。
女性として、唯一人の雅貴の恋人として愛されて、大切にされたいのだから。片方だけでは、けっきょく苦しみの形が違うだけで、辛い思いを繰り返すのだから。
泣きたかった。友達でいたかったはずなのに、それが叶いそうな今、それさえ不満に感じてしまう自分がいる。
今の実咲にとって、雅貴の特別な女性でなければ意味がなかった。友達だけではダメなのだ。